右翼って何

目次

1.右翼と保守の違いが分からない
2.右翼と極右
3.右翼と保守
4.右翼と左翼
5.最終的に守るのは何か
6.味方の要件、あるいは理性敵としての右翼

1.右翼と保守の違いが分からない

テレビ朝日の番組「朝まで生テレビ」は、1987年4月26日にスタートしたそうで、現在も続いています。
今から三十一年前、1990年2月24日放送分のタイトルは、「激論! 日本の右翼」でした。それは本になり、同年6月に出版されています(1)。

出演者たちは楕円の形で着席し、向かって正面中央に司会の田原総一郎氏が、左側に番組の常連出演者が、右側に右翼の論客たちが坐り、右翼というものを巡って討論が行われました。

討論の後半に、会場の男性から、「右翼と保守の区別をどういうふうに考えていらっしゃるのか」との質問があり、それに答える形で議論が進められました。

「田原(総一郎)  鈴木(邦男)さん、どうかな。

鈴木  保守は戦後の日本を守っていこうとしている。右翼は、戦後日本はだめなんだと、日本を改革していこうという、反体制の運動だと思います。

田原  そうすると、西部(邁)さんは右翼になるのか、保守かな

西部  そういうふうな保守もありますが、私が思うほんとうの保守は、伝統を守るということ。問題は、じゃ伝統とは何かということになりますが、そこでぼくは右翼と違うんですが、言葉というのは非常に危険なもので、左端に飛んでいったり、右端へ飛んでいったり、きわめて緊張、亀裂にとんだものである。ぜひともそこで、右翼と左翼、飛行機でいえば、両翼がなければ飛ばないのが飛行機であって、それゆえ保守、つまり伝統の神髄というものは人間のバランス感覚にあると思う。そういう意味でぼくは保守と右翼というのは、伝統理解において違うと思う。

小田(実)  わかったようなわからん話だ(笑)。

鈴木  右翼というのは非常に穏和なことをひかえ目に言っているにすぎない。かえって、文化人の西部さんとかの方が過激だ。

田原  西部さんのほうが右翼っぽいね(笑)。

鈴木  昔は清水幾太郎とかは、日本は核武装すべきだとか言っていたでしょう。

田原  そんなことは右翼は言わないね

鈴木  誰も言わないですよ。外国の右翼とも違いますね。もう一度アメリカと戦争をすべきだとか、過去の栄光を取り戻すべきだとか、他の外国人労働者を蹴散らせとか、そういうことは誰も言ってないですよ。

田原  西部さんと鈴木さんのどこがちがうの?」

「朝まで生テレビ」などを見ていると、いつも肝心なところで、話題を別の方向に逸らす出演者がいますが、最後の田原氏の発言の後、高野孟氏(2)が、「というより、ぼくは今日は一つのことしか言ってないんですが、右翼は反体制なんですよ、本質的に」と発言して、せっかくの議論を別の方向へ持って行っています。

西部氏の後の小田氏の発言、「わかったようなわからん話だ(笑)」は正しい。
それにしても無残です。
第三節でも述べますが、鈴木氏は一応右翼と保守の違いを理解していますが、保守の大家であるらしい西部氏が、両者の違いを理解していないとは!

右翼と保守の違いを説明する場合、右翼のA氏、B氏、C氏・・・・に共通した特徴と、保守のa氏、b氏、c氏・・・・に共通した特徴を抽出し、両者の違いを端的に述べる必要があるのですが、西部氏が保守を論じる場合は、一般的なそれではなく、特殊的な、西部氏流のそれ(「私が思うほんとうの保守」)を語るから、つまり、一般的な右翼論と特殊的な保守論を対置するから、議論に混乱ないし齟齬が生じるのです。

それでは、極右、保守、左翼との違いを中心に、右翼とは何かを論じようと思います。

2.右翼と極右

マスメディアやネットでは、右翼以外に極右という言葉が使われています。が、右翼と極右はどう違うのでしょうか。
たとえば、「本と雑誌のニュースサイト/リテラ」は、国政選挙の前にウヨミシュランと題して、右派候補の危険度を格付けで示していますが、2017年10月の衆議院議員選挙の前の記事はこうです。
「総選挙・自民党の極右候補者リスト『ウヨミシュラン』発表! 日本を戦前に引き戻そうとしているのはこいつらだ!」(3)

「日本を戦前に引き戻そうとしているのはこいつらだ!」の文言は秀逸です(笑)。筆者の社会認識のズレが、良く表われています。

さて、そこには自民党の「トンデモない極右候補」が「30人ピックアップ」されています。挙げられているのは、今津寛、小野寺五典、石川明政、簗和生、新藤義孝、松村博一、菅義偉、義家弘介、平将明、菅原一秀、下村博文、大西英男、土屋正忠、荻生田光一、斎藤洋明、稲田朋美、古屋圭司、城内実、長尾敬、山田賢司、高市早苗、二階俊博、加藤勝信、安倍晋三、平井卓也、井上貴博、原田義昭、麻生太郎、木下稔、杉田水脈の各氏です。その総選挙で、今津氏と土屋氏は落選しましたが、その他の人たちは当選して、現在衆議院議員です。
その30名は「極右候補者」とされていますが、菅義偉首相や安倍前首相を初め、彼らは極右なのでしょうか。1993年10月朝日新聞東京本社で拳銃自決した野村秋介氏は右翼だとされていますが、彼らは野村氏よりも政治的に右寄りなのでしょうか?
そんなはずはないでしょう。
右翼や極右という言葉が雑駁に用いられているのです。
昨今、アメリカばかりではなく日本でも、左派と右派の分極化=左派と右派の言葉と話が通じなくなっていることが指摘されますが、その原因の一つは、論者が言葉を恣意的に、自派に都合の良いように用いていることにあるでしょう。
右翼や極右という言葉を正確に使うには、一旦理念型というか、その原型に立ち返ってみる必要があるでしょう。

そもそも右翼、左翼という言葉は、フランス革命期の議会において、議長席から見て右側に保守派が、左側に進歩派が席を占めたことに由来します。それ以来、保守派を右翼(右派)と呼び、進歩派を左翼(左派)と呼ぶようになりました。

「席を占めたことに由来」するというように、右翼、左翼という言葉は議会政治の実施を前提とします。もし議会政治が行われていなければ、これらの言葉は生まれていないでしょう。
もっとも、最初は議会内における勢力の政治的色分けに使われていたのが、現在では左翼メディアとか右派言論人とかの呼称が示すように、議会外の、個人または組織に対する政治的色分けにも、右翼・左翼の言葉が使われています。

では、極右・極左とは何でしょうか。
極右とは、右翼全体の中の極端な人たち、あるいは普通の右翼と違って、彼らよりもさらに極端な立場の人たちのことであり、極左とは、同様に左翼全体の中の極端な人たち、もしくは穏健な左翼と違って、彼らよりもさらに極端な立場の人たち、だと言えます。
けれども、極端とは何が極端なのでしょうか。

主張内容の極端でしょうか。そうだとしましょう。
しかし、主張内容が極端であるかどうかは、誰が判定するのでしょうか。極右から見れば、穏健な左翼だって極端に思えるかもしれませんし、極左から見れば、穏健な右翼だって極端に思えるかもしれません。
主張内容が極端であるか否かだと、政治的立場が異なる人にとって、穏健派と極端派の判定がバラバラになります。穏健な右翼と極右の、穏健な左翼と極左の区別が恣意的かつ不明になって、ますます話が通じなくなります。
恣意的になるのを避けるためには、客観的な基準が必要です。何か客観的な基準になる指標はないでしょうか。

二十世紀型左翼=社会・共産主義者の場合、暴力革命によって共産主義社会を実現しようと考えたのが極左であり、民主政治の下、選挙に勝ち、議会で多数派を占め、政権を握ることによって、平和的に社会・共産主義社会を実現しようとしたのが(極端ではない)左翼です。要するに、暴力革命論者が極左であり、平和革命論者が左翼です。

それと同様、暴力を用いてでも自己の政治的目的を達成しようと考えるのが極右であり、言論や出版を通じて、あるいは議会で多数を制し、政権を担うことによって、政治目的を実現しようと考えるのが穏健な右翼でしょう。
右翼と極右、左翼と極左を分かつ客観的な基準を設けるとしたら、暴力否定か肯定かという観点以外にありえません。
すなわち、暴力を否定するのが穏健な右翼と左翼であり、肯定するのが極右と極左です。

欧米日の議会内と、議会外の個人または組織の政治的色分けを、飛行機の機体のたとえを用いて論じましょう。
欧州には多党制の国が多い。そして、多党制の国には中道政党というのがあります。右翼・左翼という言葉が生まれたフランス革命期にも、両者の間には中間派がいました。
飛行機の胴体部分に当たるのが中道政党です。胴体部分を、操縦席から尾翼にかけ、真ん中で線を引き、機体を左右二つに分けます。胴体の右側に相当するのが中道右派であり、左側に相当するのが中道左派です。右の翼に当たる勢力が右翼政党であり、左の翼に当たる勢力が左翼政党です。そして、翼の左右先端部分に相当するのが極左と極右です。

一方、米英のような二大政党制の国はどうでしょうか。
フランス革命期には、議長席から見て、右側に保守派が、左側に進歩派が席を占めたと書きましたが、「議長席から見て」は、真ん中から見てと同義です。
真ん中を基準に、右側は保守的勢力、左側に進歩的勢力とおおよそ二派に分かれているのが、二大政党制の国です。飛行機の胴体右側と右の翼の部分に相当するのが右派(右翼)であり、胴体左側と左の翼に相当するのが左派(左翼)です。二大政党制の国では、議会内のみならず議会外でも、右派と左派とを支持する人たちに分かれています。
アメリカは二大政党制の国であり、言うまでもなく右翼政党が共和党であり、左翼政党が民主党です。
そして、暴力を否定する両党の外に、少数ながら暴力を用いる勢力がいます。翼の左右の先端部分に相当するのが極左と極右です。

では、日本の場合はどうでしょうか。日本は欧米の両者ともズレがあります。
図書館や書店に行き、「右翼」に分類された棚を眺めれば分かりますが、欧米で極右とされる勢力は、日本ではただ単に右翼とされています。そして、極右ではない、穏健な右翼は保守です。
わが国では、飛行機の右の翼の先端部分のみが右翼であり、それ以外の右の翼及び胴体部分の右側は全部保守です。ちなみに、日本は自民党のみ強く、他の政党は弱小なので、一強多弱だと言われますが、同党は先端部分を除いた右の翼と胴体右側と胴体左側(リベラル)部分の勢力の相乗り政党です。
因みに、現在自民党と連立政権を組んでいる公明党はどうでしょうか。右派政党なのでしょうか、左派政党なのでしょうか。右派からすれば、胴体左側(中道左派)の立場に見えますし、左派からすれば、胴体右側(中道右派)に位置するように見える鵺的政党だと言えるでしょう。

右翼とは、欧州では右の翼の、先端部分以外に当たる勢力であり、米英では胴体右側と右の翼の、同じく先端以外の部分を合わせた勢力であり、日本では右の翼の先端部分に当たる勢力のことなのです。日米欧、同じ「右翼」という言葉でも、その言葉に該当する勢力は異なっているのです。

ところが、欧米の政治を研究する学者やそれを報道するジャーナリストは、現地で用いられている言葉をそのまま直訳して説明するために、日本の読者は頭が混乱するのです。それらの国の政治を論じる際は、同じ言葉でも、現地語と日本語の指し示す対象がズレていることを説明してから、論じる(報じる)べきなのです。

すなわち、欧米では、右派=右翼・保守+極右ですが、日本では、右派=保守+右翼なのです。
わが国では最右派は右翼なので、日本にはいわゆる極右はいません。

この節の最初に取り上げたウヨミシュランは、保守政治家に極右のレッテルを貼っています。これは明らかに事実誤認です。もし筆者が保守と右翼と極右の違いが分からなくて書いているのなら、無知だと言わざるをえませんし、もし知っていて、しかも右翼とか極右とかの悪のイメージを利用して、保守政治家に負のレッテルを貼ろうとしたのだとしたら、悪質です。「極左から見れば穏健な右翼だって、極端に思えるかもしれません」と書きましたが、筆者は極左なのかもしれません(笑)。
なぜ大切に扱うべき言葉を正確に用いないのでしょうか。そのような言葉の濫用は、正攻法では勝てない左翼の焦りを表しているのかもしれません。

3.右翼と保守

日本においては、右派=右翼+保守です。そして、右翼とは何か、を明らかにするには、保守と比較して、その相違を明確にするのが近道でしょう。
では、右翼と保守はどこが違うのでしょうか。両者の相違点はどこにあるのでしょうか。前節で大雑把に述べましたが、詳述しましょう。

第一節でも登場した、以前は右翼だった鈴木邦男氏は書いています。

「では一体、右翼とは何か。オーソドックスな理解としては、こういうのがある。日本が好きだ。愛国心がある。そういう人々の中で比較的穏和なのが保守派、反共派、伝統派だ。ひとまとめに『右翼的な人々』と言っていい。(中略)その右翼的な人々の中で『過激で暴力的』な人を右翼と呼んでいる。(中略)ただ『過激だ』というのは思想ではない。行動面のことだ。思想の過激さならば、右翼より過激な『保守派の学者』や『宗教家』はたくさんいる。かつて清水幾太郎は、日本は核武装すべきだと言っていたが、こんなことを言う右翼は誰もいない。大学の教授だからといって安心して過激なことを言っている人もいる。だが、その人を右翼だとは言わない」(4)

今日、「日本は核武装すべきだと言う右翼は誰もいない」かどうかはともかく、鈴木氏の言う「右翼的な人々」(=右派)の中で、過激な人が右翼であり、穏健な人が保守であること、しかし、過激と穏健は「思想」によってではなく、「行動面」によって区別されること、が指摘されています。
そして、それは正しい。

別にこれは鈴木氏の発見ではありません。現実に存在する(した)右翼と保守を観察すれば、そう判断せざるをえません。むしろ、右翼や保守をそのような意味で使わない人たちが、言葉の混乱に拍車をかけているのです。

右翼が絶対君主制で、保守が立憲君主制を、右翼が日米安保廃棄、単独防衛で、保守が日米安保堅持を、右翼が核武装で、保守が非核武装を、右翼が戦前肯定で、保守が戦後肯定を・・・・を主張しているわけではありません。ある政治問題に関して、右翼はAを、保守がBを主張する、という風に分かれているわけではありません。

右翼と保守は思想によってではなく、行動によって区別すべきなのです。言い換えるなら、前者と後者の違いは、主張内容にあるのではなく、主張形式にあります。
肉体言語(5)=暴力を用いてでも、自らの政治的主張を表現、もしくは実現しようとするのが右翼であり、非肉体言語=言論=非暴力的に主張を行おうとするのが保守です。

1932年5月15日、海軍の青年将校らが、内閣総理大臣犬養毅を殺害しました。五・一五事件です。
襲撃したグループの一人、山岸宏海軍中尉の回想によれば、犬養首相と青年将校たちとの間で、次のような会話がなされたそうです(6)。

「『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答はいらぬ。撃て。撃て』と言ったんです」

簡単に言うなら、右派の中の「話せば分かる」派が保守であり、「問答無用」派が右翼です。

ペンは剣よりも強し、という格言があります。その真偽はともかく、剣(肉体)で戦うのが右翼であり、ペン(言葉)で戦うのが保守です。

もっとも、いかなる状況下でも、右翼は剣で戦い、保守はペンで戦うというわけではありません。内乱が発生すれば、右翼のみならず保守だって武器を手に取るでしょう。

また、剣で戦うといっても、右翼は常に暴力に訴えるわけではありません。通常は言論活動や街頭宣伝を行っています。しかし、ある時、これは絶対に許せないと感じた時(ある個人の右翼人がそう判断した時)、剣に訴えます。

1987年1月、当時の住友不動産会長安藤太郎氏宅を襲撃した蜷川正大氏は、2017年11月に行われたインタビュー記事で述べています。

「嫌な言葉ですがテロを担保し留保しつつ運動することが民族派の原点だと思っています。暴力がいけないというのは、三つ子だって分かる」(7)

野村秋介氏も書いています。

「ときと場合によったら、暴力を是認し、人をも殺す可能性を秘めた、いうならば野をゆく飄々たる虎ではないのか。(中略)
中には、何も非合法ばかりが運動じゃない、合法的にやっても運動に変りはないと反論したい人もいるかも知らん。もしいたら、新自由クラブか自民党の青嵐会にでも入った方がいい。民族派など、早々にやめた方がよい。(中略)『非合法だけが運動じゃない』などと、ネボケたことを言う青年がいたら、右翼民族派の看板を降ろしてもらいたい」(8)

近現代の、自由で民主的な体制の国において、つまり、思想や言論の自由が保証されている限り、ペンで戦うのが保守であり、たとえ自由が保証されているにしても、場合によっては暴力的に、あるいは非合法な行為の使用も辞さず、政治目的を達成しようとするのが右翼です。

言論は非力である。だから、時に暴力に訴えるのも致し方ないと考えるのが右翼です。一方、言論は非力である。しかし、自分が為しうる言論及びそれが影響を与えることができる以上のものを政治や社会に要求してはならないと考えるのが保守です。

蜷川氏は、先に引用した発言の後、こう語っています。

「しかし、今の日本の平和と繁栄があるのは幕末期におびただしい血が流れ、明治維新を成し遂げられたから。時代の変革期にはどうしてもそういうことが必要だったりする」

近代民主主義より前の時代には、洋の東西を問わず、剣でもって政権交代が行われていました。その点わが国の明治維新も例外ではありません。だからと言って、自由や民主主義が導入された後も、政治問題を剣によって解決することは正当化できません。

要するに、右翼とは、思想や言論、表現や出版の自由が保証されていても、自分の気に入らない政治的主張・事柄に対しては、暴力を用いてでも、自己の意思を通す、そしてそれは正当だと考える直情径行の人たち、だと定義して良いでしょう。

最後に、右翼と保守を体現した典型的な人物の例を挙げましょう。
両者とも有名な作家です。三島由紀夫氏と石原慎太郎氏です。前者は右翼であり、後者は保守です。

三島由紀夫氏は、1970年11月25日、楯の会隊員四名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問、東部方面総監を監禁しました。解放しようと総監室に突入しようとした幕僚たちに怪我を負わせ、その後バルコニーからクー・デターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げました。
氏は、既存の右翼勢力に対しては批判的だったそうですが、非合法的かつ暴力的に政治的主張を訴えようとした点、やはり右翼の範疇に入ります。
ウィキペディアによれば、三島事件について、中曽根康弘防衛庁長官(当時)は、「民主的秩序を破壊するもの」と批判したそうですし、佐藤栄作首相も、当時の日記に「立派な死に方だが、場所と方法は許されぬ」と書いているそうです。保守政治家として、当然の評価でしょう。

一方、石原慎太郎氏はその言説から、かなり右寄りだと思われ、左派からは右翼だとかファシストだとか評されることもあります。しかし、主張は言論、出版の枠内で行っていますし、国会議員や東京都知事を務めました。つまり、合法的かつ非暴力の範囲内で活動を行っています。なので、石原氏は保守です。

4.右翼と左翼

第二節では右翼と極右との、主に言葉の違いを明らかにし、第三節では保守との比較によって、右翼というものを浮かび上がらせました。
この節では、右翼と左翼の違いについて論じようと思います。

もっとも、わが国では、右派=右翼+保守、左派=極左+(穏健な)左翼であり、その意味での右翼と左翼、つまり非対称的な右派の極端派と左派の穏健派を比較しても意味がないので、右派と左派の違いを論じるのが適切でしょう。

では、右派と左派とは、どこが違っているのでしょうか。
既に、書きました。そもそも右翼、左翼という言葉は、フランス革命期の議会において、議長席から見て右側に保守派が、左側に進歩派が席を占めたことに由来します。それ以来、保守派を右翼(右派)と呼び、進歩派を左翼(左派)と呼ぶようになりました。

Aという時代には、aという進歩思想を提起する人たちが出現します。彼らが進歩派です。それに反対する人たちが反a派=保守派になります。また、Bという時代には、左派はbという進歩思想を社会に投げかけます。それに対して、反対意見を奉じる人たちが、新たに反b派=右派を形成します。進歩派はその時々によって理念を掲げ、そのイデオロギーに基づいて、現存の政治経済社会的秩序に対して先制攻撃を行います。一方、保守派はその時々に応じて、防戦する。

時代によって進歩思想は変化をするので、それに応じて政治勢力としての進歩派と保守派も変動します。フランス革命期の左派=ジャコバン派と冷戦時代の左派=社会・共産主義者の主張内容が同一ではないのは言うまでもありません。また、将来どのような進歩思想が生まれるかは予想しえません。だから、主張内容によって左派・右派というものを一義的に規定することはできません。ただ、進歩的イデオロギーを掲げる勢力が左派で、彼らに対抗する勢力が右派だと呼びうるだけです。

さて、右派と左派の違いを見ていると、保守的か進歩的かとは別に、両者に特徴の違いがあるのが分かります。愛国的か反愛国的かという点です。一般的に保守派は愛国的であり、進歩派は反愛国(日本で言えば、反日的)です。勿論、左派はそれを否定しますが。

保守的・進歩的と愛国的・反愛国的とは、何か関連があるのでしょうか。右派が愛国的であり、左派が反愛国的なのは、論理必然性のためなのでしょうか。あるいは、何らかの関連があるのでしょうか、それとも両者は無関係なのでしょうか。
論理必然的な関連があるのだとしたら、どちらかが一義的で、どちらかが二義的なのでしょうか。あるいは、どちらが根源的で、どちらが派生的なのでしょうか。
以下は、私の仮説です。

進歩思想は先進国で生まれます。ある先進国で生まれたそれは、他の国々へ波及します。進歩思想が誕生した国は、進歩思想の輸出国となり、その他の国々はその輸入国となります。数で言えば、当然後者の方が、圧倒的に多い。そして、輸入国にとって、進歩思想はいつも外国産です。そのため、外国産の基準に従って、自国の政治経済社会制度や文化生活様式が考量され、結果的に否定されることになります。

他方の、進歩思想が生まれた当の先進国はどうでしょうか。進歩思想は、やはり自国で行われている政治経済社会制度や文化生活様式を否定し、新たな様式が行われることを要求します。
要するに、進歩思想は、その発生国においても、その波及国においても自国流を否定します。それに対して、保守派は基本的に現行の様式の、自国流のそれの肯定の立場です。
これが、保守派=愛国的、進歩派=反愛国的の根本因だろうと思います。

それに加えて、左派には反愛国を増幅する理由があります。
一般的に政治では、思想を同じくする者は味方であり、異にする者は敵だと判断されます。今述べましたが、左派は自国流を否定する。あるいは、外国流を肯定します。その結果、左派にとって自国流を否定する者、外国流を肯定する者は味方であり、自国流を肯定する者は敵だということになります。進歩思想は輸出国から輸入国へ拡散しますが、少し時間が経てば先進国流を肯定する者は、輸入国でも生まれています。そこで、左派は外国の味方と時に協力し、時にその力を借りて、自国の敵と戦おうとします。言い換えるなら、国内の右派と戦うために、外国の勢力と協力する。

「万国のプロレタリア団結せよ!」
マルクス主義では、労働者(プロレタリア)階級は、国境を越えて手を結び、資本家(ブルジョア)階級及び彼らが支配するブルジョア政府・国家を倒すべきだとされました。

歴史問題では、わが国の左翼は、支韓からの圧力を利用して、政府もしくは右派の歴史認識を改めさせようとしました。

一方、右派は基本的に自国流肯定の立場です。だから、それを改めるために、外国の勢力と結びつく必要はありません。外国と結びつく必要があるのは、安全保障の分野に関してのみです。右派は国内分裂を嫌うのに対して、左派は国内分裂を誘い、それを利用して国内改造を謀ります。
故に、左派は必然的に反愛国的なのです。

前に戻ります。保守的・進歩的と、愛国的・反愛国的とは何らかの関係があるのでしょうか。
以上に述べた理由から、右派は保守的であるがゆえに愛国的であり、左派は進歩的であるがゆえに反愛国的なのです。
愛国的か反愛国的かは、保守的か進歩的か、から派生します。だから、前者よりも、後者の方が根源的です。

左派は、自分たちの側こそが真の愛国的な立場だと言い張りますが、残念ながら、それは正しくありません。

5.最終的に守るのは何か

わが国の右派(右翼と保守)は幸福でした。日本が一民族一国家一天皇制の国だったから。

もっとも、それを否定する論者は沢山います。その殆んどが左派でしょう。彼らは、国家や社会の分裂を望んでいます。そのため、日本が単一民族国家であることが、都合が悪いのです。彼らは一生懸命に、日本が多民族国家であることを証明しようとしています。

わが国が、単一民族国家であるか否かは、日本国籍の所持者で、かつ日本民族以外の民族がいるかどうかによって判断できるでしょう。
民族は、人種とは違います。それは、同じ言語、文化、生活様式を有する者の集団、だと定義できるでしょう。
ではわが国には、日本民族とは別の民族はいるでしょうか。

大勢の外国人旅行者が訪日しているからといって、わが国が多民族国家であることの証拠にはなりませんし、在日韓国・朝鮮人を含めて、多数の外国人が居住しているからといって、やはり多民族国家であることの証明にはなりません。彼らは日本国籍を持っているわけではないからです。

アイヌはどうでしょうか。日本国籍を現有している彼らは、少数民族なのでしょうか。
彼らは日常生活において、アイヌ語を話し、アイヌ文化を享受し、アイヌ的生活様式を実践しているでしょうか。そのようなアイヌはいるのでしょうか。いないでしょう。
和人の言葉を喋り、和人のテレビを見て笑い、和人の新聞を読んで政治や社会に怒り、大晦日には紅白歌合戦を見て、正月には初詣に行っているのなら、彼らは日本民族です。アイヌは、少数民族ではなく、アイヌ系日本民族に過ぎません。
要するに、日本は単一民族国家です。

繰り返しますが、日本が一民族一国家一天皇制の国だったから、わが国の右派は幸福でした。
しかしその分、「最終的に守るのは何か」の問いに対しては、無自覚でした。それを曖昧にしたまま、右派は愛国的言動を行ってきました。
ナチス・ドイツは「一民族一国家」をスローガンに掲げました。今日それは頗る評判が悪い。けれども、それは彼らが最終的に守るものは何か、あるいは何を実現しようとしていたかを自覚していたことを示しています。

では、わが国の右派が、というよりも、日本自身が最終的に守るべきものは、何なのでしょうか。
民族なのでしょうか、国家なのでしょうか、天皇制なのでしょうか。あるいは、わが国の歴史、文化、伝統なのでしょうか、あるいは国家の三要素とされる主権または領土または国民なのでしょうか。
野村秋介氏は書いています。

「じゃあ右翼の本質とは何か。『国を守ることだ』といった人がいたよ。しかし、国を守るには自衛隊がいる。『天皇を守ることだ』という人もいたが、皇居には皇宮警察がある。『天皇制国家を確立することだ』といった人もいたが、それもウソだ。戦前の天皇制国家に戻すっていうが、それを倒すために昭和維新運動はあったんだよ。
ではギリギリ何を守るかだ。僕は歴史の中でつくられてきた天皇の理念だと思う。これが最終的にわれわれが守るものだと思う。天皇制という制度ではない」(9)

しかし、「天皇の理念」というのは曖昧です。Aという人物はaが天皇の理念だと言い、Bという人物はbこそが天皇の理念だと言った場合、どちらの主張が正しいのでしょうか、客観的に判定できるのでしょうか。

蜷川正大氏は、発言しています。

「われわれ民族派が何を保守しようとしているのか。それは日本の伝統文化であり、その原点である御皇室の存在です。これらを守ることこそが、真の保守だと思う」(10)

問題は、「御皇室」が、「日本の伝統文化」から外れた場合です。
たとえば、女系天皇が誕生した場合、男系の女性天皇が外国人男性と結婚し、その子が次の天皇になると決まった場合、そのような天皇制は守るに値するでしょうか。
日本の右派にとって、天皇制が最終目的なのでしょうか。
起こって欲しくないからと言って、起こらないとは限りません。将来何らかの政治変動が発生し、天皇制が廃されるような事態に直面するかもしれません。その時右派は、もう日本には守るべきものはないと言って絶望するのでしょうか。彼らは、右派を止めてしまうのでしょうか。

フランスはかつて王政であったり、帝政であったりしましたし、ロシアでは君主が、大公とかツァーリとか皇帝とか呼ばれた時代がありました。両国ともかつては君主制の国でしたが、今では共和制の国です。では、現在のフランスやロシアには守るべきものはないのでしょうか。両国に右派はいないでしょうか。勿論いますし、守るべきものはあります。
たとえ、天皇制が廃止されたとしても、日本には守るべきものはありますし、右派はいなくならないでしょう。

逆転の発想で、日本のあらゆる価値が失われた場合というものを想定してみるのも無意味ではないかもしれません。

わが国の反日派=左派の努力の甲斐もあって、尖閣が、沖縄が、そして日本の本土も支那に吸収合併されたと仮定しましょう。
主権も領土も奪われ、支那の一つの省になり、日本語も天皇制も廃され、日本が支那語と支那文化の地となった場合です。その時、旧日本人には日本人として守るべきものは何もなく、全てを諦め、支那人として生きて行くしかないのでしょうか。

それでも、旧日本人に守るべきものがあるとすれば、次のようなものではないでしょうか。
<他のあらゆる価値が失われても、それさえあれば再び日本が蘇生しうるもの>
それが、日本が最終的に守るべきものではないでしょうか。

イスラエルの建国が、そのヒントになるかもしれません。
ユダヤ人は、紀元一世紀と二世紀に自民族の国家を失い、多くの人たちがパレスチナを離れました(ディアスポラ)。それ以降、パレスチナを初め、世界中に散らばって暮らしていました。
その彼らが、1948年イスラエル建国を果たしました。再びユダヤ人の国家が地上に姿を現したのは、約千八百年ぶりでした。

建国以前には、ユダヤ人国家の候補地としてアルゼンチンやウガンダも挙がっていたいたそうですが、それらは拒否されました。ユダヤ人にとって、それらの土地は縁もゆかりもないからでしょう。シオン(エルサレム)の地に、かつて自分たちの民族国家があったという<記憶>こそが、彼らをしてイスラエル建国に駆り立てた動機ではないでしょうか。

もっとも、ユダヤ人がパレスチナに戻ったのは、千八百年代のロシアや東欧での迫害や虐殺(ポグロム)や第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるホロコーストなどがあったからでもありますが。

とするなら、日本列島に相当する地域に、かつて日本民族が住む日本という国があったという記憶=歴史こそが、他のあらゆる価値が失われても、それさえあれば再び日本が蘇生しうるものではないでしょうか。そして、それがあれば日本国が、日本語が、天皇制が復活しうる。

ある人は言うかもしれません。吸収合併後、旧日本の歴史を支那に抹殺されたらどうするのかと。しかし、いまやデジタル情報の時代です。旧日本の情報は外国にもあり、それらの全てを抹消することは不可能でしょう。

ユダヤ人のように世界中へ離散したわけではなく、自民族古来の地で、自分たちの民族国家が再び蘇るのを目指して侵略者と戦っている人たちが現にいます。チベットやウイグルです。
一旦独立を失えば、その後何世紀にも亘って征服者と戦わなければならなくなります。日本は彼らの二の舞にならないようにしなければなりません。

あらゆる価値が失われた状態を招かないために、あるいは、国家の独立が失われるような状況をもたらさないために、右派は何をすべきでしょうか。
第一、そのような状態を誘う左翼とのイデオロギー闘争を、半永久的に戦う必要があるでしょう。
第二、国の軍事力の整備を怠らないよう、これもまた半永久的に社会に働きかける必要があるでしょう。

これまで幸運だったからといって、これからもそうであるとは限りません。日本が守るべき価値のいくつかが失われる日が来るかもしれませんし、いくつかの価値の内の、何れか一つを選ばなければならない日が、将来やって来ないとは限りません。
その時になってあたふたしないためにも、最終的に何を守るのか、について考えておいた方が良いように思います。

6.味方の要件、あるいは理性敵としての右翼

政治思想家のカール・シュミット(1888-1985)は「政治の概念」で、道徳の標識は善悪であり、審美のそれは美醜であり、経済のそれは・・・・と述べつつ、政治の標識は敵味方の区別であると書いています(11)。

シュミットは、一時期ナチスの協力者でありましたし、敵味方思考というのは、政治的な綺麗事主義者の人たちからは、眉を顰められます。けれども、その主張は、ある種の真理を衝いているように思います。
そして、私も敵味方思考をします。

私は異端の保守を自認しています。
これまでずっと、誰(どのような勢力)が味方であり、誰(どのような勢力)が敵であるのかを考えてきました。いまだ確定的な解答は得られていませんが、現在は次のように考えています。
味方の要件は二つです。

第一、愛国的であること。
これは、味方であることの最低限の要件です。
第四節で述べましたが、愛国的か否かは、保守的か否かから派生します。が、だからといって保守的である人間が必ずしも愛国的であるわけではないので、第一の要件を「愛国的であること」にしました。
第二、自由や民主主義を守る立場であること、です。
自由を守るとは、暴力否定の立場であることです。

第一と第二の要件の他に、というよりもそれらよりも前に、「知的に正直であること」を挙げたいと思いましたが、それはいささか曖昧でありますし、政治的立場によって相違がありそうなので省きました。
これまで述べてきましたが、政治的な右派・左派と、暴力肯定か否定かの二つの観点から、政治勢力を分けるなら、右翼、保守、左翼、極左の四種類になります。この四つの政治勢力を、上記の二つの要件に適用するなら、下記のようになります。

第一。愛国的であること。
この観点からすると、
愛国派=右翼、保守
反愛国派=極左、左翼
となります。

第二。自由や民主主義を守る立場であること。
この観点からすると、
暴力肯定の立場=右翼、極左
暴力否定の立場=保守、左翼
となります。

両方を総合すれば、保守にとって、自派のみが味方で、右翼も、左翼も、極左も敵だということになります。
右翼、左翼、極左は敵であるにしても、保守からそれら三派への政治的距離はどうなるのでしょうか。等距離なのでしょうか、それとも各々との距離は違っているのでしょうか。保守にとって、敵の優先順位はどう考えるべきなのでしょうか。

まず第一の要件で、極左と左翼が敵で、第二の要件で右翼が敵だとしましたから、敵の優先順位は①極左、②左翼、③右翼とすべきでしょうか。
理念上の敵味方と現実政治上のそれは分けて考える必要があるでしょう。現実政治では、暴力主義者は拒否ないし排除しなければなりません。
保守は、議会で左翼と席を並べることはできますが、右翼とは席を並べることはできません。なぜならば、右翼の職場は、議会の外なのですから。

保守にとって、主張内容が近い右翼と、主張内容は遠いけれども、主張形式が同じな(暴力否定の)左翼とどちらがより敵なのでしょうか。現実政治では、後者よりも前者の方が敵なのです。

保守にとって、右翼は心情的には味方ですが、理性的には敵です。
理性の立場から、保守にとって敵の優先順位は、①極左、②右翼、③左翼、ということになります。

【注】
(1)『朝まで生テレビ! 激論! 日本の右翼』、テレビ朝日
(2)個人的な感想ですが、私はこの高野孟という人が、その主張も人相も大嫌いでした。
(3) https://lite-ra.com/2017/10/post-3531.html
(4)鈴木邦男著、『これが新しい日本の右翼だ』、日新報道、21頁
(5)「社会的不条理や権力の腐敗・横暴に対して自らの肉体をかけた直接行動によってマスコミに事件を取り上げさせ、広く民衆の覚醒を訴えること」(衛藤豊久、野村秋介、飯野健治著、『行動右翼入門』、二十一世紀書院、29頁)
(6)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(7)(10)「『ネトウヨは男のすることじゃない!』右翼民族派の主張」
(8)『獄中十八年 右翼武闘派の回想』、二十一世紀書院、102-104頁
(9)『いま君に牙はあるか』、二十一世紀書院、267頁
(11)カール・シュミット著、菅野喜八郎訳、『清水幾太郎責任編集 現代思想1 危機の政治理論』所収、ダイヤモンド社

森発言は女性蔑視か

1.森発言

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗前会長は、2月3日日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会で、次のように述べたそうです。

「女性理事を選ぶっていうのは、4割、これは文科省がうるさくいうんですよね。
だけど、女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議は時間がかかります。(中略)
女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげて言われると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。(中略)女性を必ずしも数を増やしていく場合は、発言の時間をある程度、規制して促していかないとなかなか終わらないで困ると言っておられた。誰が言ってとは言いませんけど」(1)

2.批判の嵐

森氏の発言に対して、蜂の巣をつついたように、各方面から批判の声が上がりました。
女性差別だ、女性蔑視だ、「このオリンピック憲章の定める権利及び自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」と謳っている五輪憲章に反している。

森氏の「政治的またはその他の意見」つまり、彼の発言を過剰に批判することだって、「いかなる種類の差別を受けることなく」という同憲章に違反していると思うのですが。

スポンサー企業からも、批判が相次ぎましたが(2)、それらの企業は森氏を非難できるほど、日頃から女性を尊重する姿勢を示しているのでしょうか。

3.事実はどうなのか

批判が激しい割に、森氏の発言が事実かどうかを冷静に検討した上での批評は、殆んどないように思います。
第一、「女性がたくさん入っている理事会の会議は、時間がかか」るというのは、事実なのか、事実ではないのか。
第二、事実だとして、それは女性の先天的な性質によるのか、後天的な性質によるのか。言い換えるなら、原因はセックス(生物的な性差)にあるのか、ジェンダー(文化的社会的な性差)にあるのか、です。

森発言を批判する人たちは、第一の「事実ではない」か、第二の後天説=ジェンダー原因説を前提としています。しかし、私は女性の先天的な性質に起因するのではないかと疑っています。

たとえば、大江麻理子というキャスターは、2月5日テレビ東京系の番組『ワールドビジネスサテライト』で発言したそうです。

「女性の話が長いかどうかというより、本当に個人の問題だと思う。それを性の違いから結論を導き出しているところに問題がある」(3)

しかし、大江氏が言うように、「本当に個人の問題」なのでしょうか。

男性と女性には、先天的な違いがあります。
女性は子供を産めますが(トランス女性には叱られるかもしれませんが)、男性は産めません。一般的に、男性は女性よりも体が大きく、筋肉も発達していて、運動能力に優れています。一方、女性は言語能力に優れています。
男女には各々長所もあれば短所もあるでしょう。

女性のピンク好き。これは良く指摘されます。これを否定したり、その原因はジェンダーにあると考える人たちは少なくないでしょう。
しかし、私が知っている女性でピンクの車に乗っている人は複数いますし(男性はいません)、私の仕事の同僚女性はピンクが好きです。一方、先日男性のお客さんで、ある商品を決めるのに、何色が良いですかと尋ねたら、ピンク以外で、と言われました。
女性のピンク好きだって、ジェンダーではなく、セックスに起因するのかもしれません。

男性脳は問題解決型、女性脳は共感型との説があります。
「女性脳は、何よりも共感を求めている。話を聞いてくれて、共感さえしてくれればOK。男に問題解決なんか期待してはいない」(4)そうです。この説は明らかに男女には先天的な差異があることを前提としていますが、これに対して男性差別だとか、女性差別だという批判の声が出ないのはなぜでしょうか。男女には先天的な性差があることを、皆薄々認めているからではないでしょうか。
もっとも、この説だって森氏が発言していれば、問題になっていたかもしれませんが。

大抵の子供は、お父さんよりもお母さんの方が好きです。なぜでしょうか。上記の記事の別の箇所にはこうにあります。「女性がパートナーに期待しているのは、中立の評価なんかじゃない。えこ贔屓して『よしよし』してくれることなんだから」。
女性が子供に好かれるのは、男性は自分の子供でも突き放して見る傾向があるのに対して、女性は「中立の評価なんかじゃない。えこ贔屓して『よしよし』してくれる」からではないでしょうか。それも、男性と女性の長所であり、短所でしょう。

以前土木に従事する同級生が言っていました。
仕事の打ち合わせは、相手が男性であれば一度で決まるのに、女性だと二度、三度しないと決まらないので大変だと。
特に仲が良いわけではないし、数年に一度くらいしか会わない同級生の発言でしたが、彼の話に嘘はないだろうし、妙に感慨を覚えました。

仕事の打ち合わせにしろ、(理事会の)会議にしろ、女性は時間がかかるというのは、本当のことだろうと思います。そして、それは男女に生得的な違いがあるからではないでしょうか。
「女性がたくさん入っている会議は、時間がかか」るのを事実として認めている人もあります。

「上野(千鶴子)さんによると、意思決定の場で女性の数が多くなると、森会長のいうように『会議は時間がかかる』のは事実だという。それは『出来レース』にせず、議論を活発にしている証」(5)

だそうです。女性に都合良く解釈していますが、会議については、丸谷才一氏の次のような発言もあります。

「文学賞の選考会で、こんなことがよくありますね。ある作品をめぐって、まずA氏とB氏が批評する。次に指名された三番目のC氏が、前の二人と同じようなことをもう一回、繰り返してしゃべる。そんなとき、僕がC氏だったら、『AB両氏のおっしゃったことにまったく同感で、付け加えることがありません』、と言って終わっちゃうんですよ。
言葉つきはいくらか違っても、結局同じことをもう一ぺん言って時間をとる、手間をかける、そういうのはハタ迷惑なことだと僕は思ってるんです」(6)

「結局同じことをもう一ぺん言って時間をとる、手間をかける、そういうのはハタ迷惑なことだ」と考えない人たちがいるのでしょう。そしてそのような人には女性が多い、その結果が、森発言ではないでしょうか。

森氏の発言に対して、その場にいた委員会のメンバーの数人が、笑い声を上げたと言って批判する向きもありますが、笑った人たちだって思い当たる節があるからでしょう。
森氏の発言には、次のような個所もあります。

「女性を必ずしも数を増やしていく場合は、発言の時間をある程度、規制して促していかないとなかなか終わらないで困ると言っておられた」

実際に困っている人がいるのは事実なのでしょう。また、森氏曰く、

「女性理事を選ぶっていうのは、4割、これは文科省がうるさくいうんですよね」

理事会に、女性4割枠を設けると、門外漢が含まれることになるので、「ハタ迷惑」な状況が一層拡大するでしょう。

現代の人たち、とりわけ左派は、男女の性差を、何でも後天的なそれだと解釈しようとする傾向があるように思います。だから、先天的な性差に起因するかもしれない言説が否定され、そのような主張が袋叩きにされる。そういうイデオロギーが社会に蔓延している。それは、自民党の女性代議士だって例外ではありません。そのようなイデオロギーに憑かれた人たちが、森発言を批判しているのです。

森発言は事実ではない、事実であるにしても先天的な性差に起因しないと言うのなら、厳密な証明はできないにしても、何らかの論証はすべきでしょう。
それをした上で、その根拠に基づいて森発言を批判すべきです。
しかし、ろくに根拠を示さないまま、森氏を吊し上げる。近年、反知性主義という言葉が流行りましたが、そのような態度こそ、反知性主義というべきではないでしょうか。

「日本スポーツとジェンダー学会執行部」による「森喜朗・公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の発言に関する緊急声明」にあります。

「日本スポーツとジェンダー学会執行部は、森氏のこの発言が客観的な証拠に基づかず、女性の特性を恣意的に作り上げ貶めるものであること・・・・」(7)

では、「日本スポーツとジェンダー学会執行部」の、「森氏のこの発言が客観的な証拠に基づかず」との主張は、「客観的な証拠に基づ」いているのでしょうか。基づいているのなら、その証拠を示して欲しいと思います。もしその証拠を示しえないなら、森氏の発言と五十歩百歩だと言えるでしょう。
森氏は学者ではありませんが、「日本スポーツとジェンダー学会」は、学者の集まりでしょう。それなら、なおさら証拠を明示する必要があると思います。

4.<事実>と<事実はそうあって欲しいとの願望>

「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」とは、『共産党宣言』にある文言ですが、一面では、人類の歴史は<事実>主義者と、<事実はそうあって欲しいとの願望>主義者との闘争の歴史ではないでしょうか。

ガリレオ・ガリレイの時代は、殆んどの人たちは、太陽が地球の周りを回っているのが事実であって欲しいと願いました。だから、それに異を唱えたガリレイは吊し上げられました。
そして今日、左派を中心とする多く人たちは、男女の性差の殆んどは、ジェンダー=後天的であって欲しいし、そうであるはずだと信じています。

いわゆる女性差別に反対する左派の理想とする社会は実現するでしょうか。しないでしょう。なぜならば、先天的な性差を、後天的だと見做すことによって、何れ事実から復讐されることになるだろうからです。
原因はジェンダーだと思っていたけれど、セックスだった!

先天的な性差のことごとくを否定する意見の持ち主に反省を促すには、一度オリンピックの競技の全てから男女の区別をなくし、性別を問わず、強い者、早い者が勝つようにしたらどうでしょうか。

(1)2021年2月5日付朝日新聞【要旨】
(2)https://news.yahoo.co.jp/articles/653f761efb5566679f61e27a1b925c7bd0266c43
(3)https://news.yahoo.co.jp/articles/ffed202edbdc84ee8d13806f44d5f298f78e7c52
(4)https://www.gentosha.jp/article/14739/
(5)https://dot.asahi.com/dot/2021020400085.html
(6)丸谷才一著、『思考のレッスン』、文春文庫、11頁
(7)https://jssgs.org/archives/3363

野党の混迷の理由

1.野党の支持率

各党の支持率は NHK世論調査|選挙|NHKニュース」によれば、2021年1月12日時点における、わが国の各党の支持率は、以下の通りです。

自由民主党 37.8%
立憲民主党 6.6%
公明党 3.0%
日本維新の会 1.1%
共産党 2.9%
国民民主党 0.5%
社民党 0.5%
れいわ新選組 0.5%
NHKから自国民を守る党 0.2%
特に支持している政党はない 40.5%

2.混迷の理由

野党がぱっとしない原因は何なのでしょうか。与党の自民党と公明党がしっかりしているからでしょうか。
根本的な理由は、野党が理念を喪失しているからだろうと思います。
理念とは、自分たちが何のために、何を実現するために戦うのか、あるいは誰のために戦うのか、ということです。それに対する解答を野党は持っていないのではないでしょうか。

野党の政治家たちは言うかもしれません。
「与党の自民党と公明党の連立政権だって、理念が相違する者同士の野合にすぎないし、彼らだってちゃんとした理念など持っていない!」
けれども、与党は特に理念を示す必要はありません。彼らは大筋としてこれまでやってきた政治を、これからも継続する立場なのですから。
むしろ、与党に取って代わろうとする野党こそ、理念を提示する必要があります。

3.理念の喪失の経緯

冷戦時代は、自由・資本主義体制と、社会・共産主義体制が対峙した時代でした。
左派は、資本主義社会における虐げられた労働者階級のために、ひいては社会・共産主義社会の実現のため戦うのを目的にしていました。
しかし、第二次世界大戦後、社会・共産主義者の予想に反して、西側資本主義国は経済的に発展し、また労働者階級も「鉄鎖のほかにうしなうなにものもない」階級ではなくなりました。そして、今日のわが国では、大企業の正社員や正規公務員はむしろ特権層です。

東側の国々は社会主義体制を放棄し、後進諸国もだんだんに経済的に発展し、西側先進諸国の一人勝ちの時代も終わりました。また、先進国の企業は、工場等を安価な労働力を有する後進国に移し、国内では非正規雇用の社員を利用し、利益の確保に奔走しました。

わが国の少子化の原因の一つは、非正規雇用の社員が結婚に踏み切れないことにあるのは明らかです。野党は当然、労働者一般から、非正規労働者へと軸足を移し、彼らと共に戦うものと思われました。ところが、野党は、非正規労働者には目もくれませんでした。そして、今でも彼らの権利は捨て置かれたままです。

野党は何のために、誰のために戦うのかということを見失っているので、冷戦終了後から今日まで、様々な政党が生まれましたが、それらの殆んどは泡のように、生まれては消えて行きました。

4.アメリカと日本

アメリカの左派政党民主党は、以前は労働者のための政党でした。しかし、トランプ氏の時代になって、ラストベルト(錆びた地帯)を初め、労働者は共和党支持へ流れているようです。一方、民主党は労働者の政党であることから、社会のマイノリティのために戦う方向へ舵を切りました。
アメリカは人種も宗教も多様で、見るからに多数派=白人ではないという人たちが大勢います。要するに、多数のマイノリティがいます。

しかし、わが国には、見た目で直ぐにわかるというようなマイノリティはいませんし、マイノリティ自体が少数です。彼らの権利を勝ち取るために、彼らを救うために戦うことを目標に掲げても、大勢の人たちの賛同も、票も得られません。だから、現実政治家は、そのような方向に走ることはできません。
マスメディアや学者など進歩思想輸入業に携わる人たちは、アメリカを真似てマイノリティ救済の報道や言論を行っていますが。

5.理念の探求と設定

わが国の野党は、以前は労働者階級のために戦ってきましたが、しかし、今後マイノリティのために戦うだけのモチベーションはありません。野党が伸び悩むはずです。

混迷を止めるには、新たな理念を模索し、設定すること。世の中で困っている人、救われるべき人たちは誰なのかを、探求すれば良いのですが、野党だって、もともと理念が異なる人たちの寄り合い所帯なので(自民党を飛び出した人たちと旧社会党的な人たちと)、それをすると分裂の危険性が高まります。

党の分裂を避けるためには、どのような戦い方をすれば良いでしょうか。
理念の問題は棚上げにして、それ以外の問題で、与党の非を衝くしかない、その結果が、モリ・カケ・サクラでしょう。
しかし、そんなことをやっていれば、じり貧になるばかりでしょう。

野党の理念の喪失は、国民にとって、とりわけ苦しんでいる人たちにとって、不幸です。

自由社会の自由の敵

1.トランプ氏のアカウント停止

1月6日トランプ前大統領の支持派とされる人たちによる、米連邦議会への乱入事件が発生しました。
さらなる暴力をあおる危険があるとの理由で、ツイッター社による永久停止を初め、SNS各社による同氏のアカウント停止が行われました。
アカウントの停止は、トランプ氏本人のみならず、支持者他にも及んでいるようです。

2.SNS媒体の行為に対する批判

SNS媒体の、そのような行為に対し、支持する意見がある一方、他方では疑義が呈されています。

ドイツ政府のザイベルト首相報道官は、1月11日の定期記者会見で、

「『言論の自由は、根本的に重要な基本的人権だ。そしてこの基本的人権が制限され得るのは、法律を通じて、また立法者が定めた枠組みの中でであり、ソーシャルメディア各社の経営陣の決定によってではない』と言明。『この観点から、(メルケル)首相は米大統領のアカウントが永久停止されたことは問題だと考えている』」(1)

と述べたそうです。メルケル首相の判断は、正しいでしょう。

その他、メキシコのオブラドール大統領、フランスのル・メール経済・財務相、同欧州問題担当副大臣のボーヌ氏からも批判的な主張がなされました(2)。
さらにつけ加えれば、アメリカのヘイリー前国連大使も「米大統領は言うまでもなく、人々を沈黙させようというのは、中国で起きていることだ。わが国ではあってはならない」(3)と発言したそうですし、「米公共ラジオなどによる調査では、トランプ氏の退任後のSNS利用を、企業が制限すべきでないとした回答が50%にのぼり、制限を続けるべきだとした43%を上回った」(4)そうです。

3.自己の考えを絶対視する人たち

第一。トランプ氏は選挙で国民から選ばれた大統領であるのに対し、SNS媒体の経営陣はそうではありません。
第二。トランプ氏のツイート他は非合法で行われたわけではないのに対し、SNS媒体が行ったアカウント停止は、法的根拠がありません。
第三。そもそも議会に乱入した者たちは、トランプ氏支持者だとされていますが、本当にそうなのでしょうか。中に、それを装った者はいなかったのでしょうか。それが明確になっていない段階での、トランプ氏のアカウント停止は、早計ではないでしょうか。
第四。トランプ氏は支持者に議会へ突入せよと呼びかけたのでしょうか。もし呼びかけたのなら、どの発言がそれに当たるのでしょうか。もし同氏が呼びかけていないのなら、責任は突入した当人にあります。
また、トランプ氏はそんな呼びかけを行っていないのに、SNS媒体の経営陣が勝手にそう解釈したということはないでしょうか。

トランプ前大統領のアカウント停止で分かるのは、SNS媒体の経営陣は、合法的に選ばれた現職の大統領よりも自分たちの方が見識があり、判断も優れていると思い込んでいる!ということです。
彼らは、ひょっとしたら自分たちの判断の方が間違っているかもしれないとの疑いがありません。自らは無謬だと確信しているようです。

1月7日フェイスブックのザッカーバーグ氏は述べたそうです。

「トランプ大統領に我々のサービスを利用することを容認するリスクは、大きすぎる」(5)

むしろ、SNS媒体の経営陣に、誰の発言を容認するか容認しないかの判断を委ねることこそ、「リスクは、大き過ぎる」と言うべきでしょう。

4.ダブル・スタンダードの理由を示さない人たち

「SNSのトランプ氏アカ停止は『問題』独首相」(6)という記事に、ある日面白いコメントが寄せられていました。

「暴動に発展したのを理由に停止するなら、BLMを支持した政治家・歌手・俳優・アスリートなんかも停止しなければおかしい。
明らかにダブスタだ。言論の自由が侵害されている」

もっともな主張です。オーストラリアのマイケル・マコーマック副首相も発言しています。

「トランプ氏の阻止は、検閲に値する。
ツイッター社はなぜ、オーストラリアの兵士がアフガニスタンの子どもを殺しているように合成されたフェイク写真を中国政府が投稿したことを許し、削除しなかったのか。まだアメリカの大統領である人物の投稿を削除する場合、それらの兵士の写真についても考える必要があると、ツイッター社のオーナーに言いたい。(その偽りの写真は)まだ削除されておらず、誤りである」(7)

自己の考えを絶対視する人たちには、もう一つの特徴があります。ダブル・スタンダードです。
一歩譲って、米議会に乱入した者たちは皆トランプ支持派だったとしましょう。では、なぜ暴動を引き起こしたトランプ氏及びその支持者のアカウントは停止し、暴動を引き起こしたBLMの支持者たちのアカウントは停止しないのでしょうか。それはどうしてなのでしょうか。

SNS媒体の経営陣は、前者のアカウント停止は可で、後者のアカウント停止は不可であるとする合理的な理由を示すべきです。示しえないなら、アカウントの停止はすべきではありません。しかし、彼らはその理由を説明しないまま、アカウントの停止を続けています。
他人を説得できないのに、力に任せて自己の主張を貫徹している。
彼らは、独善的な全体主義者です。

5.自由社会の自由の敵

今日、自由社会の自由の最大の敵はだれなのでしょうか。

自己の考えを絶対視し、なおかつ自分たちが行っているダブル・スタンダードの合理的な理由を示さないという、二つの性質を併せ持つ人たちです。
そのような人たちは、わが国にもいます。「差別的発言に言論の自由はない」と言った人たち(差別的であるかどうかは私が決める。そして私の判断は絶対に正しい!)や、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」は可で、あいちトリカエナハーレ「表現の自由展」はヘイトとした、前者の主催者大村秀章愛知県知事のような人たちです。
要するに、いわゆるリベラル派です。

本当のリベラリストなら、ヴォルテールの言葉「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」を遵守するはずですが、しかし、いわゆるリベラルは、それとは真反対の人たちです。彼らは、ヴォルテールの言葉が耳から入っても、脳味噌まで届かない人たちです。

(1)(6)「SNSのトランプ氏アカ停止は『問題』独首相」。
この記事は、「このページが削除された可能性があります」となっています。なぜでしょうか?
(2)(7)「跡形もなくなったトランプ氏ツイッター。世界のリーダー7人はビッグテックの制裁をどう見たか?」
(3)(4)2021年1月18日付朝日新聞
(5)「トランプ氏のFBを無期限停止に ツイッターは凍結解除

三つの流行病(はやりやまい)

現在三つの流行病(はやりやまい)が世を席捲しています。

一つは言わずと知れたコロナですが、後の二つは、

政治的左派のリベラル真理教(差別主義者や暴動を煽る大統領に、言論や表現の自由はない!)

と、

政治的右派の陰謀論(トランプ大統領はディープ・ステートを一網打尽にするため、軍を動員するはずだった!)

です。

皆さん、感染に注意しませう。

木俣正剛氏の「ドーナツ現象」

『週刊文春』、『文藝春秋』の編集長を務めた木俣正剛氏は、「石原慎太郎『コワモテ』の裏側、身近な人が離反しない理由とは」という記事を書いています。
一部を引用します。

「私には長い経験則があります。ドーナツ現象というものです。『時の人』となった人物を見るとき、本物の人ほど、身近な人がずっと身近にい続けて、離れません。ところが、偽物というのでしょうか、時流に乗っただけの人は、身近な人から離れて行きます。ドーナツみたいに真ん中が空洞で、外側の人ばかりが褒めている、そんな人は信用できない。そう思って編集してきました。

田中真紀子さんしかり、小沢一郎さんしかり、身近な人が離反し公に声を上げるような人は、やはりどこか人間として欠けている部分があるのでは、と思ってきました。その点では、石原慎太郎さんや小泉純一郎さんは身近なところから離反者がでません。それを人徳というべきなのでしょうか」

この記事が配信されたのは、昨年10月28日ですが、その前の月に自民党総裁選が行われ、三氏によって争われました。菅義偉氏と岸田文雄氏と石破茂氏です。
石破氏はマスメディアではずいぶん前から人気がありましたが、9月の総裁選では議員票は少なくて、最下位でした。
因みに、都道府県票は、菅氏89票、岸田氏10票で、石破氏は42票です。一方、議員票は、菅氏288票、岸田氏79票に対し、石破氏はわずか26票です。なぜメディアでの人気は高いのに、議員票は少ないのでしょうか。
直に知っている人=身近な人から好かれていないからではないでしょうか。たぶん石破氏も、田中真紀子氏や小沢一郎氏などに近い、外面は良いけれども、内面は悪いと言ったタイプの人なのだろうと思います。

人生経験をある程度積めば、直に知っている人たちから嫌われるような人たちとは、どのような人なのか、おおよそ見当がつくはずです。

田中氏や小沢氏や石破氏のような人たちに声援を送ったり、期待したりした人たちは、外面は良いけれども内面は悪い嫌なヤツ、というのが身近にいた経験はないのでしょうか。

暗殺の理由?

1.暗殺者の動機

洋の東西を問わず、歴史上政治家を中心に多くの人たちが暗殺されてきました。暗殺の理由は、何に求めれば良いのでしょうか。

あらゆるテロの原因は、テロリストの動機にあります。ある種の通り魔殺人のように、犯罪者が気が触れているような場合は別ですが、テロにしろ、暗殺にしろ、犯人は正気のはずです。
すなわち、あらゆる暗殺の原因は、首謀者(首謀者と実行者は、別人かもしれませんが)の動機にあります。

2.馬渕睦夫氏の暗殺論

雑誌『WiLL』2021年2月号に、陰謀論の大家・馬渕睦夫氏は書いています。

・「ケネディ大統領はテキサス州ダラス市においてオープンカーでパレード中銃撃によって白昼暗殺されました。犯人として共産主義シンパのリー・オズワルドが逮捕されましたが、常識的に考えてこのような大胆な暗殺は情報機関(CIA)や捜査・治安当局(FBIや警察)が関わらないと不可能です。(中略)ケネディ暗殺の理由は、第一に大統領令により政府ドルを発行したことであり、第二に米ソ関係の改善とベトナムからの撤退を計画していたことです。この二つは、ディープステート(金融資本家)に対する真っ向からの挑戦でした」(195頁)

・「南北戦争に勝利したリンカーンは、戦後まもなく暗殺されたのです。このように、暗殺の最大の理由は政府通貨を発行したことです。加えて、アメリカの分裂を策したイギリスの目的がリンカーンによって阻止された腹いせもあったでしょう」(196頁)

3.定説

ウィキペディアの「ケネディ大統領暗殺事件」には、犯人の動機は「不明」となっています。
同大統領暗殺の首謀者は、その理由をどこかで語っているのでしょうか。馬渕氏の言う理由で、つまり第一の理由だけでも、第二の理由だけでもなく、第一と第二の両方の理由で暗殺したと、表明しているのでしょうか。表明ていないのなら、なぜ「ケネディ暗殺の理由は一」と言えるのでしょうか。それに、ケネディ氏暗殺の首謀者は金融資本家だったのでしょうか。その証拠は?

「常識的に考えてこのような大胆な暗殺は情報機関(CIA)や捜査・治安当局(FBIや警察)が関わらないと不可能」だそうですが、なぜCIAやFBIなどが第一と第二の理由のために、ケネディ氏の暗殺に関与したのでしょうか。CIAあるいはFBIが金融資本家の意を受けたからでしょうか。その証拠は?

一方、やはりウィキの「リンカーン大統領暗殺事件」によれば、同大統領は南部連合の支持者ジョン・ウイルクス・ブースによって暗殺されたとあります。「ブースの狙いはリンカーン、スワード、副大統領のアンドリュー・ジョンソンを暗殺することでワシントンを混乱させ、合衆国政府(北部連邦)の転覆を起こすことにあった」と。
それに対して、馬渕氏曰く、「暗殺の最大の理由は一」。

再び、書きますが、リンカーン氏暗殺の首謀者は、「政府通貨を発行」したことと、「アメリカの分裂を策したイギリスの目的がリンカーンによって阻止された」からと、どこかで語っているのでしょうか。
述べているのなら、そのような文書を示すべきでしょうし、述べていないのなら、そう主張する根拠は何なのでしょうか。

ウィキの記述と馬渕氏の主張は、一致していません。
定説は必ずしも正しいとは限りませんが、それを覆そうとするのなら、それなりに証拠なり、論拠なりを示すべきでしょう。馬渕氏はどのような根拠に基づいて、上記のような主張をしているのでしょうか。

真偽不明な歴史的事件を語る場合は、いまだ真相は明らかになってはいないがとか、私の仮説にすぎないがとか断ったうえで、論じるべきでしょう。
ところが、馬渕氏の場合は、そのような但し書きがありません。断定口調です。

4.陰謀論者の特徴

馬渕氏には、<事実>と<事実だと自分が考えること>の区別がついていないのではないでしょうか。そして、それが、陰謀論者に共通の特徴だろうと思います。

それにしても、『WiLL』の読者は、馬渕氏のこのような文章を読んで、その通りだ!と膝を叩いているのでしょうか。叩いているのだとしたら、困ったものです。

佐藤優氏と核兵器禁止条約

朝日新聞には、「核といのちを考える  核禁条約 発効へ」というテーマの記事が連載されているようです。昨年12月30日付同紙には、「作家・元外務省主任分析官」佐藤優氏が登場しています。最後に、(編集委員・副島英樹)と署名がありますから、副島氏が佐藤氏にインタビューをして、まとめた記事なのでしょう。
そこで、佐藤氏は語っています。所々引用し、それに対して論評します。

・「核兵器は絶対悪と言っていいと思います。もちろん私も元外交官ですから、抑止という考えは分かります。しかし、それが必ずしも機能するかということは怪しい」

もし抑止が絶対に機能していないと断言できるのなら、「核兵器は絶対悪と言っていい」かもしれません。しかし、「それが必ずしも機能するかということは怪しい」というのは、ひょっとしたらそれは機能しているかもしれないということなのですから、絶対悪とは言えないということになるでしょう。
それと、「それが必ずしも機能するかということは怪しい」というのは、日本語としておかしくはないでしょうか。「それは必ずしも機能しない」か、「それが機能するか(どうか)は怪しい」とすべきではないでしょうか。

・「自公連立政権の中で、核廃絶は意外と大きなウェートがある。核廃絶は創価学会の絶対的な真理です」

核廃絶は創価学会の絶対的な「理想」であるかもしれませんが、「真理」ではありません。「絶対的な真理」という言葉は、次のように使用すべきです。
核兵器より優れた兵器が生まれるまでは、同兵器廃絶の可能性が0%なのは、「絶対的な真理です」。
創価学会では真理という言葉を、上記のように用いているのかもしれません。が、朝日新聞は聖教新聞ではないのですから、一般世間の語法に従うべきでしょう。

・「シニシズム(冷笑主義)に陥ってはいけない。それこそ、冷戦時代に米ソが中距離核戦力(INF)全廃条約を結んだ時も、できるはずないとみんな言っていたわけですから」

INFに関しては知りませんが、冷戦時代であろうと何時代であろうと、国家を守るために必須ではない兵器の廃絶は可能ですが、必要な兵器の場合は、廃絶は不可能です。
核兵器が国家を守るために不可欠な兵器である限り、あるいはそれが時代遅れの兵器にならない限り、同兵器の廃絶は無理です。

・「核禁条約の根っこにあるのはヒューマニズムです」

私も、自分はどちらかと言えば、ヒューマニストだと考えていますが、日本が核兵器禁止条約に参加するのは反対です。「核禁条約の根っこにあるのは」、敢えて言わせてもらうなら、人間性と政治に対する理解の低さです。
核兵器廃絶論者たちは、必勝の信念があれば戦争に勝てると信じた、戦前のある種の人たちと同型の人たちなのだろうと思います。
信じて行えば、必ず核兵器の廃絶はできるに違いない!

・「脅威というのは、『意思×能力』です。北朝鮮との関係では、能力より意思をなくす方が現実的でリスクが少ない」

どのようにすれば、北朝鮮の対外的威圧行動の意思をなくすことができるのでしょうか。
普通の民主主義国家でさえ、政府の意思は変動しえます。ましてや、独裁主義国家の場合はなおさらでしょう。独裁者及びその取り巻きの意思は刻々と変化しているかもしれません。いくら脅威の「意思をなくす」努力をしたところで、ある日それは突然ひっくり返るかもしれません。独裁者心と秋の空。
とするなら、これまでも多くの論者が語ってきたように、意思よりも能力を基準に、北朝鮮の脅威に対処すべきだろうと思います。

ところで、佐藤氏はキリスト教徒でありながら、仏教の信徒団体である創価学会のファンであるらしい。学会系の雑誌『潮』に連載もしているようです。
私はどうも、氏が学会を利用しているように思えてなりません。
何のために?集客か政治のために。

集客とは言うまでもなく、著書や文章の拡販のためです。では、政治のためとは何でしょうか。
「抑止という考えは分かります」と言っておきながら、なぜ「核兵器は絶対悪と言っていいと思います」などと述べるのでしょうか。「核廃絶」を「絶対的な真理」だと考える学会への迎合のためではないでしょうか。
自民党もしくは日本の更なる右傾化をくい止めたいと考える佐藤氏が、その歯止めの役割を期待して、外部から影響力を行使するため、創価学会・公明党に接近している、というのが私の仮説です。


核兵器保有国の制限は不当か

1.非保有国の不満

2017年7月核兵器禁止条約(TPNW)が国連で採択され、2019年10月批准国が50カ国に達し、今年1月22日同条約は発効の予定です。
それに対して、核兵器保有国は参加の意向を示していません。

核拡散防止条約(NPT)は、米露英仏支の5カ国には核保有を認めつつ、核軍縮交渉の義務を課す一方、その他の国には核兵器の製造や取得を禁止しました。
しかし、保有国が核兵器の削減を行わないのと、保有国と非保有国との間に不平等があるために、多数の非保有国の不満が禁止条約の発効へとむかわせたのでしょう。

では、5カ国を初めとする少数の諸国にのみ核保有を認める現状は、不当なのでしょうか。そして、そのような状態は正されなければならないのでしょうか。

2.銃の保有者の制限と無制限

現在の日本では、銃の保有に制限があります。
たとえば、狩猟や有害鳥獣駆除などのための銃の所持は例外として、一般市民は、銃の保有が禁じられています。一方、警察官は拳銃の携帯を認められています。
警官が社会の治安維持のために銃を所持しているのは、皆当然と考えていて、それについて文句を言う者は殆んどいません。

もし、一般市民と警察官に銃の非保有と保有の違いがあるのは不平等だと言って、保有の制限を撤廃したらどうなるでしょうか。
保有の制限の撤廃には、二通りの方法があります。一般市民も警官も保有を可にするか、両者とも不可にするかです。前者の実例がアメリカのような銃社会です。そのような社会になることを、日本国民は支持するでしょうか。

では反対に、一般市民も警官も銃の保有が禁じられたら、どうなるでしょうか。
警察官は、暴力団や犯罪者に対して、警棒だけで立ち向かわなければならなくなります。一方、暴力団他は闇で銃を調達する可能性が大いにあります。彼らを逮捕する際、警棒しか手にしていない警官が発砲されたら?

そのような場に直面すれば、いくら日頃から誇りをもって職務に励んでいる警察官たちだって、さすがにたじろぐでしょう。そして、そのような状況が頻発すれば、警官が次第に犯罪に対して見て見ぬふりをするような事態も予想されます。
その結果生まれるのは、警官よりも犯罪集団の方が幅を利かす社会です。

3.全ての国が条約に参加した場合

核兵器禁止条約の最終目標は、すべての国が条約に参加し、核兵器を地上からなくすことでしょう。それが実現したら、どうなるでしょうか。素晴らしい国際社会が生まれるでしょうか。

予想されるのは、一般市民も警察官も銃の保有が認められなくなった社会と同じような状態になることです。普通の、善良な諸国は条約を遵守する一方、邪悪な国家は闇での核兵器調達を画策するでしょう。もしそのような国家が核の調達を目指さないとしたら、その時は既に、国際社会で悪徳国家の力の優位が達成されているからでしょう。

そして、ある日邪悪な国家が核保有を宣言したら?
非核の善良な諸国は、核を保有した邪悪な国家と対峙しなければならなくなります。国際社会の力関係はがらりと変わります。悪徳国家を中心とした「悪の枢軸」が国際社会を牛耳ることになるでしょう。

現在の国際社会は、警察官国家と暴力団国家が核兵器を保有し(どの国がそれぞれに相当するかは書きませんが)、一般市民国家は核を持たないという状況ですが、全ての核をなくすことは、警察官国家の核を取り上げることにつながるでしょう。

進歩主義者(左翼)や空想家が主張する理念を追求したら、彼らが思い描く理想とはまるで異なった社会が現出する、というのが歴史の教訓です。
経済的平等を求めた挙句、共産主義という「大いなる失敗」がもたらされましたが、核兵器なき社会というものも同じでしょう。

4.売春防止法と核兵器禁止条約

核禁条約を批准したメンバーを見れば、何れも自国の力で自国を守れない国ばかりです。彼らは、世界最大の核兵器保有国米国の、パクス・アメリカーナの下にあるから、平和を享受できていることさえ理解しません。

世の中は進歩主義者、空想家ばかりではありません。現実的な人たちもいます。自国及び同盟国を守る責任を持っている国は、同条約に参加したりはしないでしょう。

昭和三十二年売春防止法が施行されましたが、それ以来わが国では売買春は行われなくなったでしょうか。行われなくなったのは、合法的なそれで、非合法な売買春は相変わらず行われているでしょう
売春防止法は、売買春はあってはならない、それが合法なのは許せないという綺麗事主義者の感情を宥めるために存在しているのでしょうか。

核兵器禁止条約も、核兵器は廃絶しなければならないと考える空想的平和主義者のガス抜きのためには有効なのかもしれません。

銃の保有者の制限同様、核保有国の制限も、必ずしも不当だとは言えません。

現実の社会では、売買春と売春防止法が併存しているように、核兵器と核兵器禁止条約だって、これからも末永く共存することでしょう。


ディープ・ステートという陰謀論

1.定義

ウィキペディアによれば、ディープ・ステート(deep state)とは、

「アメリカ合衆国の政治が陰で操られているとするもので、影の政府や国家の内部における国家と重複する。政治システムの中に共謀と縁故主義が存在し、合法的に選ばれた政府の中に隠れた政府を構成していることを示唆するもの」

だそうです。
「影の政府や国家内部における国家と重複する」というのは、日本語としておかしいですが、また、次のような記述もあります。

「ドナルド・トランプ大統領や側近は、高級官僚の一部がトランプを大統領として認めず、ディープステートを形成して弱体化を図っているとの陰謀説を唱えてきた」

2.馬渕睦夫氏のディープ・ステート論

元駐ウクライナ大使の馬渕睦夫氏は、雑誌『WiLL』2020年12月号に、「世界の運命を決める戦い」と題する一文を寄せています(227ー235頁)。
ところどころ引用します。

・「世界統一を狙うDS(ディープ・ステート、以下同じ)」
・「国際金融資本を核としたDS」
・「DSはトランプ再選を阻もうと民主党やメディアを裏から操っています」
・「DSの意向を受ける米メディア」
・「『トランプ降ろし』は、トランプ圧勝に対する焦りの裏返しで、DSとメディアの断末魔に過ぎません」
・「今から四年前、それまでDSが政府を支配してきたアメリカ」
・「グローバリズムで世界統一を目論むDS」
・「東欧カラー革命、アラブの春、ウクライナ・クリミア危機・・・・・・不正によるクーデター革命の裏には、常に仕掛け人のDSがいる」
・「万が一、不正投票でトランプ大統領が敗れれば、(中略)アメリカ政府は再びDSの手に堕ちることになる」
・「DSの正体はアメリカの人口の2(原文は、二)%にも満たないユダヤ系の中の左派です」
・「いとも容易く(フリン氏を)逮捕できたのは、FBIをDSが操っていたからです」
・「日本も『対岸の火事』ではありません。すでに、DSの影響力が奥深くまで浸透し、日本の弱体化を進めています」
・「敗戦から七十五年、左翼でなければ大学に残ることができないほど、日本の学問は左翼の巣窟として腐敗してしまいました。これも一種のDSによる日本弱体化計画の一環です」<( )内、いけまこ>

陰謀言説のオン・パレードです。馬渕氏は、これらの主張の正しさを証明できるのでしょうか。
まともな言論誌に、このような際物が掲載されていることに驚かされますが、それはともかく、ウィキによれば、ディープ・ステートとは、「政府の中に隠れた政府を構成」「高級官僚の一部」ですが、馬渕氏によれば、「国際金融資本を核とした」人たちだという。
DSという言葉は同じでも、それが指す対象が違っています。なぜでしょうか。

3.ディープ・ステートの構成員は特定できるか

馬渕氏の文章の一つを、再び引用します。

「DSの正体はアメリカの2%にも満たないユダヤ系の中の左派です」

ディープ・ステートの構成員は特定できるのでしょうか。それに相当する人たちは、自分がその構成員であることを、認識しているのでしょうか。あるいは、彼には他の構成員が誰なのが分かっているのでしょうか。
それらが分かっていなければ、共通の目標を持ち、それに向かって統一的行動をとれるはずがありません。また、彼らの間で、意見の対立はないのでしょうか。

ディープ・ステートのメンバーが誰なのか明確ではない!これこそが、それが陰謀論であることの証拠でしょう。
ディープ・ステートがアメリカ政治を操っているとの話は、フリーメイソンが世界を支配しているのたぐいと同様の、トンデモ論だと思います。

4.岡崎久彦氏のアメリカの政策決定論

以前引用したことがありますが、元駐タイ大使の岡崎久彦氏は書いています。

「アメリカの政策を論じる場合、『アメリカはこう考えていた』という記述はほとんど必ず間違いである。アメリカの民主主義の下では、『アメリカ一』なるものはない。大統領も政府も議会も世論も、それぞれ異なった意見を持ち、それがチェック・アンド・バランスの過程を通じてだんだんと政策を形成するのがアメリカである。統参議長の言論一つを証拠として、『アメリカはこう考えていた』などというのは、アメリカを知らない者の誤りである」(『幣原喜重郎とその時代』、PHP文庫、56-57頁)

岡崎氏のこの言は正しいと思います。大統領、政府、議会、世論、その他政党やメディアが、「それぞれ異なった意見を持ち、それがチェック・アンド・バランスの過程を通じてだんだんと政策を形成するのがアメリカ」なのでしょう。

「綱引きは、2つのチームが一本の綱をお互いの陣地に向けて引き合い、その優劣を競う競技」(ウィキ)ですが、アメリカは、と言うよりも普通の民主主義国家は、どこの国であれ、政策決定は多数のチーム(社会勢力)が多数の綱をお互いの陣地に向けて引き合う競技のようなものでしょう。
独裁主義国家だって、独裁者の一存だけで政策決定はなされていないでしょう。

国内の様々な社会勢力の意見の方向とそれぞれの力の大きさの合力によって、国家の進む方向が決められているのだと思います。

5.陰謀論が生まれる理由

個人の場合は、ある人物の動機に従って行動がなされ、結果が生じるので、動機と結果の関係はある程度合理的ですが、国家全体の場合では、政治の進む方向は多数の社会勢力が引っ張る多数のロープの結び目の動きのようなもので、それは、必然的にジグザグな軌跡を描きます。
だから、実際の政治では、往々にして誰の意図とも違った結果が生まれます。そこに、陰謀論が付け入る隙が生じる。
事前にどの勢力が言っていた通りにもなっていない。ということは、誰かが影で操っているに違いない!

歴史を眺めると、後の時代の人たちは、前の時代の人たちが非合理な政治的決定を下しているように見えるでしょうが、それは国家の意思決定が、多数の社会勢力による多数のロープの引っ張り合いによって行われていて、一人の人間の行為の動機と結果のように、なされていないからではないでしょうか。

6.蛇足ながら

この記事は、「ディープ・ステートという陰謀論」という題名にしましたが、ディープ・ステートというのは言葉であって、「論」ではありません。なので、ディープ・ステートという陰謀論者の常套、とする方が適切でしょう。

【追記1】
言うまでもありませんが、今年の米大統領選挙で不正があったかどうか、日米のマスメディアやSNS媒体が言論や表現の自由を抑圧しているかどうかという問題と、ディープ・ステートという概念が有効であるかどうかは無関係です。

【追記2】
本文では、『WiLL』掲載の論文をくさしましたが、例えば同誌2021年1月号の、筑波大学名誉教授古田博司氏と日本再興プランナー朝香豊氏の対談「できる人ほどサヨクにとらわれて朽ちるのは何故か」は面白いです。一部を引用します。
古田氏曰く、

「彼ら(左翼)がアジア贖罪の象徴としているのが姜尚中や柳美里ですよ。この二人は在日韓国人の“虚像”にすぎない。
韓国は文化の“層”が薄いから、二世になるとたちまち日本人化する。これ、柳美里の小説を読んで気がついた。おたまで鍋の灰汁をすくう描写が出てきたけど、韓国人にそんな文化はない。
日本人化したからやっているわけで。日本にいる在日韓国人の二世・三世は、とても日本人的ですよ。でも姜尚中や柳美里は、虚像をつくって日本人化してないかのようにふるまう。
偽韓国人であり、同時に偽在日韓国人です」(216-217頁)