戦後平和主義への痛撃

福田恒存氏は戦後十年目の昭和三十年、雑誌『文藝春秋』6月号に「戦争と平和と」と題する論文を寄せています。
世がいわゆる戦後平和主義の潮流にある中で、そして戦後七十五年経った今でも、そこに浸り続けている中で、福田氏はその風潮とは無縁でした。それは、以下の言説で明らかです。
ところどころ引用しましょう(『平和の理念』、新潮社、昭和四十年より)。

・「私が自分の人間觀、文化觀にもとづいて、戰爭と平和とをどう考へてゐるか、まづそのことを書いてみませう。
私はこの人間社會から戰争は永遠になくならないと信じてをります。ある雜誌のインターヴューで、さう答へましたら、あまりにショッキングであり、反動的だといふ理由で沒になりました。文字どほり、私は理解に苦しむ。私に關するかぎり、すでに言論の自由がおびやかされてゐるやうです」(75頁)

(笑)。
戦後平和主義に取り付かれた人たちは、このような主張を見るだけで、表情が強張ってしまうのでしょう。

・「進歩主義の歴史觀からいへば、シーザーだのアレクサンダーなどといふ英雄は、民衆の命など藁しべほどにもおもつてゐない、支配者は自分の野心のため、平氣で民衆を犧牲にするといふことになつてゐるらしい。そんなばかな話はないので、かれらも、またかれらに支配されてゐた民衆も、戰爭と平和との相關關係をよく呑みこんでゐたでせうし、平和の贈物を實らせるために戰爭をしたり、戰爭をしなかつたりしてきたのです」(76頁) 

わが国の、天下統一を目指した過去の武将たちだって、泰平の世を実現するために戦争をしたのでしょう。
反権力を掲げる左派メディアや文化人たちは、「進歩主義的歴史觀」に囚われているから、安倍晋三前首相のように、戦後平和主義という迷信の埒外にある政治家に対して、病的なまでに嫌悪し、批判的な言辞を弄するのだと思います。

・「原水爆であらうと惡魔であらうと、生まれてしまつたら、もうどうにもならないのです。あと私たち人間のできることは、さらにそれをおさへる強力なものの發明あるのみです」(78-79頁)

これも、戦後平和主義者あるいは核兵器廃絶論者には認めがたい主張でしょう。でも、認めがたかろうが、真実は真実です。

・「力の政治は力によつてしかおさへられません」(79頁)

有史以来、国際社会で繰り広げられているのは、「力の政治」です。話し合いによる平和とか外交による平和とかは、補助的な役割しか担っていません。主従を見誤っているのが、戦後平和主義者の特徴です。

・「ここ十年の平和を顧みて、じつさいそれが維持できたのは、ソ聯のためとも、平和論のためともいへない、アメリカの力もその大きな役割をなしてゐることは否めません。ソ聯とアメリカの武力が、原水爆が、平和を維持してきたのです」(85頁)

ここ七十五年の、日本の平和を顧みて、実際にそれが維持できたのは、憲法のためとも、戦後平和主義のためとも言えません。中共公船の尖閣侵入をみても明らかですが、自衛隊とアメリカの武力が平和を維持してきたのです。

・「戰争はかならず起るといふのは、過去に示された人間性の現實を見て、さう判斷するだけのことです」(87頁)

進歩主義者=左翼は、とにかく「過去に示された人間性」を、あるいは自分の内心を見ない人たちです。

・「私は元來、日本人を平和的な國民だとおもひます。(中略)たしかに日本人は神經が細かくて、我と我との摩擦をきらふのです。が、それが戰爭をきらふ氣もちにはならない。逆説めきますが、それがかへつて人々を戰爭に驅りやるのです。かう考へられないでせうか。一家の仲間うちの爭ひを嫌ふ日本人は、仲間そとにたいして、その逆に出る。仲間うちと仲間そとを極端にわけて考へるのは、封建制の名ごりといへさうですが、そればかりではなく仲間うちの、すなはち、國内のごたごたにたへられなくて、その結果、外に向ふといふこともありえませう」(92頁)

戦前日本は、経済力においても、軍事力においても、アメリカと比較して格段の差があったのに、なぜ無謀な戦いを挑んだのでしょうか。
東条英機氏以下の指導層は、カルトの信者でもなく、鳩山由紀夫氏のようなルーピーでもなかったはずです。陸軍と海軍の葛藤のような、「国内のごたごたにたへられなくて」、対米戦に突き進んだのではないでしょうか。

安倍前首相の靖国参拝に思う

当ブログには、唯一「よもぎねこです♪」をリンクに付けています。
よもぎねこさんの8月29日公開の記事「安倍総理辞任について 個人的感想」のコメント欄に、30日次のような短文を送りました。

「辞任後、一代議士となった安倍さんには、靖国神社の参拝を期待したいですね」

安倍晋三首相の任期は、正式には9月16日まででした。
そして、その三日後の19日、安倍前首相は靖国神社に参拝されました。
英霊に、首相を退任したことを報告したのだそうです。

わずか三日後の参拝ということで、安倍氏の信条と心情が理解できます。
2013年12月に一度参拝しましたが、韓支とアメリカの圧力によって、それ以降できず仕舞いでした。
任期中に随時参拝できなかったことは、さぞや悔しかったことでしょう。

8月2日公開の「なぜ私は宗教を信じないか」で述べましたが、私は無神論者です。
初詣は当然のこと、一年に一度も参詣しません。また、車のルームミラーにお守りを下げたり、車体に〇〇神社の安全祈願のシールを貼ったりもしません。

けれども、私的な信条と公的な立場とは別です。
キリスト教徒の政治家も首相になったらそうすべきであるように、もし私が首相になったとしても、靖国神社への参拝を目指すでしょう。

朝日新聞と忖度

安倍晋三首相は、8月28日夕方辞任を表明しました。翌29日朝日新聞の素粒子欄は下記の通りです。

「いかにも首相らしい。『痛恨の極み』『断腸の思い』は拉致、領土、改憲で結果を残せない現実への心情だった。
×  ×
少子化を打開できず、待機児童ゼロも介護離職ゼロも、物価上昇率2%も掛け声倒れの政策面は多くを語らない。
×  ×
ましてや、『森友・加計・桜』での説明忌避や、忖度をはびこらせた政治責任など、知らん顔して退陣してゆく。」

朝日新聞の読者投稿欄などは、同紙編集部への忖度競争の勝利者の投書が掲載されているわけですし、紙面に登場する学者や文化人たちも、新聞社の論調を忖度しているから採用されているわけでしょう。
首相にしろ、左翼新聞にしろ、忖度する人は沢山います。もしある人物がそのどちらかに忖度をして、非合法な行為をした場合、罪を問われるべきは、忖度した人物であって、忖度された側ではありません。
朝日は、「忖度をはびこらせた」報道や言論を散々やっている癖に、「知らん顔して」良く言うなあ。同紙も早く社会から「退陣して」欲しいと思います。

「『森友・加計・桜』での説明忌避」と言いますが、刑事訴訟では、検察官が挙証責任を負担しますが、森友以下に関しては、誰が立証責任を負うべきなのでしょうか。
それらについては、白であることを説明する責任が首相の側にあるのではなく、黒であることを証明する責任が左派メディアの側にあります。そしてメディアが、首相が黒であることを証明できなければ、白だと判定して当然です。
証明忌避を行っているのは、メディアの側です。 

「拉致、領土、改憲」も、少子化も、「待機児童ゼロも介護離職ゼロも、物価上昇率2%も」、安倍氏以外の誰かが首相を務めていたら実行できていたでしょうか。できていないでしょう。
それらについて、右派の首相だったから批判をして、左派だったら口を噤むというようなダブル・スタンダードな報道や言論を行うから、右派と左派の分極化が進むのです。

燕雀がつまらない批判をするから、鴻鵠の持病が悪化するんですね。
政界は、「そして誰もいなくなった」状態ですから、安倍さん以降は、日替定食ならぬ年替総理の時代が到来するのは必至でしょう。左派メディアは、自分たちが日本をそのような年替総理の時代に追いやったのだということを、認識しているのでしょうか。言っても無駄ですが、少しは反省して欲しいと思います。

安倍総理、長い間お疲れさまでした。

反省・謝罪と左翼

歴史認識に関する左翼の紋切型に、次のようなものがあります。

かつて西洋先進国はアジア・アフリカその他を侵略し、植民地支配を行ったけれども、それを謝らない。だからと言って、戦前日本がアジア、とりわけ韓国に対して行った植民地支配を謝らなくて良いということにはならない。たとえ西洋諸国が謝罪しなくても、日本はちゃんと謝罪すべきである

というのです。
一見もっともな主張ですが、ではそう言うご当人は、自己の過失について、相手に対してちゃんと謝っているのでしょうか?

冷戦時代、資本主義は何れ社会主義に取って代わられると多くの人たちが信じていました。その時代、社会・共産主義者は、未来は自分たちに味方していると、意気揚々でした。
彼らは、社会主義の旗を振り、いまだその旗の下に集まらない者、それを支持しない者に対し、社会主義体制の優位や必然性を説き、あるいは組織に誘い、組織を抜けたいと言えば、脅しまたは爪はじきにしました。
一方、社会・共産主義の反対者に対しては、右翼、反動、資本主義の走狗(手先)のレッテルを貼り、彼らの言論を左傾化した主流派メディアから閉め出しました。

しかし、その後社会主義の盟主ソ連は解体し、中共や北朝鮮の政治的・経済的行き詰まりも明らかになり、そして、冷戦は終了しました。

今日、冷戦の終結から三十年経ちましたが、冷戦時代社会・共産主義者だった人で、冷戦後その過ちを表明した人が何人いるでしょうか。社会主義に同調しないが故に他者を批判、心理的に傷つけ、あるいはたとえば、学生運動などで、機動隊員に石を投げ、彼らを身体的に傷つけた人たちのうち、誰がそれを謝罪したでしょうか。

西洋諸国がアジア・アフリカを侵略したことを謝らないからといって、日本がアジアに対する侵略を謝らなくても良いことにはならないという左翼の主張が正しいのなら、他の社会・共産主義者だった人たちが、冷戦後反省を表明しないからと言って、あなたが!謝らなくても良いということにはならないということになりませんか?

歴史問題で、政府や右派が反省や謝罪をしないと非難するよりも、自らがまず冷戦時代におかした過ちを反省し、謝罪の手本を示したら良いと思います。

ところが、左翼は殆んど誰も、反省も謝罪もしません。なぜでしょうか。
<他人の過失を責めるは易し、自分の過失を認めるは難し>だからです。
戦前日本の「侵略」は、左翼=反日派にとって他人事です。だから、容易に謝罪の要求ができるし、その態度が居丈高になるのです。一方、自分の過失は、自身のことだから反省も謝罪もできないのです。

ある左翼が個人的な問題で過失をおかしたとしましょう。彼は素直に、反省の姿勢を示すでしょうか。示さないでしょう。
なぜちゃんと反省や謝罪をしないのかと詰ったら、彼は何と言うでしょうか。
たぶん、次のように言うでしょう。
「お前(皆)だって、同じようなことをやっているじゃないか」

植民地支配は当時の主な先進国がやっていたことです。それはいわば、当時のグローバル・スタンダードでした。そのような行為を、私たちが現在の価値観で道徳的に断罪するのは無意味です。
そんな無意味なことをする暇があるのなら、現在進行形で行われていて、しかも今日の価値観から見ても不当な侵略を非難すべきです。

中共が行っているチベットやウイグルに対する植民地支配、東シナ海や南シナ海での侵略、台湾に対する威嚇、それらに対し、抗議をすべきです。
ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、1985年の演説で述べました。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」
しかし、現実は逆です。現在の不正に気がつく者だって、過去の不正に気がつくとは限りません。が、現在の不正に気がつかない者が、過去の不正にだけは気がつくということなどありえません。
だから、むしろこう言うべきでしょう。
「現在に目を閉ざす者は、過去を語る(批判する)資格がない」

左翼は、戦前の先人たちの行為を云々するよりも、まず自分自身の過失を問題にすべきです。第一、冷戦時代に自分がおかした罪と、第二、現在の中共の侵略等を見て見ぬふりをしている罪とです。
戦前日本の過失を論うのはそれからにすべきです。

私自身は、戦前のわが国の行為を反省や謝罪するのは無意味だと思いますが、一歩譲って、西洋諸国が謝罪しなくても、日本は謝罪する必要があるとしましょう。
それなら、今後左翼が手本を見せてくれるであろう、二つの過失に対する見事な謝罪っぷりを見せて貰ってから、それを参考に戦前の行為の反省や謝罪を考えたら良いと思います。

もし、左翼が反省も謝罪もしなかったなら?
戦前の日本の行為に対して、反省も謝罪もする必要がないことを、彼らが身をもって示してくれたと解釈すれば良いのだと思います(笑)。

【追記】
左翼とは、20世紀の左翼=社会・共産主義者と21世紀の左翼=リベラルのことです。

差別と左翼

また、「差別意識はなくならない」から引用します。

「差別という観点から考えると、左派にとって人間は二種類に分けられます。差別する人としない人です。
差別する人としない人の二種類の人間がいると考える左派は、右派や大衆=差別をする人、自分たち=差別をしない人だと考えます。そして、前者が意識を変えれば、社会から差別がなくなると信じています。(中略)
左派の人たちは、自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます」

左翼は、「自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます」。だから、社会で差別が問題になった時の、それを批判する時の物言いが物凄くエラソーなのです。以前存在した「レイシストをしばき隊」などその典型でしょう。差別やヘイト(スピーチ)を糾弾する時の、彼らの表情を見てください。自分だけが正義を体現していると思っている!
最近のブラックライブズマターに関する一部の人たちの(たとえば、西崎文子同志社大学教授や荒このみ東京外大名誉教授の)発言を見ていると、やはり同様の印象を受けます。彼らはBLMの暴力的行動を見て見ぬふりをしているか、その暴力的行動をも造反有理として許容しているように見えます。

差別などしないし、差別意識もない人はいるでしょうか。
そんな人間などはいません。
だから、次のように書きました。

「差別という観点から考えると、右派の私も、人間は二種類に分けられると思います。自分に差別意識があるのを自覚している人と、その自覚のない人です」

左翼は、差別をしない人、ではなく、差別意識があるのを自覚しない人です。要するに、自分のやっている差別に鈍感なだけです。彼らだって、差別意識はありますし、時に差別を行います。だから、彼らを観察していると、いつかしっぽを出します。

左翼は、自分の行う差別には鈍感ですが、他人の行う差別には敏感なので、そのうち仲間の中に差別主義者を発見します。そして、お互いに非難合戦を始めます。もっぱら、急進左派が、穏健左派の言動を槍玉に挙げるようになります。
共産主義的左翼が、お互いの中に反革命的言動を見つけては、相手を告発、そして粛清をしたのと同じです。

左翼の追及の激しさとその風潮に圧されて、一般社会では、人々は他人の罪の告発と自らの潔白証明で、精神を消耗して行くでしょう。
そして、左翼のそのような差別摘発運動によって、息が詰まる社会が生まれます。

左翼は根本的に考え違いをしているのです。
皆誰にでも差別意識はありますし、それは左翼だって例外ではありません。彼らはそれを認めるべきなのです。そうすれば、他人の行為のうちに差別を発見した時も、自分のこととして考え、あるいは相手に対してもう少しやんわりと窘めるような言い方をするようになるでしょう。

福田恒存氏は書いています。

「近頃は、正義の主張者がことごとく原告を氣取るので困る。やはり自分の奉じてゐる眞理だけは迷信ではないと考へてゐるからだ。それなら、もつとよく考へる訓練をすれば、正義の主張もうしろめたいことだと感じるやうになり、被告席からそれをするやうになるだらう」(注)

皆無実ではないのだから、差別を批判する、あるいはその改善を求める主張は、福田氏が言うように、原告席からではなく、被告席からなすべきです。

そうすれば、他人を吊し上げる必要のない、息の詰まらない社会が実現できるはずです。

(注)福田恒存著、『福田恒存全集 第五巻』、文藝春秋、444頁 

ご先祖様を利用することなかれ

8月13日付朝日新聞「声」欄に、下記の投稿が掲載されました。

核禁条約の批准 被爆国日本こそ

地方公務員 H・M (千葉県 44)

「今年も広島、長崎の「原爆の日」を迎えた。日本の被爆から既に75年を経たが、いまだに核兵器が核兵器がなくなる気配は全くない。それどころか世界は、核兵器を保有する一部の国によって寡頭支配されている。
唯一の戦争被爆国である我々は、核兵器自体を禁止する条約を忘れていないだろうか。核兵器の製造や保有などを禁じる「核兵器禁止条約」。国連で3年前、122カ国の賛成で採択された。50カ国の批准という発効要件を満たすのは目前である。
この条約に日本の政権が調印しなかったのはもちろん残念だが、調印運動を盛り上げなかったメディアにも失望した。新型コロナでの自粛要請時のように、強調した報道を見せれば、日本も参加していたのではないかとさえ思う。
日本は戦争被爆国でありながら、核兵器を禁止する条約に参加していない。しかも冷戦後もなお、日本に原爆を落とした世界有数の核兵器保有国と、軍事的要素が強い日米安全保障条約を結び続け、「核の傘」に依存していると見える。
お盆に入り、戦争で亡くなった方の霊も戻ってくる。私たちは、ご先祖様に顔向けができるだろうか」

この人には、戦前のご先祖様は、現在の私たちとは全く異なるパラダイムの中にあったであろうという想像力が欠如しています。

ご先祖様は、戦争に勝って欲しかったのです。
アメリカよりも先に、日本が核兵器の開発に成功していたら良かったのに、と残念に思っていることでしょう。
そして、核兵器によって戦争に勝利していたら、今頃はきっと核兵器禁止条約に参加しろとは言わなかったはずです(笑)。

【追記】
お前の意見だって、ご先祖様の利用ではないかと言われたら、否定できませんが。

禁酒法と核兵器禁止条約

1.禁酒法

アメリカで、アルコール飲料の製造、販売、輸送と輸出入を禁じる禁酒法が、1919年1月に成立し、翌20年1月に施行されました。
酒を原因とする家庭内暴力や貧困という問題があって、それを阻止するのが元々の目的だったようです。

「元野球選手で、禁酒推進に貢献したビリー・サンデーは、1万人の聴衆を前にこう語った。『今夜、午前0時を回れば、新しい国が生まれます。明晰な考えと好ましいマナーの時代が始まるのです。スラム街はすぐに過去の遺物になるでしょう。刑務所や少年院は空っぽになり、工場へ姿を変えます。男性たちは皆まっすぐに歩き、女性たちは皆ほほ笑み、子どもたちは皆笑い声を上げるでしょう。地獄の門は、永遠に閉ざされたのです』」(注)

ウィキペディアによれば、禁酒法は革新派、女性、南部人、農村地帯の人々、アフリカ系アメリカ人、クー・クラックス・クラン(KKK)までも、「それが社会を改善すると信じて支持した」そうです。

禁酒法の実施は、「高貴なる実験」と呼ばれました。

ところが、同法が実施された後、酒の密輸や密造、闇酒場が横行、それで儲けるマフィアが台頭し、あるいは彼らの間で暴力沙汰や殺人などが頻発しました。
それで、世論は禁酒法反対に転じ、1933年同法は廃止されました。

現代では、「高貴な実験」について、「皆笑い声を上げ」ています。

2.核兵器禁止条約

核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用などを禁じる核兵器禁止条約を、8月6日アイスランド、ナイジェリア、ニウエの3か国が批准しました。発効に必要な50か国まで、あと7か国になったということで、先日ニュースになりました。

核兵器禁止条約が成立し、それが実施された場合、新しい世界が生まれるのでしょうか。核兵器問題における「地獄の門は、永遠に閉ざされ」るでしょうか。

生まれてしまった以上、核兵器製造の知識をなくすことはできません。
また、核兵器をなくしたところで、各国間の対立はなくなりはしませんから、近隣国に対して通常戦力で劣る国は、密造核を製造するかもしれません。しかも、情報統制されているために、自由民主主義体制の国よりも、独裁主義体制の国の方が密造核の製造は容易です。
正直な民主主義国は条約を遵守し、不正直な独裁主義国は秘密裏に核兵器を製造するようになればどうなるでしょうか。国際社会はマフィア国家の力が強大化することになるでしょう。

酒は悪いばかりではありません。それにも効用もあります。そのマイナス面ばかりを見て、プラス面を見ないから、あるいは人間性がそれを必要とすることを考えないから、予想外の結果が生まれたのです。

核兵器も、同様効用があります。
その効用とは、国家の価値を守ることにあります。国家の主権や領土、国民の生命や財産、自由や民主主義などの(独裁国なら、独裁者や独裁政党の権力維持などの)政治的価値を守っている面もあるのです。国産の核が無理なら、同盟国の核を利用してでも自国の価値を守らなければなりません。国家の価値を守る他の方法が発見されない限り、核兵器は必要とされます。

現実を眺めれば、世界の平和は主としてアメリカの、核兵器を含めた軍事力によって、あるいは、米国とその他の大国間のバランス・オブ・パワーによって、守られています。
核兵器廃絶論者の人たちは、現に世界には非核兵器地帯がいくつかできているではないかと言うかもしれませんが、それらだって、実は世界が基本パクス・アメリカーナの下にあり、米国およびその他の大国がそれを認めているから(非核兵器地帯に属する国々が、核に対する野心を持たない方が都合が良いから)、実現できているのです。

核兵器禁止条約は、たとえ成立したとしても、禁酒法の二の舞になるだろうと思います。それは時を置かず破綻するでしょう。
禁酒法は14年間続きましたが、核禁条約は何年間保つでしょうか。

核兵器禁止条約に幻想を抱いている人たちは、早く酔いから覚めて欲しいと思います。

(注)https://style.nikkei.com/article/DGXMZO54893860X20C20A1000000/

セクハラと差別意識

差別意識はなくならない」に書きました。

「差別という観点から考えると、左派にとって人間は二種類に分けられます。差別する人としない人です。
差別する人としない人の二種類の人間がいると考える左派は、右派や大衆=差別をする人、自分たち=差別をしない人だと考えます。そして、前者が意識を変えれば、社会から差別がなくなると信じています。(中略)
左派の人たちは、自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます」

その典型が、同志社大学教授西崎文子氏でしょう。
彼女は2020年7月18日付朝日新聞「ひもとく」欄に書きました。

「そして今日。白人警官によるジョージ・フロイド氏殺害をきっかけに再燃した『黒人の命は大切だ(ブラックライブズマター)』という叫びを前に、対立する人々は『すべての命は大切だ』(太字、原文は傍点)と嘯く。しかし、これが差別の実態を隠蔽する偽りの言葉であることは一目瞭然だ。(中略)そう、『黒人の命は大切だ』は、黒人だけでなく、身体と人間性を収奪された難民や移民を含むすべての人々のために響き渡っているのである」

どうして「すべての命は大切だ」が、「差別の実態を隠蔽する偽りの言葉であることは一目瞭然」なのでしょうか。ブラックライブズマター派が、暴力的な行動をとっているのを見れば、そう言いたくなるのは当然でしょう。
それにしても、「自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでい」るから、こんな大口が叩けるのです。

「差別意識はなくならない」に、次のようにも書きました。

「セクハラ行為は、右派ばかりではなく左派だっておかします。だから、人類が左派ばかりになったとしても、セクハラがなくならないのと同様、人類が左派ばかりになっても、差別はなくなりません」

「差別意識はー」を書く少し前に、人権派?ジャーナリスト広河隆一氏のセクハラ問題が報じられていました。しかし、それについては、言及しませんでした。
ところが先月、韓国の朴元淳ソウル市長のセクハラ自殺問題が発生しましたし、今年4月には呉巨敦釜山市長のセクハラ辞任問題もありました。
自称フェミニストの左派ばかりになったとしても、セクハラはなくなりはしないでしょう。

左派によるセクハラ事件を見て、世が自分には差別意識はないと「嘯く」左派ばかりになったとしても、差別意識はなくならないし、ひいては差別もなくならないこと確信しました(笑)。

【追記】
2011年10月18日に東京で、日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)の結成55周年の「つどいと祝賀会」が開かれたそうです。その記念講演で、西崎文子成蹊大学教授(当時)は次のように述べたとのことです。

「私には、研究者・教育者として裏切ってはいけないと意識してきた3つのグループがあります。第1は研究者仲間。第2は親や家族。そして第3が最も重要な被爆者の皆さん。核兵器や原爆の問題だけでなく、政治や歴史について発言するときに必ず考えるのが、被団協を通じて知り合った被爆者や協力者のこと。私がどこかへ流れるのを係留する錨の役割を果たしてくださっている。その意味で被団協が私の『原点』だと断言できます」(注)

「裏切ってはいけないと意識してきた」「グループ」のリストに、あるいは「政治や歴史について発言するときに必ず考える」対象に、自国日本を入れるのが愛国派であり、入れないのが反日派です。

これまでのいくつかの記事に書きましたが、反日派とは、親や家族、そして自分の会社や組織は「裏切ってはいけない」と考えるくせに、こと自分の国=日本に関してはそう考えない人たちなのです。

(注)https://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/about/about5-201111.html



なぜ私は宗教を信じないか

私は自称異端の保守です。

なぜ異端かと言えば、正統保守の人たちと違って、宗教を全く信じないからです。

私は、神も仏もGodも信じません。

宗教を信じる人は、土壇場で真理(真)を、そして善美も裏切りそうに思えてなりません。

先攻の左派・後攻の右派

1.先に攻撃を開始するのは左派である

政治的関心のない人ならともかく、政治意識の高いはずの左派の人たちの殆んども、次のような政治の基本原理を理解していないようです。
福田恒存氏は書いています。

「普通、最初に保守主義といふものがあつて、それに對抗するものとして改革主義が生じたやうに思はれがちだが、それは間違つてゐる。(中略)最初の自己意識は、言ひかへれば自分を遮る障碍物の發見は、まづ現状不滿派に生じたのである。革新派の方が最初に仕来りや掟のうちに、そしてそれを守る人たちのうちに、自分の『敵』を發見した。
先に自己を意識し『敵』を發見した方が、自分と對象との關係を、世界や歴史の中で自分の果たす役割を、先んじて規定し説明しなければならない。社會から閉め出された自分を辯解し、眞理は自分の側にあることを證明して見せなければならない。かうして革新派の方が先にイデオロギーを必要とし、改革主義の發生を見るのである。保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに氣づく。『敵』に攻擊されて始めて自分を敵視する『敵』の存在を確認する。武器の仕入れにかかるのはそれからである。したがつて、保守主義はイデオロギーとして最初から遲れをとつてゐる。改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに宿命づけられてゐる」(福田恒存著、「私の保守主義観觀」『福田恒存全集 第五巻』、文藝春秋、437頁)

先に攻撃を開始するのは、いつも左派です。左派の攻撃に対して防戦するのが右派なのです。
だから、以前「左派は先制攻撃派で、右派は専守防衛派だと言えるでしょう」と書きました。

2.誰が社会の秩序に石を投げているか

夫婦同姓、異性婚、国籍がある者だけに参政権がある、殆んどネイティブだけの移民がいない、性差がある・・・・のが当然の社会には少なからず不合理もあったでしょうが、それはそれなりに静かな社会でした。

ところが、そのような秩序ある社会に石を投げる人間が出現します。左派(進歩派)です。彼らは、社会に夫婦別姓、同性婚、外国人参政権、移民の受け入れ(アメリカなら、非合法移民の受け入れ)、性差の否定・・・・といった石を投げ入れます。
それによって、それまでは静かだった社会に波紋が生じます。

3.憲法は右派が先攻?

現在、憲法は右派が改憲を、左派が護憲を主張しています。だから、憲法に関しては、逆に右派が先に攻撃をしかけているように見えます。しかし、それは正しくありません。

もし大東亜戦争がなく、時代の変遷とともに帝国憲法が徐々に改正されていれば、今頃は右派が護憲を、左派が改憲を主張していることでしょう。

しかし、大戦とその結果としての敗戦があり、占領軍によって、しかもその中の進歩的な勢力主導による憲法(天皇=元首の否定や第九条=日本の生存権否定)が制定されました。

占領憲法の制定は、一種左派による先制攻撃です。そのゆえに、右派は後攻として憲法の改正を主張しているのです。

4.左派の解釈

もし社会の秩序に石を投げ、混乱を引き起こしているのが右派なら、左派が右派を嫌うのは当然だと言えるでしょう。しかし、石を投げているのは左派なのです。
彼らは、自分たちが、社会に混乱を引き起こしているという自覚がありません。
「先に攻撃を開始するのは左派である」という政治の基本原理を理解していないからです。

先に石を投げているのは左派なのに、なぜ左派は右派を毛嫌いするのでしょうか。
左派が指し示す方向に、右派が反対するからです。

左派によれば、旧い、間違った制度を否定することは、社会の秩序に対する攻撃ではない。進んだ、「正しい」制度に反対することこそが攻撃なのだということなのでしょう。
自分たちが正しいと訴える主張に、右派が反対するから社会が混乱するのだと考えている。本末が転倒しています。

5.左派は巨大な石を投げ込んだ

左派が目指さんとする社会は、本当に理想的な社会なのでしょうか。
左派は、前世紀、社会に巨大な石を投げ込みました。マルクス主義です。
彼らはそれによって、より良い社会ができると信じた。しかし、できたのは、政治敵の処刑、反革命分子の密告や粛清、思想や言論の統制、強制収容所や飢餓などが頻発する社会でした。

右派は、左派の言うより良き社会が信じられないのです。だから、どのようにすれば理想社会が実現するのか事前にかつ具体的に説明してくれたら良いのですが、左派にとってそんなことは自明らしく、説明もなく突然社会に石を投げ入れる。

自分たちの考えを疑わないのが、左派の最大の欠点です。