中島岳志氏と「リベラル保守」宣言

1.「リベラル保守」という矛盾

東京工業大学教授中島岳志氏は、2013年に『「リベラル保守」宣言』(新潮社)という著書を上梓しました。その書名を見て、少なからぬ人たちが、不可解に思ったことでしょう。私も、そのような一人です。

冷戦時代は、社会主義(東側)陣営と自由主義(西側)陣営が対立していました。
社会主義者(社会民主主義者)や共産主義者は前者を支持していました。一方、自由主義者は後者を支持していました。自由主義者は、リベラルと保守で構成されていました(民主社会主義者ー民社党の支持者ーといった人たちもいましたが)。社会主義体制に反対の立場から、両者は手を組んでいました。だから、その当時なら、リベラル保守という思想的立場もありえたかもしれません。

しかし、冷戦が終結し、ソ連邦は崩壊し、東欧諸国も社会主義体制を放棄しました。他方、自由主義体制の国々の社会・共産主義者たちは、なぜ宗旨替えをするのか説明しないまま、徐々にリベラルへ転向して行きました。その後、社会・共産主義者は、左派の内の少数派に転落し、今日左派の多数派はリベラルです。左派と右派の対立は、社会・共産主義者対自由主義者から、リベラル対保守に移行しました。すなわち、現代の政治イデオロギーは、左派=リベラルと右派=保守の対立になっています。

冷戦時代はリベラルと保守は協力関係にありましたが、冷戦後は両者は対立関係になりました。だから、中島氏の「リベラル保守」宣言というものに対して、多くの人たちが疑念を抱くのは当然です。それにしても、中島氏以外に、あるいは氏に同調して、リベラル保守という立場を支持する人はいるのでしょうか?

今日、リベラルと保守は、反対概念です。ですから、リベラル保守宣言というのは、左翼右翼宣言とか、資本主義共産主義宣言とか、護憲改憲宣言とか、売買春肯定否定宣言とかを表明しているようなものです。
大抵の人たちは、リベラル保守という立場が成立しえないことを、薄々承知していると思われます。それを、理解していないのは、主唱者当人くらいなのかもしれません。

2.中島氏の分裂思考

中島氏は保守を自認し、あるいは保守とは何かを語ります。しかし、一方、ウィキペディアを見れば分かりますが(1)、

・2009年1月-『週刊金曜日』編集委員に就任
・2011年4月-毎日新聞論壇時評担当(2013年3月まで)
・2013年4月-朝日新聞紙面審議委員(2016年3月まで)に就任

とあるように、専ら左翼誌紙に登場していて、保守言論誌に氏の名前を見ることはありません。

また、2018年10月10日に、日本共産党のインターネット番組「生放送! とことん共産党」に出演し、次のように語ったとのことです(2)。

「自公政権が親米・新自由主義へと傾斜する中、それに抵抗する『保守』と日本共産党の立ち位置が限りなく接近していると主張している中島さん。絶対平和という強い指標をもちながら、そこに近づくために軍縮などの具体的政策を一歩一歩進めようとする『保守』の考え方を説明して、憲法9条をめぐる日本共産党の姿勢を『保守の人間が考える理想像に近い』と評価」したそうです。
加えて、「中島氏は『(他の野党が)共産党の政策に呼応することで、保守的な要素が含まれ、政策的に極めてまっとうな保守に近づいていく』と強調」したそうです。
それにしても、「『保守』と日本共産党の立ち位置が限りなく接近している」とは!

中島氏は、元右翼の鈴木邦男氏との対談で述べています(3)。

「理想社会というのは過去にもなかったし永遠にこない、と考えるのが保守の立場です。(中略)
それに対して右翼というのは、理想社会が誕生しえると思っているのではないでしょうか。(中略)僕自身が保守に立つのは、(中略)やっぱり理想社会を過去にしろ未来にしろ措定することは、難しいんじゃないかと考えるわけです。(中略)不完全な人間は永遠に不完全な世界を生きざるを得ないという諦念を共有しています」

鈴木氏と、右翼について語った中での発言ですが、右翼を共産主義という言葉に置き換えても、そのまま通用するでしょう。

中島氏は、ネット記事で発言しています(4)。

「価値の問題で争っていると、血で血を洗う悲惨なことになる。だから、お互いに相手の価値観に寛容になろう、と。そして、自分自身の自由、とりわけ内面的な価値観については国家から干渉されない、という考え方。つまり、『リベラル』の基本は『寛容』と『自由』がセットなのです」

今日の、いわゆるリベラルは自分たちの思想的立場のみが正しいと考え、他の思想的立場には物凄く不寛容なのは周知の通りです(進歩主義者が、非進歩派や反進歩派に対して、寛容であったためしなどありません!)。
それはともかく、疑問に思うのは、共産党は寛容であったり、自由を尊重しているのかということです。党員は、自分自身の自由、とりわけ内面的な価値観について、党の上層部から干渉されることはないのでしょうか。
また、自民党の総裁は党内の選挙で決まりますし、昨年10月31日投開票の総選挙で敗北した責任をとって、立憲民主党の代表でさえ辞任、交代しましたが、共産党はどうでしょうか。
その総選挙の前後を比較して、最も議席を減らした比率が高い政党は共産党でしょう。なのに、党首は辞任していません。志位和夫氏は、2000年に共産党委員長に就任してから、ずっとその席に居座っています。党首選もなく、党首が代わらない政党に、寛容や自由などあるはずがありません。

西部邁論」に書きましたが、雑誌『正論』2018年1月号に、(たぶん)潮匡人氏は、架空の人物に言わせています。

「(2017年)10月21日付朝日新聞を読んでいたら、共産党の全面広告があったのですが、『保守の私も野党共闘支持です』という中島岳志氏が載っていましたね。共産党のPRする保守なんてあるわけない。(笑)」

その通りだと思います。

中島氏の理念としての保守論と、左翼誌紙やネットに登場したり、そこでする氏の発言とは、思想的に一致していません。あるいは、前者と後者は分裂しています。どうしてそのような不一致、分裂が起こるのでしょうか。

両者が矛盾していることさえ、中島氏は理解できないのか、両者には余人には理解が及ばない、もっと高度な論理的なつながりがあるためか、それとも、何らかの政治的下心のためなのか。あるいは、左派から右派に転向した者の思想は往々にしてブレがちですが、氏は、西部氏のようなさよく(保守の仮面を被った左翼)から影響を受けたからでしょうか。

3.「リベラル」保守宣言?

保守を自認する中島氏が、リベラル保守を宣言するから、私たちは困惑するのです。むしろ左翼の氏が「リベラル」という思想的立場を「保守」すると宣言したのだと考えたら、合点がいきます。
すなわち、「リベラル」保守宣言、です。
元々リベラル=左翼だった人物が、保守を表明、そして、それを語りつつ、右派を分裂させ、その一部を自らの陣営に誘導する。

なーんだ。
左翼はいつも戦い方が巧妙です。言い換えるなら、ズル上手い。
また、左翼に一本取られました。
はっ、はっ、は。

(1)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%B2%B3%E5%BF%97
(2)https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-10-11/2018101101_03_1.html
(3)http://www.magazine9.jp/taidan/007/index1.php
(4)https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20171020-00077161

住吉雅美氏と功利主義

1.はじめに

去年の前半ですが、朝日新聞を読んでいて、功利主義に言及している記事を見かけました。
それは、青山学院大学教授(法哲学)住吉雅美氏へのインタビュー記事でした。それを切り抜いていたはずなのですが、紛失してしまいました。探してみましたが、見当たりません。

パソコンで検索したところ、住吉氏が『あぶない法哲学』(講談社現代新書、2020年刊)という本の著者であること、その中に功利主義を論じている箇所があるのを知りました。それで、同書を購入して、読んでみました。
功利主義を対象にしているのは、「第六章 大勢の幸せのために、あなたが犠牲になってくださいー功利主義」です。
以下で、その章で述べられている事柄を論じます。

2.功利主義の考え方?

住吉氏の著書から、引用します。今回の記事の引用は、長くなります。

「たとえば、こんな例を考えてみよう。プレミアム・グッズ付きコミックスが店舗に並べられた途端、一人の熱烈なファンが全部買い占めてしまった。抗議する他の客に対し、そのファン曰く『自分は誰よりも昔から熱心にこの漫画を愛しているファンだし、開店前から並んでいたし、ちゃんと自分のまっとうな貯金で買ったし、法に触れることなんて何もしてない。どこが悪いの?』。(中略)
一方で、この例を功利主義の立場から見ると、買い占めファンの権利の完全行使は、他の多数のファンのグッズ付きコミックスを入手するという幸福を奪い、その結果『最大多数の最大幸福』の実現を妨げるから、ゆるされないということになる。功利主義的思考の利点は、『最大幸福』を独り占めするのではなく、みんなで分かち合うことを求める点にある。
いま検討している例において、たとえば100個あるグッズが総量100の幸福をもたらすとしよう(幸福を量化できるのかという問題はさておいて)。グッズを買い占めファンが独り占めすれば、その人は1人で100の幸福を満喫することになるが、他の買えなかった99人は幸福ゼロになる。それでも幸福の総量は100であるが、その100は1人の人間に享受されているだけなのである。それに対して、買い占めをやめ、グッズが1人に1個ずつ購入されるならば、1人あたりの幸福は1であるが、そういう人が100人いることになって結果的に幸福の総量は100になる。100×1+0×99=100がよいのか、それとも1×100=100がよいのか。功利主義は後者をとる。1人あたりの幸福量は減るにもせよ、全員が幸福になった結果として幸福の総量が最大になる方がずっとまし、というのが功利主義の考え方なのである」(137-138頁)

住吉氏は、「 100×1+0×99=100がよいのか、それとも1×100=100がよいのか。功利主義は後者をとる」と書いています。しかし、当然のことですが、前者と後者は100対100で、幸福の総量は同じなのですから(100=100)、「功利主義は後者をとる」となる訳がありません(笑)。
100対100の場合は、どちらもとってはならない、と両者を禁止するのは不自然なので、どちらをとっても良い、と考えるのが自然でしょう。

J・ベンサム(1748-1832)著『道徳および立法の諸原理序説』(山下重一訳、『世界の名著 38』所収、中央公論社、1967年刊)を読めば分かりますが、功利主義の公式は、

幸福の総量=快楽の総量+苦痛(不快)の総量

です。

なので、「買い占めファンが独り占めすれば、その人は1人で100の幸福を満喫することになる」としても、「他の買えなかった99人は幸福ゼロになる」訳ではありません。「苦痛=ー快楽」なので、他の買えなかった99人は幸福がマイナスになります。ですから、100×1+(-1)×99=1がよいのか、それとも1×100=100がよいのか、の選択になります(1<100)。

さらに、買い占めファンは、「自分は誰よりも昔から熱心にこの漫画を愛している」と考えているかもしれませんが、買えなかった99人の人たちの中にも、同様に考えている人がいるかもしれないので、買い占めファン1人の幸福の量だけ100で、買えなかった99人の各人の幸福の量を1だと想定する訳にはいきません。前者も後者も、一人当たりの幸福の量は同一だとしなければなりません。

すると、こうなります。
買い占めファンが独り占めした場合。
1×1+(-1×99)=-98
一方、グッズが1人に1個ずつ購入された場合。
1×100=100
-98対100(ー98<100)になるので、「功利主義は後者をとる」になります。
これが、功利主義の考え方だと思います。

3.「選別」しなければならないのは功利主義だけではない

住吉氏は、書いています。

「私は二〇一八年の夏、札幌で深夜にとんでもない大地震に遭遇した。北海道胆振(いぶり)東部地震である。その直後からブラックアウト、北海道全域にわたる大停電が始まり、きわめて長時間の停電に困惑した。私の居場所では通電までに三九時間を要した。しかし、地域によってはそれよりももっと早く通電したところがあった。役所、放送局、病院、警察、大学などがあるエリアは比較的早く回復した。一挙に全面回復できない場合には、可及的速やかに電気を必要とする施設、つまり病院や放送局などが優先されざるを得ないことは理解できる。だがその一方で、スーパーや飲食店は電力の回復が遅れ、結果的に多くの生鮮食品をダメになってしまい、また乳業も大ダメージを受けた。
行政が限定された財、希少な財を人々に分配する時には、どの層に、なにゆえに優先的に与えるかを即座に判断しなければならない。その判断においても功利主義が用いられるのだが、最大多数の最大幸福のためにどう分配すべきかを考えることはなかなか困難である。なぜなら、人々にとっての『幸福とは何か』という問い自体が、簡単に答えの出る問題ではないからだ。そこで、むしろ逆に、最小不幸で済ませよう、という発想になる。社会のどの層の人々に犠牲を被ってもらった方がましな結果になるか、より損失が少なく、また不満の声が少なくなるか、ということを考慮するようになる。こうなると功利主義は、不利益を被る人々を選び出す理論と化す」(141-142頁)

さらに、住吉氏は、こんなことも言っています。

「功利主義は確かに博愛精神に支えられているけれども、それに基づいて限られた財をどう使うか、いかに分配するかを考える場合には、人々を比較して、どのような人々に優先的に利益を与えるべきか(その際どのような人々を後回しする、もしくは切り捨てるか)という厳しい判断を迫られる、ということである」(141頁)
「当初、人々を平等にみてできるだけ多くの人々を幸福にしようという思いから生じた功利主義が、『社会全体の不利益を最小限にしよう』という発想に切り替わった途端、不利益を負わせる人々を探し出す選別思想に転じてしまう」(143頁)
「とにかく一国の政治が多様性への寛容さを失い特定の目的に向かって突き進む時、功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わってしまう」(148頁)

その他、小見出しにも、次のような表現があります。
人々を選別しなければならない功利主義」(141頁)
生かす者と死すべき者とを選別するーかなり恐ろしい功利主義」(147頁)(太字、原文)

小見出しには、両者とも「選別」という言葉が用いられていますが、その語が使用されているのは、著者が功利主義に対して、悪意を抱いているからでしょう。選別という言葉を、没価値的もしくは中立な表現にするなら、選択です。

どうも住吉氏は、「選別」しなければならないのは、功利主義だけだと思っているらしい。
「限られた財をどのように使うか、いかに分配するかを考える場合には、人々を比較して、どのような人々に優先的に利益を与えるべきか(その際どのような人々を後回しにするか、もしくは切り捨てるか)という厳しい判断を迫られる」のは、何も功利主義だけではありません。功利主義以外の、他の倫理思想の立場、あるいは政治思想の立場も同じです。

個人の、私的な行動における、Aをなすべきか、Bをなすべきかという問題にしろ、政治経済社会的な選択において、Cの政策を採るべきか、それともDの政策を実施すべきかという問題にしろ、「選別」しなければならないのは、功利主義だけではありません。あらゆる倫理かつ政治思想的立場は、決断しなければならないのです。

ただ、功利主義は、最高善を幸福だと考えますから、AとB、CとDを選択する際は、幸福をより増加させるか、減少させるかによって、どちらを選択すべきかを判断します。選択しなければならないのは、他の思想だって同じなのです。たとえば、人格主義という倫理思想があります。人格主義思想の人たちは、人格の成長ないし陶冶に資するか否かによって、何れを採るべきかを決定しなければなりません。

功利主義には幸福計算という考え方がありますが、功利主義以外の他の思想的立場だって、複数の選択肢の中からどれかを一つを選ばなければならない場合は、〇〇計算は必要なのです。
「計算」をしなければ、AとBの、CとDの選択は不可能だからです。

また、同じ倫理・政治思想的立場の者が、実際の個別な行動や政策の問題において、別々の判断を行うことが往々にしてあります。同じX思想を奉じるa氏とb氏がいて、一方同じY思想を信じるc氏とd氏がいるとします。政府の国防政策にa氏とd氏が賛成し、b氏とc氏が反対する、ということはありえます。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。各人が行う判断が、曖昧かつ恣意的だからです。

功利主義の幸福計算の意義の一つは、選択の恣意性を避けることを目指した点にあります。それに対する批判として、幸福計算はできないとの主張があります。確かに厳密な意味での計算はできません。それは、ベンサムも認めています。

「あらゆる道徳的判断、またはあらゆる立法上、司法上の活動に先立って、このような手続きが厳密に追求されると期待されてはならない」(『原理序説』、115頁)。

しかし、何らかの客観的かつ合理的な基準がないならば、功利主義に限らず、他の思想的立場においても、「選別」は常に恣意的にならざるをえないでしょう。

その他、本節の引用文に関して、住吉氏の主張に対する疑問点が三つあります。
第一。「 行政が限定された財、希少な財を人々に分配する時には、どの層に、なにゆえに優先的に与えるかを即座に判断しなければならない。その判断においても功利主義が用いられるのだが 」

我こそは功利主義者であると自認する人は殆んどいないでしょう。それなのになぜ「行政」で実際に「功利主義が用いられる」と言えるのでしょうか。「行政」で「功利主義が用いられ」ている根拠を示して欲しいと思います。

世の中には、様々な思想的立場の人たちがいて、またそれよりも、自らが依って立つ思想を自覚していない人の方がはるかに多いでしょう。彼らは功利主義者ではないにも拘わらず、行政の従事者も含めて、人々はAかBか、CかDかを選択しなければならないのです。

第二。「 当初、人々を平等にみてできるだけ多くの人々を幸福にしようという思いから生じた功利主義が、『社会全体の不利益を最小限にしよう』という発想に切り替わった途端、不利益を負わせる人々を探し出す選別思想に転じてしまう 」

なぜ、社会全体の利益を最大限にしよう、が「『 社会全体の不利益を最小限にしよう』という発想に切り替わった途端、不利益を負わせる人々を探し出す選別思想に転じてしまう 」という理屈になるのか。理解できません。前者と後者は、「社会全体の利益を最大限に」するための、二つの方法です。

第三。「とにかく一国の政治が多様性への寛容を失い、特定の目的に向かって突き進む時、功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わってしまう」

この文の理屈も、理解不能です。ヒトラーもスターリンも毛沢東も、そして、戦前のわが国の軍国主義者も功利主義者ではありませんでしたし、「一国の政治が多様性への寛容を失い特定の目的に向かって突き進む時」は、「功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わっていまう」どころか、そのような時代には、功利主義者は発言できなくなっていることでしょう。

「限定された財、希少な財」が限られている以上、敢えて「不利益を負わせる人々を探し出」さなければならないのは、別に功利主義だけではありません。

4.「一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、犠牲は正当化できる」と功利主義者は考えるか

やはり、引用が長くなります。

「優れた頭脳と運動能力をもつ人々が、内臓に致命的な疾患をもっている。なんとか健康になってその能力を国家のために発揮してほしいのだが、移植できる健康な臓器のストックがない。そこで政府は国民を見わたし、健康な肉体を有しているがこの国にとって生かしておく価値がないと思われる犯罪者やクズ人間をリストアップした。それらの人々を生かしておいても税金の無駄遣いなので、健康な内臓を取り出して、有益な病人たちに移植しようと考えたのだ。一人から心臓、肝臓、目、腎臓、骨髄を取り出し移植すれば、五人を生きながらえさせることができる。生かされた人々は政府に感謝して、その後の人生を国家のために捧げてくれるだろう。一方で国家のために何の役もない税金の無駄遣い連中は死んでくれるし、めでたしめでたし・・・・・・ということになったらどうだろうか?

これはイギリスのジョン・ハリス(一九四五ー)という倫理学者が提起したたとえ話に私が少々味付けしたものだが、単なる絵空事と割り切れるだろうか。もちろんこの例は、医療技術が発達して人から人への臓器移植が必要なくなる時代を迎えれば無効になる話であるが、問題はそこではない。国家目的と功利主義が結びつけば、一人一人の人権をすっ飛ばして国民を選別することも肯定される点が問題なのである。

しかし、さらにこういう提案もありうるだろう。選別が差別でけしからんというならば、皇族も総理大臣も財界の大物もスーパースターも死刑囚も、とにかく国民すべてが一斉にくじを引いて、当たった人が否応もなく臓器を取り出される、というのではどうか?万人相手のくじだから差別にならない、と。たしかに表向き差別ではないが、明らかに人間が臓器の詰め合わせ、つまり物と見られているのである。それでよいのだろうか?

人を、幸福を感じる『主体』としてではなく、幸福最大化のための『手段』として捉えはじめた時に、功利主義は冷酷な選別思想へと一転する」(148-150頁)

第六章の題は「大勢の幸せのために、あなたが犠牲になって下さい一功利主義」(133頁)ですし、その頁には次のような問題が提起されています。
「Q 一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、犠牲は正当化できる?」

住吉氏が以上のように書いているのは、功利主義者ならそう考えるに違いないと思っているからでしょう。しかし、功利主義者は、そのように考えるでしょうか。彼らの中の誰かが、私たちはそのように考えると、どこかで表明しているのでしょうか?
もし功利主義者が上記の論に賛意を示しているのなら、住吉氏の批判は当たっているかもしれません。

先に、功利主義の公式は、幸福の総量=快楽の総量+苦痛の総量、だと述べました。
一人の「犯罪者」または「クズ人間」を殺して、「健康な臓器」を取り出し、五人の「有益な病人たちに移植」するとという案が、社会で採用されたとしましょう。

犠牲になる「国家のために何の益もない税金の無駄遣い連中」が受ける苦痛(殺される恐怖)の量と、「生かされる人々」の快楽(健康な体が持てる喜び)の量を比較した場合、後者の量は前者の量を常に上回っているでしょうか。もし後者の健康な体が持てる喜びの量よりも、前者の殺される恐怖の量の方が、時に上回っている場合もあるのだとしたら、「正当化できる」とは限らない、ということになります。
功利主義の公式で説明するなら、仮に、快楽の総量>苦痛の総量、が常に成り立つなら、移植は正当化できると言えますが、もし時に、快楽の総量<苦痛の総量、だったりするのなら、必ずしも正当化できるとは言えません。

ベンサムは『原理序説』の「第五章 快楽と苦痛、その種類」の中で、「慈愛の苦痛」ということを語っています。その内容は、「他の人々が受けると想像される苦痛を考えることから生み出される苦痛である。それは、好意または同情、慈悲深い感情、または社会的感情の苦痛とも名づけることができる」(122頁)、と。
一人が犠牲になるような移植に対して、「有益な病人たち」五人の中から、「慈愛の苦痛」を感じる人が現れるかもしれませんし、その可能性はあるということです。

だから、「有益な病人たち」だって、他者を殺害して自ら助かることを、皆が望むとは限りませんし、彼らの中に、そんなおぞましい移植は拒否すると言う者が出るかもしれません。そのような移植は、ある者にとっては喜びかもしれませんが、別のある者にとっては苦しみかもしれません。後者にとって、移植は、快楽<苦痛、になります。
そうすると、犠牲になる犯罪者が受ける苦痛の量と、生かされる人々が受ける快楽の量を比べた場合、後者の快楽の総量の方が、前者の苦痛の総量よりも、常に多いとは言えません。

犠牲になる一人が受ける苦痛と、助かる五人が受ける快楽が、具体的にベンサムの快楽と苦痛のリストのどれに該当するかは分かりませんし、そんなことを照合する必要もないでしょう。何れにしろ、殺される一人の苦痛<命が助かる五人の快楽、は常に成立するとは限らないということ、殺される一人の苦痛>命が助かる五人の快楽、もありうるということです。

なので、「一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、犠牲は正当化できる」とは、功利主義者は考えないだろうと思います。

5.必要な二つの証明

住吉氏は、以下の二つを論証する必要があるでしょう。
第一。功利主義以外の倫理・政治思想は、「選別」は行わない。
第二。「一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、移植は正当化できる」と、すべての功利主義者は考える、もしくは、功利主義なら、論理的にそう考えなければならない。
それらを証明しなければ、『あぶない法哲学』の第六章は、論として成立しないと思います。

蛇足ですが、「国家目的と功利主義が結びつけば、一人一人の人権をすっ飛ばして国民を選別することも肯定される点が問題なのである」という文言に対して。
私は、この文章の功利主義の箇所は、たとえばマルクス主義という言葉に置き換えた方がピッタリくると思いますが、住吉氏は、ここはやはり功利主義でなければならないとお考えになるのでしょうか。

『非武装中立論』を読む

1.総評

石橋政嗣著、『非武装中立論』(社会新書、1980年刊)を再読しました。
著者の石橋氏(1924ー2019)は、日本社会党の書記長、委員長を務めた政治家です。

まずは、総評から。
総評といっても、本書中に出てくる「社会党・総評ブロック」のそれ(日本労働組合総評議会)ではなく、「全体にわたっての批評」(広辞苑第五版)のことです。

本書の題名は、『非武装中立論』ですが、それをどのように実現するかに関する記述は極くわずかで、殆んどは憲法改正や国防力の整備または強化を阻止しなければならないということを、述べているだけです。

以下、所々引用しながら、論評しましょう。

2.安全保障に絶対はない

・「安全保障に絶対はない、あくまでも相対的なものにすぎない、われわれは、非武装中立の方が、武装同盟よりもベターだと考えるのだ」(64頁)
・「安全保障に絶対ということはないのです。こうしたら、日本は絶対に安全などというものはないのです」(76頁)
・「安全保障に絶対はないということであります」(192頁)

「安全保障に絶対はない」との記述が、いくつも出てきます。
書いた内容に、あるいは非武装中立論の正しさに自信がないのでしょうか。

それにしても、「安全保障に絶対はない」のだとしたら、非武装中立は絶対に正しいとは言えないということになりますし、武装同盟も絶対に間違っているとは言えないということになります。
非武装中立は絶対に正しいとは限らないという認識で、彼ら流の、平和への戦いを進めることができるのでしょうか。
それにしても、非武装中立論者や憲法九条教信者は、石橋氏のこのような文言に同意できるのでしょうか。

3.嘘その一

・「なぜ非武装中立なのか。(中略)まず第一の理由として、周囲を海に囲まれた日本は、自らが紛争の原因をつくらない限り、他国から侵略されるおそれはないという点を指摘したいと思います。これは歴史的にも明らかなことであり、日本の場合はほとんどすべてがこちら側の侵略によって、戦争がはじまっているのです。現在においても、わが国には、社会主義国を敵視し、米軍に基地を提供している安保条約の存在を除けば、他国の侵略を招くような要因はなにもないのであります」(64-65頁)

「日本の場合はほとんどすべてがこちら側の侵略によって、戦争がはじまっているのです」と言いますが、ほとんど=すべて、ではありません。
実際に、「自らが紛争の原因をつくらな」くても、「他国から侵略される」ことがあったのは、元寇を挙げれば良いでしょう。「これは歴史的にも明らかなことで」す。
また、「現在においても」、「自らが紛争の原因をつくらな」くても、「他国から侵略されるおそれ」があるのは、尖閣諸島における中共公船の動きを見れば、「明らかなことで」す。
その他、ロシアとの北方領土問題や韓国との竹島問題は、わが国が「自らが紛争の原因をつく」ったから起こったのでしょうか?

現在の東シナ海や南シナ海での中共の振舞いを見れば、「米軍に基地を提供している安保条約の存在を除」くことは、かえって「他国の侵略を招くような要因」となるのは明らかでしょう。

4.嘘その二

・「この三十五年間、少なくとも日本が戦争の当事国となることなくやってこれたのはいったい誰のお蔭なのか。(中略)日本社会党を中心とする護憲勢力の存在に負うところ大なのであります」(41頁)

日本社会党は、1996年1月に解散しました。しかし、それ以降も、「少なくとも日本が戦争の当事国になることなくやってこれ」ています。
とするならば、「日本が戦争の当事国になることなくやってこれたのは」、「護憲勢力の存在」はともかく、少なくとも、日本社会党とは何ら関係がなかったということになります。

それなら、「護憲勢力の存在」があれば、「日本が戦争の当事国となること」はないのでしょうか。
朝鮮戦争前韓国に、平和憲法と「護憲勢力の存在」があったなら、北朝鮮による南侵はなかったでしょうか。あるいは、イラク戦争前、同国に平和憲法と「護憲勢力の存在」があったなら、アメリカはイラクを攻撃しなかったでしょうか?

5.嘘その三

・「日本国憲法は決して一時的な感情の産物ではなかったはずです。長い、苦しい体験を経て、ようやく掴んだ日本国民の英知が生んだもの」(15頁)
・「憲法草案が誰の手によって書かれたものであろうと、生まれた憲法が、日本国民のものであることに一点の疑いもありません」(同前)
・「日本国憲法は、最初から国会で審議をし、圧倒的な多数の賛成を得て制定されているのですから」(16頁)

「憲法草案が誰の手によって書かれたものであろうと」とありますが、それが他国によって書かれたものであれば、「日本国民の英知が生んだもの」とは言えません。

「日本国憲法は、最初から国会で審議をし(以下略)」は、もし憲法制定時に日本に主権があったのなら、この文言は正しいでしょう。しかし、わが国(民)に主権がなかった時に制定された憲法です。なので、「生まれた憲法が、日本国民のもので」ない「ことには一点の疑いもありません」。

・「われわれは、(中略)この日本国憲法を、非武装・絶対平和の憲法を、世界の憲法たらしめんと野心に燃えているわけです」(77頁)

まったく夜郎自大な言説ですが、こういう発言を聞くと、戦後のいわゆる平和主義者こそ、戦前八紘一宇(全世界を一つの家にすること)を叫んだ人たちの正嫡だと思わざるをえません。

6.嘘その四

・「現実に社会主義国は増えることはあってもまだ減ったことはないのです。これからもますます増えていくことでしょう」(184頁)
・「中国が資本主義に戻るという道であります。(中略)果たしてそういうことが実際にあり得るかというと、私は絶対にないと思います」(184-185頁)
・「いつの日にか必ず中ソが手をとり合う時期が来るということになります。(中略)中ソが和解するということは、世界中の社会主義国が一つになるということです」(185頁)

これらの主張は、何れも現実によって、反証されました。
「世界中の社会主義国が一つになるということ」はありませんでしたし、わが国でも日本中の社会主義者が一つになるということもありませんでした。中ソならぬ、石橋氏が所属した社会党と共産党が、一つになるということもありませんでした。
いまや、世界に社会主義国は数か国です。この先、社会主義国は減ることはあっても、増えることはないでしょう。

三つ目の引用文の後は、次のように続きます。

「これが日本にとってどんな大きな意味をもっているか、何の説明もいらないのではないでしょうか。日本の支配階級がいちばん恐れているのはその時じゃないかと思います。できればそんな時が来ないようにしたい。来るとしても、できるだけ先に遠のかせるようにしたい、そう念じながら、手を変え品を変え手を尽くしているのじゃないかと私には思えます。また、そうなったときには、何としても権力を失わないですむように、ファッショ化の道を選ぼうとしているのではないかとも思えてならないのです」(185-186頁)

わが国の、いわゆる「支配階級」は、自らが支配階級に属しているとの自覚があるのでしょうか。中には、そのような自覚がある人もいるかもしれませんが、彼らだって世の中が自分たちの思い通りにならないと慷慨していることでしょう。そして、そのような支配階級が「ファッショ化の道を選ぼうとしている」! そのような兆候がありましたか?
全く社会認識がズレています。このような認識の人たちの集まりだったから、日本社会党は消滅せざるをえなかったのだと思います。

7.征服者に対する抵抗

・「もちろん、われわれとても、軍事力による抵抗をしないからといって、何をされても、すべてを国連に委ねて無抵抗でいるといっているわけではありません。相手の出方に応じ、軍事力によらない、種々の抵抗を試みるでろうことは必然であります。それは、デモ、ハンストから、種々のボイコット、非協力、ゼネストに至る広範なものとなるでありましょう」(70頁)

非武装中立政策を実施した結果、日本が征服国に併合された場合、「軍事力によらない、種々の抵抗」は、できるのでしょうか。「デモ、ハンストから、種々のボイコット、非協力、ゼネストに至る広範なもの」は起こるでしょうか。
それらは、できないし、起こらないでしょう。

国民の中には、侵略者に協力し、阿り、彼らの支配の下で出世しようとする者が必ず現れます。そして、協力者は非協力者の「種々の抵抗」を妨害しますし、非協力者を職場から追放し、彼らの糧道を断ちます。そのようにして、心情的に非協力者に惹かれる者も、次第に口を噤んで行きます。
なので、「デモ、ハンストから、種々のボイコット、非協力、ゼネストに至る広範なもの」は、殆んど起こりません。実際、大東亜戦争後の米占領下で、そのようなことが起こったでしょうか?起こりませんでした。

というよりも、同占領下、征服者に最も抵抗しなかった人たち、征服者に最も迎合した人たち、そして、その末裔こそ、占領憲法や東京裁判史観の信者たちでしょう。そのような者が、「相手の出方に応じ、軍事力によらない、種々の抵抗を試みるであろうことは必然であります」などと言う。笑止です。

8.「非武装中立」へのプロセス

同書「第二章 非武装中立と自衛隊」の中に、「『非武装中立』へのプロセス」との小見出しがあります。そこで、石橋氏は言っています。

「われわれの政権が、引き継いだ自衛隊と安保条約を、どのような<過程>を経て解消し、非武装と中立を実現しようとするのか、それを明らかにすることが、当面の問題としてはいちばん重要であるということを率直に認め、その道筋を明らかにしたいと思います」(80-81頁)

と述べつつ、

「自衛隊についていうならば、われわれは、最低つぎの四つの条件を勘案しながら、これを漸減したいと考えています」(81頁)

と。
その「四つの条件」とは、第一、「政権の安定度」、第二、「隊員の掌握度」、第三、「平和中立外交の進展度」、第四は、「国民世論の支持」であるという。
そして、

「縮小される自衛隊の規模や装備は、どのような段階を経るのか、最終目的としての非武装に達するのには、どの程度の期間を必要とするのかという問題ですが、それはいずれも明確ではありません。
四つの条件を勘案しながら縮減に努めるという以上、何年後にはどの程度、何年後にはゼロというように、機械的に進める案をつくるということは、明らかに矛盾することであるばかりか、それこそ現実的ではないのではないでしょうか。
重要なことは、どんなに困難であろうと、非武装を現実のものとする目標を見失うことなく、確実に前進を続ける努力だということです」(84頁)

しかし、四つの条件は、いつ整うのでしょうか。もし、それらが百年後、千年後、万年後も整わなければ、自衛隊の縮減はできないということです。
石橋氏は、ぬけぬけと書いています。「最終目的としての非武装に達するのには、どの程度の期間を必要とするのかという問題ですが、それはいずれも明確ではありません」!
いつ非武装が実現できるか不明だと言っている!
核兵器廃絶論者同様、非武装中立論者も、それがいつ実現できるのか示しえません。何れできるに違いないと言い張っているだけです。オレオレ詐欺ならぬイズレイズレ詐欺でしょう。
そして、四つの条件が整わない内に、非武装中立を掲げた日本社会党の方が、先に消滅してしまいました(笑)。
やっぱり、詐欺だったんですね。

9.専守防衛

専守防衛とは、「第二次世界大戦後の日本の防衛戦略の基本姿勢であり、防衛上の必要があっても相手国に先制攻撃を行わず、侵攻してきた敵を自国の領域において軍事力を以って撃退する方針のこと」であるらしい。

その専守防衛について、石橋氏は書いています。
「日本が本当に専守防衛に徹するというのであれば、これからの戦争は一〇〇パーセント、われわれの国土のなかで行われるのであり、(中略)だからこそ、私たちは軍事力を否定しているのです」(70-71頁)

専守防衛について、石橋氏と同じ認識に立ちながら、全く反対の結論を導き出すことは可能です。
「日本が本当に専守防衛に徹するというのであれば、これからの戦争は一〇〇パーセント、われわれの国土のなかで行われるのであ」るから、それを避けるために、専守防衛は放棄されなければならない。だからこそ、私たちは軍事力を肯定しているです、と。

石橋氏の言論の中には、このように、逆立ちさせると正論になるような主張が散見されます。

10.逆立ちさせたら正論

・「軍事力を必要だと認めれば、有事立法を認めるのは当然だということになるからです。軍隊を持ち、軍事力で対処するといいながら、有事立法の必要はないなどというのはおよそ馬鹿げた話です。有事に際して、軍隊が最も効果的に活動できるようにするために、法体系を整備すること、あるいは軍の活動を支える全国家的総動員態勢をとるために、法律を作ったり改正したりする必要があるというのは、軍備を認める限り当たり前のことなのです」(189頁)

・「軍事同盟は本来双務的なものですから、アメリカの来援を確実なものにするためには、日本もアメリカの戦争には参加するという態度を明確にしなければならないのではないかという問題」(61頁)

・「日本の軍事力だけでは国を守ることはできない。したがって、いざというときにはアメリカの来援に期待するという。それならば、日本もアメリカの戦争にたいして、日本は関係ないなどということを言うのは、絶対に許されないのだということを知らなければならないのです」(197頁)

最後の引用文の「絶対に許されない」かどうかはともかく、これらは正論でしょう。
もっとも、石橋氏は、だから軍事力の保持も、日米安保にも反対の立場なのですが。
石橋氏の、逆立ちさせたら正論な議論を読んでいると、この人は本音は武装同盟派だけれども、日本の軍事大国化?を抑制するために、自らは信じていない非武装中立論者を演じていたのではないかと、ふと思えたりするのですが。

11.暴挙?

・「一九八〇年八月一八日の、『わが国領空の警察行動を行っている航空自衛隊の迎撃戦闘機に、同日以降、空対空誘導ミサイルの実弾を装備することにした』という防衛庁の発表です。そして翌一九日には、引き続き矢田海上幕僚長も『有事即応態勢を強化するため、来月ごろから、海上自衛隊の艦艇や対潜哨戒機に実弾魚雷の積み込みを始める』と述べているのです。(中略)いままで何の不都合もなかったにも拘らず、なぜ急に実弾を装備しなければならないのでありましょう。(中略)実弾魚雷を常時搭載するという暴挙を敢て行なおうとしているということであります」(21-23頁)

普通のまともな国の軍隊なら、実弾を装備しているのは当然です。むしろ、していない方が「暴挙」ならぬ愚挙です。
日本の軍隊が実弾を装備していなかったということは、そして、「いままで何の不都合がなかった」ということは、それまではアメリカが日本を守っていたということです。つまり、実質的に、米占領下にあったということです。

非武装中立論及びその法的表現としての憲法九条は、米占領下という特殊的かつ期間限定的に、わが国で咲いた徒花です。
その支持者たちは、それを全く理解していません。

12.終わりに

・「軍事力によらず、いかなる国とも軍事同盟を締結せず、あらゆる国々と友好的な関係を確立するなかで、攻めるとか攻められるとかいうような心配のない環境をつくり出し、国の安全を確保しようという憲法の考え方を実践することこそ、まさに時代の先端を行くものであります」(40頁)

いわゆる、お花畑な主張です。
良い年をした大人の男が、真顔でこんなことを言ってるのが、信じられません。


ジャーナリズムとその敵

1.今年のノーベル平和賞

今年のノーベル平和賞は、フィリピンのマリア・レッサ氏とロシアのドミトリー・ムラトフ氏に授与されました。
前者は、インターネットメディア「ラップラー」の代表かつジャーナリストであり、後者は独立系新聞の編集長です。両者とも、独立系のジャーナリストであるらしい。
因みに、独立系とは、「政府、特定の企業や団体の後ろ盾を持たないジャーナリズム」のことだそうです。

「自由で独立し、事実に基づいたジャーナリズムは、権力の乱用と戦争への扇動から人々を守ることができる」「2人は、民主主義と恒久的な平和の前提となる、表現の自由を守るために、勇気を出して闘っている。民主主義と報道の自由が、逆境に直面する世界で、理想の実現のために立ち上がるすべてのジャーナリズムの代表だ」(「ノーベル平和賞にフィリピンとロシアの政権批判の報道関係者」)

選考委員会のベーリット・ライスアンネシェン委員長は、授与理由の中で、そのように述べたそうです。

2.もっと酷い国がある

受賞した二人の国籍は、フィリピンとロシアですが、当然疑問に思う人もあるでしょう。表現や報道の自由に関して、フィリピンやロシアよりももっと酷い国があるのではないか。

世界報道自由度ランキング」によれば、フィリピンは138位、ロシアは150位です。最下位は180位のエリトリアとのことで、ロシアからエリトリアまで29カ国あります。
その中には、中共177位、北朝鮮180位があります。

考えるべきなのは、どうしてフィリピンやロシアよりも下位の国のジャーナリストはノーベル平和賞の対象にならないのだろうか?
ということです。

3.政府から独立したジャーナリズムのある国ない国

フィリピンやロシアは、政府から独立したジャーナリズムのある国です。そして、ぎりぎり独立系ジャーナリズムも存在するのでしょう。
全体主義国には国営放送や新聞があるだけで、政府から独立したジャーナリズムも独立系ジャーナリズムもありません。180位の北朝鮮には、両者は存在しません。

「ドミトリー・ムラトフさんが編集長を務めるノーバヤ・ガゼータ紙は政権批判をひるまず続ける。ロシアの言論の最後の砦とも見られてきた。それが逆に、同紙の存在が『ロシアに言論の自由がある証し』だと、体制側の言い訳に使われることがある」(10月9日付朝日新聞)

そうかもしれません。しかし、やはり「言論の最後の砦」がない国よりも、ある国の方が増しなのです。政府から弾圧を受けていると言っても、政府から独立した、あるいは独立系ジャーナリズムのある国は、ない国よりも報道や表現の自由がある国なのです。

どうして政府から独立したジャーナリズムのない国のジャーナリストは、ノーベル平和賞の対象にならないのでしょうか。
そのような国の報道や言論機関には、表現や報道の自由はありませんし、そこで働く人たちは、国家の公式見解しか表明できません。その線から外れた報道等を行えば、失職や収容所送りになったりして、その存在が闇から闇へ葬られ、世界の知るところとはならないからでしょう。

4.自由国家・半自由国家・無自由国家

報道や表現の自由という観点から、全ての国家は、三種類に分けることができるでしょう。
普通に自由な、政府から独立したジャーナリズムのある国と、独立したジャーナリズムはあるけれども、権威主義的な政府によって恒常的に圧力を受けている国と、そもそも独立したジャーナリズムなど存在しない国です。
第一の国は自由国家であり、第二の国は半自由国家であり、第三の国は無自由国家です。
自由国家の例は、冷戦時代からの西側諸国や日本、半自由国家は戦前の日本やかつての軍事政権下の韓国や国民党政権下の台湾のような国です。一方、無自由国家の典型は、冷戦時代のソ連や中共であり、冷戦前から今日にいたる北朝鮮のような国です。

本来なら、自由国家のジャーナリズムは、半自由国家よりも無自由国家をより批判すべきです。
ところが、今日の北朝鮮のような無自由国家やそれに近い中共は社会主義国であり、自由国家のジャーナリズムやインテリは左翼に傾きがちで、社会主義国を余り批判しませんし、そのような国の見えざる報道や表現の不自由には、関心を寄せません。その結果、もっと酷い状況下にある無自由国家の、報道他に従事する人たちの中の、ごく一部の政府に批判的な人たちの反抗は知られないままである一方、いくらか増しな、その活動が知られる半自由国家のジャーナリストに脚光が当たることになります。
それが、今年のノーベル平和賞となって表れたのだと思います。

5.ジャーナリズムとその敵

自由国家や半自由国家のジャーナリズムの役割の一つは、権力を監視することです。
一方、無自由国家のジャーナリズムは政府と一体であり、彼らの監視の対象は、むしろ一般民衆です。

無自由国家の民衆の敵は、国家権力です。では、自由国家の民衆の敵も、国家権力なのでしょうか。勿論、そういう面もあります。しかし、マスゴミという言葉が象徴するように、国家権力と並んで、マスメディアも民衆の敵の一つなのです。

なぜでしょうか。
自由国家のジャーナリズムは、玉石混交で、事実に反する報道を行うメディアが少なくありません。しかも、そのようなメディアでは、進歩的イデオロギーに沿った報道が優先され、それに反する事実には、報道しない自由が発動されます。虚偽の吉田清治証言を、30年以上にもわたって隠蔽し続けた朝日新聞が、その代表例でしょう。
そのために、自由国家の民衆は、マスメディアを余り信用していません。

10月9日付朝日新聞の社説「ノーベル平和賞 民主主義を守る報道の力」の、一部を引用します。

「米国では、前大統領が意に沿わぬメディアを『民衆の敵』と非難した。さらには、根拠も示さぬまま選挙の不正を訴えるなど、指導者自らが事実を曲げる事態が生まれた。
為政者が事実を語らず、不都合な報道を封じる社会に、健全な民主主義はありえない。それは、日本を含む各国の指導者が改めて認識すべきである」

「根拠も示さぬまま選挙の不正を訴えるなど、指導者自らが事実を曲げる事態が生まれた」と言いますが、昨年11月3日に行われた大統領選挙での、不正の根拠は、バイデン氏の得票数です。過去の大統領選挙と比べても、あるいは、コロナ禍で盛り上がりを欠いた(トランプ氏の演説会が盛況だったのに、バイデン氏のそれは閑散としていた)にも拘らず、バイデン氏の得票数は異様に多い。今後選挙を積み重ねることによって、それがますます際立つになるでしょう。
そのような指摘が挙がっているのに、左派メディアはそのような声を無視する。そして、「根拠を示さぬまま選挙の不正を訴える」などと、米左派メディアの文言を鸚鵡返しに繰り返しています。

それはさておき、後段は次のように言い換えることができるでしょう。
メディアが事実を語らず、不都合な報道を封じる社会に、健全な民主主義はありえない。それは、日本を含む各国のメディアが改めて認識すべきである。

いい加減な報道が少なくない、自由国家のジャーナリズムは、命をかけて闘っている半自由国家のジャーナリストの姿勢に、もっと学ぶべきではないでしょうか。そして、国民に信頼されるような報道に務めて欲しいと思います。

日英同盟終焉とその教訓

1.総説

黒野耐氏は『戦うことを忘れた国家』(角川書店、<角川oneテーマ21>、2008年刊)に書いています。

「(一九)十七年七月に第一次世界大戦が勃発すると、日本は英仏露などの連合国側に立って参戦しましたが、彼らが求めた陸海軍主力の欧州派兵には応じることなく、大戦に忙殺されている間隙を突いて、極東における権益の拡大に奔走しました。一方、アメリカは総力戦の死命を制する兵站庫として連合国を支え、一七年一〇月になると陸軍を派遣して(最終的には二百万人の兵力を投入)、連合国の勝利に大きく貢献しました。
イギリスには、日本との同盟よりもアメリカとの提携がはるかに大きな利益となりました。そのアメリカから日本との二者択一を迫られたイギリスは、日本を切り捨てなければならなくなり、日英同盟は終焉したのです」(164頁)

なぜ日英同盟は終わったのか。黒野氏が指摘している通りでしょう。
ただ、この記述を読んで、同盟が終焉した理由を実感できない人も、少なくないのではないでしょうか。日米のある種の数字を比較することによって、それが納得できるようになると思われます。

2.投入兵力と戦死者数

上記には、アメリカの投入兵力は記述されていますが、日本のそれは書かれていません。

ウィキペディアの記述から、改めて、日米の投入兵力を見ましょう。
ウィキの「第一次世界大戦」によれば、参戦国アメリカの兵力は474万3826人に対して、日本は80万人です。日本はアメリカの六分の一ほどです。しかし、わが国の80万人の中身は、「極東における権益の拡大に奔走し」た、たとえば支那の青島や膠州湾を攻略し、あるいは南洋諸島をドイツから奪った戦いでの兵の数も含まれているでしょう。
重要なのは、極東の権益の拡大以外にどれだけ兵力を割いたかです。

一方、私は投入兵力ではなく、戦死者数に着目しました(「同盟国の義務、あるいは両大戦の教訓について」)。
それを見ると、日米の貢献の差が歴然とします。第一次世界大戦におけるアメリカの戦死者数は11万6708人であるのに対し、日本はわずかに415人です(注)!

投入兵力と戦死者数の、欧州地域と、それを含めた世界全体での内訳は不明ですが、投入兵力はともかく、戦死者数を比べれば、日米の貢献度は一目瞭然です。しかも、当時日英は同盟関係にあったのに対し、米英は同盟関係にありませんでした。その後、イギリスが日本よりもアメリカをとったのは、当然でしょう。

因みに、当時イギリス帝国に属していたとは言え、日本同様、主要な戦場となった欧州に位置しない諸国の戦死者数は、オーストラリア6万1966人、カナダ6万4976人、ニュージーランド1万8052人です。英国と同盟関係にあったわが国のそれと比べても、格段に多い。しかも、それらの国の人口は、日本よりもずっと少なかったのです。

第一次世界大戦で、日本が戦力の出し惜しみをしたのは明白です。
そのために、戦後イギリスとの同盟を断ち切られ、当時の世界のメイン・ストリームから外れました。

こういうと、中には、犠牲者をたくさん出せばよかったのかと反発する人もあるでしょう。しかし、その結果が、第二次世界大戦における戦没者三百万人!となって表れたのだと思います。

3.Too little, too late

同盟国の命運をかけた戦いにおいて、兵力および犠牲の出し惜しみしたから、同盟関係を断ち切られ、その後の戦争において、それをはるかに上回る犠牲者を出す羽目になった。それが、日英同盟終焉とその教訓だと思います。

ところが、そういう歴史の教訓がありながら、第二次大戦後の日本は相変わらず、それらの出し惜しみを続けています。
湾岸戦争(1991・1・17~2・28)において日本は、資金協力が小出しだった=遅かったこと、しかも資金協力ばかりで、人的貢献がわずかだったため、Too little, too lateと蔑まされました。また、湾岸戦争後クウェートが米紙に広告を出し、解放に貢献した国々に感謝の意を表明しましたが、その中に日本は含まれていませんでした。
要するに、第一次大戦でも日本の貢献は、Too little, too lateだったのです。

4.メイン・ストリーム

現在世界のメイン・ストリームはどこの国々なのでしょうか。
ファイブ・アイズ(米英加豪新)とEU・NATOでしょう。そして、メイン・ストリームの諸国は、今中共の人権侵害を批判していますし、その覇権国化を阻止しようとしています。
言うまでもなく、メイン・ストリームの中心はアメリカであり、そして、日米は同盟関係にあります。とするなら、わが国もメイン・ストリーム諸国と協調すべきでしょう。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の結果、わが国が得た教訓は、
第一、世界のメイン・ストリームから外れてはならない。
第二、メイン・ストリーム諸国との協調においては、Too littleであっても、Too lateであっても、ましてや、 Too little, too late であってはならない、
だと思います。

(注)
日本の戦死者数については、300人とする説もあります。
・「戦争による国別犠牲者数-人間自然科学研究所
・衛藤瀋吉他著、『国際関係論 第二版』、東京大学出版会、1989年、7頁

高市早苗氏を支持します

1.自民党はリベラルと保守の寄合所帯

一般的に自民党は右派=保守政党であり、立憲民主党や共産党は左派政党であると考えられています。しかし、実際はそう単純ではありません。

冷戦時代は社会・共産主義体制支持派=左派、自由主義体制支持派=右派でした。だから、当時自由主義体制支持のリベラルも保守も「保守」でした。社・共主義勢力に対抗するために、リベラルと保守は腕を組みました。

昭和三十年の、日本民主党と自由党の保守合同は、イデオロギー的には保守とリベラルの合同でした。それ以来、自民党はずっとリベラルと保守の雑魚寝政党です。

ところが、冷戦が終了し、社会・共産主義勢力が没落、あるいは退潮することにより、政治的左右の対立軸が移行しました。今日左派と右派の対立は、リベラル=左派対保守=右派になりました。
リベラル対保守の時代、冷戦時代とは違って、リベラルはもはや保守ではありません。

自民党は、英語ではLiberal Democratic Partyですが、それは自由世界が共産世界と対峙した冷戦時代に相応しい名称で、今日はむしろLiberal Conservative Partyと表現する方が適しているのではないでしょうか。そう言えば、「リベラル保守」を宣言した、ズレた政治学者がいましたよね(笑)。

今日、自民党のみならず、政界もマスコミ界も相変わらず冷戦的思考の中にあって、誰が敵であり、味方なのか、無自覚で、本来戦うべきリベラルと保守が同一の政党の中で同居したりしています。
自民党の同じ派閥の中でも、理念の異なるリベラル派と保守派が混在しています。派閥は横糸としての理念と、縦糸としての人間関係が絡み合って、同党は鵺的な政党になってしまっています。
それを増長しているのが、選挙に勝てるかどうか=自分が当選できるかどうかしか関心がない政治家たちの存在です。彼らは国政選挙の顔として、誰が相応しいかという視点からしか、総裁を見ていません。理念に無関心な彼らは、政治家というよりも政治屋と言うべきです。

そのような状況なので、自民党政治家だからといって、保守政治家であるとは限りません。
この度の、自民党総裁選挙も、同党が保守政党ならば、立候補しているのは保守政治家ばかりのはずです。ところが、同党はリベラルと保守の寄合所帯だから、リベラル政治家も立候補しています。

2.保守政治家は高市氏だけ

今月17日告示、29日投開票の、自民党の総裁選挙の立候補者は、岸田文雄氏、河野太郎氏、高市早苗氏、野田聖子氏の四名です。四名の内、誰が保守政治家なのでしょうか。

高市氏は、憲法改正論者ですし、女系天皇に反対していますし、原子力発電に賛成の立場ですし、歴史認識でも東京裁判史観には否定的ですし、靖国神社への参拝は肯定していますし、外国人参政権の付与には反対していますし、選択的夫婦別姓にも反対していますし、同性婚についても反対の立場です。
要するに、保守正統派です。

その主張から見て、高市氏のみが保守政治家で、後は皆リベラル政治家です。
自民党は保守政党のはずなのに、総裁選に立候補しているのは、保守派よりもリベラル派もしくは鵺派の方が多い!寄合所帯であるゆえんです。

安倍晋三氏は理念重視の政治家なので、高市氏を支持しているのだろうと思います。
自分が衆参議院選挙で当選することしか関心のない、理念なき政治家たちとは違って、安倍氏が高市氏を支援しているのは、今回の総裁選で高市氏の当選を見込んでいるわけではないかもしれません。

安倍氏の後、日替定食ならぬ年替総理の時代に突入しました。岸田氏にしろ、河野氏にしろ、石破氏にしろ、長期政権を担うような能力がないのは明らかです。どうしてそれが当人たちには分からないのでせうか?それを見越して、次または次の次の本命として、安倍氏は高市氏に期待しているのかもしれません。

私は自民党員ではありませんが、今回の同党総裁選挙について、立候補者のうち保守政治家は高市氏だけなので、勝敗にかかわりなく彼女を支持します。

猿のイコン

ことわざによれば、

猿は人間よりも、

毛が三本足りないらしい。

本物の猿ではなく、

知性と見識の点で、

猿に近い人たちを、

敢えて、猿と呼ぶならば、

猿たちが崇拝するするイコン(Icon・偶像)は・・・・

人類史上最大の猿のイコン

一ヘーゲル

戦後最大の、日本猿のイコン

一吉本隆明

「男性脳は問題解決型、女性脳は共感型」と真理の探究

1.妻のトリセツ

前回公開の記事で、自称婚活中であるとカミングアウトしましたが、最近女性の気持ち、あるいは思考を理解するために、ベストセラーの黒川伊保子編著、『妻のトリセツ』(講談社+α新書)を買って、読んでみました。
結婚している男性にとっては、膝を叩きたくなる箇所が満載なのかもしれませんが、独身の私には、書かれていることが本当のことなのかどうか、どうも実感が湧きませんでした。

ただ、「『夫にひどく厳しく、子どもやペットにはべた甘い』が母性の正体であって、男たちがロマンティックに憧れる『果てしない優しさ』が母性なんかじゃないのである。(中略)男にとって結婚の継続とは、女性の母性ゆえの攻撃から、いかに身を守るかの戦略に尽きる。(中略)家庭を、のんびりくつろぐ癒しの場所だと思ったら大間違い。それは、母親の翼の下にいた時代の家庭のことだ」(5-6頁)の箇所には、ゾッとさせられました。

なるべく、婚歴はあっても子供(孫)がいない、またペットを飼っていない女性を探した方が賢明だろうなあ。参考になりました。

2.女性は問題解決ではなく、共感を求めている

今日男女の違いを、何でもジェンダー(社会的・文化的な性差)によって説明する進歩思想が、世を風靡しています。が、それは現代の迷信でしょう。何れ、反動が来るのは必至だと思います。

それはさておき、男性脳は問題解決型で、女性脳は共感型、との主張は、男女の性差が、ジェンダーよりももっと根深い所に由来することが暗示されていますし、それゆえに、この説はジェンダー派にとっては、面白くない、否定すべき言説であることでしょう。
その原因が、社会的・文化的なのか、生物学的なのかはともかく、男性は問題解決を求め、女性は共感を求めるという仮説は、どうも真実であるように思います。

昨年発売された雑誌『月刊 Hanada』2020年11月号に掲載された、「人間だもの 村西とおるの人生相談」への質問は下記のようなものでした。

「『意見はいらない!ただ聞いてろ!』と嫁が毎日のように怒鳴ります。仕事から帰宅するなり、小一時間は嫁の愚痴を聞くことに。それなのに、なんたる言い種(ぐさ)か。九割九分は『うんうん』うなずいて、一分で『反抗期だからねえ』とつぶやいて何が悪いのか。息子が反抗期で毎日つらいのはわかるが、あんたの“地”のほうがよっぽどつらいよ。『意見はいらない!』なら地蔵に向かって話せ、と思う私は甲斐性のなしの旦那でしょうか」(172頁)

「意見はいらない!」
これを読んだ同じ頃、職場にお客様の奥方が来社されました。女性同僚に娘さんとの軋轢のことを長々話し、解決策を求めていない、ただ共感が欲しいと訴えたのを横で聞いていて、印象的でした。後で、同僚に、女性はそうなん?と聞いたら、そうだと言う。
女性は問題解決よりも、共感を求める。既婚の、賢い男性にとっては自明なことなのかもしれませんが、私には初耳でした。

男性脳は問題解決型、女性脳は共感型、というのがもし本当ならば、女性の学者や物書きだって例外ではないのかもしれません。少なくとも、男性と比べて、その傾向が強いのではないか。これまでエッセイやコラムやブログを読んできた女流について改めて考えてみると、思い当たる節がない訳ではありません。
彼女たちは、真実や真理よりも、自分の文章への共感の方が優先なのかもしれません。

3.男女と真理探究

男性は問題解決を求め、女性は共感を求める。
これは、全く当たっていないのでしょうか、それとも、当たっているけれども、学問やエッセイやブログに関しては女流も問題解決を優先するのでしょうか、それとも、それは当たっていて、学問その他の分野でも、女性にとって共感が第一で、問題解決は二の次なのでしょうか。

『妻のトリセツ』の著者は真理を追究して、男性脳は問題解決型、女性脳は共感型、との結論に達したのでしょうが、著者の意図はともかく、その説は女性よりも男性の方が真理探究に適していることを、図らずも示してしまったように思います。

ポリコレ旋風によって、当分の間、学問の世界は女性学者の数が増えるでしょうが、たいていの分野で、真理の探究を担うのは、これまで同様、今後も男性の学者だろうと思います。

折々の婚活

1.年上のひと

超もてない男いけまこは、今年殆んど彼女いない歴61年を迎えました。
「殆んど」には、見えも含まれています。
結婚相談所に入会して活動をしている訳ではありません。が、自称婚活中です。

先月20日、仕事の関係先の、訪問した時は挨拶を交わしている女子社員と会話をしていて、彼女には婚歴がなく、独身なのが判明しました。少し年下かと思いましたが、話から年上のようでした。
ひょっとしたら、彼女になって貰えるかもしれないし、結婚もできるかもしれない!
狂喜しました。

彼女も私も、老母と二人で暮らしていますし、何れ同居できそうだし、その他の条件を考えても、相性が良いように思えました。
今月2日、自身の携帯番号を記し、また彼女の番号を尋ねる内容の紙片を手渡しました。近くで見る彼女は、優しそうな顔をしていました。この人に決めた!

その夜彼女から、ショート・メールが来ました。翌日も、彼女とメールを交わしました。でも、メールでは複雑な話はできないし、もどかしいので、翌々日彼女が帰宅する時間を見計らって、メールを送りました。

「電話をしたいのですが、何時頃可能ですか。ややこしい話ではありません」

彼女の方から、間もなく電話がかかってきました。
同年輩の、独身の女性が身近にいて、寂しくないし、結婚する意思はないとのことでした。彼女は三つ年上でした。

今年二敗目。
断られることに慣れてきたせいか、泣きませんでした。

生来ぐうたらですし、先月20日から、連休中もずっと彼女のことばかりを考えていたし、酒量は増えたし、まだ後遺症は残っています。
なので、本来のブログは全然進んでおりません。

2.歩くひと

いつ頃からか、朝近くのバス停で降りて、職場の前を歩いて通勤している女性に気づきました。姿からして、四十代後半くらいに思われます。

自称婚活中の身としては、彼女のことが気になっていました。
歩く姿は背筋が真っすぐでしたが、足取りが弾んだ感じではないので、少し生活に疲れているのだろうと勝手に解釈していました。バツイチかなにかで、夫も彼氏もいないかもしれない!
少し先の、病院か保育園に勤めているのかなあ。

ある日、バスが停留所を発車した後、歩道の辺りに用事がある振りをして、歩く彼女に声をかけてみました。

「お早うございます」
「お早うございます」

「どこまでですか」
「駅まで行きます」

病院や保育園が職場ではありませんでした。もう少し先の駅まで歩いて、電車に乗るらしい。

「職場はどこですか」
「〇〇です」

〇〇は遠いですし、さらに電車を乗り継いで行かなければなりません。

「それは大変ですね」
彼女は少し笑って、歩いて行きました。

その翌日から、彼女を見なくなりました。
出勤日は不定期らしくて、それまでにも見かけない日がありましたし、靴によっては音がしなくて、前を通るのに気がつかない日もあったので、あまり気にしませんでした。

翌週、発車した後、職場の前を通り過ぎるバスを遠くから眺めていて、中に彼女の姿があるのを発見しました。近くのバス停で降りるのを止めたんだ。通勤は、電車を止め、バスだけにしたようです。

通勤経路を変える予定の前日に、偶然私が声をかけたのか、それとも変なオジサンを避けたのか。

(歩くひとは、「二敗」には含まれておりません)

なぜ私は立花隆氏に興味がないか

1.立花隆氏に興味がない

今年4月30日、急性冠症候群のため、ジャーナリストでノンフィクション作家の立花隆氏は亡くなられたそうです。
立花氏は、ベストセラー作家であり、「三万冊を読み百冊書い」たという博識の人であり、知の巨人と称せられました。私も僅かですが、『中核VS革マル』、『日本共産党の研究』や『精神と物質』を読みました。
しかし、世間で持ち上げられるほど、引かれませんでした。

当ブログの最初の記事「はじめまして」に、「(後期)清水幾太郎氏、福田恒存氏、山本夏彦氏、渡部昇一氏を特に尊敬しております」と書きましたが、私にとって、立花氏は彼らに匹敵する著者だとは思えませんでした。
氏には、余り興味がありません。なぜでしょうか。
立花氏がノンフィクション作家で、私が評論家好みだからでしょうか、あるいは、氏と政治的立場が異なっているからでしょうか。
どうもそれだけではないように思います。

2.理系的・文系的

<過去に誰も知らなかった(言っていない)、新しい真理を発見した人物が、最も偉大な知性である>
これは、いわゆる理系でも、文系でも同じでしょう。ただ、理系と文系とでは、研究の対象が違うために、表出の形態も違ったものになります。

理系の対象は自然です。そして、自然を対象とする科学や技術は日進月歩なため、常に最新が追い求められます。民主党政権時代、スーパーコンピューター開発の予算を巡る攻防の際に、蓮舫議員が「世界一になる理由は何があるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」と言ったそうですが、世界中の研究者は真理に真っ先に到達することを目指して鎬を削っています。ノーベル賞を受賞するのも、真理を最初に発見した人のみです。

一方、<新しい真理を発見した人が、最も偉大な知性である>という点は、文系も変わりません。が、その対象は人間です。人生、友情、恋愛、親子関係、戦争、平和・・・・それは、人類が有史以来ずっとやってきたことです。日の下に新しきことなしということわざがありますが、それらの事柄に関する重要な真理を、過去の人が既に、しかも明確に述べているかもしれません。そして、現在の人間が付け加えることができるのは、わずかな事かもしれません。

だから、理系にとって最先端は現在にありますが、その性質上、文系にとって最先端は過去にあります。理系は最新を指向し、文系は最古を指向する。
理系の、たとえば100年、200年前の論文は、科学史家以外は読まないでしょうが、文系の優れた過去の著書・文章は、千年前、二千年前であろうと現在でも読むに値します。

文系の偉大な知性とは、再読、三読に値する本を書いた人です。この点、音楽と同じです。音楽も今現在に作られたもの、今流行っているものが最も優れたものという訳ではありません。過去の作曲家の作品の方がはるかに優れた曲があります。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンは、現代でも大勢の人たちによって、繰り返し聴かれていますし、彼らの生み出した傑作が音楽の最先端です。

3.最新しかない

立花氏が対象としたのは、その当時に世間で話題となったり、問題であったりした事柄です。中核派と革マル派、田中角栄、脳死・・・・。氏は、いわば、常に最新を追求しています。一種、理系的です。しかし、それが故に、書かれたものが対象とともに古くなる可能性が高い。
立花氏は理系の研究者でもないのに、なぜ最新を求めるのでしょうか。

なるべく流行語を使わないようにしなければならないとの準則が、小説家にはあるようですが、それは新語は往々にして時が移れば死語になるので、文章はそこから古くなるからであるらしい。
同様に、立花氏の著書の場合も、専らその時代に流行した対象を扱ったが故に、そこから古くなっているのではないでしょうか。公刊当時はベストセラーだった著書も、時の経過とともに世間の関心が薄れざるをえません。

なぜ私は立花氏に余り興味がないのでしょうか。氏の著書は、ジャーナリスティックであって、再読はともかくも、三読、四読に耐ええないからだと思います。
ノンフィクション作家を志している人なら、立花氏の著書を何度も読み返し、研究する必要があるかもしれません。しかし、私たち一般人はそんな必要がありません。要するに、書かれたものが、三読四読に値するかどうかです。

ドイツの哲学者ショーペンハウアーは書いています。

「文士は流星・遊星・惑星というふうに分類できる。第一の者は瞬間的場当たりを提供する。みんなが空を仰いで『ほら、あれだ!』と叫んだと思うと、それっきり永遠に姿を消してしまうのである。惑星・遊星にあたる第二の者は、はるかに長持ちする。これは恒星に近いおかげで、ときには恒星以上に明るく輝き、素人からは恒星とまちがえられる。しかしとかくするうちに場所を明け渡さざるをえなくなり、その光というのも借り物にすぎず、その影響する範囲は同じ軌道を走っている仲間(同時代人)に限られる。彼らは動き、変化する。二、三年にいのちで一まわりするのが彼らの仕事なのだ。第三の者だけが不変で、天空にしっかりと座を占めており、自分の光をもっている。そして一時代のみならず、他の時代にも影響を及ぼす」(『随感録』、秋山英夫訳、白水社、8頁)

立花氏は巨星なのかもしれませんが、恒星ではなく、惑星なのだと思います。