肝腎な数字を見ない人たち

1.武漢ウィルス

対ウィルス戦争の下、記者が、「危機的な状況下でリーダーはどうあるべきなのか」を、東京工業大学教授中島岳志氏に問うている記事が、5月20日付朝日新聞に掲載されました。そこで、中島氏は答えています。

「今回目立ったリーダーに共通するのは『弱さ』。ドイツのメルケル首相と米ニューヨーク州のクオモ知事です。メルケル氏がなぜあんなに共感を得たかというと、『私も心配。私も弱い』という視点から連帯を訴えたからです。演説でも、感染者や死者の数字について『これは数字じゃない。具体的なお父さんであり、お母さんであり、おじいちゃんの話である』と語る。クオモ氏も同様です。自分たちの痛みと同じところに立っていると思える、弱さが見えるリーダーが共感されているのです」

言うまでもありませんが、「共感されている」ことと、ウィルス対策が成功していることとは別です。
私たちは、「共感されている」リーダーよりも、成功しているリーダーこそを賞賛すべきです。そして、成功しているリーダーとは、人口比で死者数をより少なく抑えている政治家のことです。
中島氏はメルケル首相とクオモ知事を挙げていますが、彼らは賞賛に値するでしょうか。

6月20日の時点での数字ですが、ドイツの総人口8300万人に対して、同国の死者数は8960人で、百万人当たりの死者数は107人です。そして、ニューヨーク州は人口1950万人に対して、死者数は24661人で、百万人当たりの死者数は1264人です。
一方、日本は人口1億2650万人に対して、死者数は935人で、百万人当たりの死者数は7人です(1)(2)。
ドイツやニューヨーク州と比べて、わが国の死者数はずっと少ない。
とするなら、私たちが賞賛すべきは、クオモ氏やメルケル氏ではなく、安倍首相でしょう。

「具体的なお父さんであり、お母さんであり、おじいちゃんの話である」とメルケル氏は演説したそうですが、そうであるからこそ、国家レベルでの、死者の数字が肝要なのです。
そして、死者数の多い国・地方は、少ない国・地方のやり方を見習う、もしくは参考にすべきなのです。その逆ではありません。

クオモ氏やメルケル氏を賞賛するのであれば、安倍氏がニューヨーク州の知事やドイツの首相だったら、もっと死者が多かっただろうことを、あるいはクオモ氏やメルケル氏が日本の首相だったらもっと死者が少なかっただろうことを論証すべきです。しかし、中島氏はそれをしていません。主張の証明となる根拠が全く示されていません。

中島氏は判断を誤っていると思います。そして、氏を初め、ある種の人たちはなぜ判断を誤るのでしょうか。死者数という肝腎な数字を無視して、問題を論じているからでしょう。
では、なぜ肝腎な数字を見ないのでしょうか。
このように見なければならないとの教条のようなものがあって、それを通してしか眺めることができないからだと思います。
左派学者の「世間」には反安倍イデオロギーという教条が蔓延していて、氏もその影響下にあるからではないでしょうか。

2.冷戦時代

冷戦時代には、日本の主流派メディアにしろ、知識人世界にしろ、社会・共産主義=善、自由・資本主義=悪が当然のこととされていました。
今月五日横田めぐみさんの父親滋さんは亡くなられましたが、北朝鮮が拉致などするはずがないと言っていた人たちも、社会・共産主義=善という信仰の中にあった人たちです。

ドイツのベルリンでは、人々は東から西へ亡命しているのに、隣の朝鮮半島やベトナムでは人々は北から南へ逃げているのに、左派メディアや知識人は社会・共産主義体制は、自由・資本主義体制よりも優れていると信じていましたし、そのような報道や言論を行っていました。
彼らは、人々は東から西へ、北から南へ逃れているという肝腎な数字を見ませんでした。

3.大東亜戦争

私は、大東亜戦争は連合国=善、日本=悪という見方には与しません。連合国にしろ日本にしろ、自国の権益のために戦って、前者が強かったから勝ち、後者は弱かったから負けたにすぎないと考えます。

しかし一方、当時のわが国の指導者に対しては不思議に思わざるをえません。
どうして彼らは、日米の軍事力や経済力の差にも拘らず、戦争を開始したのでしょうか。彼らも、肝腎な数字を見ない人たちだったのでしょうか。

そうかもしれませんし、あるいは国内において、ある種の問題あるいはゴタゴタがあって、それが彼らの目を塞いで、肝腎な数字どころではなかったのかもしれません。

(1)https://www.worldometers.info/coronavirus/
(2)https://news.yahoo.co.jp/byline/abekasumi/20200620-00184177/

生き物に対する差別

人間は生き物に対して、実に差別的です。

その外観や仕草のゆえに好まれるものもあれば、嫌われるものもあります。
前者の例が、リス、ウサギ、ホタルなどで、後者の例は、ヘビ、クモ、カラスなどです。

個体によって好かれたり嫌われたりではなく、種の全てが好かれたり嫌われたりです。
人間に好かれないカラスは、心の中で叫んでいるかもしれません。
Black creatures’ lives matter.

ある種の生き物を嫌うのは、悪いことでしょうか。
私たちは、嫌いな生き物に対する差別意識を変えたり、なくしたりできるのでしょうか。

【関連記事です】
差別意識はなくならない

韓国の反日 原因は日本の善政

韓国併合における大日本帝国の統治は、韓国自身の政府によるそれよりも良かった。

その間産業も発展しましたし、人口も増えましたし、教育も普及しました。

そのような不都合な真実を、韓国民は薄々感じているのではないでしょうか。

そして、感じているけれども、表立って認めることができない。

格下の日本が、格上の韓国に善政を施したはずがない。

そのような心理的屈折が、韓国の反日=逆ギレとなって表れているのだと思います。

【追記1】
一方、台湾は自分たちの方が、日本よりも格上だとは考えていなかった。
旧植民地は旧宗主国に対して親しみの感情を持つ傾向がある、というのは不思議ではありますが、台湾の日本に対する意識も、そのようなものだろうと思われます。

【追記2】
<韓国の反日 もう一つの原因>については、「E・ルトワック氏の『韓国が反日の理由』」に書きました。

日韓どちらが加害者でどちらが被害者か

1.玉川徹氏の発言

日本と韓国の間には、歴史問題を巡って、認識の相違とそれを原因とする軋轢があるのは周知の事実です。
昨年9月11日に放送されたテレビ朝日系の番組で、コメンテーターの玉川徹氏は発言したそうです。

「加害と被害の関係があった場合には、被害者が納得するまで謝るしかないと思います。そういう態度をドイツは取っています」(1)

「被害者が納得するまで」と言いますが、どういう要件を満たせば、被害者たる韓国が「納得」したことになるのでしょうか。
韓国民の過半数が承認すれば良いのでしょうか、あるいは殆ど全ての同国人が承認しなければならないのでしょうか、それとも別の要件があるのでしょうか。

日本の謝罪に対して、韓国人のほほ全てが納得するようなことはあるでしょうか。そんなことはありえないでしょう。そして、そのような中で、同国人の殆どが納得するまで謝るしかないのだとしたら、日本は永久に韓国に謝罪する必要があるということになります。
永久に謝罪を要求する韓国と、謝罪を求められる日本と。そのような関係の二国が和解することは、永遠に不可能でしょう。

ではなぜ玉川氏は、「加害と被害の関係があった場合には、被害者が納得するまで謝るしかない」などと言うのでしょうか。
両国の和解を望んでいないから、と解釈するのが自然でしょう。
氏は、日韓の和解を妨害しているのです。

2.日韓のどちらが被害者か

国際関係で「加害と被害の関係があった場合には」、各々の国民の賛否の多寡に拘わらず、政府が承認すれば「納得」したことになります。

「国際法では戦争や支配など不幸な過去は条約や協定で清算し、その後は内政不干渉で歴史認識は外交に持ち出さないのが原則だ」(2)

日本と韓国の間で1965年日韓基本条約と日韓請求権協定が結ばれ、後者には日韓双方の請求権の問題は「完全かつ最終的に解決されたことを確認する」との文言があります。
ということは、被害者たる韓国は納得したということです。

1965年は、終戦から二十年後のことで、当時日本が韓国を併合していた訳ではありませんし、後者は独立国でした。そして、日韓基本条約はアメリカが公然と調停工作を行ったとのことですし、ということは米国の監視もあったということです。

むしろ基本条約や請求権協定が結ばれた後で、しかも何十年も経ってから問題が蒸し返された場合、蒸し返した側が加害者であり、蒸し返された側は被害者なのです。
いわゆる徴用工、そして慰安婦の問題は、韓国が加害者で、日本は被害者なのです。

玉川氏の論理に従うなら、被害者たる日本が納得するまで韓国は謝るしかない、ということになります。

(1)https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/1545180/
(2)西岡力、『Hanada』、2019年3月号、46-7頁

どうして韓国併合を反省しなければいけないの

1.先進国の植民地支配

古代ギリシアやローマには奴隷制度がありました。では、現在のギリシア国民やイタリア政府はそれを反省すべきでしょうか。
奴隷制は当時の常識であり、二千年あるいはそれ以上前のことを反省するのは無意味です。

さて、私たち日本人はかつての植民地支配、たとえば1910年からの韓国併合を反省すべきでしょうか。
ほんの百十年ほど前のことだとはいえ、その当時の先進国は皆植民地を持っていました。イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、ロシア、アメリカ然りです。
それが世界標準でした。

2.アジア・アフリカ諸国の独立はほんの数十年前のこと

大東亜戦争の結果、多くのアジア諸国は先進国の植民地支配を脱し、独立しました。
一方、アフリカ諸国が独立したのは、もう少し後でした。かの国々が競って独立した1960年は「アフリカの年」と呼ばれていますが、それはわずか六十年ほど前のことです。

3.無意味な反省

ほんの七十五年前や六十年前には、先進国による植民地支配は当たり前のことだったのです。その時代に当然とされていたことを、今日の私たちが道義的に非難することに何の意味があるでしょうか。

私たちが韓国併合を反省するのは無意味です。
そんな無意味なことをする暇があるのなら、現在の私たちがやっていて、しかも百年後、千年後の人たちから道徳的に責められるような、そのような行為を改めた方が良いと思います。
そうすれば、私たちは後世の人たちからきっと称賛されるに違いありません。

けれども、百年後、千年後の人たちが、どのような価値基準を持っているのか、私たちには知りえません。現在の私たちの行為のうち、どのようなそれが後世の人たちから道義的に指弾されるのかは分かりません。

だから、今の私たちが、千年前、百年前の人たちを倫理的に非難することだって無意味なのです。

原因が分からなくても勝ちは勝ち 対ウィルス戦争

1.サンデー・ジャポン

4月26日のテレビ番組「サンデー・ジャポン」で、元衆議院議員の杉村太蔵氏が、この度の武漢ウイルスに関して、死者の数が少ないのを根拠に、「日本は圧倒的に勝(まさ)っている」と主張したのに対し、元経産省官僚の岸博幸氏は「全体を考えると死亡者だけじゃなくて感染者数の増加を抑えられているかどうかとか、いろんな要因を考える必要がありますので(中略)死亡者数が少ない本当の原因が分からない中では、日本が勝っているというのは正直言って訳が分かんない」と反論したそうです(1)(2)。

「死亡者数が少ない本当の原因が分からな」ければ、「勝っている」ことにはならないのでしょうか。私には岸氏の主張の方が「訳が分かんない」。

2.勝敗の結果と原因

大東亜戦争で日本がアメリカに敗れた「本当の原因」は何だったのでしょうか。それは分かっているのでしょうか。あるいは、ベトナム戦争でアメリカが北(共産)ベトナムに敗れた原因は何だったのでしょうか。それは分かっているのでしょうか。
それらに関しては、今もって論者あるいは識者によって解釈の違いがあるでしょう。

しかし、大東亜戦争で日本が、ベトナム戦争でアメリカが敗北したのは明らかです。敗北の根本因が説明できないからと言って、前者で日本が、後者でアメリカが負けていないことにはなりません。

戦争は、負けた原因が分からないからと言って、負けていないことにはなりませんし、勝った原因が明確ではないからと言って、勝っていないことにはなりません。

3.原因・条件が不明でも勝ちは勝ち

この点、対ウィルス戦争でも同じです。
この戦争の勝敗の指標は死者数です。そして、死者が多い国は負けている国であり、少ない国は勝っている国です。他国と比較して、人口比で日本の死者数は少ないのです(3)。

日本の死者数が少ない理由については、衛生観念が高いとか、靴を脱いで家に上がるとかの要因が指摘されますが、死者が少ない原因、あるいはどのような条件が幸いしてわが国の死者が少ないのかが明確ではないからといって、この戦争に勝っていないことにはなりません。勝ちは勝ちです。

大東亜戦争で、日本が敗れた原因が明らかではないとか、わが国のある種の文化的な諸条件が不利だった、あるいは災いしたからということで、戦争指導者の情状を酌量するような言説を見たことがありますか?殆どが、負けは負けと斬り捨てるような議論ばかりでしょう。

4.なぜ難癖をつけるのか

人口比で日本の死者数が少ないのは明らかなのに、安倍首相を過剰に批判する人たちは、結局のところ、対ウィルス戦争における政府・専門家会議の功績を、認めたくないのだと思います。

安倍氏を批判する、とりわけ、政治家や元政治家、官僚たちには、次の評言があてはまるでしょう。
「功績に対する態度は二とおりある。自分がなにがしかの功績をもつか、あるいはどういう功績も認めないか、どちらかなのだ。あとのほうがずっと楽だから、たいがいこの態度がえらばれる」(4)

(1)https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200426-04260037-sph-soci
(2)https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/04/26/kiji/20200426s00041000142000c.html
(3)https://www.worldometers.info/coronavirus/
(4)A・ショーペンハウアー著、秋山英夫訳、『随感録』、白水社、21頁

【追記】
5月6日付朝日新聞に、「対コロナ 『戦争』の例えは適切か」と題する社説が掲載されました。
武漢ウイルスの対処について、朝日は戦争に例えるのは適切ではないと言いたいらしい。
同紙が「適切ではない」と言えば言うほどますます戦争に例えたくなります(笑)。

新型コロナウィルスという名称は適切か

1.新型コロナウィルス

現在世界を席捲している病気の原因を、世間では新型コロナウィルスと呼んでいます。しかし、その名称は適切でしょうか。
数年後あるいは数十年後、新たなコロナウィルスを原因とする感染症が発生した場合、その時もまたその病原体を新型コロナウィルスと呼ぶのでしょうか。

新型コロナウィルスという名称は、そう遠くない将来に、別のコロナウィルスが発生するかもしれないという想像力を欠いているように思います。
SARS(重症急性呼吸器症候群)が発生したのは2002年であり、MERS(中東呼吸器症候群)は2012年で、その間十年です。また、MERSから新型コロナウィルスの発生まで七年です。

2.中国ウィルス

トランプ米大統領はこの度の新型コロナウィルスを「中国ウィルス」と呼びました。しかし、それは適切だとは言えません。
というのは、SARSも中国で発生しましたし、将来発生するかもしれないコロナウィルスも同国が発生源かもしれないからです。

そうすると、SARSのウィルスも、今回の新型コロナウィルスも、次回のも全部中国ウィルスと呼ばなければならなくなります。
各々のウィルスを区別するのが困難です。

3.習近平ウィルス

感染の拡大を防ぐために避けなければならない密閉、密集、密接(他人と近い距離で会話や発声をする)の三密と現在の中華人民共和国主席習近平氏の名前を掛けた、集近閉ウィルスという秀逸な名称が生まれましたが、この度のコロナウィルスを習近平ウィルスと呼ぶのは、あながち間違っているとは言えません。

習近平氏が今後いつまで国家主席にして、共産党総書記の地位にとどまっているかは分かりませんが、次の新型コロナウィルスが発生する頃は、習氏は政権を離れている可能性が高いでしょう。
もしその時の中国のリーダーの名前が蔡英文だったとしましょう。だとしたら、その時発生したコロナウィルスは蔡英文ウィルスと呼べばいい。
そうすれば、今回と次回のウィルスの区別が容易にできます。

4.武漢ウィルス

しかし、やはり武漢ウィルスと呼ぶのが適当だと思います。
次回に発生したのが武漢市以外の、中国のどこかであったとしても、〇〇ウィルスと呼べば、今回のと区別できるからです。

当然、以下のような反論も予想されます。
次の新型コロナウィルス感染症も武漢市で発生した場合はどうするのかと。
その場合は、仕方がないので、今回のと次回のとを区別するために、前者は第一次武漢事変、いやウィルス、後者は第二次武漢ウィルスと呼ぶのが良いだろうと思います。

5.ポリティカル・コレクトネス

「ヒトの新興感染症の名称に地名は使えないというルールがあるからです。今回の新型コロナ流行で決めたのではなく、2015年には決まっていました。その一因は、中東呼吸器症候群(MERS)という病名によって中東地域に差別や経済的な悪影響が生じたからです」(注)

上記はポリティカル・コレクトネスの影響のためだろうと思います。一方、スペイン風邪という言葉は氾濫しているのに。
先に述べたように、新型コロナウィルスという名称はどうかと思います。それを良しとする人の見識を疑わざるをえません。
それに、勝手が悪いから、誰もSARS-CoV-2は使いませんし。

新しい合理的な名称案が生まれるまでは、私は武漢ウィルスで行こうと思っています。

(注)https://www.asahi.com/articles/ASN367HMKN36UBQU007.html

【追記】
「ルールの不遡及の原則」というものが厳しく守られているようです。
「ヒトの新興感染症の名称に地名は使えないというルール」の設定以前の感染症には、それは適用されていません。スペイン風邪にしろ、中東呼吸器症候群にしろ平気で使用されています。
ルールの不遡及の原則派の人たちは、法の不遡及の原則に反して行われた東京裁判に関しても、疑義を表明して欲しいと思います(2020・5・17)

道徳の不遡及の原則のすすめ

1.法の不遡及の原則とは

法の不遡及の原則というのがあります。
ウィキペディアから引用しましょう。

「法令は施行と同時にその効力を発揮するが、原則として将来に向かって適用され法令施行後の出来事に限り効力が及ぶのであり、過去の出来事には適用されない。これを法令不遡及の原則という」(1)

もっと分りやすい説明を引きます。

「新たに制定された法律(事後法)は、その制定以前にさかのぼって適用してはならない、という原則。法律不遡及(そきゅう)の原則ともいう」(2)

日本国憲法にも、当然その規定があります。

「第三九条 【刑罰法規の不遡及、二重刑罰の禁止】
何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任は問われない、又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない」

この原則は、文明国であればあるほど厳格に実施され、非文明国であればあるほど、法的な規定がないか、あっても反故にされていることでしょう。

2.道徳の不遡及の原則とは

文明国では、法の不遡及の原則は確立されています。逆に言うなら、それが確立されていない国は文明国ではありません。
そして、文明国では、それに加えて、道徳(倫理)の不遡及の原則というものも確立される必要があるでしょう。

道徳の不遡及の原則とは、次のようなものです。
何人も、実行の時に倫理に反すると見做されなかった行為については、道義的な責任は問われない、言い換えるなら、社会通念上、その時代に非道徳的だとされていなかった行為または制度を、後の時代に生まれた価値観に基づいて道義的に非難してはならない、という原則です。
現在の価値観によって、過去を裁いてはなりません。

たとえば、それが不当だとは考えられていなかった時代の戦争や、大国の小国に対する侵略や吸収合併。それが当たり前だと考えられていた時代の奴隷制、大航海時代以来の西洋諸国による中南米、アフリカ、アジアに対する植民地支配。

たとえ今日から見て、過去に行われていたことが如何に非道徳的あるいは理不尽に思われるにしても、過去の問題はその時代の道徳観によってのみ評価すべきです。現代の私たちが、現在の倫理観に基づいて、過去を断罪してはなりません。

奴隷制が当然だった時代、ある偉大な思想家がそれを道徳的に非難する発言を行っていたとしても、それは彼に先見の明があったことを意味するだけで、世間の大勢は蒙昧主義の中にあった訳ですから、偉人の視点でもって、現在の私たちが過去の行為や制度を非難することはできません。

3.なぜ道徳の不遡及の原則が必要なのか

では、なぜ道徳の不遡及の原則が確立される必要があるのでしょうか。
この原則を無視することによって、国内的および国際的な紛争が、最悪の場合には流血の事態の発生が予想されるからです。

(1)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%B8%8D%E9%81%A1%E5%8F%8A
(2)https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8B%E5%BE%8C%E6%B3%95%E3%81%AE%E7%A6%81%E6%AD%A2-73110

日韓和解のためには何が必要か

韓国併合について、わが国の反日派と韓国は、相変わらず反省せよ、謝罪せよと言い募っています。

2010年5月10日に行われたという「『韓国併合』100年日韓知識人共同声明」には、次のような文言があります。

「私たちは、韓国併合の過程がいかなるものであったか、『韓国併合条約』をどのように考えるべきかについて、日韓両国の政府と国民が共同の認識を確認することが重要であると考える。この問題こそが両民族の間の歴史問題の核心であり、われわれの和解と協力のための基本である」

上の記述で分かりますが、この共同声明に署名した知識人、のみならずわが国の反日派も、韓国もある前提に立っています。

第一。一つの正しい歴史認識というものがあると信じていること。
第二。その歴史認識を、日韓両国民に、とりわけ日本国民に強制するのは、日韓の「和解と協力のため」に必要であると信じていること、です。
彼らは、両国の歴史認識の共有は可能であるし、共有を実現しなければならないと考えています。

第一、「一つの正しい歴史認識」というものは、あるのでしょうか。
終戦直後にわが国で首相を務めた吉田茂にしろ、六十年安保の時に首相だった岸信介にしろ、在任中の評判は散々でした。が、その後評価は引っ繰り返りました。現在の安倍晋三首相だって、将来は不世出の総理大臣と評されることになるでしょう。

一方の韓国ではどうでしょうか。
ウィキペディアの「大統領(大韓民国)」の項には、次のような記述があります。

「韓国の歴代大統領は、在任中に糾弾を受けて亡命を余儀なくされるか暗殺されたり、退任後に自身や身内が刑事手続きによって逮捕・収監・起訴の上で有罪判決を受けたり、不正追及を苦に自殺をしたりして、不幸な末路を迎える例が極めて多い」

韓国で大統領制が始まったのは戦後です。もう古代や中世のような野蛮な時代ではないはずなのに、歴代大統領に関する評価が、在任初期と退任後で一変しています。現在の文在寅大統領より前の、向こう三代の大統領朴槿恵、李明博、盧武鉉の各氏でさえ、そうです。
このような国とわが国との間に、固定的な、歴史上の「共同の認識」を求めることができるのでしょうか。

甲申政変を主導した金玉均や韓国併合条約の時に韓国側総理大臣だった李完用に対する評価は、現在の韓国では一般的に芳しくないようですが、中には彼らを評価する人もありますし、伊藤博文を暗殺した安重根だって今後の評価は分かりません。

すなわち、日本のみならず韓国においても、ある人物なり事件なりの歴史認識及び評価は時代によって変動しえます。
一つの正しい歴史認識というものはありません。

第二、「一つの正しい歴史認識」という仮構を日本国民に強要するのは合理的な行為でしょうか。
「共同の認識」は、今現在の反日派等が正しいと信じている「事実」にすぎません。将来、新たな事実が発見されたり、新しい見方が生まれたりする可能性はあります。そうすると、それは「かつて正しいとされた歴史認識」ということになるでしょう。

ある時代に日韓両国が「共同の認識を確認」したとしましょう。すると次のようなことが起こりえます。
Aという時代にはaという歴史が正しいとされ、両国の間でそれに基づいて「共同の認識を確認」することが行われ、Bという時代にはbという歴史が正しいとされ、両国の間でそれに基づいて「共同の認識を確認」することが行われ、Cという時代にはcという・・・・。
正しい歴史認識というものを強制される日本国民からすれば、どれが本当に正しい歴史なのかと反問したくなるのは当然です。

この声明では「共通の歴史認識」という表現も使われていますが、そもそも、それを追求しようとするから、両国の認識の相違が明確になって、それが原因となって、両者の対立が発生、あるいは拡大するのです。最初からそれを求めなければ、つまり、所詮歴史の共有など無理だと悟れば、両者の間に対立は生じません。
日本にしろ韓国にしろ、自国内の歴史学者や国民の間でさえ歴史認識の共有ができないのです。だから、両国間でそれを行おうとすること自体が無理なのです。勿論日本にも韓国にも歴史教科書はありますが、それは現在正しいとされている学説に基づいて記述されているだけの、「一つの正しい、かのような歴史認識」にすぎません。

「一つの正しい宗教(宗派、神)」というものがあり、それを他者に強制するのは正当であると考えるから、宗教戦争が起こるのです。
「一つの正しい○」という観念を卒業することによって、他者の宗教に寛容になることによって、十七世紀のヨーロッパに平和がおとずれたのです。

日韓の間に、「一つの正しい歴史認識」というものがあり、それを、とりわけわが国民に強要するのは正しいと考える人たちは、ウェストファリア条約(1648年)以前の思考の中にあるのだと思います。

高坂正堯氏は『国際政治』(中公新書)の中で、「国際社会にはいくつもの正義がある」(19頁)と書きましたが、各々の国における歴史認識及び評価は時代によって変わりうるし、歴史にはいくつもの真実がある、と理解すべきです。それが平和への道です。

日本と韓国の和解のためには何が必要でしょうか。
第一。歴史の共有など求めないこと。

日韓基本条約及び同請求権協定が結ばれたのは戦後二十年が経過した1965年です。当然韓国は独立国でした。だから、
第二。独立国同士で結ばれた条約は遵守すべきこと。

この二つを守ることによってのみ、両国は友好関係を築きえます。この二つを認めない限り、日本と韓国の間の不仲は永遠に続くでしょう。