それでも核兵器は廃絶できない

1.廃絶への動き

核兵器が桁外れの破壊力を持つ兵器であるのは誰も否定しないだろう。それが一度使用されたら莫大な数の死傷者が出るのは必至である。それは1945年の広島、長崎で証明された。
それなのに第二次大戦後、米ソ両超大国は反目し、核兵器の生産、配備に熱中した。もし冷戦時代東西両陣営が核兵器を撃ち合っていたら、人類は滅亡していたかもしれない。幸運にも冷戦で核兵器は使用されなかったけれども、今後使用されないという保証はない。広島や長崎から七十年以上が経過し、核兵器の威力は更に増大しているし、性能も向上している。
2010年8月5日、前国連事務総長潘基文氏は長崎で演説を行った。「このような兵器が二度と使用されないようにする、確実、かつ唯一の方法はそれらをすべて廃絶することです」(1)。
その前年の2009年4月5日、オバマ前大統領はプラハで「米国が核兵器のない平和で安全な世界を追求すると約束します」(2)と演説した。プラハ演説である。2016年5月27日、同氏は米国の現職の大統領として初めて広島の被爆地を訪れ、「核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません」(3)と改めて述べた。
そして、2017年7月7日には国連で、核兵器禁止条約が採択された。同年10月には、「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)がノーベル平和賞を受賞した。
世界は核兵器廃絶の方向へむかっているのだろうか。

2.現実の世界

現実の世界を見てみよう。
国際社会の非難にも拘らず、核実験やミサイル発射を繰り返す国、2010年の天安沈没事件や延坪島砲撃事件に見られるように、対外冒険主義的行動を採る北朝鮮のような国があって、米国が核兵器を廃棄できるだろうか。逆もまた真なりである。米国から睨まれていて、北朝鮮が核兵器を放棄できるだろうか。
たとえ経済的に重要なパートナーだとしても、チベットやウイグルを侵略し続け、近年は南シナ海や東シナ海へ触手を伸ばそうとしている独裁主義国家中共を目の前にして米国が核を廃棄できるだろうか。一方、先進国に領土を蚕食された歴史を持つ支那が核を放棄するだろうか。
朝米露支印パの関係を見ても、何れかの国が一方的に核を捨て去ることなど考えられない。
廃絶論者たちの希いにも拘らず、少し長い目で見れば、核保有国は徐々に増え続けている。1970年3月に発効した核拡散防止条約(NPT)で核兵器保有を認められたのは、米露英仏支の五カ国だけだが、その後インド、パキスタン、イスラエル(非公表)、そして北朝鮮が保有国となっている。また、最近ではイランがそれを目指しているようである。

3.もしアメリカという国が無くなったら

英仏以外の、NATOに加盟しているけれども核保有はしていない欧州諸国や日韓豪などは、現在は非核保有国として数えられている。しかし、純然たる非核保有国だと考えるべきだろうか。
破れているか、いないかの詮議は別として、これらの国は米国の核の傘の下にあるし、実質的に米国が核戦力を肩代わりしているわけだから、非核保有国というよりも、間接的な保有国だと見なすべきではないだろうか。
もし地上からアメリカという国が無くなったらと仮定することは、核兵器の問題を考える上で有意義だろう。その場合、世界にどのような動きが生じるだろうか。米国と友好的だった国、敵対的だった国の双方が、核の保有化またはその強化を開始するだろう。
米国から頭を押さえつけられていた国は、自国の思い通りに核政策を進めるだろう。一方、友好的だった国は、それを見て危機感を抱き、核の保有、強化を検討するだろう。
米国なしにロシアと相対することになる英仏は、当然ながら核戦力を拡大するだろう。そして、両国が安全を保証しなければ(できないだろう)、他のNATO加盟諸国の中から、さらにNATO非加盟国の中からも(たとえば、スイス、スウェーデン、オーストリア)、核保有への意志を示す国が出てくるだろう。域内に英仏のような、核武装した同盟国を持たない日韓台豪、隣から米国がいなくなる加はなおさらである。
保有の能力があるにも拘らず、米国が核の傘を差しかけているために不保持でいられるという国は、米国が消失したら、あるいは同国力が著しく低下して他国を守る余力がなくなった場合も、核武装化に着手する公算が大である。だから、それらの国は、非核保有国というよりも、潜在的な保有国だと認識すべきだろう(その是非はともかく、アメリカという国があるから、核保有国は現状の九カ国だけで済んでいるのである)。
永久に核保有はしないし、有事に際しても他国の核に頼らないという国のみを、非核保有国として数えるべきである。さてさて、純粋な非核保有国は増加しているだろうか。潜在的な保有国は減少しているだろうか(注)。

(注)
「唯一の超大国アメリカ」から、「多極化した世界」へ時代は推移しつつあると指摘される。多極化した世界とは、米国が消失した世界へ一歩近づくことを、つまり、核保有国がさらに増加することを意味するだろう。

4.なぜ捨て去ることはできないのか

核兵器が使用されたら多大な死傷者が出るのは、廃絶論者のみならず、各国の指導者たちだって理解しているだろう。それなのに、なぜ彼らは核兵器に頼らないという選択ができないのだろうか。
どのような国であれ、国家には守るべき様々な価値がある。どの国にも共通する価値としては、国民の生命や財産、主権や領土、経済的利益、国語や文化や歴史などがある。普通の民主主義国なら、それに加えて、自由、民主主義、人権や法の支配など。一方、独裁主義国ならば、体制、一党支配やイデオロギーなどの価値が優先される。
兵器を、あるいはその究極の形としての核を放棄するとは、それらの価値を放棄すること、もしくは他国に譲り渡すことを意味する。
たとえば、中共は現在尖閣諸島を狙っているのは周知の事実である。もしわが国に、在日米軍も日米安保も米国の核の傘もなかったとしたらどうだろうか。日本は非核武装の自衛隊だけで尖閣諸島を守ることができるだろうか。
もし冷戦時代、西側諸国が一方的に核を投げ捨てていたら、その後世界はどうなっていただろうか。少なからぬ国がさらに共産化していただろうし、西側諸国の自由、民主主義等は後退を余儀なくされていただろう。冷戦はいまだ終了せず、旧東側諸国でも自由や民主主義は実現していないだろう。
戦後米国が核の優位を保ち、共産主義国と対峙し、時に共産勢力と干戈を交えたがゆえに、自由や民主主義といった価値が、西側では守られたし、東側では日の目を見たのである。
北朝鮮は核保有国たらんと、その開発、保有にやっきになっている。保有国同士は全面戦争はしないし、他国から侵略されることもないとの歴史の教訓に学んでいるためだろう。同国にとって、体制の維持が至高の価値であって、そのために核が必要とされるのだろう。
各国の指導者たちが、核兵器を擲つという選択が、あるいは核保有国と同盟関係を断つという選択ができないのは、各国にはそれぞれ守るべき諸価値があり、それらをかなぐり捨てることができないからである。最も効果的に国家の価値を守りうる兵器、それが核なのである(だからそれは、「必要悪」であるにしても、「絶対悪」ではありえない)。
核兵器廃絶論者たちは、直接的もしくは間接的に核を所有しなくても、国家の諸価値を保持しうると信じているようである。しかし、どうやって?目の前ではアメリカの核の傘の下にあってさえ(破れ傘だから?)、尖閣諸島は危うい状況なのに。
核を保有しなくても、国家の価値を維持しうるという、そのような方法を彼らは示すべきなのである。それを明らかにすれば、各国の指導者たちだって、真剣に核の廃棄について考えるだろう。

5.核兵器禁止条約の運命

昨年、核兵器の開発、生産、保有、使用などを禁じる核兵器禁止条約が採択された。核廃絶論者たちは、さらに多数の国が参加することを、日本も参加することを、そして全ての核保有国が参加することを望んでいるだろう。
しかし、「核を保有しなくても、国家の価値を維持しうるという、そのような方法」が発明されたわけではない。そういう状況で、保有国や潜在的保有国が参加をすれば、条約の実効性が疑問視されるような事態が出来するだけだろう。
国家の価値が奪われる原因と核兵器の関係は、病気と薬の関係と同じである。病気があるから薬が必要とされるのである。薬をなくしても、病気がなくなるわけではない。薬の製造を止めても病気が発生すれば、再び薬は作られるだろう。
さて、近い将来全ての国連加盟国が核兵器禁止条約に参加したとしよう。領土問題を抱える近隣同士のAB二カ国の間で、武力衝突が発生し、通常兵器で不利な戦いを強いられたA国が、その後秘密裏に核兵器開発を行い、ある日保有しているのが発覚したとしたらどうだろうか。どこの国がどのようにしてAに核を放棄させるのだろうか。経済制裁ごときでは、保有を断念させることはできないだろう。放棄させられなければ、条約の効力が危ぶまれることになる。だから、放棄させなければならない。が、その場合、非保有国が保有国に対し圧力を加えなければならないことになる。そんなことが可能だろうか。
国際社会は往々にしてそうなのだが、条約に違反して核保有を行ったA国に味方する国も現れるだろう。加盟諸国が圧力を加えようとして、逆にAとその友好国から恫喝されることになるかもしれない。そういう事態に陥った場合、国際社会はどう対処するのだろうか。うまく処置できなければB国も核開発を進め・・・・核ドミノは不可避だろう。
現在の保有国のみ禁止条約に参加しない場合の、次のような想定も可能だろう。条約に加盟している非保有国Bに対し、保有国Cが侵略ないし領土の一部を奪ったとしよう。Bは友好関係にある別の保有国Aに助けを求め、それに応じた同国が初めは平和的に交渉するも、その後両者の話し合いが決裂し、Cに対し実際に核を使用したとしたらどうだろうか。国際社会あるいは条約加盟国は、Aに対する非難で意見が一致するだろうか。恐らくCの友好国とABの友好国とで国際社会は分裂するだろう。
近年、たびたびシリア政府による化学兵器使用疑惑が取沙汰されていて、しかし、条約加盟国は疑惑の解明も、同兵器を取り除くこともできず、禁止条約の有効性が疑わしいものになっている。
国家の生存にとって、化学兵器よりも核兵器の方が切実である。だから、核兵器禁止条約は、非常事態に直面したら、化学兵器禁止条約以上に破綻する可能性が大である。
昨年の核禁条約に賛成したのは、国際社会におけるマイナー・リーグのメンバーたちで、メジャー・リーグのプレイヤーは参加を拒否した。自国と同盟国と国際社会に責任を持つ国が、禁止条約に賛成しえないのは当然であろう。
マイナー・リーグの諸国が平和を満喫できるのは、メジャー・リーガーの軍事力の秩序の下に、とりわけ「アメリカによる平和」の下にあるからだろう。
今後も責任国家は禁止条約に参加しないだろうし、参加をすれば条約の終わりが早まるだけである。
何れ「廃絶」する可能性が高いのは、核兵器ではなく、禁止条約の方だろう。

6.使えない兵器か

元航空幕僚長田母神俊雄氏は好著『日本核武装計画』の中で言っている。
「核兵器はたった1発の着弾にどの国も耐えられないという、まさにそのことによって、使いたくても使えない『決して使われることのない最強兵器』となってしまったのである。(中略)北朝鮮が持とうがイランが持とうが、核兵器が使われることはこれから先も二度とない」(4)と。けれども、「『持っているけど使わない』ことで最大の効果を生み出す」(5)から、氏は核の保有は必要との立場である。
「核兵器が使われることはこれから先も二度とない」だろうか。それは原発ならぬ「原爆」の安全神話ではないだろうか。「持っているけど使わない」兵器が、どうして「最大の効果を生み出す」だろうか。万が一であれ、使うかもしれないからこそ、政治的効力が発生するのだろう。
もし「使われることはこれから先も二度とない」のなら、実際に使われる心配をする必要はないだろう。では、世界の人々はなぜ核軍拡や拡散を憂慮するのだろうか。使用される可能性が捨て切れないからだ。
核兵器は、場合によっては軍事的に使える兵器だと思う。だから、戦争の抑止力となることができるのである。
2014年のクリミア併合に関し、翌15年3月のテレビ番組で、「クリミアの状況がロシアに不利に展開した場合、ロシアは核戦力を臨戦態勢に置く可能性はあったか」との司会者の問いに対して、プーチン大統領は「我々はそれをする用意ができていた」と答えたという(6)。
ロシアに限らず、安全保障上の危機においては、保有国は核兵器を使用する可能性があるということだろう。
では将来、核は現実に使用されるようなことがあるだろうか。それについては、分からないとしか答えようがない。ただ、いつの日か地球のどこかで核が使用されたとして、その後世界は変わるだろうか。その被害の甚大さ、その非人道性を見て、今度こそ国際社会は核廃絶の方向へ舵を切るだろうか。
一時的に廃絶運動は盛り上がりを見せるだろうが、それにも拘らず、人類は核を捨てることはないだろう。

7.核兵器を廃絶する唯一の方法

これまで人類が核兵器を捨て去ることはないと述べてきた。けれども、実はたった一つ、それを消失させる方法があるにはあるのである。同兵器廃絶の可能性は、ないわけではないのである。どのようにすれば、それは可能なのだろうか。
科学及び技術の進歩の必然性というものがある。常に旧い技術は、新しい技術にとって替わられる。
田植機の登場により手植えは「廃絶」し、稲刈機の誕生により手鎌による稲刈りが「廃絶」した。自動車の普及により牛車、馬車、人力車が「廃絶」し、ジェットエンジンの発明により、プロペラの戦闘機は「廃絶」した。
核兵器も同じである。それより勝れた兵器が開発された時、「核兵器なき世界」が実現するだろう。
軍事的には攻撃目標を効率的に撃破でき、経済的には安価で、政治的には他国をより効果的に威圧できるような、新しい兵器が発明されれば、核兵器は自然に地上から姿を消すだろう。
核兵器の廃絶を望むなら、軍事予算を大幅に増額し、核を上回る有力な兵器を造り出す他はない。

8.二つの軍縮

わが国の主力戦闘機は、第二次大戦中は帝国海軍のゼロ戦であり、現在は航空自衛隊のF-15である。
戦前大活躍をしたゼロ戦の生産機数は約一万機という。それに対して、1981年12月から運用されているF-15の生産数はわずか213機とのことである。
戦前の主力戦闘機と現在のそれを比較すれば、数の上では前者の方が圧倒している。では、戦前の航空戦力より現在のそれは劣っているだろうか。つまり、軍縮になっているだろうか。
戦前の帝国海軍と戦後の海上自衛隊を比べた場合、艦艇の隻数、人員といった現象面だけを見れば、戦後の方が軍備の縮小は実施されていると言えるだろう。しかし、戦力を較べた場合はどうだろうか。
真珠湾攻撃前の無キズの帝国海軍と今日の海上自衛隊が太平洋のどこかで決戦を行った場合、どちらが勝つだろうか。後者の方が勝つだろう。これは戦前の帝国陸軍と陸上自衛隊についても当てはまることだろう。
とすれば、わが国の戦前と戦後の軍事力を比較すると、現象的な意味での軍縮は実現しているが、本質的な意味でのそれは実現していないと断ぜざるをえない。第二次大戦の敗戦国であるわが国でさえそうなのだから、戦勝国は当然のこと、戦前欧米の植民地だった諸国にしても、戦前と戦後を比較すれば、ほぼ例外なく本質的な意味での軍拡を達成しているだろう。
これまで人類は何度も軍縮条約を試みてきた。主力艦の、あるいは補助艦の保有トン数の制限から、核ミサイルの弾頭数や運搬手段の削減まで。その他対人地雷や化学兵器の禁止など。現象的な意味での軍縮はこれまでも行われてきたし、これからも行われるだろう。しかし、本質的な意味での軍縮は行われてこなかったのではないか。
かつて軍縮は軍備の撤廃という最終目的地に辿り着いたことがない。このことから推定できるのは、核軍縮という線路も、核廃絶という終着駅にはつながっていないということである。国家の存立にとって不可欠でない種類の兵器の撤廃は、容易だけれども。
この先本質的な意味での軍備の縮小が行われる可能性はあるだろうか。残念ながら、科学・技術が進歩する限り軍拡は続くだろう。
こう言えば、核廃絶論者はあるいは「平和主義者」は恐怖と怒りのあまり叫び声を上げるかもしれない。しかし、それはそんなに怖いことだろうか。石と棍棒で戦っていた時代から今日まで、本質的な意味での軍拡は絶え間なく続いている。これからも同じだろう。
私たちは永遠の軍拡に耐えなければならない。

9.廃絶論は人畜無害か

核兵器廃絶論者たちの主張が人畜無害なら、放っておけば良いのだけれども、はたして日本国にとって実害はないのだろうか。
米国の核の傘からの離脱、非核三原則の法制化、核兵器禁止条約への参加、北東アジア非核兵器地帯の実現。この四点は廃絶論者たちの共通した要求だろう。禁止条約については第5節で述べた。
第一。核の傘からの離脱について。
日本は、一方で唯一の戦争被爆国として核兵器の廃絶を目指すと言いながら、他方でアメリカの核の傘に頼る政策を実施している。それは矛盾ではないかと指摘されている。明らかに両者は矛盾している。正気の人間なら、どちらか一方を選択しなければならない。
ところで、核の傘から離脱をして、防衛協力を通常兵器で可能な範囲内だけに限定するということで、日米安保は維持できるのだろうか。離脱論は、実質的には日米安保解消論だろう。それを求める人たちは、日米安保の解消を主張しているとの自覚はあるのだろうか。
第二。非核三原則の法制化について。
非核三原則とは、言うまでもなく核兵器を<作らず、持たず、持ち込ませず>ということである。
クリントン政権で国防次官補を務めたジョセフ・ナイ氏は対談で述べている。
「(核ミサイルを搭載した)原子力潜水艦が(報復核攻撃などに)使われることがあったとしても、それは日本の領海でなければならないということではないのです」(7)。
三原則の内の一つ、「持ち込ませず」の意味は殆んど失われているらしい。
もっとも、2018年2月トランプ政権は「核戦略見直し」を発表し、小型核兵器の開発を明記したという(8)。今後「持ち込ませず」が無意味なままなのかは不明である。
それはともかく、もし米国の核の傘から離脱するのなら、自国の核を<作り、持つ>ということを考えなければならない。しかし、廃絶論者たちはそれを拒否する。彼らは核に対抗しうる通常兵器の配備を主張しているわけでもない。一体どのようにすれば、国家の価値を守ることができると考えているのだろうか。
第三。「北東アジア非核兵器地帯」構想について。
それは、日本、韓国、北朝鮮を非核兵器地帯とし、周辺の米露支がこれらの国に対して核の威嚇も使用も行わず、安全を保証するというものであるらしい。
北朝鮮に対して米国が、日本に対して中共が、そして米露支が各々お互いの国に対して、核は絶対に使用しないし、脅しにも利用しないと確約できるだろうか。確約したとして信用できるだろうか。
日ソ中立条約があったにも拘らず、1945年8月8日ソ連は対日宣戦を行い、攻めてきた。核兵器を放棄する代わりに、米露が安全を保証すると約束したブダペスト覚書に、1994年12月調印したにも拘らず、2014年ロシアはウクライナからクリミア半島を奪った。
東シナ海では中共の公船が尖閣諸島付近の日本領海への侵入を繰り返しているし、南シナ海では「九段線」という独自の概念を用いて、自国に有利なように海を囲い込み、岩礁を埋め立て、軍事拠点化を進めている。
東や南シナ海で横暴に振舞えるのは、中共が核保有国であり、近隣諸国が非核保有国だからである。すなわち、中共の行動は「核の脅し」以外の何ものでもない。ロシアや中共による安全の保証など、どうして信用できるだろうか。
廃絶論者たちの主張は、わが国の国防努力を妨害することにしか役立っていない。もっと言うなら、それは日本に害を及ぼす恐れの高い敵性国家の、利益代弁者のような言説である。

10.なぜ保守雑誌は批判しないのか

核兵器廃絶論は日本の安全保障にとって有害である。にも拘らず、これまでそれを正面から批判した論稿を目にした記憶がない。どうしてだろうか。なぜ保守雑誌は廃絶論を批判しないのだろうか。
その知的レベルが余りにも低すぎて、どこから批判の手を着けて良いか分からないからだろうか。あるいは、広島や長崎の被爆者がいまだ存命中で、彼らに対する遠慮があるためだろうか。それとも、保守派の中に、廃絶の可能を信じる者、廃絶の不可能に確信が持てない者が少なからずいるからだろうか。
現実政治家の世界では、核の問題は今でもタブーである。一方、言論の世界では核武装論を見かけるようになった。けれども、目にするのはゾルレンとしてのそれであって、ザインとしての核兵器廃絶不可能論ではない。しかし、議論の順序から言って、後者が前者に先行すべきではないだろうか。
なぜ核武装是非論は目にするのに、核廃絶可能不可能論は目にしないのか。廃絶不可能論は、保守言論の世界でさえタブーなのだろうか。
保守派の人気著述家、福田恒存氏と山本夏彦氏は各々書いている。

「發明されてしまつた以上は、もうどうにもならないのです。(中略)原水爆であらうと惡魔であらうと、生まれてしまつたら、もうどうにもならないのです。あと私たち人間のできることは、さらにそれをおさへる強力なものの發明あるのみです」(9)。
「汽車を造れば、それはいよいよ汽車、たとえば新幹線のごときものになって、それらがなかった昔にはもどれない。(中略)モノクロからカラーへ、カラーからハイビジョンへテレビはいよいよテレビになるよりほかない。故に、いくら原爆許すまじと歌っても、原爆がなかった昔にはもどれない。原爆はいよいよ原爆になるよりほかない」(10)。

両氏とも、当為としての核武装論を展開しているわけではない。事実としての核兵器廃絶不可能論を説いているのである。

11.廃絶論と人間観

他の政治的社会的な問題と同様、核兵器の存廃の問題も、世人の意見はおおよそその人物の人間観に左右されるだろう。すなわち、進歩的な人間観の持ち主が廃絶可能論に傾き、保守的人間観の持ち主が廃絶不可能論に傾くのである(注)。
ブッシュJr.政権で国務副長官を務めたリチャード・アーミテージ氏との先の対談で、ジョセフ・ナイ氏は述べている。
「私は『核廃絶の可能性はゼロ%』というアーミテージ氏とは意見が違います。今後十年とか二十年という範囲では彼が正しいと思います。しかし、たとえば2100年とかならば・・・・。(中略)未来のことは誰にもわかりませんから。それは可能かもしれないのです」(11)。
オバマ氏と同じくナイ氏も進歩主義者らしく、過去に示された人間性よりも「未来」を信じているようである。しかし、有史以来人間性は変わっていない。最古の思想家や歴史家や詩人の文章が今日でも読めるのがその証拠である。今後百年や二百年ぐらいで人間が変わるわけがない。だから、「核廃絶の可能性はゼロ%」なのである。

(注)
進歩主義的立場の者でも、内外での厳しい権力闘争を戦ってきた政治家は、核兵器を手放すことはない。共産主義国のリーダーたちがそれを証明している。

12.パラダイムの転換

学校では疑うことが推奨される。しかし、学校でも一般社会でも、事実上疑うことが禁じられている事柄がいくつもある。核兵器廃絶論はその典型である。けれども、核兵器の廃絶は本当に可能なのだろうか?それは現代の、国際政治や安全保障の分野における天動説ではないのか。
たとえアメリカ大統領が、日本国首相が、そして国連事務総長が何と言おうとも、
核兵器の廃絶は不可能である

不確かなことが多いこの世の中にあって、これほど確かなことも珍しいのではないだろうか。しかし、真実を直視することができない人たち、旧いパラダイムにしがみついている人たちは目覚めようとはしない。
彼らは、核兵器の残酷さ、悲惨さは頻りに訴えるけれども、第一、どのようにして核兵器をゼロにするのか、第二、ゼロの状態はどのようにすれば持続可能なのかについて、何ら実効性のある提案をしない。
原水爆は夥しい数の死傷者が出ると言うが、夥しい死傷者が出るであろうこの問題についてさえ真剣に考えようとはしない。核廃絶はやる気になればそのうちできるだろう、が彼らの確信である。必勝の信念があれば勝てると信じた戦前の主戦論者とどこが違うのだろうか。
私たちは真実を直視する勇気を持たなければならない。
第一、核兵器は廃絶できないこと、第二、廃絶可能なのは、それを超える兵器が発明された場合だけであること、第三、人類は半永久的に軍拡を続けるだろうこと、第四、国家を維持し、国民の生命や財産、自由や民主主義等の諸価値を守ろうとするなら、半永久的に軍事力の整備に努めなければならないこと、これらの事実を事実として受け入れなければならない。

(1)朝日新聞、2010年8月6日付夕刊
(2)NIKKEI NET、オバマ米大統領の核軍縮演説内容(全文)
(3)朝日新聞、2016年5月28日付
(4)田母神俊雄著、『日本核武装計画』、祥伝社、51頁
(5)同前、55頁
(6)朝日新聞、2015年3月17日付
(7)リチャード・L・アーミテージ、ジョセフ・S・ナイ、春原剛著、『日米同盟vs.中国・北朝鮮』、文春新書、193頁
(8)朝日新聞、2018年2月4日付
(9)福田恒存著、『平和の理念』、新潮社、77-78頁
(10)山本夏彦著、『オーイどこ行くの』、新潮社、197頁
(11)リチャード・L・アーミテージ、ジョセフ・S・ナイ、春原剛著、『日米同盟vs.中国・北朝鮮』、文春新書、218頁

左派と右派

左翼(左派)・右翼(右派)という言葉は、周知の通り、フランス革命期の議会において、議長席から見て左側に急進派が、右側に保守派が席を占めたことに由来します。それ以来、進歩主義的立場を左派、保守主義的立場を右派と呼んでいます。だから、冷戦時代は社会・共産主義者が左派で、資本・自由主義者が右派でした。

当たり前ですが、フランス革命時代の左派と冷戦時代の左派の、フランス革命時代の右派と冷戦時代の右派の主張内容は同一ではありません。左派と右派というのは相対的、便宜的な分類で、それは時代(国)によって変わりますし、その時代にはその時代の左派・右派が存在します。だから、冷戦時代の左派・右派と、現在のそれが違っても不思議ではありません。

山口真由氏は『リベラルという病』(新潮新書)に、「リベラルの本質は人間理性への信頼、コンサバの本質は人間への不信となり、すべてはここに帰着する」と書いています(197ページ)。「人間理性への信頼」はリベラルのみならず、社会・共産主義者を含めた進歩主義者一般の特徴でしょう。

進歩主義者の本質は変わりません。次々と新思想を見つけては、それを帰依の対象にする。冷戦時代の社会主義信仰の持ち主たちは、冷戦後は歴史認識、外国人参政権、夫婦別姓、同性婚、反原発などの問題へ戦いの場を移しました。
冷戦後政治的左右の区別は無意味になったと主張する人もありますが、進歩主義者は永遠です。進歩主義者がいなくならない限り、左右の対立がなくなるはずがありません。

リベラルは左翼ではないという人もいますが、それはフランス革命時に事故で昏睡し、百数十年後の冷戦時代に蘇生したジャコバン党員が共産主義者を指して、彼らは左翼ではないと言っているようなものでしょう。

処世術としての反権力

新聞やテレビなどのマスメディアは、国家権力を監視することを仕事の一つに挙げています。
権力側による苛烈な検閲があったからというのは迷信で、戦前新聞は政府・軍と二人三脚で国民を戦争に駆り立て、戦場を引きずり回し、死に至らしめました。それを反省して、というよりも全ての責任を政府・軍に押し付けて、戦後マスメディアは権力の監視を使命にしています。
マスメディアが戦前から得た教訓は、政府と歩調を合わせるのは得策ではない、ということでしょう。彼らが戦後掲げる反権力という立場は、グッド・アイディア!でした。政府の施政が正しければその中で温々と営業できるし、政府の施政が間違いだったら、正論を主張した英雄ということになるからです。政府とは反対のことを言っていればいい。
もっとも、朝日新聞の論調とは正反対の意見を採用すれば大方間違いはないと揶揄されるように、言論や政策選択におけるマスメディアの「正答率」の低さはかなりの水準です。戦後のわが国の歩みは、大筋としてマスメディアよりも、政府の示した方向性の方が正しかったことを証明した歴史でした。
マスメディアは、権力側とか反権力側とかとは関係なしに、自社の正しいと信じる方向で論陣を張るべきだと思います。しかし、そうすると、自分で考えなければならないし、社内で意見の対立が生じるだろうし、失敗のリスクも負わなければなりません。だから、反権力という立場を手放すことができないのでしょう。
マスメディアが反権力を標榜しているのは、国民を守るためではなく、自社の利益のため、なのは残念です(涙)。

リベラルと保守

パソコンで検索すると、たとえば、リベラル(リベラリズム)について、論者があれこれ語っています。
A氏曰く、B氏曰く、C氏曰く・・・・講座派と労農派、平和革命派と暴力革命派、暴力革命派の中の核マル派、中核派・・・・どれが正しい共産主義理論なのかを議論していた時代のようです。
どのマルクス主義的立場が正しいのか同様、どれが正式なリベラルの定義なのかについて、私は余り興味がありません。
「あるべきリベラル」の立場から、「あるリベラル」を批判して、彼らは本物のリベラルではないとレッテルを貼ったところで、ではあのような思想傾向の方々は何と呼ぶべきなのか、という問題が残るからです。
差し当たり関心があるのは、冷戦時代が社会・共産主義対資本・自由主義の時代だったように、現在はどのようなイデオロギー対決の時代なのかということです。それとも、イデオロギー対立などなくなってしまったのでしょうか。
『文藝春秋』2018年5月号での、中西輝政氏との対談で、佐伯啓思氏は発言しています。
「現在の日本において『保守/リベラル』、『右翼/左翼』という構図で社会を論じることはほとんど無意味になっています」。
もし皇位継承、憲法、国防、歴史認識、外国人参政権、夫婦別姓、同性婚、外国移民の受け入れ、原発等について、左派も右派も意見が各々の立場にばらけているのなら、「無意味になってい」ると言えるでしょう。しかし、それらの問題について、両派は依然意見がおおよそ二分しています。冷戦が終わってからずいぶん経ちますが、やはり、進歩主義派と保守主義派とのイデオロギー的相違は、厳然として存在すると判断せざるをえません。
では、現在はどのようなイデオロギーが並立している時代なのでしょうか。「左翼としてのリベラル」でも述べましたが、冷戦時代から今日へ、イデオロギー対立は社会・共産主義対資本・自由主義から、リベラル(+社会・共産主義)対保守へ移行しているのだと思います。

共同幻影としての日本有罪論2

1995年に発表された村山内閣総理大臣談話の一部を引用します。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」。
さて、「遠くない過去の一時期」とは、いつからいつまでを指すのでしょうか。
「多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」とありますが、具体的にどこの国に対してでしょうか。アフガニスタンも、イランも、インドも、サウジアラビアも「アジア諸国」です。では、これらの国に「わが国は」「多大の損害と苦痛を与え」たでしょうか。
「この歴史の事実」が「疑うべくもない」のなら、時期にしろ国名にしろ明確に記述できるはずです。ではなぜ、この談話はそれらを曖昧にしているのでしょうか。
朝日新聞の社説もそうです。2018年3月5日付「日韓歴史問題 ともに未来に進むには」にもこうあります。
「日本がかつて国策を誤り、アジアに多大な苦痛を与えたのは歴史の事実である」。
「歴史の事実」なら、なぜ「アジア」という言葉でごまかす=逃げるのでしょうか。
期間や国名について具体的に触れると、いや日本はこの国(わが国)に対しても「多大の損害と苦痛を与え」たではないかとのクレームが、内外から生じるからでしょうか。
たぶん、談話を発した当の村山氏にしろ、実際にこの談話を書いた官僚にしろ、朝日新聞の論説委員にしろ、何が<戦前日本の罪>なのかを理解していないし、明言できないからではないでしょうか。こんな不明瞭な談話では、国民は「歴史の事実」とやらを、「謙虚に受け止め」ることはできません。
それとも、国際社会の多数派は戦勝国側だし、各国と(第三国とも)仲良くしなければならないし、とりあえず、テキトーに謝っとこ、曖昧な談話ならそのいい加減さに国民も次第に気づくだろうし、遠くない将来の一時期反故にするだろう、それが村山内閣の狙いなのかもしれません(笑)。

追記
「共同幻影」という言葉は、私の造語ではありません。竹山道雄著、「人間は世界を幻のように見る」『歴史意識について』、講談社学術文庫を参照のこと。