ロシアだけに責任があるか ウクライナ侵攻

1.振り込め詐欺の責任は誰にあるか

ウィキペディアの「特殊詐欺」には、次のような記述があります。

「振り込め詐欺(ふりこめさぎ)とは、電話やはがきなどの文書などで相手をだまし、金銭の振り込みを要求する犯罪行為。(中略)
2004年11月まではオレオレ詐欺と呼ばれていたが、手口の多様性で名称と実態が合わなくなったため、特殊詐欺の4つの型(なりすまし詐欺、架空請求詐欺、融資保証金詐欺、還付金等詐欺)を総称して、2004年12月9日に警視庁により統一名称として『振り込め詐欺』と呼ぶことが決定された。(中略)
1999年8月頃から2002年12月頃までの間に電話で『オレオレ』と身内を装って11人に銀行口座に振り込ませた事件があり、2003年2月に犯人を検挙した鳥取県警米子署がこの手口を『オレオレ詐欺』と称したのが初出とされている」

振り込め詐欺でも、オレオレ詐欺でも良いですが、加害者、被害者の責任に関しては、二つの立場がありえます。
第一、すべての責任は加害者の側にある、被害者には一切責任はない。
第二、大部分の責任は加害者にあるけれども、騙された被害者の側にも、一部責任はある。
第一と第二は、どちらが正しいでしょうか。

なぜこんなことを問うのかと言えば、この度のロシアによるウクライナへの侵攻を考える上で、どのような立場を採るのかは、この二つの考え方と無縁ではないと思われるからです。

2月24日ウクライナ侵攻が発生しましたが、それに対して、バイデン米大統領は声明を出しました。

「プーチン大統領は、破壊的な人命の損失と人的苦痛をもたらす計画的な戦争を選択した。この攻撃がもたらす死と破壊はロシアだけに責任がある」(太字 いけまこ)

引用文を見れば明らかですが、バイデン氏はウクライナ侵攻に関して、第一の、「すべての責任は加害者の側にある、被害者には一切責任はない」の立場です。振り込め詐欺のような一般犯罪ならともかく、国際政治上の戦争のような事例において、一方だけに責任があるというような認識は適切なのでしょうか。

2.国際社会にはいくつものの正義がある

国際政治学者の高坂正堯氏(1934-1996)は、『国際政治』(中公新書)に書いています。

「国際社会にはいくつもの正義がある。だからそこで語られる正義は特定の正義でしかない。ある国が正しいと思うことは、他の国から見れば誤っているということは、けっしてまれではないにである」(19頁)

高坂氏はいわゆるリアリストであり、私はリアリストではないので、氏のこの主張には全面的には同意しかねますが、戦争当事国の指導者たちだって狂人ではないのですから、それなりに言い分があると考えるべきではないでしょうか。

ロシアの言い分については、プーチン大統領が侵攻当日のテレビ演説で述べています。

「親愛なるロシア国民の皆さん、親愛なる友人の皆さん

きょうは、ドンバス(=ウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州)で起きている悲劇的な事態、そしてロシアの重要な安全保障問題に、改めて立ち返る必要があると思う。(中略)

NATOは、私たちのあらゆる抗議や懸念にもかかわらず、絶えず拡大している。軍事機構は動いている。
繰り返すが、それはロシアの国境のすぐ近くまで迫っている。(中略)

私たちの国境に隣接する地域での軍事開発を許すならば、それは何年も先まで、もしかしたら永遠に続くことになるかもしれないし、ロシアにとって増大し続ける、絶対に受け入れられない脅威を作り出すことになるだろう。(中略)

すでに今、NATOが東に拡大するにつれ、我が国にとって状況は年を追うごとにどんどん悪化し、危険になってきている。(中略)

起きていることをただ傍観し続けることは、私たちにはもはやできない。(中略)

NATOが軍備をさらに拡大し、ウクライナの領土を軍事的に開発し始めることは、私たちにとって受け入れがたいことだ。(中略)

問題なのは、私たちと隣接する土地に、言っておくが、それは私たちの歴史的領土だ。そこに、私たちに敵対的な『反ロシア』が作られようとしていることだ。(中略)

アメリカとその同盟国にとって、これはいわゆるロシア封じ込め政策であり、明らかな地政学的配当だ。
一方、我が国にとっては、それは結局のところ、生死を分ける問題であり、民族としての歴史的な未来に関わる問題である。(中略)

それこそ、何度も言ってきた、レッドラインなのだ。
彼らはそれを超えた。

そんな中、ドンバス情勢がある」

3.ウクライナはロシアの生命線?

冷戦後のNATOの東方拡大によって、隣の兄弟国ウクライナまでNATOに加盟し、その地に米国の軍隊と核を含めた兵器が配備されるかもしれない。そうなったら、ロシアの安全保障にとって大変な脅威である、という理屈でしょう。

プーチン氏が、演説の冒頭で語っていることを、大東亜戦争との比較で言うなら、日本の主目的は自存自衛であり、副次的な目的は東亜解放でしたが、ロシアの主目的も「ロシアの重要な安全保障問題」であり、副次的な目的は、演説の最後に引用した、「そんな中、ドンバス情勢がある」でも分かるように、ドンバスの「解放」だと判断できます。

ロシアにとって、ウクライナがNATOに加盟するとは、どのような感じなのでしょうか。
元寇では、元軍は朝鮮半島からわが国に攻めてきました(弘安の役では、江南軍は支那本土から出発しましたが)。
近代においても、日本の心臓を狙う匕首だと言われた朝鮮半島へ、清国やロシア帝国が侵入することは、日本にとっては脅威でした。わが国が日清日露戦争を戦わざるをえなかったのは、そのような脅威をなくすためでしょう。朝鮮半島は、いわば日本の生命線でした。
もし当時の韓国が、清国軍にもロシア軍にも侵入を許さないような強固な国だったなら、日本はそれらの戦争をしなくて済んだでしょう。

実は今日だって、朝鮮半島は日本の生命線です。
ただ、現在の朝鮮半島は、良くも悪くも、北朝鮮、韓国というそれなりに軍事的に強力な国があり、支那やロシアの半島への進出を防いでくれていますし、わが国は日米安保条約を結んでいて、韓国にも日本にも米軍が駐留していますし、日本列島の近くの海には米原潜がひそんでいて、万が一の場合、核ミサイルを支露へ打ち込む能力があると私たちは信じているために、半島からの脅威に鈍感になっているのでしょう。

この点は欧州諸国も同じです。実質的に対露同盟であるNATOの主軸はアメリカですが、それが東方へ拡大し、ロシアとNATOの勢力圏を分かつ線が、東方へ移動して行き、フランスやドイツといった欧州の中心的な諸国は、ロシアの脅威に対する危機感が薄れているのだと思います。逆に言うなら、ロシアが受ける脅威に対して、日本も欧州も鈍感になっているということです。

一方、ロシアには強力な同盟国はありませんし、自分の国は自分で守らなければなりません。この点、戦前のわが国も同じです。日英同盟の締結前と解消以後、頼りになる同盟国がなくて、孤独でした。

ロシアにとってウクライナは、日本にとっての近代の朝鮮半島のようなものではないでしょうか。そして、日露支にとって、韓国は民族的にも文化的にも歴史的にもまるっきり別の国ですし、いわゆる兄弟国ではありませんが、ロシアにとってウクライナはそれらの点で近しい兄弟国ですし、ウクライナはロシア帝国、ソ連、ロシア連邦を通じて、ずっとその勢力圏にありました。
すなわち、ロシアの言い分にも一理あるのではないでしょうか。

しかし、欧米も日本も、ロシアの言い分は理解しませんし、それに耳を貸しません。そして侵攻後、ただ一方的に非難するだけです。
現在の世界の論調から言って、たとえロシアが戦争に勝ったとしても、戦後はウクライナ・NATO連合=絶対善、ロシア=絶対悪として語られることになりそうです。

4.日本は絶対悪だったのか

<絶対善対絶対悪の戦い>だと認識されているのが、第二次世界大戦です。前者に相当するのが、連合国であり、後者に相当するのが同盟国です。そして、同盟国であったわが国は、絶対悪との認識が、国際社会では今でも定着しています。

ウクライナのゼレンスキー大統領が、3月16日アメリカ連邦議会での、オンライン形式の演説で、真珠湾攻撃に言及したのは、氏がユダヤ人であり、第二次大戦に関して、連合国=絶対善、同盟国=絶対悪との認識の保持者だからでしょう。

わが国の東京裁判史観肯定派の主張も、前大戦のすべての責任は日本にあるとの立場です。
一方、その否定派は、大戦の原因あるいは犯人を、日本の中だけで探すのは無意味で、戦争は相手があることだから、相手との関係で、それを追究すべきだという風に言っていました。

ところが、この度のロシアによるウクライナ侵攻に関しては、どうでしょうか。戦争は相手があるというように、論じられているでしょうか。どうも、左派のみならず、右派もロシアを一方的に非難するのが大勢になっているように思われます。

戦前の日本と、この度のロシアの軍事行動と、どちらがより正当性があるでしょうか。
戦前日本の言い分にはそれなりに正当性はあったけれども、ロシアの言い分には一理もないのでしょうか。日本にはそういう人も少なくないでしょう。
しかし、第二次大戦の戦勝国であるロシアに言わせれば、戦前の日本には一理もないけれども、この度のロシアの行動には正当性があるという人たちが多くいそうです。
大東亜戦争の日本と、ウクライナ侵攻のロシアと比較して、その主張はどちらがより道理があるのでしょうか。それとも、戦勝国やわが国の左派が言ってきたように、日露とも絶対悪なのでしょうか。

ウクライナ侵攻に対する米欧日での、一方的なロシアへの非難を見て、戦前日本が連合国にしてやられたのは、国際社会におけるこのような<連合国=絶対善、日本=絶対悪>というレッテル貼りだったのかと、憤慨する人がいても良さそうなものです。
ロシアに対する一方的な非難を見ると、戦前から欧米は独善的だったのだと思えます。
そして、戦後八十年近く経っても、相変わらず戦前日本は全否定すべき絶対悪です。

5.ロシアは絶対悪なのか

戦争は外交の失敗だと言われますが、外交で解決できないことは、力で解決せざるをえません。勝った方がより多くを獲得し、負けた方がより多く譲歩するしかありません。お互いに言い分があるのを認めた上で、なされるのが文明的な戦争だと思います。わが国の戦後平和主義者たちは、文明的な戦争などないと言うでしょうが。
それはともかく、戦争になったということは、双方の外交が失敗したということではありませんか?ロシアのみならず、米欧宇の指導者たちの外交も、失敗したということでしょう。

第二次世界大戦から?アメリカは戦争に、絶対的な正義不正義の観念を持ち込みました。米国にとって、戦争は絶対的な善と絶対的な悪の戦いです。戦前の絶対悪は日本で、現在の絶対悪はロシアです。敵を悪魔だと見做さないと戦えない(経済制裁も含めて)ということもあるかもしれませんが、お互いに言い分のある戦争を、絶対善対絶対悪との戦いだとするのは、やはり野蛮な戦争観です。アメリカは十字軍的戦争観から抜けきれないようです。

戦争には、双方に言い分があるのを否定すべきではありません。
そして、米欧宇の指導者たちは、戦争が始まる原因となった自らの過失を反省すべきです。
ウクライナはNATO加盟を拙速に運ぼうとしました。欧米はロシアの出方も考えずに安易にそれを支持しました。ロシアの侵攻を防ぐだけの軍事的な準備をしていませんでした。非加盟国はNATO防衛の対象外だとロシアに誤ったメッセージを与えました。
彼らは、自らの過失を糊塗するために、なおさら絶対善対絶対悪の戦争観を煽っているように見えます。

ロシアによるウクライナへの侵攻について、三点ばかり確認しておきたいと思います。
第一、戦争の善悪と勝敗は無関係であること(勝った側が、自分たちは正しかったのだと言い出しかねないので)、
第二、ロシアの言い分にも一理あること、
第三、米欧宇の指導者たちにも、一部責任があること。

勿論、ウクライナに侵攻したロシアは非難されてしかるべきですが、<絶対善対絶対悪>という戦争観には、うんざりです。そんな戦争観には、ニエットと言わざるをえません。

【追記】
時宜を得た事件が発生しました。
3月27日に開催されたアカデミー賞授賞式で、妻を侮辱されたとして、俳優のウィル・スミス氏がプレゼンターに平手打ちをくらわせました。
さて、手を上げたスミス氏にすべての責任があるのでしょうか、それとも、大部分の責任は彼にあるにしても、侮辱した発言を行ったプレゼンターにも一部責任があるのでしょうか。

【追記2】
大東亜戦争後の、この小林秀雄氏の発言は、ウクライナ侵攻に関しても、有効であるように思われます。
「この大戦争は一部の人達の無知と野心とから起ったか。それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出たい歴史観は持てないよ」

朝日新聞のオフシャンニコワ?

ウクライナのゼレンスキー大統領は、3月23日午後6時から日本の国会で、オンライン形式の演説を行いましたが、その当日の朝日新聞朝刊声欄に、「どう思いますか 戦争と国際協調」と題する、読者の投稿が掲載されました。掲載されたのは五つです。
その一つは、下記の通りです。

「NATO加盟希望 大きな代償   会社役員 滝田 正良  (山梨県 74)

ロシアのウクライナ侵攻に心が痛みます。戦争回避の道はなかったのでしょうか。一番の問題はウクライナの北大西洋条約機構(NATO)への加盟希望です。白紙に戻すことはできなかったのでしょうか。加盟をあくまで希望した代償はあまりにも大きいものでした。
確かに独立国として条約に加盟する権利も自由もあります。しかし、その結果、世界は大混乱に陥りました。NATOは米国を主体とした同盟ですが、ロシアとの戦争で被害を被るのは地続きのヨーロッパです。今回の経済制裁は世界全体に影響を及ぼし、日本もその影響は計り知れません。追い詰められたロシアは何をするかわかりません。過去の日本のように。
NATOは防衛を目的としていますが、ロシアにすれば、いつ攻め込まれるか疑心暗鬼なのでしょう。今時そんなことは考えられないと言うかもしれませんが、ロシアはナポレオン、ヒトラーに自国を侵略された歴史があります。一日も早い戦争の終結を祈ります」

私は、「過去の日本のように」は余計だと思いますが、朝日に採用されるには、そんな一言が有利なのかもしれません。
それはさておき、朝日新聞の論調とは異なった意見が掲載されました。
世の大勢が、ウクライナ=善、ロシア=悪、の一辺倒になっていることに、さすがに辟易した同紙の編集者が、この投稿を選んだのでしょうか。

因みに、上記の投稿の右隣に掲載された投稿は、「『正義』の衝突・・・平和は難しい」との題名で、その文章は「国際紛争にはそれぞれの正義のぶつかり合いという面があり、難しいものだと思う」で結ばれています。



ウクライナ侵攻と台湾

はじめに

先月24日に、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりましたが、ウクライナと台湾を比較して考えてみたいと思います。
と言っても、世間で多く語られている、ロシアがウクライナへ侵攻したから、今度は中共が台湾へ侵攻するかもしれない、という問題を主に論じたい訳ではありません。

1.力による一方的な現状の変更の試み

ウクライナ侵攻に対して、岸田首相は2月25日の記者会見で、「力による一方的な現状変更の試みで、明白な国際法違反だ。国際秩序の根幹を揺るがす行為として、断じて許容できず、厳しく非難する。わが国の安全保障の観点からも決して看過できない」と述べたそうです(1)。

一方、中共に関しては、外務省の「外交青書2020 1 情勢認識」に、「東シナ海、南シナ海などの海空域で、既存の海洋法秩序と相いれない独自の主張に基づく行動や力を背景とした一方的な現状変更の試みを続けている」との記述があります(2)。

力による一方的な現状の変更の試みを行っているということで、露中は批判されています。

2.力によらない、一方的な現状の変更は許されるか

では、力によらなければ、一方的な現状の変更をすることは、認められて良いのでしょうか。
この度の、ロシアによるウクライナへ侵攻は、NATOへの加盟という、力によらない一方的な現状変更を、ウクライナが試みた結果生じたと言えるでしょう。

ロシア帝国、ソ連、ロシア連邦を通じて、ウクライナはずっとロシアの勢力圏にありました。そのようなウクライナがロシア圏からの離脱を図り、実質的な反露同盟であるNATOへの加盟を求めました。
もし、加盟をするのなら、ロシアや近隣諸国に対して、それなりの根回しをすべきだったでしょう。しかし、それをしなかった。
ウクライナは、一方的な現状の変更を求めたと言わざるをえません。

国際社会の大勢は、ウクライナのNATO加盟に反対していないから、あるいはそれに反対をしているのはロシアと一部の国だけだから、一方的ではないという人もあるかもしれません。では、台湾はどうでしょうか。

3.台湾の場合

台湾は、国家の三要素、領土、国民、主権を有する、実質的に独立国であり、同国の領域には他国の主権が及んでいないという点で主権国家です。
国連や国際保健機構(WHO)には加盟が認められていませんが、それは、主権国家としての十分条件を満たしていないからではなく、中共が台湾の邪魔をしていて、あるいは、国際社会が中共の圧力に屈しているからです。

アメリカは、「加盟はウクライナの主権の問題だ」と言ったそうですが(3)、もしウクライナがロシアとは違って民主国であり、主権国家であるという理由で、NATOへの加盟が認められるのなら、台湾だって民主国であり、主権国家なのだから、「力によらない、一方的な現状変更の試み」としての、即時の独立だって、認められるべきでしょう。

ウクライナのNATO加盟に反対しているのは、ロシアと一部の国だけだから、と言うのであれば、台湾の独立に反対しているのも中共と一部の国だけなのですから、台湾が独立を宣言したとしても、一方的ではないということになります。

しかし、ウクライナも台湾も相手とする国(露中)が核大国であり、拒否権を持つ国連の常任理事国であるという意味では、彼らの感情を逆撫ですることは、現実の国際政治の力関係から考えると、やはり一方的だと言わざるをえません。
だから、ウクライナのNATO加盟も、台湾の独立も、力によらないにしても、一方的な現状変更の試みです。

4.なぜ台湾の一方的な現状変更は許されないのか

それなら、国際社会は、あるいは、日米は、台湾の独立を認めているでしょうか。
認めていません。なぜでしょうか。

カート・キャンベル米国家安全保障会議(NSC)インド・太平洋調整官は2021年7月6日アメリカのシンクタンクのイベントで、「台湾の独立は支持しない」と述べたそうです(4)。
どうして主権国家台湾の独立を支持しないのでしょうか。
「台湾海峡の平和と安全の重要性」のためらしい。
要するに、安易に独立をすれば、中台の、ひいては米中の戦争になるかもしれないからです。

5.だから、戦争になった

それなら、ウクライナによる、力によらない、一方的な現状変更の試みだって、戦争になるかもしれなかったはずです。そして、現実に、戦争になりました。
とするなら、ウクライナとロシアの「平和と安全の重要性」ために、ウクライナのNATOへの加盟だって、欧米は支持すべきではなかったのではないでしょうか。

因みに、ウクライナはロシア帝国の時代から現在までロシアの勢力圏にあったのに対し、台湾は、化外の地(「皇帝の支配する領地ではない」、「中華文明に属さない土地」の意)(5)と見なしていた大清帝国の統治時代以降、日本統治時代、中華民国統治時代、そして今日へと、支那本土の勢力圏に属したことはありません。中共と台湾の関係に比べれば、ロシアがウクライナを自国の勢力圏だと判断するのは、よほど根拠があります。

それなのに、ウクライナに対しては、力によらない一方的な現状変更の試みを認める一方、台湾にはそれを認めないというのは、ダブルスタンダードです。そして実際に、前者では、ロシアによる侵攻を招きました。

6.台湾におけるウクライナ侵攻の教訓

今後、中共による台湾への侵攻の可能性はあるでしょうか。あるでしょう。
ただし、ウクライナ侵攻のお蔭で、それはハードルが高くなりました。

この度のロシアによるウクライナ侵攻から、中共による台湾への侵攻を阻止するための教訓を挙げるとするなら、
第一、戦争が発生する恐れがある場合は、主権国家であろうと、力によらない一方的な現状の変更は、国際社会は安易に認めてはならないこと、
第二、認める場合は、戦争が起こらないだけの軍事的な抑止力を備えてからにすべきこと、
ではないでしょうか。

米欧宇の政治リーダーたちが、第一と第二を考慮しなかったから、ウクライナ侵攻が発生したのだと思います。

(1)https://www.sankei.com/article/20220225-ALORCIUPJVOBRGPXIQUS5IEN7I/
(2)https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2020/html/chapter1_00_01.html
(3)https://news.yahoo.co.jp/articles/d7db4a22079a78bc00b9209841c15fe614a61810
(4)https://www.asahi.com/articles/ASP7722C2P76UHBI02C.html
(5)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

【追記】
ウクライナのゼレンスキー大統領は、3月17日?に、「自身のSNSで『交渉の中で一番重要なものは明らかです。戦争終結、安全の保証、主権と領土の境を元の戻すこと』と述べた」そうです(https://news.yahoo.co.jp/articles/f0f33801f218956955318677d7808f35513dc1f2)。

彼が、ウクライナのNATO加盟を求めなければ、戦争は起こりませんでしたし、主権や領土の保全もできていたでしょう。

【追記2】
「冷戦期の1962年、ソ連がキューバに核を配備しようとした際、米国は猛反発しました。米国からすると、ソ連が米国の裏庭にあるキューバに核ミサイル基地をつくるのは戦争に匹敵する行為だという認識だったのです。(中略)
ロシアがウクライナのNATO加盟に強硬に反対することは、当時の米国とどこが違うのでしょう。当時も今もキューバは独立国家です」
(福井義高、『WiLL』、2022年5月号、290頁)

「独立国家」は、主権国家と同義です。
主権国家であるウクライナがNATOに加盟するのは自由で、主権国家である台湾が独立を表明するのも、キューバがソ連のミサイルを配備するのも認めないというのは、やはりダブル・スタンダードではないでしょうか。(2022・4・7)

箇条書き ウクライナ侵攻

ロシアによるウクライナ侵攻に関してもですが、プロパガンダやらが氾濫して、どの記事が信用できるのか、判断に迷います。

1.大局

自由世界は、<中共の覇権国化を阻止すべし>に集中すべき。

2.二正面では戦えない。

冷戦であれ、熱戦であれ、中露の双方を同時に相手にすることはできません。
だから、常に露中の分断を図るべきです。
1から、ロシアは味方に付けられないにしても、少なくとも敵に回すべきではありません。

3.ウクライナはNATOへの加盟を求めた

3.1 ロシア、ウクライナ、ベラルーシの歴史は、同じ9世紀のキエフ・ルーシ(キエフ大公国)から始まります。三カ国は、民族的(東スラブ人)にも、文化的にも、言語的にも近しい。兄弟国とされています。因みに、Russiaはルーシからの命名だそうです。

3.2 ウクライナは、歴史的にロシア帝国から、ソ連へ、そしてロシア連邦へと、ずっとロシアの勢力圏に属していました。

3.3 NATOはそもそも冷戦時代の対ソ連同盟から出発し、現在は実質的に対ロシア同盟です。

3.4 そのようなウクライナが、NATOへの加盟を求めました。

4.欧米はウクライナのNATO加盟を容認した

5.ロシアはウクライナのNATO加盟が許せなかった

2月24日の侵攻直前に、プーチン大統領はテレビ演説を行いました(1)。
これは、言わば宣戦の詔勅です。

「まずことし2月21日の演説で話したことから始めたい。それは、私たちの特別な懸念や不安を呼び起こすもの、毎年着実に、西側諸国の無責任な政治家たちが我が国に対し、露骨に無遠慮に作り出している、あの根源的な脅威のことだ。
つまり、NATOの東方拡大、その軍備がロシア国境へ接近していることについてである。(中略)
問題なのは、私たちと隣接する土地に、言っておくが、それは私たちの歴史的領土だ、そこに、私たちに敵対的な『反ロシア』が作られようとしていることだ。
(中略)我が国にとっては、それは結局のところ、生死を分ける問題であり、民族としての歴史的な未来に関わる問題である。
(中略)これは、私たちの国益に対してだけでなく、我が国家の存在、主権そのものに対する現実の脅威だ。
それこそ、何度も言ってきた、レッドラインなのだ。
彼らはそれを超えた」

2月27日、安倍元総理は、テレビ番組で、プーチン氏の意図について、述べました(2)。

「『NATOの拡大、ウクライナに拡大するのは絶対に許さない』ということですね。(中略)プーチンとしてはロシアの防衛、安全の確保という観点から行動を起こしている」

ロシアを一方的に非難する人たちは、両国だけしか見ていません。
ロシアとウクライナの二国関係だけを見れば、前者が攻勢の側、後者が守勢の側にあると言えますが、ロシア対欧米という観点からすれば、冷戦後ずっとNATOは東方に拡大している訳ですから、前者は守勢の側、後者は攻勢の側にあります。
ウクライナ侵攻の動機は、一貫して守勢の側に立たされている、ロシアの反発ではないでしょうか。

(1)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220304/k10013513641000.html
(2)https://news.yahoo.co.jp/articles/2c151f7e4a618f7472537c7a5d626d7387c3429b

6.欧米宇の政治家がもう少し賢明だったなら

トランプ氏は、自分が大統領だったなら、ロシアの侵攻はなかったと発言しましたが、それはあながち間違っているとは思われません。
もし現在の欧米宇の政治リーダーたちが、ロシアとの交渉による平和について、あるいは軍事的な抑止について真剣に考えていたなら、ロシアの侵攻はなかったのではないでしょうか。

7.ウクライナの要求は尚早だった

8.欧米の容認は不用意だった

欧米は、

8.1 ロシアが受ける脅威を慮りませんでした。

8.2 1、2と矛盾しない範囲で、3を追求すべきでした。

欧州にとっては、中共よりもロシアの方が脅威なので、アメリカは欧州の感情に引きずられ、1、2を亡失したのでしょうか。

8.3 ウクライナの性急な要求を抑えませんでした。

8.4 ウクライナに過大な期待を抱かせました。

8.5 ロシアの「本気」を見誤りました。

8.6 ロシアの侵攻を抑えるだけの、軍事的な準備がありませんでした。

9.プーチン大領領は欧米の足元を見た

プーチン氏は、NATOの東方拡大に対しては、ずっと前から憤懣やるかたなしでした。しかし、これまでの欧米の指導者たちは、それなりに手強かった。しかし、今の指導者たちは、手強くない。欧米は、口は出しても、手は出さないだろう。今がチャンスだ!

よって、実力行使。

10.判決

この度の、ロシアによるウクライナ侵攻という事件に関して。
ロシアは、単独犯ではありません。
主犯は、ロシアであるにしても、欧米宇の、余り有能でない政治リーダーたちも共犯です。

11.平和への道

ウクライナのNATOへの加盟の保留=中立化が平和への道でしょう。

プーチン政権も永遠ではありませんし、プーチン後のロシアもどうなるか分かりませんが、時代によって政治状況は変化をします。
加盟は将来の目標にしてはどうでしょうか。

【読書から】
「石原(慎太郎)さんは、旧友であった大江健三郎については次のように述懐していた。
『大江は可哀そうな奴なんだよ。俺は小説をいくらでも書けてしまう。しかし、大江は創作力に乏しいですからね。どうしても、ああいう難解な思想小説や主題小説に行かざるを得なかった』」(小川榮太郎、『月刊Hanada』2022年4月号、102頁)

【参考記事です】
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022060400398&g=pol

ロシアへの同情 ウクライナ侵攻

ロシア軍は、2月24日ウクライナに侵攻しました。
この事件に関する、ネット記事を見ていると、プーチン大統領やロシアに対する非難が多い。しかし、それらには、ウクライナがNATOに加盟することによって、ロシアが受けるであろう脅威に対する慮りがないように思います。

1962年、ソ連がキューバにミサイルを配備したのが、アメリカの偵察機からの航空写真によって明らかになり、米国は驚愕しました。いわゆるキューバ危機です。
ウクライナが北大西洋条約機構(NATO)に加盟すれば、NATO軍の、とりわけアメリカ軍の基地が同国内に出来るかもしれません。ウクライナのNATO加盟は、ロシアにとってのキューバ危機に相当するのではないでしょうか。

ハバナからワシントンD.C.までの距離は、1826㎞であるのに対し、キエフからモスクワまでの距離は、755㎞です。しかも、当時のミサイルのスピードよりも、現在のそれの方が、格段に速くなっているでしょう。

ロシアは核兵器大国なので、同国軍は物凄く強いような印象を受けますが、第一次世界大戦におけるロシアの戦死者数は、参戦国中ドイツに次いで第二位であり、第二次世界大戦におけるそれは第一位です。他国と比較して多い。両大戦とも、同国は戦勝国側だったのにです。ロシアの通常戦力は、そんなに強くないのかもしれません。

ナポレオン軍によるロシア遠征にしろ、第二次世界大戦におけるドイツのソ連侵攻にしろ、自国の奥深くまで、他国を引き摺り込んで(戦線や補給路を延ばして、相手を消耗させることによって)、やっと勝利しています。ウクライナがNATOに加盟することは、ロシアの奥深いはずの懐を、切り取ってしまうことになるのではないでしょうか。

当面は、ウクライナのNATO加盟を保留、中立化が平和への道ではないでしょうか。NATO加盟は、50年後とか、将来の課題としたらどうでしょうか。

立憲民主党の「女性候補5割」に賛成

1.朝日新聞の記事

2月17日付朝日新聞に、次のような記事が掲載されました。
見出しは、「立憲『女性候補5割』」「活動計画原案 参院選の目標明記」
内容は、下記の通りです。

「立憲民主党が27日の党大会で採択する2022年度活動計画の原案がわかった。夏の参院選では、1人区で野党候補の一本化を図るとともに、『女性候補者5割』の目標を明記した。(中略)
『国民の声に機敏に対応し、具体的で建設的な政策提案を続ける』と強調。対話を重視し、小川淳也政調会長が始めた『りっけん対話集会』を全国的に開催する考えを盛り込んだ。
参院選に向けては、従来の支持層に加え、中間層、無党派層からの支持を獲得するため、『幅広いアプローチ』が求められると指摘。1人区では『それぞれの選挙区事情を考慮しながら野党間の候補者調整を図る』とした。『ジェンダー平等』を掲げる党として、女性候補者5割をめざす方針も明記した。(鬼原良幸)」

2.数学と文学と政治

大学の数学科や物理学科、あるいは工学部の学生数の、男女の比率を同じにしたらどうでしょうか。また、それらの専門の教授や助教の男女の比率を同じにしたら、どうでしょうか。数学や物理が好きな、あるいは得意とするのは、女性よりも男性の方がずっと多いでしょう。

そのようにすると、それらの分野では、女性にとっては広き門になるでしょうが、男性にとっては、狭き門になります。たとえば、男性は100人の応募者に対し、合格・採用は10人(10%)、女性の場合は40人の応募者の内、合格・採用は10人(25%)というようなことが起こります。
このことから当然予想されることは、合格・採用された男性10人の学力よりも、女性10人のそれの方が、低くなるだろうということです。
大学において、このような「活動計画」が行われることは、望ましいでしょうか。

数学や物理とは違って、一般的に、文学は男性よりも女性の方が、好きな人が多いし、得意とします。
たとえば、文学賞である芥川賞や直木賞の受賞者や候補者の男女比を同じにしたらどうでしょうか。芥川賞の受賞が二人なら、必ず男女一人づつにしなければならない、芥川賞の発表は年二回7月と翌1月に行われるので、7月は女性が、1月は男性が受賞としなければならないと決めたらどうでしょうか。

文学で優れた作家、優れた作品が生まれるのは、男女の比率とは無関係で、ランダムです。なので、文学賞の候補者、受賞者を男女同数にするというのはナンセンスです。
作家である選考委員も、候補に挙がっている者も、かつて受賞した作家たちも、誰もそんなことは望まないでしょう。彼らの意見は、男女に関係なく、その賞に相応しい人物が受賞すべきである、で一致するでしょう。文学で賞を取るのは容易ではありませんし、それゆえに、賞を獲得した人たちには、それなりに自負があるはずです。だから、文学賞の受賞者の男女比を均一にすることには、皆反対するに違いありません。

新聞の政治経済社会欄や言論誌を読む人、ネットで政治関連の記事を読む人は、男女で比べたら、やはり、女性よりも男性の方がずっと多いだろうと思います。
そのような状況で、国会議員選挙の立候補者を男女同数にすること=女性候補者5割にすれば、数学科や物理学科の教授や助教や学生の男女比を同じにすること、文学賞で男女の受賞者数を同じにすることと、同類の弊害が生じるでしょう。

他の条件が等しいとして、男女に関わりなく優秀な人材が科学者や技術者になる国と、優秀さは二の次で、男女比を同数にして、科学者や技術者を登用した国とが戦争をしたら、どちらが勝つでしょうか。前者でしょう。
同様に、男女に関係なく優秀な人物を起用する政党と、優秀さは二の次で、男女比を同じにした政党が国会で闘った場合はどうでしょうか。、後者は前者に敗北するでしょう。

下駄を履かされた状態で、国会議員になる女性たちに、政治家としての自負、あるいは国民を守る責任感が生まれるでしょうか。
長年政治に関心を抱き、政治に従事して、努力してようやく政治家になった女性たちだって、ぽっと出の同性政治家は面白くないのではないでしょうか。

3.立憲民主党で良かった

「女性候補者5割をめざす方針も明記」は、正気な人たちは、誰も賛成しないだろうと思います。こんな下らない提案をしたのが立憲民主党で良かった。もし自民党でこんな提案がなされ、実施されたら、日本は危うくなります。

立憲民主党は、なぜこのような大衆迎合的な提案をするのでしょうか。
何れ国会議員の男女比は同じになるし、そうしなければならない、それが未来の姿だと考えているためでしょうか、それとも、それが「国民の声」であり、それに「機敏に対応」したからでしょうか、あるいは、もう政権を取る気がなくて、少数の議席を確保するために、ジェンダー平等を支持する、特定なリベラルなファンを引き付けておくために、女性候補5割を掲げたのでしょうか。

4.イデオロギーの呪縛

女性候補者5割もそうですが、女系天皇やら、左翼は時々奇妙な提案を行います。
それに対して、右派は、左派は日本の破壊を目標としている、というようなことを言います。しかし、それは誤認でしょう。
私は、左派も右派も正義感に基づいて、その言動を行っているとみています。相手は日本の破壊を狙っているとか、金のために動いているなどといった主張は駄目です。自分たちが正義感で動いているのなら、相手だって正義感で動いているのだと考えるべきです。

女性候補5割が立法化され、すべての政党がそれを実行しなければならなくなったのなら、左翼は日本の破壊を狙っていると言えるし、憂慮すべきですが、このたびの提案は立憲民主党だけが実行するというものです。彼らは、自らのイデオロギーに忠実なだけです。そして、自らのイデオロギーによって、自らの首を絞めようとしている!

女性候補5割を実施し、それを継続して実行したら、立憲民主党は万年野党化または泡沫政党化は免れないでしょう。同党は、日本よりも自党を破壊するつもりのようです。
同党の女性候補者5割に賛成します。是非それを実現していただきたい。それは、立憲民主党の、終わりの始まりになるかもしれません。
「悪夢のような民主党政権」の正嫡政党が潰れることは、お国のためになります。
良かった、良かった。

『功利主義入門 ーはじめての倫理学』を読んで

はじめに

1月31日公開のブログ記事で、児玉聡氏の『功利主義入門 ーはじめての倫理学』(ちくま新書、2012年刊)を読んで、何れ読後感を書いてみたいと思います、と述べました。で、読んでみました。
ただ、同書を読んで、全般的に論じようとすると膨大な時間が必要ですし、一度のブログ記事ではとても語りつくせません。なので今回は、所々気になった点についてだけ、コメントすることにしました。その他の点については、今後個別に論じることもあるだろうと思います。
今月11日に、「箇条書き 功利主義とはなにか」(以下、「箇条書き」)という記事を公開しましたが、一応そこで提示した基準に照らし合わせて、評することにします。

1.個人倫理と社会倫理

児玉氏の『功利主義入門』(以下『入門』、( )内は同著の頁)から引用します。

「J美はそう思って、『序説』(ベンサム著『道徳および立法の諸原理序説』)を読み進めた。功利性の原理(功利原理)とは何か。人がなすべきこと、正しい行為とは、社会全体の幸福を増す行為のことであり、反対になすべきではない、不正な行為とは、社会全体の幸福を減らす行為のことだと書いてある。そして、幸福とは快楽に他ならず、不幸とは快楽がない状態か、苦痛のことだとある」(太字 いけまこ)(46頁)

「(3)総和最大化。功利主義では、一個人の幸福を最大化することを考えるのではなく、人々の幸福を総和、つまり足し算して、それが最大になるよう努める必要がある」(56頁)

「功利主義は『社会全体の幸福を最大化せよ』と主張する立場であるため(後略)」(134頁)

しかし、功利主義の目的は、「社会全体の幸福」だけなのでしょうか。
ベンサムは『序説』(『世界の名著 38 ベンサム J・S・ミル』、中央公論社、1967年刊)で述べています。

「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、また同じことを別のことばで言いかえただけであるが、その幸福を促進するように見えるか、それともその幸福に対立するように見えるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。私はすべての行為と言った。したがって、それは一個人のすべての行為だけではなく、政府のすべての政策をも含むのである。(中略)ここでいう幸福とは、当事者が社会全体である場合には、社会の幸福のことであり、特定の個人である場合には、その個人の幸福のことである」(太字 いけまこ)(82-83頁)

太字の箇所の記述で分かるように、功利主義が求めたのは、「当事者が社会全体である場合」だけではありません。「箇条書き」のE、G、Iで記しているように、私的な幸福も目的の一つです。
もっとも、児玉氏は別のところでは、次のように語っています。

「ベンタムにとっては、『倫理』は個人の道徳と、政治や立法の両方を意味していた。そして、ベンタムの主著『道徳および立法の諸原理序説』という書名に示されているように、功利主義はそのどちらについても使えるものだった」(93頁)

児玉氏は「ベンタム」と書き、私は「ベンサム」と書いていますが、同一人物です。
さて、児玉氏の、前の三つの発言と、この発言は矛盾しているように思われます。そして、ベンサム及び功利主義の思想は、後者の方が正しいでしょう。道徳(個人倫理)および立法(社会倫理)の『諸原理序説』なのですから。
ベンサムは、社会全体の幸福だけを問題にしたのではありません。ただ、彼は立法による社会改革を目指したので、個人の幸福よりも社会の幸福を追求したのだと誤解されることになったのだと思います。

児玉氏は、書いています。

「現代の功利主義は、二つの点で洗練されている。
一つは、功利主義的に行為するために、ひたすら最大多数の最大幸福のことばかりを考えて行為する『功利主義マシーン』になる必要はないとする点だ。(中略)
かつてベンサムの弟子の一人のジョン・オースティン(1790-1859)という功利主義者は、この考えを次のように表現した。『健全で正統な功利主義者は≪彼氏が彼女にキスするさいには公共の福祉について考えていなければならない≫などと主張したことも考えたこともない』。
功利主義者は年がら年じゅう、功利原理を用いて意思決定をする必要はないとするこの考え方は、現在では『間接功利主義』と呼ばれる。それに対して、ゴドウィンは少なくとも最初の内は、立派な功利主義者は最大多数の最大幸福について始終考えていなければならないと考えていたので、『直接功利主義』の立場を取っていたと言える」(80-81頁)

功利主義の創始者ベンサムは、『序説』の記述でも分かるように、間接功利主義の立場なのは明らかです。なので、「現代の功利主義」ではありませんが、「洗練されてい」たと言えるでしょう。

2.倫理至上主義と真善美並立主義

児玉氏は、述べています。

「ベンタムはいわゆる快楽説を取っているが、これは幸福主義の一種だ」(55頁)

そして、

「たとえばわれわれは自由や真理にも価値があると考えているだろう。幸福主義は、それらに一定の価値は認めるものの、自由や真理に価値があるのは、それらが人々の幸福を増進するからに他ならないと考える。何かの役に立つという理由からではなく、それ自体に価値があることを『内在的価値』と呼ぶが、幸福主義によれば、その世界で内在的価値を持つのは幸福だけであり、それ以外のものは幸福になるための手段として道具的価値を持つに過ぎない。この立場を取らず、自由や真理は人々の幸福とは独立に価値を持つと主張するならば、それは非幸福主義である」(56頁)

「箇条書き」に書きました。

「A、真善美という言い方がありますが、物事の真偽を取り扱うのが、狭義の哲学や科学であり、善悪を扱うのが倫理学であり、美醜の問題を扱うのが美学です」
「C、功利主義は、最高善(善悪を判断するための究極標準としての最高目的ー広辞苑)は幸福だと考えます」

私は、真や美は、善とは別の次元の問題だと思います。そして、それらは「独立に価値を持つ」と考えます。最高善は幸福だと思いますが、最高真や美?は幸福だと考えません。
自由はともかく、真理は、「幸福になるための手段として道具的に価値を持つに過ぎない」とするのは、真美よりも善の方が上位の価値であるする倫理至上主義ではないでしょうか。

私は倫理至上主義の立場は採りません。真善美並立主義が正しいと考えます。
たとえ人を不幸にするとしても、真理や美はそれ自体として価値があると思います。
もっとも、aとbはどちらが真理であるかとか、cとdのどちらがより美しいか、というような、個別的かつ具体的な判断は容易ではありませんが。

3.宗教と倫理

『入門』の第一章の中に、「宗教なしの倫理はありうるか」との小見出しがあります。

「たしかに、仏教にせよキリスト教にせよ、倫理を説いてきたのは伝統的に宗教者であることが多かった。しかし、だからといって、宗教なければ倫理なし、ということには必ずしもならないだろう。(中略)仮に神がいないとしても、倫理は成り立つのである」(22-25頁)

この点は、世間の大勢と違って、私は児玉氏に同意します。
真偽、美醜における判断同様、善悪の判断においても、神も仏もGODも不要だと考えます。こんなことを言うと、猛反発されそうですが、「神」がいなければ善悪もない、というのは、ユダヤ的一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の迷信もしくは誤解だと思います。

ただ、私は次の児玉氏の発言には、同意できません。

「神の存在を信じない人は、倫理的ルールを、スポーツやゲームのルールと似たものと考えることができる。たとえば将棋のルールは人間が作ったものだが、それと同様に、倫理のルールも人間が作ったものである、また、将棋のルールがそうであるのと同様、倫理のルールも必ずしも誰かが一度に考え出したものではなく、社会生活を営む間に、人々が徐々に作り出したものだと考えられる」(23頁)

スポーツやゲームのルールは、簡単に変えられますが、倫理のそれは簡単には変更できません。真偽や美醜の判断(個別の事例に対する判断ではなく)同様、善悪の根源的な判断も、人間のア・プリオリ(先験的)な認識に基づいていると考えます。

4.上位価値と下位価値

児玉氏の記述を引きます。

「ミル流の自由主義によっても、個人の自由は最大限保障される。ただし、その基本となる発想が異なる。ミルが個人の自由を尊重せよというのは、われわれが最初から自由権を持っているからではない。個人の自由を保障した方が、長期的に見て社会全体のが幸福になるとい理由からだ。この意味で、功利主義においては自由の価値は、社会全体の幸福の価値から派生するものと言える」(101頁)

私は第二節で、真善美の価値は並立すると思うと書きました。しかし一方、善に関する価値の中には、上位の価値と下位の価値との序列があるのではないでしょうか。
自由、民主主義、平等、人権、法の支配、福祉などの政治経済社会的な価値は、真偽や美醜に関する価値ではなく、善悪に連なる価値であり、それらは倫理的善という目的のための手段だと判断します。なので、それらの価値は幸福という上位価値に対する下位価値だと考えます。

「功利主義においては自由の価値は、社会全体の幸福の価値から派生するものと言える」の中の「社会全体の」という箇所を除けば、児玉氏の発言は正しいと思います。

5.快楽の質と量

功利主義において快楽や苦痛とは何を意味するのかについては、ベンサムの『序説』「第五章 快楽と苦痛、その種類」を見れば、おおよそ見当がつくでしょう。
児玉氏は、快楽の質と量の問題について書いています。

「彼(ベンサム)の有名な言葉に『快の量が同じであれば、プッシュピン遊びと詩作は同じぐらいよい』というものがある」(140頁)
「実際、わたしがテレビゲームをして楽しんでいると、快楽のソムリエの称号を持っている人たちがやってきて、わたしが全く知らないオペラの方が快楽の質が高いからと、無理やり劇場に連れて行かれても困るし、おそらく幸福にもならないだろう」(143頁)

ベンサムの言も、児玉氏の言も正しいでしょう。
快楽の質と量の問題では、それには質の高低があると言う人がいて、プッシュピン遊びよりも詩作の方が質が高いというようなことを、即座に断言します。しかし、そもそもどのような場合に、あるいはどのような証明がなされたなら、快楽に質の差がある、もしくは、ないと言いうるのか。それについて、一歩立ち止まって、考えてみてはどうでしょうか。

6.善い人間を論じることと善い人間になること

児玉氏は、マルクス・アウレリウスの言葉を引用しています。

「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ」(194頁)

この言葉は知りませんでしたが、読んで笑ってしまいました。
過去から現在までの、道徳哲学または倫理学者という人たち、とりわけ些末な事柄に拘泥している人々を風刺した適切な評言ではないでしょうか。 

箇条書き 功利主義とは何か

功利主義とは何かについて、私の解釈を箇条書きにしてみます。

A、真善美という言い方がありますが、物事の真偽を取り扱うのが、狭義の哲学や科学であり、善悪を扱うのが倫理学であり、美醜の問題を扱うのが美学です。

B、功利主義は、さまざまに存在する倫理学説の一つです。

C、功利主義は、最高善(善悪を判断するための究極標準としての最高目的ー広辞苑)は幸福だと考えます。

D、人間のすべての行為は、他人に影響を与えない行為(無人島で一人で暮らすロビンソン・クルーソーや休日に自室で趣味に興ずる人など)と、他人に影響を与える行為に分けられるでしょう。

E、前者における行為の善悪を扱うのが、個人的(私的)倫理であり、

F、後者における行為の善悪を扱うのが、社会的(公的)倫理です。

G、個人倫理の目的は、その人物の最大幸福であり、

H、社会倫理の目的は、最大多数の最大幸福です。

I、個人倫理で、何をなすべきかは、その人物の幸福の総量=快楽の総量+苦痛の総量、によって決めるべきであり、

J、社会倫理で、何をなすべきかは、その行為が影響を与える人々の、幸福の総量=快楽の総量+苦痛の総量、によって決定すべきです。

K、政治的経済的社会的な諸問題で、どのような選択・政策を行うべきかは、社会倫理の延長上の問題です。なので、功利主義は、政治思想でもあります。

台湾と勢力均衡

ー勢力が均衡しているよりも、不均衡の方が平和な場合もありうるー

1.中共の台湾侵攻?

中共による台湾侵攻の可能性が、取り沙汰されています。

台湾クライシス 有事の可能性はどこまで高まっているのか?」というネット記事は、「2021年は中国軍が台湾に侵攻する可能性が現実味を持って論じられた年だった」と、書き始められています。
ただ、「中国軍は1979年の中越戦争以降、本格的な実戦を経験していない。空母や陸戦隊の運用経験も乏しい。中国の新兵器に関しては、多くの専門家が性能を疑っている」とのことで、「現時点では米軍の介入を排除して、台湾に大規模な上陸作戦を実行する能力を中国軍が持っているとは言いがたい」という結論です。

中共による台湾侵攻の可能性については、昨年三月に、デービッドソン米インド太平洋軍司令官(当時)が、上院の軍事委員会公聴会で、「6年以内に危機が明らかになる」と語ったそうですし(1)、十一月にはミリー統合参謀本部議長は、「1~2年以内は侵攻はないとの見方を示した」ものの、一方、「将来的に習指導部が武力統一を選択する可能性を示唆した」(2)そうです。
また、ブリンケン国務長官は、十二月に、「中国が台湾に侵攻すれば、『多くの人々にとって恐ろしい結果になる』」、また、「『中国の指導者が慎重に考え、危機を引き起こさないことを期待している』と語った」(3)そうです。

(1)https://www.jiji.com/jc/v4?id=20211231taiwancrisis0001
(2)https://www.sankei.com/article/20211104-5EQBHKZQUNNU5P266ZX6QVWZCU/
(3)https://www.asahi.com/articles/ASPD446Q1PD4UHBI00K.html

2.勢力均衡とは

勢力均衡(バランス・オブ・パワー)とは、「国際政治において1国また1国家群が優越的な地位を占めることを阻止し、各国が相互に均衡した力を有することによって相対的な国際平和を維持しようとする思想、原理」、あるいは、「国家間の勢力が釣り合った状態。また、それによって、国際間の平和を維持し、自国の安全を確保しようとする国際政治上の原理または政策」(コトバンク「勢力均衡」)とされます。

もっとも、高坂正堯氏(1934-1996)は、『国際政治』(中公新書、1966年刊)に書いています。

「勢力均衡というものは明確に定義することはできない。なぜなら、力というもの自体が捉えにくい漠然としたものだからである」(25頁)

それはさておき、勢力均衡が正しいのなら、中共による台湾への侵攻の可能性が語られる今、中共及びその同盟国と、台湾を含めたアメリカとその同盟国の勢力が釣り合っている方が、平和に資するということになります。
しかし、それは正しいでしょうか。そのような状態は、東アジアの平和を維持するのに、適切なのでしょうか。

3.米中の均衡は平和に資するか

高坂氏は、同著に書いています。

「実際の均衡が安定するのは、より有利な立場にあるものがその立場を濫用して有利さを優越に変えようとせず、不利な立場にあるものがあえて挑戦しないという場合にほほかぎられるのである」(28頁)

もし中共が、「より有利な立場にある」アメリカに挑戦しなければ、台湾を巡って、米中間に戦争は起こらないでしょう。しかし、中共がアメリカに挑戦したとしたら?台湾に関して、核心的利益だと考える中共が、アメリカに対して、今後も「あえて挑戦しない」と言い切れるかでしょうか。

先の記事(1)の中で、香田洋二元海将は、語っています。

「米国と事を構えたら、被害が大き過ぎる。しかし、習氏が明確に目標を示した以上、台湾統一を目指す動きがないと考えるのは間違いだ。(中略)米国が動かない状況であれば、中国は台湾を取れる。(中略)しかし、米国が本気で阻止に動けば、できない。(中略)『米国が出てこない、出てきても対応できる』と思ったときに中国軍による台湾侵攻はあり得る」

台湾を含めた米国とその同盟国(米プラス)の力が、中共とその同盟国の力(中プラス)よりも、はるかに優越していれば、中共は台湾に手が出せないでしょう。しかし、両者の力が均衡していたら?
当然のことながら、両者の力が均衡している方が、「米国が(中略)出てきても対応できる」と、中共が考える可能性が高くなります。ということは、均衡している方が、戦争の可能性も高まるということです。

4.不均衡平和論

それらのことを考え合わせると、米プラスの力<中プラスの力の場合が最も危険で、米プラスの力=中プラスの力の場合も余り安全とはいえません。米プラスの力>中プラスの力の場合が、一番台湾海峡の平和に資するということになります。

台湾海峡に限らず、国際社会は、勢力均衡の状態よりも、むしろ道徳諸国の力が、非道徳諸国の力を凌駕している時、平和で、安全なのではないでしょうか。
道徳諸国とは、自由、民主主義、人権、法の支配という価値を実現している国家のことです。一方、非道徳国家とは、それらの価値を実現していない国家のことです。要するに、道徳国家とは、自由諸国のことです。
そして、自由諸国の力が、非自由諸国の力よりも明確に優位にある時、一般的に言って、国際社会は安全なのではないでしょうか。

安倍晋三元総理は、雑誌『Hanada』2022年2月号の櫻井よしこさんとの対談で、「『戦域』と『戦略域』、二つに分けて考えることが重要です」と語っています(58頁)。前者は、「台湾や尖閣諸島があるこの戦域」、後者は「全世界的」な範囲という意味です。安倍氏は、「この戦域では中国が相当優勢になっていますが、地球すべてをカバーする戦略域において、つまり核弾頭の数において米国が圧倒していれば、たとえ戦域で優位に立ってもやめておこうということになる」(59頁)、と発言しています。
自由諸国は、対中共に関して、戦略域では圧倒、戦域でもせめて均衡を目指すべきでしょう。

自由諸国は結束すべきですし、日本はアメリカやその他の自由諸国と協調すべきです。
ファイブアイズ+クアッド+NATO諸国+台湾>中共となった方が、中共は台湾に手が出せないし、台湾近辺の平和を維持できるでしょう。

最近ロシアによるウクライナへの侵攻が憂慮されていますが、問題は、もしそのような事態が現実化した場合、アメリカは二正面に対処できませんし、自由諸国の東アジアにおける関心が希薄に、そして軍事的プレゼンスも手薄になって、中共が冒険的行動にでるかもしれません。そのような時が危ういでしょう。

ウクライナは元々ロシアの勢力圏であるし、NATOの東方拡大は、ロシアに脅威を与えます。また、自由諸国の力にも限りがあります。なので、力が及ばない地域の問題に関与するのは、ほどほどにすべきだと思います。

【折々の迷論】
冷戦時代に、次のような珍妙な勢力均衡的発言を行う人がいました。

「中国とアメリカの『友好関係』が回復したことは、中国もソ連封じ込め陣営の一員になったとも解釈されるから、ソ連にとっては非常に苦々しいことである。もしそうなら、このような事態に際しては、日本は逆にアメリカとの間の距離を少しひらくように心掛け、中立化の傾向を強化して、米ソ間の緊張度を下げるよう努力すべきでなかろうか。このようなことをすれば、もちろん表面的には、日米の仲は悪くなるだろう。しかしその結果、米ソ関係が改善されるのなら『日米離間』は日本の防衛に貢献し、真の意味の『日米友好』を推進する筈である。必要な場合には、アメリカを激怒させてでも、日本が米ソの関係を改善するのに主要な役割を演じるというのでなければ、日本は真の意味のアメリカのパートナーでありえない」(森嶋通夫著、『自分流に考える』、文藝春秋、1981刊、131ー132頁)

「このような事態に際しては、日本は逆にアメリカとの間の距離を少しひらくように心掛け」たら、「表面的」ではなく、本質的に「日米の仲が悪くなる」でしょう。
勿論、その時は、日ソ関係は改善されるかもしれませんが、米ソ関係は改善されません。

また、日本が「アメリカを激怒させ」たなら、後者は前者の言うことを信用しなくなるでしょうから、「日本が米ソの関係を改善するのに主要な役割を演じる」ことはできませんし、そうなれば、「日本は真の意味のアメリカのパートナーでありえ」ません。

「全体のためには少数が犠牲になっても仕方ない」は功利主義か

今年の1月15日付朝日新聞(夕刊)に、「いま聞く interview」という記事が掲載されました。
インタビューをしているのは、同紙編集委員田村建二氏で、受けているのは、京都大准教授児玉聡氏です。

「新型コロナウイルスのオミクロン株が拡大している。昨年の『第5波』のように、重い症状でも入院できないような事態が続出したとき、どんな選択をすべきなのか。『公衆衛生倫理』を専門とする児玉聡さん(47)に聞いた」

との前置きの後、続けています。

「重い肺炎の人が2人。だが、人工呼吸器は一つしかない。そんな場面に出くわしたら、どちらの人に呼吸器を使うのか」

後段のような問題意識は、住吉雅美氏の『あぶない法哲学』(講談社現代新書)第六章と共通しています。ただ、児玉氏は、次のように述べています。

「ベンタム(ベンサム)といえば『最大多数の最大幸福』が有名で、全体のためには少数が犠牲になっても仕方ない、という考えだと誤解されがち。実際は、これまで考慮されてこなかった弱者の幸福にも配慮しようというのが本来の思想です」

『あぶない法哲学』の第六章を読めば分かりますが、功利主義は、「全体のためには少数が犠牲になっても仕方ない、という考えだと誤解」しているのが、住吉雅美氏です(「住吉雅美氏と功利主義」)。

功利主義に関する書物は、気が付いたときはなるべく購入するようにしています。ただ、これまで功利主義や倫理学について、真剣に考えてきた訳ではないので、知りませんでしたが、児玉氏の発言から、二つのことが分かりました。
第一。功利主義が、全体のためには少数が犠牲になっても仕方ないと考える思想だと思っているのは、住吉氏だけではないこと。
第二。功利主義に対する、そのような誤解が世間に流布しているらしいこと、です。

どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。
外国の偉い学者先生が、どこかでそのような説を唱えているのでしょうか。わが国の学者がそれを鵜吞みにして、そのような主張を拡大再生産しているのかもしれません。

児玉聡氏には『功利主義入門』(ちくま新書)という著書があるらしい。倉庫の本棚を見たら、既に購入していました。何れ読んで、読後感を当ブログに書いてみたいと思います。