もう一つの歴史修正主義

1.名称の変更

1937年7月7日盧溝橋事件から始まった中華民国と日本との事変は、当初北支事変と名付けられ、同年9月2日の閣議決定により、支那事変に改められました。
この事変は、事変にも拘らず、現在は日中戦争と呼ばれています。

1941年12月7日、ハワイの真珠湾を日本が攻撃をして始まった戦争は、大本営政府連絡会議によって、支那事変をも含めて大東亜戦争と呼称されることになりました。
ところが、戦後GHQがそれを禁じ、太平洋戦争に変えさせ、今日もそれが先の大戦の名称の標準になっています。一方、左翼は近年アジア・太平洋戦争という呼称(ウィキペディアによれば、1980年代に提唱されたとのことですが)を使用しています。

2.なぜ名称を変えるのか

左翼、あるいは反日派は、どうして戦争及びそれに関する事象の名称の変更に熱心なのでしょうか。
それは、変更前の呼称自体やそれが表現する戦争観に同意できないからでしょう。また、戦時中の人たちとは違って、自分たちはその結果(勝敗や推移)を知っているし、当時の人たちよりも、戦争の実相が良く分かっているとの慢心があるためでしょう。
だから、彼らは平気で戦争等の名称を変更しようとするのです。

3.終わりなき変更

ところで、先の大戦について、現在の学者がもっとも良く知っているでしょうか。
将来新しい資料や視点が発見されたりするかもしれません。とするなら、現在の歴史学者よりも百年後の、百年後よりも二百年後の、二百年後よりも三百年後の学者の方が、事変や戦争の実相をより理解しているかもしれません。三百年後の左翼学者が、現在の左翼学者の呼称を否定することだってありえます。そして、さらに三百年後の学者の説を五百年後の学者が否定・・・・。そんなことをやっていれば、半永久的に歴史的名称を変更していかなければならなくなります。あるいは、千年後やはり数百年前の呼称の方が正しかったということになるかもしれません(笑)。

それに、将来新しい歴史的事件が発生しえます。
現在中共は、アメリカに追いつき、追い抜こうとしています。一方、アメリカはそのような中共の覇権国化を阻止しようとしています。数十年後、その米支間で戦争が始まり、両国軍がアジアで、あるいは太平洋で戦い、戦後国際社会でその戦争がアジア・太平洋戦争と呼ばれることになるかもしれません。そうなったら、現在のわが国の左翼学者のアジア・太平洋戦争なる呼称はどうなるのでしょうか。

4.当時の名称を優先

 

余りにも古い時代、たとえば縄文時代や弥生時代の人たちは、自分たちの時代をそのように呼んでいません。というよりも、自分たちの時代をどのような言葉で表現するかという発想自体なかったでしょう。だから、そのような時代の名称は後世の人が決めるしかありません。
しかし、支那事変や大東亜戦争の時代の人たちは、自ら呼称を決め、それを使用しました。またそれは当時の人たちが出来事をどのように見て、どのように考えたかが表現されています。
私たちは原則として、当時使用されていた名称を使うようにすべきです。後世の者たちは、歴史的事件・事実の名称を、捏造すべきではありません(捏造例:アジア・太平洋戦争、日中戦争、従軍慰安婦)。

5.もう一つの歴史修正主義

名称の変更は、一種の歴史修正主義です。
歴史教条主義者(前大戦は、連合国=善、日本=悪と信じる戦勝国史観・東京裁判史観論者)たちは、それを変更することによって、自ら歴史修正主義を体現しています。自分たちの史的教条を守るために、新しい語を造っているのです。
歴史教条主義者は、別種の歴史修正主義者です。
彼らは、お前たちは歴史修正主義者だと右派を非難しながら、自らは歴史修正主義を実践しています。

6.歴史教条主義否定論

戦後七十年以上も経つのに、いまだに世界は、第二次大戦は連合国=善、同盟国=悪との歴史観が大手を振るっています。旧連合諸国の数が圧倒的に多いからでしょう。

第二次大戦は民主主義対独裁主義の戦いだったとされています。しかし、連合国側のソ連も中華民国も民主主義国ではありませんでした。その戦争観自体が嘘です。
同大戦は、帝国主義国同士が偶然二手に分かれて、権益をかけてたたかった戦争にすぎません。どちら側が善で、どちら側が悪というようなことはありません。
同盟国は、弱かったから負けただけです。

<戦争の善悪と勝敗は無関係>だと、賢人がいくら語っても聞く耳をもたない人が多い。

7.歴史教条主義の打破

戦勝国史観を疑っている右派の人たちは、<連合国=善、同盟国=悪>を逆転して(歴史修正して)、<連合国=悪、同盟国=善>としたい訳ではありません。
連合国と同盟国は、双方の言い分は五分五分です。一歩譲って、六分四分です。いくら譲っても七分三分で、同盟国にも三分の理はあると言いたいだけです。

連合国はドイツによるユダヤ民族虐殺を戦争の正当性に利用しています。しかし、ユダヤ民族の虐殺がなかったら、はたして同盟国に対する連合国の道徳的優位は証明しうるのでしょうか?アジア、アフリカを散々侵略していた連合諸国が、日独の侵略を非難できるのでしょうか。

戦勝国史観は絶対に正しい、とするには無理があります。
それは時間がかかろうとも、何れ打ち破るべきものだと考えます。

 

ドイツは和解できているか

戦後ドイツの反省」に書きました。

「第二次世界大戦以前の国家の行為に対し、ドイツは真摯に反省したから近隣諸国と和解できているのに比べて、日本は心から謝罪しないから、韓支との関係がいまだにギクシャクしていると非難されます。しかし、はたしてドイツは本当に反省しているのでしょうか」

戦後ドイツは、イスラエルと、あるいはフランスやポーランドと和解したとされています。後者とは、共通の歴史教科書を作成したそうです。
しかし、はたしてドイツは本当に近隣諸国と和解できているのでしょうか。

今年1月31日にイギリスは欧州連合(EU)から脱退しましたが、同国を含めたEUの人口ランキングによれば、1位ドイツ、2位イギリス、3位フランスです。また、同GDPランキングでは、やはり1位ドイツ、2位イギリス、3位フランスです。ドイツは明らかにEU第一の大国です。
ところが、英仏は共に核兵器保有国であるのに対して、ドイツは非保有国です。

ある人は言っています。

「東京裁判と同じく、ドイツにも連合国軍によるニュルンベルグ裁判はありました。しかしそれ以外に、ドイツ人は自ら国家が生み出した罪に向き合い、謝罪と補償を繰り返し、関係国との和解に最大限の努力をしてきました。そして、今、欧州の堂々たるリーダーとなっています」(過ちを認められない日本がドイツの謝罪に学ぶこと)

ドイツが「欧州の堂々たるリーダー」であるなら、核兵器保有国であってもおかしくありません。では、同国が核保有を求めたとして、欧州はそれを認めるでしょうか。認めるわけがありません。
なぜでしょうか。

欧州諸国は、ドイツを心の底から信用していないからです。いつかまた暴れるかもしれないとの懸念を抱いている。表面上、和解できている、ということになっているだけでしょう。だから、彼らはドイツの核保有を認めないのです。

欧州がドイツの核保有を認めた時、同国が近隣諸国と真に和解できた時だろうと思います。

イギリスが離脱することによって、EUでは核保有国はフランス一国になりました。もちろん、北大西洋条約機構(NATO)によって欧州諸国はアメリカ及びイギリスと軍事同盟を結んでいます。が、米国そして英国が余所の地域の問題に手を取られている時、EUはフランスの核だけで外敵からの脅威に対処できるでしょうか。

将来ロシアなり、かつてのオスマン帝国のような中東なりからの脅威に欧州がさらされ、それに対して、ドイツが中心となって、あるいはフランスその他と協力して外敵からの脅威を排除しえた時、ようやく近隣諸国はドイツを本当に信頼する=真の和解が成立することになるのだと思います。


日本に「極右」などいない

1.右翼と極右

現在のアメリカの二大政党は、共和党と民主党です。共和党=右派=保守、民主党=左派=リベラルとされています。

欧米では、右派は二種類に分けられるでしょう。保守・右翼と極右です。
米欧その他の、現代民主主義国においては、自由や民主主義が実施されています。それらが保障されている限り、その枠内で、つまり非暴力的に、言論や出版を通じて、自己の主張を実現しようとするのが保守・右翼です。
それに対して、自由が保障されているにも拘らず、暴力をもってしても自己の主張を成就しようとするのが極右です。

2.日本の極右?

ところで、今日の日本に極右はいるでしょうか。
日本は自由主義国であり、自由が保障されています。それにもかかわらず、少数ではありますが、暴力的に(肉体言語によって)自己の主張を達成しようとする勢力または個人がいます。右翼と呼ばれる人たちです。

図書館や書店に行けば分かりますが、欧米で「極右」に相当する勢力は、日本では「右翼」と呼ばれています。すなわち、欧米の極右=日本の右翼です。
日本の右派は、保守と右翼の二種類です。なのでわが国には、いわゆる極右はいません。

戦後の日本における保守と右翼を代表する人物を各々挙げましょう。
前者に相当するのが福田恒存氏であり、後者に相当するのが野村秋介氏です。
野村氏(1935-1993)は、1963年7月15日に河野一郎邸焼き討ち事件、1977年3月3日経団連襲撃事件を起こし、1993年10月20日朝日新聞東京本社で拳銃自殺をした正真正銘の右翼です。

別の、もっと有名な人物の例を挙げましょう。
いくら過激な発言をするといっても、言論によって自己の主張を行う石原慎太郎氏は保守です。一方、1970年11月25日陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問し、東部方面総監を人質に、自衛隊員に決起を促す演説を行い、駄目だと判断するや割腹自殺を遂げた三島由紀夫氏は右翼当たります。

3.安倍首相は極右か

たとえば、ネット上に「総選挙・自民党の極右候補者リスト『ウヨミシュラン』発表!日本を戦前に引き戻そうとしているのはこいつらだ!」という記事があります(注)。
2017年10月22日の総選挙前の記事ですが、そこで挙げられているのは、安倍晋三首相や菅義偉、荻生田光一、稲田朋美、古屋圭司、城内実、高市早苗、二階俊博、麻生太郎、杉田水脈氏など何れも自民党の衆議院議員です。
安倍氏等は、「自民党の極右候補者」だとされていますが、では彼らは右翼の野村秋介氏や三島由紀夫氏よりも、もっと政治的に右寄りなのでしょうか?
まさか。

国会議員は自由や民主主義の枠内で戦う人たちです。だから、彼らは極右ではありえません。先に、欧米の極右は日本では右翼に相当すると述べましたが、安倍氏等は右翼ですらなく、ただの保守政治家にすぎません。

4.なぜ保守政治家が「極右」だとされるのか

安倍首相たちは保守です。それなのに、なぜ極右のレッテルを貼られるのでしょうか。
極右のレッテルを貼る者たちが左翼だからです。そして、左派は右翼という言葉が喚起する負のイメージを利用して、保守政治家たちを実体よりも悪く印象付けるため、右翼に極をつけて極右と呼んでいるのです。

欧州でもメディアは左派が牛耳っているため、議会制民主主義の範囲内で戦う保守・右翼の中にも、極右のレッテルを貼られる政党が見受けられます。また、横文字を縦にするだけのジャーナリストが多いし、彼らが欧州で使用されている語を、そのまま日本でも使っている。だから、保守、右翼、極右の区別が混乱するのです。

「ウヨミシュラン」の記事の筆者は暴力肯定論者ではないだろうとは思いますが、言論で戦う保守政治家が極右なら、この筆者だって言論で戦っているのですから、極左だということになります。そんなことさえ考えずに、記事を書き飛ばしている!

それにしても、「日本を戦前に引き戻そうとしているのはこいつらだ!」とは。社会(政治)認識がズレ過ぎていないでしょうか。
自分の政治的立場に都合が良いように、言葉を恣意的に使う人は、知的な暴力主義者だと言ってさしつかえないと思います。

(注)https://lite-ra.com/2017/10/post-3531.html

差別意識はなくならない

差別という観点から考えると、左派にとって人間は二種類に分けられます。差別する人としない人です。

差別する人としない人の二種類の人間がいると考える左派は、右派や大衆=差別をする人、自分たち=差別をしない人だと考えます。そして、前者が意識を変えれば、社会から差別がなくなると信じています。
あるいは、たとえば彼らは移民を受け入れることによって、差別思考から抜け出せないでいる、遅れた右派や大衆の意識改造をはかり、それによってより進んだ社会が実現できると信じているようです。だから、左派は移民の受け入れに積極的です。

左派の人たちは、自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます。
一昨年の、『新潮45』8月号に掲載された論文「『LGBT』支援の度が過ぎる」に対する、杉田水脈議員へのバッシングを見ると、左派は「自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでい」るがゆえに、盛大な批判ができるのだということがありありと分かります。
実に単細胞です。

差別という観点から考えると、右派の私も、人間は二種類に分けられると思います。自分に差別意識があるのを自覚している人と、その自覚のない人です。

差別意識のない人間などいません。
結婚するといって、息子または娘が連れてきたのがA人で落胆した。B人だったら良かったのに(A、Bには任意の人種、民族、国籍を入れてください)。
それは、差別意識があることの証明であり、内心を見れば自分にもそのような感情があるのは否定できないはずなのに、左派は自らにそのような意識があることを認めようとしません。
見た目では分からない在日や同和差別があるくらいだから、見た目で直ぐにわかる人種や民族の人たちに対する差別はそれ以上に起こりうるだろうと考えるのが自然だと思うのですが。

左派は、自分は差別をしない人間、差物意識のない人間だと信じていますが、彼らは差別をしないのではなく、自分のやっている差別に気がついていないだけです。あるいは、差別について鈍感だから、「自分は差別をしない人間、差別意識のない人間だと信じ」られるのです。
要するに、彼らは差別意識があるのを自覚していない人たちです。

自分は差別をしないし、差別意識もないと信じている当人も家族も、それらから逃れられません。
セクハラ行為は、右派ばかりではなく左派だっておかします。だから、人類が左派ばかりになったとしても、セクハラがなくならないのと同様、人類が左派ばかりになっても、差別はなくなりません。
左派は自らの内心を見ません。自らに差別意識があるのを認めるのが怖くて、それを直視できないのです。

差別意識があることを自覚している人は、それがなくせるとは思っていませんから、移民の受け入れに慎重になりますが、差別意識もあるし、差別もしている、しかし、その自覚がない鈍感な人たちが、移民の受け入れを推進するから、社会の差別が拡大するのです。
欧州の現実がそれを証明しています。

地方衰退の第二の原因

地方の衰退が言われて久しい。

田舎に住んでいても、夫婦で生活でき、子供に高等教育を施すことができるような仕事が減ったために、人口が流出し、経済も沈滞あるいは縮小している、それが地方の衰退でしょう。

地方衰退の第一の原因」にも書きましたが、その一番の原因は産業構造の変化にあります。
昔は各地に散らばって生活をしなければならなかった第一次産業中心の時代から、散らばって生活をする必要がなくなった、というよりも、工場やオフィスや住宅地や商業地など、人間が集まって生活し、労働したほうが効率が良い時代へ移行しています。

問題は、地方衰退の、もう一つの原因です。
ウィキペディアの「シャッター通り」によれば、シャッター商店街等は「1980年代後半から顕在化しており」、特に2000年の大規模小売店舗法の改正により、大規模店が各地の郊外に建設されました。
その結果、小売店が壊滅し、小売店とそれなりに共存していた百貨店も凋落の一途をたどっています。

一方、減少する小売店に対して増えたのが、ショッピングセンター、ホームセンター、ドラッグストア、その他の量販店やコンビニ、ファーストフード店など(以下、「大規模店等」)です。
それら大規模店等の店舗で売られている商品は、かつて小売店等で売られていたものです。いいえ、品揃えは小売店よりも大規模店等の方がはるかに豊富です。そして、客足が後者の方へ移ったため、前者が衰退することになりました。

小売店の多くは廃業し、店員さんたちはリストラされました。そこで働いていた人たちは、あるいはその子供たちはどうなったでしょうか。
ある者は職を求めて大都市圏へ転出し、ある者は客を奪った大規模店等へ職を求めたと考えられます。

いちいち聞いたりはしませんが、大規模店やコンビニで働いている人たちは、非正規雇用が多いのではないでしょうか。
たとえ非正規雇用でも、小売店で働いていた時よりも、報酬が多く、待遇が良いのなら、地方の衰退もそれほど顕在化しなかったでしょう。けれども、恐らく小売店時代よりも、大規模店等で働いている現在の方が経済的に悪化していると思われます。

小売店から大規模店等への転職→年収の低下→生活必需品を安売り大規模店等で購入→さらなる小売店の廃業→一部の者は大都市圏へ、一部の者は大規模店等へ転職・・・・負のスパイラルです。

地方において、消費の活力あるプレーヤーは、大手企業の正社員と正規公務員だけです。
大手企業は生産拠点の多くを海外へ移転させましたし、国内では雇用の調整弁として非正社員を活用していますし、国や地方公共団体も非正規公務員を活用しています。また、大規模店等で働く人たちの待遇も今述べた通りです。

消費の活力なきプレーヤーが増加している、それが地方衰退の第二の原因だと思います。

既に述べましたが、大枠としては、何らかの産業革命でもない限り、地方の人口の流出、その結果としての経済の下降は避けられないだろうと思います。
ただ、コンビニや大規模店の伸長が、地方の衰退に拍車を掛けている、のではないでしょうか。

この先、大規模店等が社員の報酬を抑え、競合店との競争のためさらなる安売りをして行けばどうなるでしょうか。今はまだ、大規模店等の出店は増加基調にあるようですが、そのうち攻勢極限点(攻撃の限界点)に達します。その後は、右肩下がりの時代に突入です。
若者たちがさらに大都市圏へ移住し、高齢者が減少すれば、何れ大規模店等は店舗のリストラを進めなければならなくなるでしょう。大規模店等にとって、地方の衰退は自社の衰退なり、です。

地方の衰退=自社の衰退を止めるには、止められないにしてもその進行を緩和させるためには、どうすれば良いでしょうか。大規模店等の経営者は、自社の社員の待遇の改善をはかる、しかないだろうと思います。

誰が表現の自由を侵すのか

1.誰が表現の自由を「保障する」のか

現在の日本では、表現の自由は一応保障されています。それは、日本国憲法に規定されています。

第二一条 [集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密] 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

「これを保障する」とありますが、だれが保障するのでしょうか。
それらに対する侵害行為は、個々の国民が防げるはずもありませんから、公権力(国及び公共団体)でしょう。

2.誰が表現の自由を侵すのか

では、逆の場合を考えてみましょう。
国民の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(以下、表現の自由等)を侵す(可能性がある)のは誰でしょうか。
公権力または私権力です。

第一は、公権力です。
過去国家権力は、人民の表現の自由等を侵してきました。その反省から、憲法にそれらの権利が明記されるようになりました。今後も、表現の自由等を保障するはずの公権力が、逆に国民の自由を侵す可能性があります。

第二は、私権力もしくは民間人です。
ある特定の政治的立場にたつ個人または集団・団体が、信条の異なる人たちの自由を侵す場合です。
たとえば、少々極端な例を挙げるなら、左派の政治集会に右翼の街宣車が突っ込んだり、右派の雑誌社に極左が火炎瓶を投げ込んだりしたようなケースです。

第一の、公権力による表現の自由等の侵害も、二つの種類に分けられるでしょう。積極的侵害と消極的侵害です。

(1)積極的侵害
積極的侵害とは、古より行われた公権力による人民に対する、表現の自由等の圧殺あるいは制限です。

典型的には、共産主義やファシズムのような全体主義体制では、その圧殺が恒常的に行われましたし、それらよりも緩やかですが、権威主義体制の下でもその制限が行われました。

(2)消極的侵害
消極的侵害とは、積極的侵害とは違って、ある特定の政治的立場にたつ個人もしくは集団・団体の表現の自由等を公権力が優遇すること、あるいは冷遇することです。
ある特定の政治的な個人または団体を優遇することは、その他の思想的立場の人たちの権利を冷遇することと同じですし、ある特定の政治的な個人または団体を冷遇することは、その他の人たちを優遇することと同じです。

公権力による積極的侵害ばかりでなく、消極的侵害も忘れてはならないでしょう。そして、積極的侵害と消極的侵害は、公権力による表現の自由等に対する権利侵害の、二つの形態です。

日本国憲法第二〇条 [信教の自由、国の宗教活動の禁止]の一項には次のような記述があります。

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け(中略)てはならない」とあります。これは「宗教団体」のみならず、宗教的個人にも当てはまることでしょう。
また、これは公権力による(この場合は、信教の)自由の消極的侵害を禁止していると解すべきでしょう。そして、公権力による自由の消極的侵害の禁止は、第二一条にも適用すべき原則のはずです。

すなわち、<公権力は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現」において、ある特定の政治的立場にたつ個人または団体に対して、特権または便宜を与えてはならない>のです。

3.表現の不自由展・その後

2019年8月1日に開幕し、10月14日に閉幕した「あいちトリエンナーレ2019」で、物議を醸した特別企画「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展」)は、前節の観点から、<公権力による表現の自由の消極的侵害>に当たると私は考えます。

昨年の12月24日付朝日新聞に、「表現の自由のいま」と題する、大村秀章愛知県知事に対するインタビュー記事が掲載されました。そこで大村知事は語っています。

「僕は法律上、公権力者の立場にあります。行政権限を持ち、公的な美術館の責任者でもある。その僕が『この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ』と言うのは、表現の自由を保障した憲法21条に照らして、決してやってはいけないことなのです。検閲そのものにもなりかねません」

一見もっともな主張のように聞こえますが、それは公権力がある特定の政治的立場にたった表現を、優遇もしくは冷遇していない場合に限り当てはまります。
では、不自由展は、特定の政治的立場の表現を優遇していないでしょうか。明らかにしています。

8月1日の開幕後、不自由展には市民による抗議の電話やメールが殺到し、同月3日早くも中止を余儀なくされましたし、一部の有志がそれに対抗して、10月27日同じ名古屋市で「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」を開催しました。それにより、公権力による不自由展の優遇が可視化されました。
その結果、トリエンナーレは公的な美術館で認められるのに、トリカエナハーレは認められない二重基準に対する批判の声が、ネットで溢れました。後者に対して、大村知事はヘイトだと言っていますが、その判定も恣意的だと言わざるをえませんし、それは「この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ」と言っているのに等しい。

文化庁はあいちトリエンナーレに対する補助金の不交付を決めましたが、それに対して大村知事は同記事で述べています。

「求められた手続きに従って補助を申請し、文化庁の審査委員会で審査されたうえで採決が決定していました。文化庁は我々の手続きに不備があったと言っていますが、いわれのないことです。行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があり、裁量権の逸脱だと考えています」

不自由展の展示品こそ、「行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があり」、そのような政治的に偏向した作品群に対し、クレームをつけない大村氏の不作為こそ、「裁量権の逸脱だと」断ずべきでしょう。

大村知事は、こうも発言しています。

「公的な芸術祭であるからこそ逆に、憲法21条がしっかり守られなければならないのです」

その通りです。
公的な(=公金が投入された)芸術祭であるからこそ、憲法21条がしっかり守られなければならない、つまり、公権力による表現の自由の、積極的侵害のみならず、消極的侵害もあってはならないし、行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があってはならないのです。

大村知事はさらに言っています。

「日本だけではなく世界各地で、分断をあおる政治が台頭しています。こうした分断社会は日本が目指すべき社会ではありません」

第一、「表現の不自由展・その後」は、「公権力による表現の自由の消極的侵害」に該当すること。
第二、その「公権力による表現の自由の消極的侵害」について、大村氏はまったく考えが及んでいないこと。
第三、そのような展示を氏が無理強いしたことが、市民の間で分断を引き起こしていること。
第四、大村氏自身が分断を「あお」った張本人であること。

どうしてそれに気がつかないのでしょうか。

4.蛇足

蛇足ながら、憲法八九条にも疑義を呈したいと思います。

第八九条 [公の財産の支出利用の制限] 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

最低限、次のように改めるべきではないでしょうか。

「宗教上及び特定の政治上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、(中略)これを支出し、又はその利用に供してはならない」

左派は必然的にポピュリストである

1.先攻と後攻

たとえ非合理であり、不平等であろうとも、一国あるいは社会の成員全員が、その政治的経済的社会的法的諸制度に、そして文化や生活様式の現状に満足しているのなら、進歩派(左派)と保守派(右派)の対立も、社会の分断も起こりません。
ところが、それらに対して、異議申し立てを行う人が、あるいはそれらに代わる制度を求める人たちが現れてから、左派と右派の対立が、そして社会の分断が発生します。

社会の分断の原因」に書きました。

「夫婦同姓が当たり前だった時代、この問題に関する限り、社会に分断はありませんでした。
ところが、同姓に不都合なり、疑問に感じたある人物が、別姓を唱え、それに同調する人たちの数がある程度に達し、彼らがその権利を公然と主張するようになってから、分断が始まりました。

外国人参政権、外国人労働者・移民の受け入れ、同性婚、男女平等原理主義その他もそうです。
国籍を有する者が参政権を有するのが当たり前だと考えられていた時代・・・・
移民の受け入れがわずかだった時代・・・・
異性婚が当たり前だった時代・・・・
男女に性差があるのは当たり前だと考えられていた時代(女性差別もあったでしょうが)・・・・
同じパターンです。

進歩派が新しい思想を提起することによって、社会の分断が発生します」

初めに戦いの狼煙を上げるのは進歩派です。彼らからの攻撃を受けてようやく防戦に取りかかるのが保守派です。
いつも先攻は進歩派で、後攻は保守派です。
言い換えるなら、進歩派は先制攻撃派で、保守派は専守防衛派だと言えるでしょう(笑)。

2.ポピュリズムの発生

新しい思想的立場を提起する進歩派は、自分たちの主張の正しさを世に訴え、あるいはより多くの人たちの賛同を得る必要があります。そこで、彼らは口当たりの良い、人気取りの言葉を発します。
経済的に平等な社会、搾取なき社会、階級のない社会、差別なき社会、少数派が尊重される社会、外国人・移民との共生社会・・・・を実現しようではありませんか、それはきっとできるはずです、Yes,we can。

ポピュリズム(注)は、進歩派の登場とともに始まります。ポピュリズムを必要とする進歩派は、必然的にポピュリストです。

現状が非合理であることを、そして目指すべき社会が合理的であり、幸福に充ちていることををアピールしなければならないが故に、進歩派はポピュリズムを必要とします。一方、大筋は現状維持ですし、改革するにしても漸進主義ですし、一っ飛びの、ばら色の未来を語る必要はないので、保守派は原則的にポピュリズムを必要としません。
要するに、本来的に進歩派はポピュリズムを必要とするのに対し、保守派は必ずしもそれを必要としません。

(注)
ウィキペディアによれば、ポピュリズムとは、「一般大衆の利益や権利を守り、大衆の支持のもとに、既存のエリート主義である体制側や知識人などに批判的な政治思想、または政治姿勢のことである」そうですが、本稿では「複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始」する大衆迎合主義の意味で使用しています。

3.なぜ右派のポピュリズムだけが注目されるのか

そのように言えば、左派の人たちから異論がでそうです。
一歩譲って、左右の両派ともポピュリズムと無縁ではないことを認めましょう。しかし、左派がポピュリズムをあおるから、右派もそれをもって対抗するのです。ポピュリズムの活用も先攻は進歩派で、保守派は後攻なのです。

それなのに、マスメディアを見ていると、ポピュリズムのゆえに批判されているのは、もっぱら右派の政治家や党派なのです。
たとえば、トランプ大統領、イギリスのEU離脱、フランスのマリーヌ・ル・ペン氏、ドイツのための選択肢(AfD)その他の欧州の右派政党などです。

「コトバンク」の「ポピュリズム」の項の、知恵蔵の解説も下記の通りです。
「なお、日本では石原慎太郎や橋下徹(はしもととおる)(1969-)、小池百合子(こいけゆりこ)(1952-)など、大都市の知事を務める改革志向の政治家がポピュリストとされることが多い」

なぜなのでしょうか。
マスメディアを掌握しているのが左派だからです。
先に移民の受け入れを推進したのは左派なのに、それに反発する右派のみが批判される。進歩派が美しいイメージで語ったから(=ポピュリズム)、文化摩擦や犯罪やテロや暴動が発生しているのにです。

左派の論理は、次のようなものでしょう。
良いポピュリズムはいわゆるポピュリズムではない、悪いポピュリズムがポピュリズムである。だから、我々はポピュリズムを批判するのだ。あるいは、

すべてのポピュリズムは悪い。
しかし、右派のそれは、左派のものよりももっと悪質である、
が左派のモットーでしょう。
ここでも左派の得意技、ダブル・スタンダード(二重基準)が発揮されます。

右派のポピュリズムばかりを非難しているメディアがあるとすれば、そのメディアは左派である証拠です。

対米同盟強化のすすめ

下記は、よもぎねこさんのブログ記事「子供部屋オジサンの『自主独立』 護憲派」への、私のコメントです。
今年最後のブログ記事を、他者のブログへのコメント文で代用するのは心苦しいのですが。
〔〕内は、いけまこの補足です。

〔一つ目〕
>今こそアメリカともめずに、憲法を改正し、独立国として相応しい軍事力を持つ大チャンスなのです。〔よもぎねこさん〕

その通りですね。
ところが、左翼は、そして反米保守という人たちも、それを理解しないんですね。

後者の人たちは(たとえば、西部邁氏)、アメリカとの軍事同盟の強化は、対米従属にあたる。それよりも自主防衛を目指すべきだ、と言うんですが、ママ(アメリカ)と一緒におつかい(軍事行動)にいけない子が、一人で始めて〔初めて〕のおつかいに行けるわけがありません。

アメリカと軍事行動を共にし、練習をして、「戦える国」になることが、ひいては戦争や他国による侵略を抑止することになり、結果平和がもたらされる、が王道だと思うのですが。

〔二つ目〕
>日本が勝手に武装を増強できる、と勘違いされると困りますので、念のため書いておきます。〔中略〕
>つまり、アメリカに雁字搦めにされているといったほうが早い。〔書き人知らず〕

アメリカは、最初はインドの核武装に対して否定的でした。が、その後追認に変わりました。
同様に、米国の対日軍事意識も変動しえます。

>シナ自体が、野望を隠さなくなり、太平洋をハワイを基点としてアメリカ・シナで分割統治を持ちかけてしまった。〔書き人知らず〕
そのように、いまや中共は、アメリカに追いつき、そして追い落としを狙っているのは明らかです。
しかし、米国の力は相対的に落ちている。
そこで、アメリカはどこかの国に頼らざるをえません。だから
>今こそアメリカともめずに、憲法を改正し、独立国として相応しい軍事力を持つ大チャンスなのです。〔よもぎねこさん〕

過去、アメリカが軍事力増強を要求してきた時に、日本の側が拒否してきたことが問題だと思います。
少しでも、自国にとって都合の良い増強を考えれば良かった。

アメリカの対日軍事意識を、固定的に考えるべきではないと思います。

ミス・コンテストの政治主義

1.有名ミスコン 黒人が独占

12月17日付朝日新聞(夕刊)に次のような記事が掲載されました。見出しと本文は下記の通りです。

「有名ミスコン 黒人が独占  美の評価基準に変化か」

「世界的に有名な五つのミスコンテストで昨年から今年にかけ、いずれも黒人の女性がトップに輝いた。米メディアによると、全員が黒人女性となるのは史上初めて。女性の魅力を評価する基準が変わりつつあると指摘する声もある。
8月に米アトランタで開催された『ミス・ユニバース』に南アフリカ代表が選出されたのに続き、14日にロンドンで開かれた『ミス・ワールド』にジャマイカ代表が選ばれた。昨年9月の『ミス・アメリカ』、4月の『ミス・ティーンUSA』、5月の『ミス・USA』でも黒人女性が選出された。
CNNによると、こうしたミスコンは1920年代に開始。黒人女性は当初、参加することすら許されていなかった。
米紙ニューヨーク・タイムズではミスコンを『数十年にわたり、人種差別や人種的隔離、ジェンダー的ステレオタイプに悩まされてきた』と指摘。立て続けに黒人女性が選ばれた今年を『分水嶺』と評した。
コーネル大のノリウェ・ルックス教授(アフリカ研究)は朝日新聞の取材に『黒人であることが美しさの基準から外れていた業界に、広く影響を与えるかもしれない』と語った。
ミス・ワールドに輝いたトニーアン・シンさん(23)はインスタグラムに『世界中の少女たちへ。あなたには夢を成し遂げるだけの価値も能力もあると知って欲しい』と投稿した」

2.リベラル・イデオロギーのミスコンへの波及

テレビを見ない主義者ですし、最近はDVDとかで映画も見ないので疎いのですが、黒人の美人女優さんというのを、私は知りません。男優は、デンゼル・ワシントン氏のようなハンサムな人もいるので、美人の女優さんがいても不思議ではありません。
しかし、「世界的に有名な五つのミスコンテストで昨年から今年にかけ、いずれも黒人の女性がトップに輝いた」というのは、尋常ではありません。どうしたことでしょうか。新聞が言うように、「美の評価基準」が「変化」してしまったのでしょうか。

この記事が示すのは、ミスコンの世界に少数派尊重の、というよりも優先の、リベラル・イデオロギーが蔓延しているということ(黒人に偏見を持たない=黒人の美を認めることができるのが、進歩的人士の証である)、あるいは審査員たちに同調圧力がかかり、彼らがそれに抗しえなくなっているということでしょう。

3.美的評価の政治主義

真善美の内の、美の世界に政治主義が持ち込まれているのです。この点、今年8月1日に開幕し、9月14日に閉幕したあいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」と同じです。
私は、黒人がミスコンのトップを独占したこともですが、と同時に報道が黄色人種について、何らの言及がないのも気になります。政治主義者たちは、一つのことに囚われるとその他のことが目に入らなくなりますが、彼らは白人と黒人の他に黄色人種がいることさえ忘れてしまっているようです。あるいは、黄色人種は少数派だけれども、弱者ではないから無視しても良いということなのでしょうか。
それとも、純粋に美的評価をすると、白人や黄色人種よりも、黒人の方が美しいということなのでしょうか?

典型的な政治主義とは、次のようなものです。
スターリンとヒトラーの全盛時代、A氏がスターリンの、B氏がヒトラーの肖像画を描いたとしましょう。同じ美術展にその両方が出品されました。
二つの絵画としての、純粋な美的評価とは違って、左派の政治主義者はスターリンの肖像画を、右派はヒトラーの肖像画を絶賛します。

4.言論と表現の政治主義

現在の私たちの時代にも、そのような政治主義が公然と行われています。
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」とあいちトリカエナハーレ2019「表現の自由展」、「在日コリアンは半島へ帰れ」と「ヤンキーゴーホーム」、マルクスとエンゲルスの青年時代をテーマにした映画と、ヒトラーとヘスの親密な時代を扱った映画(そのような映画は一般劇場での公開はおろか、製作すらされるはずがありませんが)・・・・
一方は認められて良いけれども、他方は認められてはならないとするのが、政治主義です。

欧米日を問わず、現実政治の場は保守派が握っているにしても、言論や表現の空間は左派が牛耳っていて、彼らがそこをリード(ミスリードですが)しています。そして、

すべての言論・表現は自由である。
しかし、左派のそれは、右派のものよりももっと自由である、が左派のモットーです。

なので、左派的言論や表現は社会で認められているのに、右派的なそれは封じられるといったアンバランスが現出しています。

5.リベラルの美の評価基準

事情は、ミスコンにおいても同じです。

すべての女性は美しい。
しかし、少数派(欧米での)であり、なおかつ弱者の女性は、その他の女性よりももっと美しい、がリベラル派の「美の評価基準」です。

それは、リベラル的ステレオタイプであり、私たちは今それに悩まされているところです。

マスメディアは二度間違えた

1.戦前と戦後

戦前、政府・軍は判断を誤りました。
ドイツ、イタリアと軍事同盟を結び、アメリカを中心とする連合国との戦争を決断しました。その結果、多くの兵士たちは、各地で戦死することになりましたし、銃後の国民は空襲で逃げ惑い、あるいは焼夷弾や原爆で焼かれることになりました。大東亜戦争における戦没者は、三百万人余りに上ります。
新聞は政府と協調し、戦意高揚を煽り、国民を戦争に駆り立てました。戦前、政府のみならず、マスメディアも間違えました。

政府と歩調を合わせて失敗したマスメディアは、それに懲りて、戦後は反権力とか権力監視を標榜するようになりました。当時自由・資本主義体制は何れ社会・共産主義体制に取って代わられるという予想が通用していました。
そういう中で、政府は自由主義体制を選択したのに対し、マスメディアは社会主義体制寄りの報道や言論を行いました。

しかし、マスメディアや知識人たちの予想に反して、その後資本主義国は経済的に発展する一方、社会主義国は政治的経済的に停滞し、あるいは行き詰まりました。結局、ベルリンの壁崩壊とソ連邦の解体により、体制選択における社会主義の敗北が明確になりました。

細かいことを言えば、何れも間違いは沢山おかしていますが、大局的に見れば、戦前戦後を通じて、政府・軍は一度しか間違えていないのに、マスメディアは二度間違えました。
前者は一勝一敗ですが、後者は0勝二敗です。

2.マスメディアは三度目の間違いをおかしている

そして今、マスメディアは三度目の間違いをおかそうと、いいえ、現におかしています。
冷戦時代、社会・共産主義寄りの言説を行っていた多くのマスメディアや知識人たちは、冷戦後徐々にリベラルへ転向して行きました。そして、現在彼らはリベラル派に宗旨替えし、その旗を振っています。
リベラル・イデオロギーは現在流行の進歩主義思想であり、冷戦時代のマルクス主義同様、その矛盾が徐々に膨れ上がり、何れ破綻するでしょう。もっとも、それが何十年後になるかは分かりませんが。
彼らは、三度目の間違いを驀進中です。

3.マスメディアと大衆

マスメディアと大衆が各々、支持するか支持しないかという観点から分類した場合、政府は四つに分けられるでしょう。
マスメディアも大衆も共に支持する政府、マスメディアは支持するけれども、大衆は支持しない政府、マスメディアは支持しないけれども、大衆は支持する政府、マスメディアも大衆も共に支持しない政府です。
何れの政府が国民にとって望ましく、何れの政府が望ましくないでしょうか。

第一。マスメディアも大衆も共に支持する政府は、とりわけ両者が熱狂する政府は危険です。ドイツのヒトラー政権や先の大戦開戦前のわが国はそのようなものだったでしょう。
宗教団体の信者はその新聞を、共産主義党派の支持者はその機関紙・誌に書かれてあることを信じて疑いませんが、マスメディアも大衆も支持する政府とは、それら宗教や政治団体と信者や支持者が丸ごと国家を形成しているようなものでしょう。

第二。マスメディアは支持するけれども、大衆は支持しない政府も余り好ましくありません。
「悪夢のような」民主党政権成立前とその政権初期はそのようなものでした。
マスメディアは、民主党を贔屓にするような、一方、自民党を政権から追い落とすような報道や言論を行いました。
大衆の支持がなければ、民主党政権はありえなかったと反論する人もあるかもしれません。しかし、多数派メディアが過度に民主党寄りの報道をしたから、有権者も惑わされて、同党に投票したと考えるべきでしょう。

ところで、共産主義国のメディアは国営ですが、そこでのメディアと大衆と政府の関係をどう考えるべきでしょうか。共産国の政府は、マスメディアも大衆も共に支持する政府なのでしょうか、それともマスメディアは支持するけれども、大衆は支持しない政府なのでしょうか。
共産国では、大衆はメディアの報道や論評の正しさを信じていたのでしょうか、それともそれに異議を申し立てれば、強制収容所送りになる等の恐怖のために、報道や論評を信じている振りをしていたのでしょうか。
革命初期には前者だったのが、次第に幻想から覚めて、後者になっていったのではないでしょうか。

第三。マスメディアは支持しないけれども、大衆は支持する政府です。
現在私たちが目にしているのは、そのような政府です。日本の安倍晋三首相もアメリカのトランプ大統領も、多数派の進歩的メディアから毛嫌いされています。しかし、大衆の支持は意外に根強い。国民にとって、マスメディアは支持しないけれども、大衆は支持するという政府の下での生活が、一番幸福なのではないでしょうか。

第四。マスメディアも大衆も共に支持しない政府です。
そのような政府は民主主義国では長続きしません。なので、そのような政府のことは余り心配する必要はないでしょう。
もっとも、そのような政府は第一の政府よりも国民にとっては良い政府であり、ひょっとすると、第二の政府よりも増しかもしれません。

結論を述べるなら、マスメディアからでも知識人からでもなく、大衆から支持される政府が、最も良い政府です。

「死の商人」という言葉があります。
『広辞苑』(第二版)によれば、「軍需品を製造・販売して巨利を得る大資本をさしていう語」とあります。
もう一つの死の商人=マスメディアは、間違った報道や言論を「製造・販売して」、国民を酷い目に遭わせる「大資本さしていう語」、と定義できるでしょう。

二度あることは三度あります。
戦前、冷戦時代、冷戦後、マスメディアは、間違えてばかりです。いまや、0勝三敗です。
大衆は自らの判断を信じ、マスメディアや知識人の言うことは、話四!半分に聞いていた方がいい。
彼らの指し示す方向へ突っ走ったら、ろくな事にはなりません。