核兵器の問題を解くのは誰か

核兵器に関する問題あるいは専門分野は様々あるでしょうが、各々の専門家は誰なのでしょうか。

核兵器の開発の専門家は物理学者です。
自国が核兵器を保有すべきかどうかを決めるのは、政治家の仕事です。非民主国では、独裁者もしくは独裁政党が民意を無視してその決定を下します。一方、民主国では政治家は、国民にそれをはかってから(実際は事後承認ですが)決定します。

先の大戦の終戦間際、アメリカは広島市と長崎市に原爆を投下しました。それにより、数十万人もの死傷者が出ました。そのため、戦後のわが国では核兵器廃絶運動が盛んになり、今でもその活動は続けられています。
では、核兵器廃絶の是非、あるいは可能不可能の問題の専門家は誰なのでしょうか。

相対性理論を提唱したアインシュタインも、中間子の存在を予言した湯川秀樹も共にノーベル物理学賞を受賞しました。そして彼らは、核兵器廃絶運動にも積極的にかかわりました。しかし、彼らの理想は今もって実現していません。すなわち、核兵器廃絶の問題を解くのに、彼らは成功しませんでした=失敗しました。

なぜでしょうか。
世間は思い違いをしています。核兵器開発の専門家である物理学者こそが、核兵器廃絶問題の専門家に違いないと。少なくとも、彼らは後者の問題に関して一家言あるに違いないと。
しかし、開発の専門家は、廃絶問題の専門家ではありません。後者は、人間観あるいは政治における人間性の問題です。だから、それを解くべきは、自然科学者ではなく、人文科学者または社会科学者なのです。

ところが、戦後のわが国の人文科学者にしろ、社会科学者にしろ、その多数は戦後七十五年も経つのにいまだに、いわゆる戦後平和主義の枠内から出られずにいます。
だから、彼らから核兵器廃絶に関する適切な回答が得られるはずもありません。戦後平和主義から抜け出せずにいる人文科学者や社会科学者は、核兵器の存廃に関して、人々に幻想を与えることしかできません。

見たいと欲する現実しか見ていない

「裏の桜」さんの、3月15日公開のブログ記事「・・・の通りと実感します」に、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)(紀元前100-紀元前44)の言葉が引用されています。

【人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない】

カエサルもそんなことを言ったんですね。初めて知りました。

ところで、「見たいと欲する現実しか見ていない」のは、とりわけ近現代の左翼、社会・共産主義者とリベラルとばかり思っていました。それか、せいぜい中世の、宗教戦争時代の当事者、カトリックとプロテスタントの狂信的な人たちぐらいにしか考えていませんでした。が、カエサルは古代の人です。
古代の人たちでさえ、「見たいと欲する現実しかみていない」ようなことがあったのかと、妙に感心させられました。

このカエサルの言葉から分かるのは、

第一、人間は昔も今も変わらないということです。

「歴史教科書の偏向を正す最も簡単な方法」に書きましたが、<歴史は勝者によって書かれる>という言葉はナポレオンも、チャーチルも、ジョージ・オーウェルも述べています。偉い人は、同じ認識に達するのだということが分かります。

竹山道雄氏は「人は幻のように世界を見る」に、

「『このように見よ』という教条のようなものがあって、人間はそれに合わせて世界を見る」(1)

と、また『昭和の精神史』にも、

「人間はなまの現実の中に生きているのではなくて、彼が思い浮かべた現実像の中に生きている。もし彼がはげしい要求をもっていると、彼はこの現実像をただ要求にしたがって構成して、それをなまの現実とつき合わせて検討することを忘れてしまう。かくて、いわば『第二現実』とでもいったようなものが成立する」(2)

と書いています。山本夏彦氏も「理解は能力ではなく願望である」他の発言があります。
両者とも、カエサルの「人は見たいと欲する現実しか・・・・」と同じようなことを述べています。

カエサルは、軍人、政治家であるとともに、『ガリア戦記』を書いた文筆家でもあります。彼が竹山氏や山本氏と同じようなことを言っているのを知って、時代的には逆ですが、初めてカエサルの偉大さが実感できました。

カエサルの言葉から分かるもう一つのことは、

第二、賢者は同じことを語ってきたということです。

(1)竹山道雄著、『歴史的意識について』、講談社学術文庫、57頁
(2)竹山道雄著、『昭和の精神史』、講談社学術文庫、60頁

二つの戦争

(これは3月13日公開の、よもぎねこさんのブログ記事「ヨーロッパは医療崩壊を阻止できるか? 習近平ウィルス」へのコメントです)

通常の戦争と対ウィルス戦争と。

新型コロナウィルスの、各国の感染者数と死亡者数を見ると、前者に強い国は後者にも強く、前者に弱い国は後者にも弱いような印象を受けます。

イタリアが戦争に弱いのは定評がありますし、スペイン、フランスのようなラテン系諸国もそうです。

イラン・イラク戦争は長期間続きましたが、両者とも強かったからではなく、弱かったからかもしれません。

李朝は東学党の乱の際は、清国に出兵を要請しました。
近代朝鮮は支那ロシア日本の間を、あっちについたり、こっちについたりしましたし、朝鮮戦争では米支に運命を委ねました。
いつも他力本願です。
この度の対ウィルス戦は、韓国は自力で戦いましたが、その「成果」が数字となって表れているのかもしれません。

第一次、第二次大戦を勝利に導いたアメリカは、感染者数、死亡者数とも比較的に多いですが、いつも遅れて参戦する同国は、まだルシタニア号事件や真珠湾を迎えていない=本気になっていないのかもしれません。

「かもしれません」、ばかりのコメントになってしまいました。

新型コロナウィルス感染症とデマ

オーストリアの哲学者ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)は、「論理哲学論考」の最後に書いています。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(1)

昨年末支那の湖北省武漢市で発生した新型コロナウィルスについて、第四の権力(マスメディア)や第五の権力(SNS)では、洪水のように様々語られています。

しかし、その中のどの情報が真であり、どれが偽なのか明確ではありません。人々はどれを信じてよいのか戸惑っています。
マスメディアにしろ、SNSにしろ、その分野の専門家や、知識あるいは見識ある人の言説を発信すれば良いのですが、問題なのは不確かな情報をタレ流しにしていることです。そのため、聞くべき人たちの発言が、かき消されています。

新型コロナウィルスのような特殊な分野の問題は、素人は安易に発言すべきではないでしょう。彼らは、専門家(中にはいい加減な人もいるようですが)の発言の邪魔をしているだけです。
そのような発言は、社会で不安を煽ることになるし、だから、商店の棚からトイレットペーパーやティッシュペーパーなどが姿を消すことになるのです。

知識や見識のない人が発言を止めれば、本当に聞くべき人の声が聞かれるようになるでしょう。
ウィトゲンシュタインの言葉ではありませんが、

「語りえぬ者は、沈黙しなければならない」

です。

そう言うと、知識も見識もないお前など、真っ先にブログを止めるべきだ、と言われそうですが(苦笑)。

【折々の見識】
当ブログにリンクをつけているよもぎねこさんは、「なぜ今中国からの渡航を拒否するのか? 習近平ウィルス」のコメント欄に書いています。

「習近平ウィルスの問題は、国際社会では完全な情報戦と政治利用の問題になっています。
 でも当のウィルスは政治も情報戦も全く関係なく、科学の法則に従って拡散するのです。

 だからそれを無視して情報戦や政治利用に走ると、結局痛い目に遭うのです」

【折々の名言】
「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ」(太字、原文は〇傍点)(2)

(注)
(1)L・ウィトゲンシュタイン、藤本隆志・坂井秀寿訳、『論理哲学論考』、法政大学出版局、200頁
(2)同上、198頁

歴史教科書の偏向を正す最も簡単な方法

1945年大東亜戦争に敗れ、わが国は連合国から占領憲法と共に、戦勝国史観を押し付けられました。
また戦後、共産圏の拡大及び自由諸国における共産主義イデオロギーの流行もあって、左翼史観がはびこりました。
今日、戦勝国史観と左翼史観がないまぜになった反日史観が幅を利かせ、それに基ずく歴史教科書によって、義務教育が行われています。

1997年西尾幹二氏を会長とする「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、教科書の正常化が試みられました。しかし、作られた教科書の採択率が低かったり、つくる会の内紛もあったりして、教科書の偏向は正されていません。

偏向教科書を、いくらかでも是正する方策はないのでしょうか。
あります。

まず、歴史教科書の内の、ほんの1ページか2ページを、歴史に関する名言に割きます。たとえば、以下のようなものが、列記されます。

名言集および格言集」から引用するなら、

「まったく歴史とは、そのほとんどが人類の犯罪・愚行・不運の登記簿にほかならない」(ギボン「ローマ帝国衰亡史」)

「歴史はくり返す」(ツキュディデス「歴史」)

「歴史は自由な国においてのみ真実に書かれうる」(ヴォルテール「フリードリヒ大王への書簡ー1739/4/27」)

歴史の名言ー名言のウェブ石碑」からも引用しましょう。

「過去の破壊はおそらく最大の犯罪である」(シモーヌ・ヴェイユ)

「われわれが歴史から学ぶのは、われわれが歴史から学んでいないことである」(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル)

その他にも教科書に相応しい名言はあるでしょうし、以上はいずれも教科書に採用されても良いし、されなくても良いでしょう。
しかし、次の文句は外せません。

歴史は勝者によって書かれる

これは普遍的な真実を言い当てています。また、少数派救済イデオロギーを掲げる勢力(リベラル派のこと)が力を増せば、彼らの思想に沿った内容に変更されますし、そのような思想に基ずいて書かれる歴史についても、これは当てはまるでしょう。

この名言一つの掲載で、歴史教科書の九割以上の偏向が正されたことになります。
学生たちはこれを知ることによって、教科書に記述されていることを絶対視しなくなりますし、歴史を自ら考えるきっかけになるでしょう。
もっとも、それは型通りの思考(戦勝国史観や左翼史観)しかできない先生方にとっては、面白くないことかもしれませんが。

「歴史は勝者によって書かれる」、は「名言集および格言集」によれば、ウインストン・チャーチルの言葉とされていますし、ジョージ・オーウェルも同じ意味のことを書いています。また、「歴史の名言ー名言のウェブ石碑」によれば、ナポレオン・ボナパルトの言だという。真理だから、これまでも歴史上の人物が語ってきたし、これからも語るでしょう。
ただ、アメリカのルーズベルトやソ連のスターリンと並んで、第二次世界大戦における連合国側の巨頭であったチャーチルの言葉とした方が、説得力もインパクト(強い影響)もあるでしょう。

歴史教科書を一年間で教えるのは無理で、近現代史までたどり着けないとの教師の嘆きが聞かれますが、微々たる歴史的事実よりも、この名言を教える方が、よほど学生の思考を鍛えることができるし、教育効果も高いと思います。

もう一つ、次のような名言?を採用するのも良いかもしれません。

「敗者(敗戦国)の歴史は、勝者(戦勝国)に追従する敗者の中の裏切り者によって書かれる」

もう一つの歴史修正主義

1.名称の変更

1937年7月7日盧溝橋事件から始まった中華民国と日本との事変は、当初北支事変と名付けられ、同年9月2日の閣議決定により、支那事変に改められました。
この事変は、事変にも拘らず、現在は日中戦争と呼ばれています。

1941年12月7日、ハワイの真珠湾を日本が攻撃をして始まった戦争は、大本営政府連絡会議によって、支那事変をも含めて大東亜戦争と呼称されることになりました。
ところが、戦後GHQがそれを禁じ、太平洋戦争に変えさせ、今日もそれが先の大戦の名称の標準になっています。一方、左翼は近年アジア・太平洋戦争という呼称(ウィキペディアによれば、1980年代に提唱されたとのことですが)を使用しています。

2.なぜ名称を変えるのか

左翼、あるいは反日派は、どうして戦争及びそれに関する事象の名称の変更に熱心なのでしょうか。
それは、変更前の呼称自体やそれが表現する戦争観に同意できないからでしょう。また、戦時中の人たちとは違って、自分たちはその結果(勝敗や推移)を知っているし、当時の人たちよりも、戦争の実相が良く分かっているとの慢心があるためでしょう。
だから、彼らは平気で戦争等の名称を変更しようとするのです。

3.終わりなき変更

ところで、先の大戦について、現在の学者がもっとも良く知っているでしょうか。
将来新しい資料や視点が発見されたりするかもしれません。とするなら、現在の歴史学者よりも百年後の、百年後よりも二百年後の、二百年後よりも三百年後の学者の方が、事変や戦争の実相をより理解しているかもしれません。三百年後の左翼学者が、現在の左翼学者の呼称を否定することだってありえます。そして、さらに三百年後の学者の説を五百年後の学者が否定・・・・。そんなことをやっていれば、半永久的に歴史的名称を変更していかなければならなくなります。あるいは、千年後やはり数百年前の呼称の方が正しかったということになるかもしれません(笑)。

それに、将来新しい歴史的事件が発生しえます。
現在中共は、アメリカに追いつき、追い抜こうとしています。一方、アメリカはそのような中共の覇権国化を阻止しようとしています。数十年後、その米支間で戦争が始まり、両国軍がアジアで、あるいは太平洋で戦い、戦後国際社会でその戦争がアジア・太平洋戦争と呼ばれることになるかもしれません。そうなったら、現在のわが国の左翼学者のアジア・太平洋戦争なる呼称はどうなるのでしょうか。

4.当時の名称を優先

 

余りにも古い時代、たとえば縄文時代や弥生時代の人たちは、自分たちの時代をそのように呼んでいません。というよりも、自分たちの時代をどのような言葉で表現するかという発想自体なかったでしょう。だから、そのような時代の名称は後世の人が決めるしかありません。
しかし、支那事変や大東亜戦争の時代の人たちは、自ら呼称を決め、それを使用しました。またそれは当時の人たちが出来事をどのように見て、どのように考えたかが表現されています。
私たちは原則として、当時使用されていた名称を使うようにすべきです。後世の者たちは、歴史的事件・事実の名称を、捏造すべきではありません(捏造例:アジア・太平洋戦争、日中戦争、従軍慰安婦)。

5.もう一つの歴史修正主義

名称の変更は、一種の歴史修正主義です。
歴史教条主義者(前大戦は、連合国=善、日本=悪と信じる戦勝国史観・東京裁判史観論者)たちは、それを変更することによって、自ら歴史修正主義を体現しています。自分たちの史的教条を守るために、新しい語を造っているのです。
歴史教条主義者は、別種の歴史修正主義者です。
彼らは、お前たちは歴史修正主義者だと右派を非難しながら、自らは歴史修正主義を実践しています。

6.歴史教条主義否定論

戦後七十年以上も経つのに、いまだに世界は、第二次大戦は連合国=善、同盟国=悪との歴史観が大手を振るっています。旧連合諸国の数が圧倒的に多いからでしょう。

第二次大戦は民主主義対独裁主義の戦いだったとされています。しかし、連合国側のソ連も中華民国も民主主義国ではありませんでした。その戦争観自体が嘘です。
同大戦は、帝国主義国同士が偶然二手に分かれて、権益をかけてたたかった戦争にすぎません。どちら側が善で、どちら側が悪というようなことはありません。
同盟国は、弱かったから負けただけです。

<戦争の善悪と勝敗は無関係>だと、賢人がいくら語っても聞く耳をもたない人が多い。

7.歴史教条主義の打破

戦勝国史観を疑っている右派の人たちは、<連合国=善、同盟国=悪>を逆転して(歴史修正して)、<連合国=悪、同盟国=善>としたい訳ではありません。
連合国と同盟国は、双方の言い分は五分五分です。一歩譲って、六分四分です。いくら譲っても七分三分で、同盟国にも三分の理はあると言いたいだけです。

連合国はドイツによるユダヤ民族虐殺を戦争の正当性に利用しています。しかし、ユダヤ民族の虐殺がなかったら、はたして同盟国に対する連合国の道徳的優位は証明しうるのでしょうか?アジア、アフリカを散々侵略していた連合諸国が、日独の侵略を非難できるのでしょうか。

戦勝国史観は絶対に正しい、とするには無理があります。
それは時間がかかろうとも、何れ打ち破るべきものだと考えます。

 

ドイツは和解できているか

戦後ドイツの反省」に書きました。

「第二次世界大戦以前の国家の行為に対し、ドイツは真摯に反省したから近隣諸国と和解できているのに比べて、日本は心から謝罪しないから、韓支との関係がいまだにギクシャクしていると非難されます。しかし、はたしてドイツは本当に反省しているのでしょうか」

戦後ドイツは、イスラエルと、あるいはフランスやポーランドと和解したとされています。後者とは、共通の歴史教科書を作成したそうです。
しかし、はたしてドイツは本当に近隣諸国と和解できているのでしょうか。

今年1月31日にイギリスは欧州連合(EU)から脱退しましたが、同国を含めたEUの人口ランキングによれば、1位ドイツ、2位イギリス、3位フランスです。また、同GDPランキングでは、やはり1位ドイツ、2位イギリス、3位フランスです。ドイツは明らかにEU第一の大国です。
ところが、英仏は共に核兵器保有国であるのに対して、ドイツは非保有国です。

ある人は言っています。

「東京裁判と同じく、ドイツにも連合国軍によるニュルンベルグ裁判はありました。しかしそれ以外に、ドイツ人は自ら国家が生み出した罪に向き合い、謝罪と補償を繰り返し、関係国との和解に最大限の努力をしてきました。そして、今、欧州の堂々たるリーダーとなっています」(過ちを認められない日本がドイツの謝罪に学ぶこと)

ドイツが「欧州の堂々たるリーダー」であるなら、核兵器保有国であってもおかしくありません。では、同国が核保有を求めたとして、欧州はそれを認めるでしょうか。認めるわけがありません。
なぜでしょうか。

欧州諸国は、ドイツを心の底から信用していないからです。いつかまた暴れるかもしれないとの懸念を抱いている。表面上、和解できている、ということになっているだけでしょう。だから、彼らはドイツの核保有を認めないのです。

欧州がドイツの核保有を認めた時、同国が近隣諸国と真に和解できた時だろうと思います。

イギリスが離脱することによって、EUでは核保有国はフランス一国になりました。もちろん、北大西洋条約機構(NATO)によって欧州諸国はアメリカ及びイギリスと軍事同盟を結んでいます。が、米国そして英国が余所の地域の問題に手を取られている時、EUはフランスの核だけで外敵からの脅威に対処できるでしょうか。

将来ロシアなり、かつてのオスマン帝国のような中東なりからの脅威に欧州がさらされ、それに対して、ドイツが中心となって、あるいはフランスその他と協力して外敵からの脅威を排除しえた時、ようやく近隣諸国はドイツを本当に信頼する=真の和解が成立することになるのだと思います。


日本に「極右」などいない

1.右翼と極右

現在のアメリカの二大政党は、共和党と民主党です。共和党=右派=保守、民主党=左派=リベラルとされています。

欧米では、右派は二種類に分けられるでしょう。保守・右翼と極右です。
米欧その他の、現代民主主義国においては、自由や民主主義が実施されています。それらが保障されている限り、その枠内で、つまり非暴力的に、言論や出版を通じて、自己の主張を実現しようとするのが保守・右翼です。
それに対して、自由が保障されているにも拘らず、暴力をもってしても自己の主張を成就しようとするのが極右です。

2.日本の極右?

ところで、今日の日本に極右はいるでしょうか。
日本は自由主義国であり、自由が保障されています。それにもかかわらず、少数ではありますが、暴力的に(肉体言語によって)自己の主張を達成しようとする勢力または個人がいます。右翼と呼ばれる人たちです。

図書館や書店に行けば分かりますが、欧米で「極右」に相当する勢力は、日本では「右翼」と呼ばれています。すなわち、欧米の極右=日本の右翼です。
日本の右派は、保守と右翼の二種類です。なのでわが国には、いわゆる極右はいません。

戦後の日本における保守と右翼を代表する人物を各々挙げましょう。
前者に相当するのが福田恒存氏であり、後者に相当するのが野村秋介氏です。
野村氏(1935-1993)は、1963年7月15日に河野一郎邸焼き討ち事件、1977年3月3日経団連襲撃事件を起こし、1993年10月20日朝日新聞東京本社で拳銃自殺をした正真正銘の右翼です。

別の、もっと有名な人物の例を挙げましょう。
いくら過激な発言をするといっても、言論によって自己の主張を行う石原慎太郎氏は保守です。一方、1970年11月25日陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問し、東部方面総監を人質に、自衛隊員に決起を促す演説を行い、駄目だと判断するや割腹自殺を遂げた三島由紀夫氏は右翼当たります。

3.安倍首相は極右か

たとえば、ネット上に「総選挙・自民党の極右候補者リスト『ウヨミシュラン』発表!日本を戦前に引き戻そうとしているのはこいつらだ!」という記事があります(注)。
2017年10月22日の総選挙前の記事ですが、そこで挙げられているのは、安倍晋三首相や菅義偉、荻生田光一、稲田朋美、古屋圭司、城内実、高市早苗、二階俊博、麻生太郎、杉田水脈氏など何れも自民党の衆議院議員です。
安倍氏等は、「自民党の極右候補者」だとされていますが、では彼らは右翼の野村秋介氏や三島由紀夫氏よりも、もっと政治的に右寄りなのでしょうか?
まさか。

国会議員は自由や民主主義の枠内で戦う人たちです。だから、彼らは極右ではありえません。先に、欧米の極右は日本では右翼に相当すると述べましたが、安倍氏等は右翼ですらなく、ただの保守政治家にすぎません。

4.なぜ保守政治家が「極右」だとされるのか

安倍首相たちは保守です。それなのに、なぜ極右のレッテルを貼られるのでしょうか。
極右のレッテルを貼る者たちが左翼だからです。そして、左派は右翼という言葉が喚起する負のイメージを利用して、保守政治家たちを実体よりも悪く印象付けるため、右翼に極をつけて極右と呼んでいるのです。

欧州でもメディアは左派が牛耳っているため、議会制民主主義の範囲内で戦う保守・右翼の中にも、極右のレッテルを貼られる政党が見受けられます。また、横文字を縦にするだけのジャーナリストが多いし、彼らが欧州で使用されている語を、そのまま日本でも使っている。だから、保守、右翼、極右の区別が混乱するのです。

「ウヨミシュラン」の記事の筆者は暴力肯定論者ではないだろうとは思いますが、言論で戦う保守政治家が極右なら、この筆者だって言論で戦っているのですから、極左だということになります。そんなことさえ考えずに、記事を書き飛ばしている!

それにしても、「日本を戦前に引き戻そうとしているのはこいつらだ!」とは。社会(政治)認識がズレ過ぎていないでしょうか。
自分の政治的立場に都合が良いように、言葉を恣意的に使う人は、知的な暴力主義者だと言ってさしつかえないと思います。

(注)https://lite-ra.com/2017/10/post-3531.html

差別意識はなくならない

差別という観点から考えると、左派にとって人間は二種類に分けられます。差別する人としない人です。

差別する人としない人の二種類の人間がいると考える左派は、右派や大衆=差別をする人、自分たち=差別をしない人だと考えます。そして、前者が意識を変えれば、社会から差別がなくなると信じています。
あるいは、たとえば彼らは移民を受け入れることによって、差別思考から抜け出せないでいる、遅れた右派や大衆の意識改造をはかり、それによってより進んだ社会が実現できると信じているようです。だから、左派は移民の受け入れに積極的です。

左派の人たちは、自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます。
一昨年の、『新潮45』8月号に掲載された論文「『LGBT』支援の度が過ぎる」に対する、杉田水脈議員へのバッシングを見ると、左派は「自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでい」るがゆえに、盛大な批判ができるのだということがありありと分かります。
実に単細胞です。

差別という観点から考えると、右派の私も、人間は二種類に分けられると思います。自分に差別意識があるのを自覚している人と、その自覚のない人です。

差別意識のない人間などいません。
結婚するといって、息子または娘が連れてきたのがA人で落胆した。B人だったら良かったのに(A、Bには任意の人種、民族、国籍を入れてください)。
それは、差別意識があることの証明であり、内心を見れば自分にもそのような感情があるのは否定できないはずなのに、左派は自らにそのような意識があることを認めようとしません。
見た目では分からない在日や同和差別があるくらいだから、見た目で直ぐにわかる人種や民族の人たちに対する差別はそれ以上に起こりうるだろうと考えるのが自然だと思うのですが。

左派は、自分は差別をしない人間、差別意識のない人間だと信じていますが、彼らは差別をしないのではなく、自分のやっている差別に気がついていないだけです。あるいは、差別について鈍感だから、「自分は差別をしない人間、差別意識のない人間だと信じ」られるのです。
要するに、彼らは差別意識があるのを自覚していない人たちです。

自分は差別をしないし、差別意識もないと信じている当人も家族も、それらから逃れられません。
セクハラ行為は、右派ばかりではなく左派だっておかします。だから、人類が左派ばかりになったとしても、セクハラがなくならないのと同様、人類が左派ばかりになっても、差別はなくなりません。
左派は自らの内心を見ません。自らに差別意識があるのを認めるのが怖くて、それを直視できないのです。

差別意識があることを自覚している人は、それがなくせるとは思っていませんから、移民の受け入れに慎重になりますが、差別意識もあるし、差別もしている、しかし、その自覚がない鈍感な人たちが、移民の受け入れを推進するから、社会の差別が拡大するのです。
欧州の現実がそれを証明しています。

地方衰退の第二の原因

地方の衰退が言われて久しい。

田舎に住んでいても、夫婦で生活でき、子供に高等教育を施すことができるような仕事が減ったために、人口が流出し、経済も沈滞あるいは縮小している、それが地方の衰退でしょう。

地方衰退の第一の原因」にも書きましたが、その一番の原因は産業構造の変化にあります。
昔は各地に散らばって生活をしなければならなかった第一次産業中心の時代から、散らばって生活をする必要がなくなった、というよりも、工場やオフィスや住宅地や商業地など、人間が集まって生活し、労働したほうが効率が良い時代へ移行しています。

問題は、地方衰退の、もう一つの原因です。
ウィキペディアの「シャッター通り」によれば、シャッター商店街等は「1980年代後半から顕在化しており」、特に2000年の大規模小売店舗法の改正により、大規模店が各地の郊外に建設されました。
その結果、小売店が壊滅し、小売店とそれなりに共存していた百貨店も凋落の一途をたどっています。

一方、減少する小売店に対して増えたのが、ショッピングセンター、ホームセンター、ドラッグストア、その他の量販店やコンビニ、ファーストフード店など(以下、「大規模店等」)です。
それら大規模店等の店舗で売られている商品は、かつて小売店等で売られていたものです。いいえ、品揃えは小売店よりも大規模店等の方がはるかに豊富です。そして、客足が後者の方へ移ったため、前者が衰退することになりました。

小売店の多くは廃業し、店員さんたちはリストラされました。そこで働いていた人たちは、あるいはその子供たちはどうなったでしょうか。
ある者は職を求めて大都市圏へ転出し、ある者は客を奪った大規模店等へ職を求めたと考えられます。

いちいち聞いたりはしませんが、大規模店やコンビニで働いている人たちは、非正規雇用が多いのではないでしょうか。
たとえ非正規雇用でも、小売店で働いていた時よりも、報酬が多く、待遇が良いのなら、地方の衰退もそれほど顕在化しなかったでしょう。けれども、恐らく小売店時代よりも、大規模店等で働いている現在の方が経済的に悪化していると思われます。

小売店から大規模店等への転職→年収の低下→生活必需品を安売り大規模店等で購入→さらなる小売店の廃業→一部の者は大都市圏へ、一部の者は大規模店等へ転職・・・・負のスパイラルです。

地方において、消費の活力あるプレーヤーは、大手企業の正社員と正規公務員だけです。
大手企業は生産拠点の多くを海外へ移転させましたし、国内では雇用の調整弁として非正社員を活用していますし、国や地方公共団体も非正規公務員を活用しています。また、大規模店等で働く人たちの待遇も今述べた通りです。

消費の活力なきプレーヤーが増加している、それが地方衰退の第二の原因だと思います。

既に述べましたが、大枠としては、何らかの産業革命でもない限り、地方の人口の流出、その結果としての経済の下降は避けられないだろうと思います。
ただ、コンビニや大規模店の伸長が、地方の衰退に拍車を掛けている、のではないでしょうか。

この先、大規模店等が社員の報酬を抑え、競合店との競争のためさらなる安売りをして行けばどうなるでしょうか。今はまだ、大規模店等の出店は増加基調にあるようですが、そのうち攻勢極限点(攻撃の限界点)に達します。その後は、右肩下がりの時代に突入です。
若者たちがさらに大都市圏へ移住し、高齢者が減少すれば、何れ大規模店等は店舗のリストラを進めなければならなくなるでしょう。大規模店等にとって、地方の衰退は自社の衰退なり、です。

地方の衰退=自社の衰退を止めるには、止められないにしてもその進行を緩和させるためには、どうすれば良いでしょうか。大規模店等の経営者は、自社の社員の待遇の改善をはかる、しかないだろうと思います。