戦争における野蛮と無謀

平和論

次のような名言があります。

力なき正義は無力である。
正義なき力は暴力である。

この名言は、日本の武道家であり、少林寺拳法の開祖宗道臣氏(1911-1980)の言葉だという。そして、これは個人に関することから、社会や国家に関する事柄にわたって、適用可能なことでしょう。

「正義なき力は暴力である」
暴力団の「力」は、そのようなものでしょう。

「力なき正義は無力である」
たとえば、警察に力がなければ、国内の治安は保てません。
もっとも、革命家にとっては、警察の力は暴力であり、彼らのテロは「正義ある力」なのでしょう。

「力」を、軍事力に置き換えてみましょう。

軍事力なき正義は無力である。
正義なき軍事力は暴力である。

「正義なき軍事力は暴力である」
他国を侵略する国は、それを実践していることになります。
ただ、それが侵略なのか、解放なのか、それとも、何らかの防衛であるのかは、判断が難しいところです。

「軍事力なき正義は無力である」
戦後、わが国では非武装中立論というのが流行りましたが、非武装と国際社会における正義の実行は、両立できません。
非武装国家は、他国の不正義や侵略に目を瞑るしかありませんし、また、「正義なき軍事力」を行使する国に侵略されたら、彼らの言いなりになるしかありません。

上記の文言を、私流に国際政治に適用したら、次のようになります。

事の善悪を度外視するのは野蛮であり、
力の強弱を度外視するのは無謀である。

「人はパンのみにて生きるにあらず」
その意味は、「人間は、物質だけではなく、精神的にも満たされることを求めて生きる存在である、ということ」(注)ですが、人間は他の動物と違って、事の善悪を気にせずにいられない生き物です。だから、国際政治、たとえば、戦争に関しては、それが善であるのか、悪であるのかを考えざるをえません。
一方、だからと言って、

「力の強弱を度外視するのは無謀である」
大東亜戦争は、我彼の力の差を軽視した結果、多く戦没者を出した上に、敗北しました。

「事の善悪を・・・」を、さらに「変奏」します。

事の善悪を度外視するのは、また、力の強弱しか見ないのは、野蛮である。

国際政治や戦争について語る人たちの中には、どリアリストとも呼べる人たちがいます。彼らは「力の強弱」しか見ません。けれども、先に述べたように、人間は善悪に拘らずにいられない動物です。

一方、どリアリストとは別に、どアイディアリストとも言うべき人たちもいます。

事の善悪しか見ないのは、また、力の強弱を度外視するのは無謀である。

彼らはそのような人たちです。
ロシアによるウクライナ侵攻における言説で目立ったのは、ウクライナ支持派、継戦派、主戦派とも呼ぶべき人たちの「無謀」さです。
彼らは、ウクライナ=善、ロシア=悪を絶対視しています。そして、宇露の力の差を軽視しています。彼らはどれだけ西側が支援をすればウクライナは勝てるのか、そのような支援を西側は行いうるのかという問題に対する解答を示さないまま、継戦論を唱えています。

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(注)
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