第四の権力と第五の権力

1.第四の権力とは

『広辞苑』(第二版)によれば、三権分立とは「権力の濫用を防ぎ、人民の政治的自由を保障するため、国家権力を立法、司法、行政の相互に独立する三機関に委ねようとする原理」とあります。

立法、司法、行政の三権と並んで、人民に対して権力を行使しているとされるマスメディアは、第四の権力と言われます。
以前私たちは、政治、経済、社会に関する情報の殆んどを、テレビ、新聞、ラジオなどのマスメディアを通じて得ていました。政治家の不適切な発言をメディアが報じたり、論評したりすることで、大臣の首が飛んだり、時の内閣が揺らいだりしました。

2.第五の権力とは

1990年代からのインターネットの登場によって、マスメディア以外からも情報を得られるようになりました。そして。それは今世紀爆発的に普及しました。もしマスメディアが第四の権力なら、ネットは第五の権力だと言えるでしょう。

私は昨年三月にブログを始めましたが、そして、それまではパソコンは殆んど見ていなかったのですが、ネットを覗くようになってから分かったのは、その情報は早く、しかも深いということです。もっとも、ネットで得られる情報は、見る人の興味や検索能力に応じて懸隔がありますが。
たとえば、新聞は色々な分野の情報を網羅していますが、個別の、自分が関心を寄せるテーマに限れば、情報量は少ないし、質的にも低いのが分かりました。

3.第四の権力の役割

第四の権力の役割は、正確な報道、的確な解説、適切な言論にあります。その他に、立法、司法、行政の三権の、とりわけ政府の監視もあるでしょう。

独裁主義国では、マスメディアは国家権力の一部門です。一方、自由主義国では、マスメディアは国家から独立しています。後者のメディアは、客観的には自由で民主的な体制だから存立できていますし、自由に活動できているのですが、主観的にはまるで独裁主義国の政府を監視し、なおかつそれと闘っているような、自らは英雄的活動を行っているような錯覚に陥っている会社や個人もあります(朝日新聞や望月某記者はその典型)。

ところで、自由で民主的な国の政府は、国民の投票によって択ばれた政府です。すなわち、政府の主張≒国民の考えです。ですから、マスメディアの政府に対する批判的監視が行き過ぎると、国民意識と乖離します。
アメリカの主流派メディアは、トランプ氏の大統領当選を予想できませんでしたし、韓国に対する輸出管理優遇措置の廃止について、わが国の主流派メディアは優遇措置の維持を声高に訴えましたが、国民の圧倒的多数は政府による廃止を支持しました。
自由で民主的な国のマスメディアは、自国の政府に対しては厳しいけれども、非自由で、非民主的な、あるいは自国と敵対的な国の政府は監視の対象外ですから、甘く対する。
その結果、自国を普通に愛する国民の意識とのズレが生じるのです。

わが国のメディアは、戦前政府・軍と足並みをそろえて、国民を戦争に駆り立て、国民に塗炭の苦しみを舐めさせた経験から、戦後は過ちを二度と繰り返さないよう政府を監視しているつもりなのかもしれません。
しかし、冷戦時代の政府は反社会主義だったのに対し、マスメディアは親社会主義でした。メディアの言う通りにしていれば、日本は共産化しているところでした。

戦前と戦後、政府(軍も含む)は一度しか間違えていないのに、マスメディアは二度共間違えました。
どうして私たちは、マスメディアを信じられるでしょうか。

4.第五の権力の役割

もし第四の権力が正確な報道を心がけ、国民に寄り添うような言論を行ってきたのなら、マスメディアに対する批判がネット上でこんなにも氾濫するようなことはなかったでしょう。
マスメディアは角度をつけた報道や言論を行ってきましたし、自社の社論にとって都合の悪い情報には、報道しない自由を行使してきました。

第五の権力の隆盛は、とりわけ第四の権力に対する不信、反発にあります。たとえば、ネトウヨを育てたのは、マスメディアの不誠実な報道や言論でしょう。
第五の権力の監視の対象は、三権もありますが、とりわけ第四の権力です。

5.第四の権力の今後

第五の権力の情報や主張がいつも正しいわけではありません。この点、第四の権力と同じです。両権力はお互いにチェック・アンド・バランスを通じて、よりよき社会を作って行けば良いのだと思います。

さて、第四の権力の今後ですが、どうなるでしょうか。
第五の権力の監視を受けて、反省し、よりまともな報道・言論機関になるでしょうか。それとも、唯我独尊、相変わらず不誠実な活動で購読者や視聴者から見放され、ジリ貧になるのでしょうか。

 

清水幾太郎氏と功利主義

清水幾太郎氏は書いています。

「元来、私にとって、経済学など、どうでもよいことであった。大切なのは、幸福であった。幸福は、人間が遠い昔から求め続けて来たものであり、それゆえに、古代以来、倫理学の中心には、いつも幸福の観念が据えられていた。この伝統が二十世紀の倫理学に生きていたら、私が経済学に関心を寄せるチャンスはなかったであろう。(中略)
以上に述べたことは、次のように言い換えることが出来る。功利主義のどこが悪いのか、どうしても、私には納得することが出来ないのである。多くの人々が、功利主義というのは、昔の滑稽な失敗であるかのように、もう片付いてしまった愚行であるかのように振舞っている理由が判らないのである。(中略)正直のところ、多くの研究者が功利主義に向かって侮蔑の表情を示せば示すほど、私には、功利主義の魅力が抗し難く増して行った」(清水幾太郎著、『倫理学ノート』、岩波書店、105-107頁)

道徳的善から、幸福の観念が離れれば離れるほど、倫理が机上の、非実践的なものになります。

これまで多くの人たちが功利主義を批判してきましたが、その息の根を止めることはできませんでした。というよりも、それらの批判は、当を得ていたのでしょうか。
逆転の発想で、一度功利主義が正しいと仮定して、その証明に打ち込んでみてはどうでしょうか。正解はミル(J・S)の思想の延長線上にはなく、ベンサムのそれの延長線上にしかないでしょう。

私は、大枠において、功利主義は正しいと考えます。

中道とは何か

中道と呼ばれる、あるいはそれを自称する政党なり政治勢力があります。

わが国では、冷戦時代に公明党や民社党が中道政党と呼ばれていましたし(前者は現在でもそれを標榜していますが)、今でも欧州では中道左派とか中道右派に区分される政治勢力があります。
一体中道とは何なのでしょうか。

ネットで「中道政党」を検索すれば、「政策路線を一次元の分布で位置づける場合に,右派または左派にかたよらず,穏健で中間的な政党」(1)とありますし、「中道政治」では、「左右あるいは保守・革新のどちらにも偏らないことを旨とする政治」(2)と説明されています。

その方向性が正しいか間違っているかはともかく、左派も右派もそれなりに自派の信じる方向を目指しています。しかし、中道政党は独自の理念なり、政策なりを持っているのでしょうか。

かつての民社党は、一応民主社会主義という政治理念を持っていましたが、公明党は実質的には創価学会という宗教団体の政治部門です。同党は今は自民党と組んで与党を形成していますが、自民党とは別の、独自のビジョンを持っているのでしょうか。
悪夢のような政治を行った旧民主党とは違って、まともなリベラル政党が誕生して、あるいは、ある時政界にゴタゴタが生じたら、公明党は自民党を捨てて、その政党と組む可能性もなきにしもあらずでしょう。

もし中道が、左派右派とは別の、第三の道へ向けて邁進しているのなら、社会全体が左に傾こうが、右に傾こうが、その立場はブレないはずです。ところが、中道政党、中間派という勢力は、全体が左へ振れれば左へ、右に振れれば右へ、左派または右派と共振しているだけなのではないでしょうか。
すなわち、彼らは常に左右の真ん中派です。

左派と右派の対立があり、何らかの理由で右派が消滅した場合、中間派の人たちは自ら右派になり左派と対峙するでしょうか。たぶん、いつの間にか急進左派と穏健左派の中間におさまっているのではないでしょうか。

左右両派の位置を確認してから、そこからの距離で自らのポジションを決める、そのような人たちが中道なのではないでしょうか。

中道政党や中間派は、風見鶏とか日和見主義とかそのような評に相応しい勢力だといえば、言い過ぎでしょうか。

(1)https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E9%81%93%E6%94%BF%E5%85%9A-1367231
(2)https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%AD%E9%81%93%E6%94%BF%E6%B2%BB

 

公立の部門に、左翼的表現の自由を!

1.「表現の不自由展・その後」

今月1日に開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」は、3日に企画展「表現の不自由展・その後」を中止したそうです。
慰安婦少女像などに対して、抗議の電話やメールが殺到して、平和裏に展示会を続けられなくなったためらしい。

2.表現の自由に反する?

それに対して、左派は、表現の自由を守れとの訴えています。
8月6日付朝日新聞は、社説「あいち企画展 中止招いた社会の病理」に書いています。

「人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく、その営みを根底で支える『表現の自由』が大きく傷つけられた。深刻な事態である」

3.表現の自由の問題か

東京の銀座であれ、大阪の御堂筋であれ、その他の都市の人通りの多い商業地であれ、しかるべき場所を借りて、「表現の不自由展」を開催する自由はあります。
もしそれが妨げられたのなら一大事で、表現の自由が危殆に瀕している、あるいは「深刻な事態」であると言えるでしょう。しかし、今回の事例は違います。

4.津田大介氏の意図

芸術監督津田大介氏は記者会見で、次のように述べたとのことです。

「物議を醸す企画を公立の部門でやることに意味があると考えた」(1)

津田氏だって分かっているのです。この度の騒動は表現の自由の問題ではないこと。「表現の不自由展・その後」は一種のゴリ押しであることを。

朝日新聞の編集委員大西若人氏は書いています。

「作品選択の基準は『過去の展示不許可』であって、トリエンナーレが『いい作品』と推したわけではない」(2)

この文言でも分かるように、「表現の不自由展」は、政治(イデオロギー)を芸術に持ち込んだ典型例です。

5.右派による「表現の不自由展」を認めるか

この度の表現の不自由展の出し物は、左派が喜びそうな展示品でした。
ではもし、左派が激怒するような作品を目玉に、右派が「表現の不自由展」を「公立の部門でや」ったのだとしたらどうだったでしょうか。
左派は、それでも表現の自由を守れと叫んだでしょうか。
左派の「前科」を見れば、反対したであろうことは疑いえません。

6.左翼的表現の自由を!

結局のところ、左派が求めているのは、<公立の部門における、左翼的表現の自由を特権的に認めよ!>ということです。

そして彼らは、実質的には左翼的表現の自由を求めていながら、一般的な表現の自由の問題にすり替えて論じているのです。
これは、左翼の常套戦術です。
「ああ、またこの手か」
この度の騒動を見ての感想です。

7.左翼的表現の自由の後退

「表現の不自由展」を3日で断念せざるをえなくなって、津田氏は次のように語ったとのことです。

「表現の自由が後退する悪しき事例を作ってしまったことに対する責任は重く受け止めている」(3)

これは次のように読み替えるべきででしょう。
「左翼的表現の自由が後退する悪しき事例を作ってしまったことに対する責任は重く受け止めています。(左翼)同志の皆様、ゴメンナサイ」

(1)朝日新聞2019年8月4日
(2)同上2019年8月6日 
(3)https://www2.ctv.co.jp/news/2019/08/04/60290/

「北朝鮮の非核化」は何のため?

そもそも核兵器の廃絶は不可能ですし(「それでも核兵器は廃絶できない」)、北朝鮮は独立と体制維持のため、核兵器を手放すとは思えません。

ジョージ・W・ブッシュ政権で国務副長官を務めたリチャード・アーミテージ氏は、「核(兵器)廃絶の可能性はゼロ%」との意見の持ち主ですし(『日米同盟vs.中国・北朝鮮』文春新書、217-218頁)、現在のボルトン国家安全保障問題担当大統領補佐官も同じ認識だろうと思います。

それなのに、トランプ大統領、ポンペオ国務長官、ボルトン氏は北朝鮮に対して、非核化を求めています。
4月11日の米韓首脳会談で、「トランプ氏は『我々(米国)は【ビッグディール】(大きな取引)を協議している。核兵器を廃棄させなければいけない』と述べ、北朝鮮がすべての核関連施設を完全に廃棄するまで、制裁解除などの『見返り』を与えない一括合意を追求していると述べた」とのことです(朝日新聞、4月12日夕刊)。
これはどういうことでしょうか。

トランプ氏も、ポンペオ氏も、ボルトン氏も、北朝鮮が核(開発)を放棄すると本気で考えているのでしょうか。
それとも、経済制裁によって核(開発)を抑制するため、方便として「非核化」の要求を突きつけているだけなのでしょうか。

【追記】
9月10日、トランプ大統領はボルトン補佐官を更迭しました。
ボルトン氏は核兵器の廃絶も、北朝鮮がすんなり核(開発)を放棄するとも、考えていなかっただろうと思います。
一方、トランプ大統領やポンペオ国務長官はどうでしょうか。もし彼らがそれら二つの幻想を信じているのだとしたら、日本の安全保障は不利になるでしょう。(2019・9・14)

同盟国は何を基準に選定すべきか

1.平間洋一氏の問い

平間洋一氏は『日英同盟 同盟の選択と国家の盛衰』(角川ソフィア文庫)の第13章4を次の文章から書き出しています。

「同盟国は何を基準に選定すべきであろうか。如何なる国との同盟が国家に繁栄をもたらすであろうか」

それについて、「同盟国選定の基本は」「国益でありパワーポリディクスである」。そして、「同盟選択の第二の要件は」「世界の世論(情報)を支配する国家との同盟が望ましい」と述べています。

また、次のような歴史的観察も記しています。
「日本の安全保障を地政学と歴史から見ると、黒船の到来で始まった近代日本は、海洋国家と連携したときには繁栄の道を歩み、大陸国家と結んだときには苦難の道を歩まなければならなかった」

浅学ながら、私も考えてみました。

2.利・理・力・信

同盟国は何を基準に選定すべきでしょうか。
利と理と力と信の積によって決定すべきだと考えます。

利とは、国益(国家の権益)のことです。

理とは、理念や理想です。
自由や民主主義、法の支配や人権などのことです。

力とは、経済力や文化力もありますが、何よりも軍事力です。
国家は何にもまして生存を優先しなければなりません。

信とは、信用、信頼です。

<利について>
私たちは個人生活において、最低限自身や家族を養うために、できれば更により豊かな生活を求めて日々行動しています。同様に国家も、できうる限りの繁栄を目指します。すなわち、常に国益を追求します。
国益を損なう、あるいはそれが失われるような軍事同盟は避けなければなりません。

<理について>
たとえ経済交流が盛んで国益に適い、軍事的に強大であろうと、自由や民主主義、法の支配や人権といった価値が保証されていない国との同盟は、粗暴な事象を生み出します。そのような国が圧迫しているのが、自由や民主主義が保証されている国ならなおさらです。
理の欠如した国との同盟は野蛮です。

<力について>
たとえ欧州やアフリカや南米の小国と同盟を結んでも、近隣某国からの脅威に対して非力ですし、地理的に遠過ぎるので、役に立ちません。
力のない国との同盟は無力です。

<信について>
国際条約やルールを守らない国(これは、最近の韓国のことを言っているのだなと思う人がいたら、当っています)との同盟は紙屑同然です。
信のない国との同盟は実効性が期待できません。

3.四つの要件のバランス

利、理、力、信の積により同盟国を決定すべきですが、大きな数字に0を掛けても積は0にしかならないように、同盟国として必要な要件の何れかが根本的に欠けている国との同盟は、軽率にして無謀です。
各要件のバランスがとれた国との同盟が望ましいでしょう。

【追記】
安倍首相は8月6日の、広島市での記者会見で、「現在の日韓関係の最大の問題は、国家間の約束を守るかどうか、という信頼の問題だ。日韓請求権協定に違反する行為を韓国が一方的に行い、国交正常化の基盤となった国際条約を破っている」と述べたそうです(8月7日付朝日新聞)(8月12日)

私の廃君愛国

以前書きましたが、私は二十代前半(1980年代前半)より、もつぱら保守派の評論家の文章を讀んできました。
しかし、天皇制には懷疑的でした。天皇制に關しては、殆んどの保守派の意見とは違つてゐました。
私がスローガンにしてゐたのは、「廢君愛國」です。私は自分を保守派であるよりも愛國派だと考へてゐました。
私は保守派の正統ではなく、異端だつたのでせう(今でもさうですが)。

今頃そんなことを理解したのかと呆れられさうですが、比較的最近になつて漸く、次のやうに考へるやうになりました。
政治的經濟的社會的な制度は、不效用が明確になつてゐるのでない限り、現行を維持すべし、といふことです。不效用が明確な場合のみ、制度を變へて宜しい。それは、保守派の準則でせう。
一方、進歩派の準則は、效用が明確になつてゐるのでない限り、現行は改變して良し、です。不效用が明確な場合のみならず、效用不效用がはつきりしない場合も現行を改變して良し、といふことです。しかし、社會的な諸制度の效用不效用の判定は、往々にして人知を超えてゐます。進歩派の言ふ通りにしてゐれば、實際には效用があるのに、人間がそれを認識できないために、制度を改めてトンデモナイ社會が實現するといふことになります。社會諸制度は、不效用が明らかでないなら、安易に變更すべきではありません。
そして、天皇制は政治的不效用が明らかになつてゐる譯ではありません。

共和制の國では、政治上の權威と權力が一致するため、獨裁者が生まれやすい。
スターリンも毛澤東もヒトラーもポル・ポトも金日成も共和制の國が生み出しました。
一方、日本は天皇と幕府のやうに、歴史的に權威と權力が分離してゐて、獨裁者が生まれません。
もつとも、だから、たとへば大東亞戰爭に際しては、責任の所在が誰にあるのか分からない「無責任の體系」が生まれたとの批判もあるでせうが。

キリスト敎では、人間はただ神の前においてのみ平等である、といふ觀念が生まれました。
わが國だつて、國民は天皇の下において平等(國民は天皇の赤子)との無意識的な理解があるから、諸外國と比較して平等なのだらうと思ひます。逆説的ですが、超越する存在を假構することによつて、その超越する存在の下の平等といふ思想が生まれうる。

「天皇制は身分制度であり差別である」と主張する人もゐますが、その道理を理解しない(理解したくない)からでせう。
日本で天皇制を廢止したところで、さらに平等な社會になるとは思へません。

政治制度として、天皇制はプラスであつても、マイナスではないでせう。
とすれば、天皇制は維持すべし、との結論にならざるをえません。

今から考へれば、私が若い頃から抱き續けてきた廢君愛國は、單なる感情論に過ぎません。
理性に從ふなら、忠君愛國が正しいと思ひます。

池澤夏樹氏と慰安婦問題

作家の池澤夏樹氏は朝日新聞で「終わりと始まり」と題する連載を行っています。7月3日付の「映画『主戦場』 慰安婦語る口調 言葉より雄弁」で書いています。

「すべての試合の観戦はおもしろい。映画『主戦場』の場合はサッカーや囲碁ではなく、論戦。
従軍慰安婦というテーマを巡って、右軍と左軍双方の論客が登場、それぞれ自説を展開する。
第二次世界大戦の時、朝鮮から多くの女性がアジア各地の戦場に送り出された。あるいは自ら渡った。日本兵たちを相手に性行為をするのが彼女たちの職務だった。これが強制であったか否か、実態はいかなるものだったか、これが議論の軸だ」

池澤氏は「朝鮮から」と書いていますが、第一、慰安婦は朝鮮人よりも日本人の方が多かった。第二、当時の朝鮮は日本であり、朝鮮人慰安婦の募集方法は日本人と同じ、業者が集めた。要するに、日本人慰安婦同様朝鮮人慰安婦も、強制ではなく任意でした。
引用した文章だけで、氏がこの二つの事実を知らない(事実だと認めたくない?)ことがおおよそ分かります。

また、池澤氏は書いています。

「スタッフはアメリカ西海岸まで取材に行っている。カリフォルニア州のグレンデールという町に慰安婦の像が作られた時のこと。あちらにもちゃんと右軍と左軍がいて論戦を展開していた。
グレンデールの元市長が言ったことに蒙を啓かれる思いがした一
『慰安婦問題というのは、若いアジアの少女たちに起こった人権侵害です』
そう、あれを作るのは世界中すべての地域で戦争による性被害がなくなるのを祈ってのことなのだ」

「慰安婦問題というのは、若いアジアの」、とりわけ一番数が多かった日本人「少女たちに起こったこと」です。もしそれが「人権侵害」に当たるなら、なぜ日本人慰安婦の人権を問題にしないのでしょうか?
日本人慰安婦の人権は侵害しても良いけれども、朝鮮人慰安婦のそれは侵害してはならないということなのでしょうか。それは民族差別ではありませんか。
池澤氏ら左派には、日本人慰安婦は任意、朝鮮人慰安婦は強制との思い込みがあるのでしょう。

「そう、あれを作るのは世界中すべての地域で戦争による性被害がなくなることを祈ってのことなのだ」
千羽鶴をいくら沢山折っても、戦争も核兵器もなくなりはしません。同様に、「慰安婦の像」をいくら作っても、「世界中すべての地域で戦争による性被害がなくなる」わけではありません。
良い年をした大人なのに、どうしてそのくらいのことが分からないのでしょうか。

「当面の課題は日本の若い人たちの無知と無関心である」
根本的な「課題」は、池澤氏のような若くない人たちの「無知」です。

「(映画『主戦場』を)見終わった方にぼくは朴裕河著『帝国の慰安婦』を読むことをお勧めする」
この回の「終わりと始まり」を読んで、「その通りだ」と思った方に、私は秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』を読むことを「お勧め」したいと思います。

片務から双務へ日米同盟の発展

以下は、よもぎねこさんのブログ記事「日米同盟の片務性はアメリカの有利」への私のコメントです。

一般的に言って、軍事同盟は双務的であるよりは、片務的である方が壊れやすいでしょう。

危機の時代において、同盟国間の被害の差が大きければ、多数・多量の犠牲を強いられた側の不満が爆発します。日英同盟の破綻の原因は、第一次大戦における日本の犠牲・負担の少なさにあります。

なので、日米同盟を長期的に維持するためには、より双務的なものに改めて行くべきだと思います。

言論で闘わない「言論人」植村隆氏

6月27日付朝日新聞によれば、名誉を傷つけられたとして、元同紙記者植村隆氏が西岡力氏と文藝春秋に対し、損害賠償を求めた訴訟の判決が26日東京地裁であり、同氏の請求が棄却されたとのことです。

控訴する方針の植村氏は判決後の記者会見で、「ひるむことなく言論人として闘いを続けていきたい」と述べたらしい。
言論人なら「闘い」を裁判所に持ち込まずに、どうして言論誌・紙で行わないのでしょうか。
氏は『週刊金曜日』の発行人兼社長だそうですが、ということは書く媒体を持っているということです。言論人として稀有な、恵まれた存在です。それなのに、なぜ言論で闘わないのでしょうか。
裁判に時間をとられれば、言論に割く時間も削られ、言論人として十分に活躍できないでしょう。

「植村氏は、名誉を傷つけられ、教授に内定していた大学との雇用契約の解除を余儀なくされた」そうです。
そうであるなら、なおさら言論で西岡氏や『週刊文春』をコテンパンにやっつけたら良いのにと思います。
そうすれば、左派新聞や雑誌やテレビからお座敷がかかり、あるいは印税収入で、大学教授よりももっと稼げたのではないでしょうか。

それなのになぜ、植村氏は言論で解決すべきことを、裁判沙汰にするのでしょうか。
西岡氏との論争に「ひる」んだから、もしくは言論では勝てないと踏んだから、でしょうか。それとも、言論人としてのアイディアもエネルギーも枯渇したため、優秀な言論人の足を引っ張ることにしか関心がなくなってしまったためでしょうか。