なぜ日本のリベラルは社会主義国の人権侵害を批判しないのか

1.EUと米英加による対中制裁

中共が同国内のウイグル族の人権を侵害している(宗教の自由に対する厳しい制限、強制労働の断行、収容所での大量拘禁、強制不妊手術、ウイグル人の遺産に対する破壊他)として、3月22日にEU及び米英加が一斉に対中制裁を発動しました。

アメリカは1月20日、共和党のトランプ氏に代わって、民主党のバイデン氏が大統領に就任しました。共和党は保守であるのに対して、民主党はリベラルです。トランプ政権は1月19日に、中共のウイグル族らに対する迫害に対して、ジェノサイドの認定を行いましたが、この度の対中制裁の発動は、リベラル派の大統領によってなされました。

一方わが国では、EUや米英加による制裁に同調すべきだとの意見が、保守派から発せられましたが(たとえば、「対中人権制裁 日本の不在は恥ずかしい」)、リベラルからはそのような声は上がりません。

アメリカではリベラルの大統領が制裁を呼び掛けているのに、なぜわが国のリベラルからは中共の人権侵害に対する抗議が表明されないのでしょうか。

ジャーナリストの江川紹子氏は、ツイッターで次のように書いています。

「人権問題で中国を批判する人の中には、自国等の人権問題には冷淡で、中国を非難する問題だけに熱心という人がいる。関心があるのは中国批判であって、人権ではないんだろうなあ・・・」(注)

これは、わが国のリベラル派らしい発言です。

2.日本リベラルの「出自」

アメリカは、日本や欧州とは違って、冷戦時代も有力な社会主義政党、共産主義政党はありませんでした。当時から共和党は保守で、民主党はリベラルでした。すなわち、アメリカのリベラルは、冷戦中もリベラルでした。

一方、日本は冷戦時代、社会・共産主義政党(日本社会党、日本共産党)が国会で少なからぬ勢力を有していましたし、1955年以来社会党は野党第一党でした。当時は政界のみならず、一般社会でも社会・共産主義者は多かった。

ところが、冷戦終了後、多くの社会・共産主義者たちは、徐々にリベラルへ転向して行きました。日本社会党の消滅が、それを良く表しています。そして、冷戦中からリベラルだった人たち(旧リベラル)と、冷戦後リベラルへ転向した元社会・共産主義者たち(新リベラル)が合流して、リベラル政権が誕生しました。それが、民主党政権(2009-2012)です。

現在、左派の主流派にして多数派は、社会・共産主義者ではなくリベラルです(「左翼としてのリベラル」)。けれども、アメリカとは違って、日本は過去に社会・共産主義者だった履歴を持つリベラルが多い。

今日のリベラルに、あなたは社会・共産主義を信じているかと問えば、殆んどの人たちは否定するでしょう。しかし、彼らの頭の片隅には、どうも社会・共産主義的残滓がへばり付いているように思えてなりません。

なぜそう言えるのでしょうか。
彼らは、社会主義国を批判しないからです。もし彼らが、真っ当なリベラルなら、自由や民主主義や人権や法の支配を実施していない点で、中共や北朝鮮を批判しているはずです。しかし、日本のリベラルは、社会主義国を批判しません。なぜでしょうか。冷戦時代に社会・共産主義者だった、あるいはそのシンパだったという彼らの思想的「出自」がそのような言動を取らせるのだと思います。

3.社会主義者は社会主義国を批判しない

新左翼同士とか、講座派と労農派との、その後の日本共産党と日本社会党・社会主義協会との論争とか、各国の共産党と路線を巡っての相互批判とかはあったでしょうが、日本の社会・共産主義者は社会主義国の内政に関しては、殆んど批判していないと思います。
たとえば、冷戦時代に、ソ連や中共において、人権が蹂躙されていると非難したわが国の社会・共産主義者は、どれほどいたでしょうか。

では、なぜ彼らは社会主義国を批判しなかったのでしょうか。社会・共産主義者には、次のような共通認識があったからではないでしょうか。

第一。資本主義よりも社会・共産主義は勝れた体制である。

第二。社会主義国は誕生して間もないし、いまだ発展途上にある。しかし、遠からず発達した共産主義社会が実現するに違いない。だから、今は彼らを外部から安易に批判してはならない。

第三。むしろ批判すべきは、何れ没落する運命にある資本主義社会である。だから、同体制批判に集中せよ。

もし資本主義よりも社会主義体制の方が優れていれば、第一から第三の原則も間違っていなかったでしょう。しかし、現実は違っていました。というよりも、正反対でした。
戦後、西側自由主義国は政治的にも、経済的にも発展したのに対して、社会主義国は政治的にも経済的にも停滞して、自由、民主主義、人権、法の支配の点で、あるいは国民の豊かさの点で、資本主義国にはるかに及びませんでした。

ところが、社会・共産主義者たちには、資本主義よりも社会主義社会の方が勝れているはずだとの思い込みがありました。その結果、社会主義国よりもずっと増しなのに、資本主義国は散々批判する一方、資本主義国よりもはるかに酷いのに社会主義国は批判しないという滑稽かつグロテスクな言動を行うことになってしまったのです。
人民は、東から西へ、北から南へ逃げているのに、西や南の体制よりも、東や北の体制の方が優れているに違いない!と考えたのです。

4.日本のリベラルはソーシャリベラルである

日本のリベラルが社会主義国を批判しないのは、社会・共産主義の尻尾を引きずっているからです。あるいは、元社会・共産主義者が主導権を握っている、リベラル派の言論空間の中にあって、かつて社・共主義者であったことのない人たちも、そのような空気に圧されて、社会主義国を批判するのが禁忌となっているからでしょう。

日本のリベラルは、ソーシャリストではありません。かと言って、純粋なリベラルでもない。社会・共産主義が抜け切れていないがゆえに、社会主義国を批判しない、言わばソーシャリベラル(socialiberal=socialist+liberal)なのだと思います。

5.ソーシャリベラルも社会主義国を批判しない

ソーシャリズムを引きずっているリベラルは、社会主義国を批判しません。
社会主義国が、国内で人権侵害を行っても、日本人を拉致しても、核兵器を開発しても、日本に向けてミサイルを発射しても、東シナ海で領海や領空を侵犯しても、非難しません。沈黙=黙認です。

6月2日付朝日新聞に、「ミャンマーを支援 声を上げる作家ら」という記事が掲載されました。

「ミャンマーのクーデターで国軍が権力を掌握して4カ月となった1日、作家やミュージシャン、映画監督ら67人が共同声明を発表した。日本政府に、ミャンマー軍関係者などへの制裁を求めている。この日、東京都内で記者会見を開き、ミャンマーで1カ月近く拘束され、先月帰国したフリージャーナリストの北角祐樹さんや作家の落合恵子さん、音楽評論家の湯川れい子さんらが参加した。
声明では、日本政府に制裁を求めた上で、『民主主義への道を再び回復できるような支援策をただちに講じてください』などと訴えた。声明にはミュージシャンの坂本龍一さんや、作家の瀬戸内寂聴さん、作家・クリエーターのいとうせいこうさんらが名を連ねた」

この声明に参加した文化人たちは、ウイグルでの人権侵害に対しても、同様な共同声明を発表したでしょうか。していないでしょう。なぜしないのでしょうか。
ミャンマーは軍事政権の国であるのに対して、中共は社会主義国だからでしょう。あるいは、この度の制裁を求める声明は、中共の人権侵害から世間の目を逸らせるための、あるいはそれを相対化するための援護射撃なのかもしれません。
この共同声明に参加した人たちは、ソーシャリベラルな人たちなのだと思います。

先の、江川紹子氏の発言は、次のように言い換えることができます。

「人権問題で社会主義国を批判しない人たちの中には、自国等(=資本主義国・軍事政権の国)の人権問題には熱心で、社会主義国を非難する問題だけに冷淡だという人がいる。関心があるのは、資本主義国批判=社会主義国擁護であって、人権ではないんだろうなあ・・・」

自由も、民主主義も、法の支配も実現していないし、人権も保障していない社会主義国を批判しないソーシャリベラルな人たちは、自らの思考の異様さに、どうしていつまでたっても気がつかないんでしょうか?

(注)https://twitter.com/amneris84/status/1375091119013441537

左翼の国際主義について

国家の成立以前、まだ人類が少人数の集団に分かれて暮らしていた時代、狩りや漁場の取り合いなどの理由で、隣の集団との間で軋轢が、場合によっては、殺し合いもあったでしょう。その時分、自分の集団は味方であり、相手の集団は敵であったでしょう。

国家の成立後も、領土や国益を巡って、近隣国同士の間で対立が、あるいは戦争もありました。その時は、自国(民)は味方であり、隣の国(民)は敵でした。

ところが、近代になって、進歩思想が生まれました。
マルクス主義によれば、資本主義社会では、人々は資本家(ブルジョア)階級と労働者(プロレタリア)階級に分かれます。そして、何れ資本主義社会は倒れ、労働者階級が主導する、というよりも、皆が労働者階級になった階級なき社会が生まれるはずでした。

資本家階級の利益代弁機関としてのブルジョア政府あるいは国家を打倒するのがプロレタリアの目標になりました。そして、自国であれ他国であれ、労働者階級同士は味方であり、一方、ブルジョア階級は敵でした。ブルジョア国家を打ち倒すために、労働者階級は国境を越えて手を結ぶべきものとされました。
「万国のプロレタリア団結せよ!」
左翼にとって、主敵は国内の敵(ブルジョア)であり、国外の敵は二次的でした。

ブルジョア政府を革命によって覆した社会主義国は、次は他の資本主義国を撃破するために、あるいは同国の虐げられたプロレタリアを解放するために、あるいは資本主義国から自国を守るために、革命の輸出を行いました。
資本主義国に社会主義イデオロギーを浸透させ、時にスパイを放ち、時に同国の協力者をピックアップし、彼らに援助を与えたりしました。

一方、資本主義国の左翼は、自国のブルジョア政府を倒すのを容易にするために、あるいは、あわよくば社会主義国家から自国を解放して貰うために、国内で戦争や武力の放棄を訴えました。

労働者階級は国境を越えて手を結びあうはずでした。けれども、第一次世界大戦では、資本家も労働者も自国のために協力して、他国と戦いました。労働者の国境を越えた団結は、実現しませんでした。

政治学者の矢部貞治氏は階級と民族について書いています。民族を国家に替えても、当てはまるでしょう。

「歴史の現段階では、何といっても民族が基本的で、階級は民族の基盤の上での分化にすぎないことを、否定することはできない。(中略)階級は民族から完全に抜け出ることはできない。労働者が資本家になったり、資本家が労働者がになったりすることはできるが、日本人がスラブ人やゲルマン人になることはできない。(中略)事実において階級意識よりも民族意識の方が圧倒的に強大なことは、過去の大戦争などで如実に示されている。民族存亡の危機に直面すれば、階級意識は容易に後退する」(『政治学入門』、講談社学術文庫、76-77頁)

冷戦が終了し、社会主義思想の影響力も随分衰えました。左翼も主流派が、社会・共産主義者からリベラルへ移り変わりました。
しかし、現在の日本のリベラルは、社会主義者からリベラルへの転向の過渡期にあるためか、あるいは社会・共産主義思想を払拭できていないせいか、いまだに国際主義的です。

リベラル派が異常に敵意を燃やすのは、国内のイデオロギー敵、自民党や同党所属の首相とか、安倍前首相や杉田水脈議員や石原慎太郎氏などの右派タカ派の人物とかで、国外の敵、たとえば公船を尖閣海域に送り込む中共とか、日本人拉致や核兵器の開発やミサイル発射を行ったりの北朝鮮に対してではありません。両国に対しては、実に寛容です。

国内の敵には厳しく、国外の敵には優しい。左翼の、変わらない特徴です。

左翼にとって法の原則と真理とは

(下記は、よもぎねこさんのブログ記事、「女性はいくらでも嘘をつけますから 性暴力」への、一回目と二回目のコメントです。)

【一回目】(9月30日)
普通の民主的で、人権の保障された社会では、疑わしきは被告人に有利に、あるいは無罪推定が原則なのですが、左翼は自分たちが敵だと見做す人物、嫌悪する事柄、イデオロギー的に相反する立場に対しては、たとえば安倍前首相のモリ・カケ・サクラ、戦前日本の南京事件や慰安婦問題、弱者(女性)救済イデオロギーに都合の良い伊藤詩織事件などに対しては、途端に有罪推定を適用するんですね。

左派(の主張)には無罪推定。
右派には有罪推定。
が、彼らのモットーでしょうか。

【二回目】(10月4日)
「あること」と「あるべきこと」、事実と価値、存在と当為を区別するのは、今日常識でしょう。

ところが、マルクス主義者はその区別を、ブルジョア的分裂思考と言って否定してきました。
マルクス主義者にとって、真理とは共産主義社会の実現に資する事実のみが真実であって、それに反する事実は真理ではありません。

左翼の目標は社会・共産主義社会の実現から、いわゆる弱者(女性、在日、黒人、LGBT他)に対する差別なき社会の実現に移行したようです。

けれども、目標は変わっても、左翼の真理観は変わっていません。弱者救済に役立つ事実のみが真実であり、そうでない事実は彼らにとって真実ではありません。
左翼にとって真理は、政治の手段であり、下僕にすぎません。

真理だけではありません。よもさんが言うところの、疑わしきは被告人の有利にや証拠主義などの法の原則も、自分たちのイデオロギーに資するものだけか、それに役立つ場合に限り尊重して、そうでない場合は尊重しません。

真理や法の原則に関するそのような思考や行動は異様なのだ、ということを少しも疑問に思わないし、それを指摘しても聞く耳を持ちません。

目の両側を遮蔽され、正面に人参をぶら下げられた馬のように、左翼はイデオロギーという人参しか見えなくなっているのかもしれません。

先攻の左派・後攻の右派

1.先に攻撃を開始するのは左派である

政治的関心のない人ならともかく、政治意識の高いはずの左派の人たちの殆んども、次のような政治の基本原理を理解していないようです。
福田恒存氏は書いています。

「普通、最初に保守主義といふものがあつて、それに對抗するものとして改革主義が生じたやうに思はれがちだが、それは間違つてゐる。(中略)最初の自己意識は、言ひかへれば自分を遮る障碍物の發見は、まづ現状不滿派に生じたのである。革新派の方が最初に仕来りや掟のうちに、そしてそれを守る人たちのうちに、自分の『敵』を發見した。
先に自己を意識し『敵』を發見した方が、自分と對象との關係を、世界や歴史の中で自分の果たす役割を、先んじて規定し説明しなければならない。社會から閉め出された自分を辯解し、眞理は自分の側にあることを證明して見せなければならない。かうして革新派の方が先にイデオロギーを必要とし、改革主義の發生を見るのである。保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに氣づく。『敵』に攻擊されて始めて自分を敵視する『敵』の存在を確認する。武器の仕入れにかかるのはそれからである。したがつて、保守主義はイデオロギーとして最初から遲れをとつてゐる。改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに宿命づけられてゐる」(福田恒存著、「私の保守主義観觀」『福田恒存全集 第五巻』、文藝春秋、437頁)

先に攻撃を開始するのは、いつも左派です。左派の攻撃に対して防戦するのが右派なのです。
だから、以前「左派は先制攻撃派で、右派は専守防衛派だと言えるでしょう」と書きました。

2.誰が社会の秩序に石を投げているか

夫婦同姓、異性婚、国籍がある者だけに参政権がある、殆んどネイティブだけの移民がいない、性差がある・・・・のが当然の社会には少なからず不合理もあったでしょうが、それはそれなりに静かな社会でした。

ところが、そのような秩序ある社会に石を投げる人間が出現します。左派(進歩派)です。彼らは、社会に夫婦別姓、同性婚、外国人参政権、移民の受け入れ(アメリカなら、非合法移民の受け入れ)、性差の否定・・・・といった石を投げ入れます。
それによって、それまでは静かだった社会に波紋が生じます。

3.憲法は右派が先攻?

現在、憲法は右派が改憲を、左派が護憲を主張しています。だから、憲法に関しては、逆に右派が先に攻撃をしかけているように見えます。しかし、それは正しくありません。

もし大東亜戦争がなく、時代の変遷とともに帝国憲法が徐々に改正されていれば、今頃は右派が護憲を、左派が改憲を主張していることでしょう。

しかし、大戦とその結果としての敗戦があり、占領軍によって、しかもその中の進歩的な勢力主導による憲法(天皇=元首の否定や第九条=日本の生存権否定)が制定されました。

占領憲法の制定は、一種左派による先制攻撃です。そのゆえに、右派は後攻として憲法の改正を主張しているのです。

4.左派の解釈

もし社会の秩序に石を投げ、混乱を引き起こしているのが右派なら、左派が右派を嫌うのは当然だと言えるでしょう。しかし、石を投げているのは左派なのです。
彼らは、自分たちが、社会に混乱を引き起こしているという自覚がありません。
「先に攻撃を開始するのは左派である」という政治の基本原理を理解していないからです。

先に石を投げているのは左派なのに、なぜ左派は右派を毛嫌いするのでしょうか。
左派が指し示す方向に、右派が反対するからです。

左派によれば、旧い、間違った制度を否定することは、社会の秩序に対する攻撃ではない。進んだ、「正しい」制度に反対することこそが攻撃なのだということなのでしょう。
自分たちが正しいと訴える主張に、右派が反対するから社会が混乱するのだと考えている。本末が転倒しています。

5.左派は巨大な石を投げ込んだ

左派が目指さんとする社会は、本当に理想的な社会なのでしょうか。
左派は、前世紀、社会に巨大な石を投げ込みました。マルクス主義です。
彼らはそれによって、より良い社会ができると信じた。しかし、できたのは、政治敵の処刑、反革命分子の密告や粛清、思想や言論の統制、強制収容所や飢餓などが頻発する社会でした。

右派は、左派の言うより良き社会が信じられないのです。だから、どのようにすれば理想社会が実現するのか事前にかつ具体的に説明してくれたら良いのですが、左派にとってそんなことは自明らしく、説明もなく突然社会に石を投げ入れる。

自分たちの考えを疑わないのが、左派の最大の欠点です。

「小英雄」としてのグレタ・トゥンベリさん

1.小英雄

ジョージ・オーウェルは『1984年』(新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫NV)に書いています。

「あのような子供たちを抱えていたのでは、あのみじめな婦人も恐怖の一生を送らなければなるまいと彼は思った。あと一年か二年、子供たちは昼夜の別なく母親に異端の徴候がないものかどうか監視を続けるに違いない。(中略)三十歳以上の人たちにとって、自分の子供たちにおびえるのはほとんど日常茶飯事になっていた。それもその筈でザ・タイムス紙が毎週ほとんど欠かさず、盗み聞きする小さな密告者が一一般的に”小英雄”という言葉で呼ばれていたわけだが一何か危険な話を立ち聞きして両親を思想警察に告発したという記事を掲載していたからである」(35頁)

オーウェルのは小説ですが、彼が偉大なのは、その後共産主義社会で起こったたことを的中させたからです。

全体主義社会では、政府を陰で批判する親を、その子供が告発するようなことが起こります。そして、そのような子供が社会で「小英雄」だとして賞賛されたりします。

2.16歳の環境活動家

自身の親は告発しないものの、親や祖父母世代に対する告発をしている、9月23日ニューヨークの国連本部で行われた気候行動サミットでのグレタ・トゥンベリさんの演説する姿を見れば(私はテレビを見ない主義者なので、新聞でしか見ていませんが)、小英雄という言葉が頭をよぎるのは自然でしょう。
若干16歳にして「環境活動家」だという(笑)。

3.あやつり人形

地球温暖化の問題は、大人の科学者でさえ見解が割れていると思います。彼女は16歳にして、この問題に通暁しているのでしょうか。

本来なら、この問題についてろくに知らない子供よりも、十分な知識を持った大人が静かに語るべきです。しかし、大人が語ってもインパクトがありませんし、この問題が注目されません。そこで、急進主義者の策士が子供をダシに、話題性を狙ったのでしょう。

4.二種類の人たち

トゥンベリさんの演説を見た人たちの反応は、二種類に分かれると思います。

第一の人たちは、いかなる思想的・政治的立場であろうと、あのように子供が演説する姿を見て、おぞましいと考える人たち。はっきり言えば、正気を保っている人たちです。
先に、「若干16歳にして『環境活動家』だという(笑)」と書きましたが、笑うべき、というよりも嗤うべきことだと考える人たちです。

第二の人たちは、自分とは違った思想的立場の場合であればおぞましいと考えるけれども、同じ立場なら素晴らしいと、拍手と喝采を送る人たちです。
彼らは、左右の全体主義者の素質がある人たちです。

戦前は戦意高揚記事を、戦後は一転社会主義寄りの記事を読者に強いた、全体主義に親和的な朝日新聞は、9月25日付の社説「気候サミット 若者の怒りを受け止めよ」に書いています。

「今回のサミットでスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさん(16歳)は『若者はあなたたちの裏切りに気づき始めている。もし私たちを見捨てる道を選ぶなら、絶対に許さない』と各国代表に訴えた。
グレタさんら12カ国の少年少女16人は『気候危機は子どもたちの権利の危機だ』と、国連子どもの権利委員会に救済を申し立てた。サミット直前には160カ国以上で400万人を超す若者の一斉デモがあった。こうした若者たちの怒りを重く受け止めねばならない」

朝日新聞的な人たちは、ある時代にはヒトラー・ユーゲントたちの「怒りを重く受け止め」、別の時代には紅衛兵たちの「怒りを重く受け止め」てきた人たちです。

5.いつか来た道

とりわけ二十世紀は、小英雄に拍手・喝采を送るような人たちに、引き摺られた時代でした。

彼らを信用しない第一の人たちが社会の多数派なら心配ないのですが、第二のタイプの人たちは、マスメディアを中心に意外に影響力のあるところにいるので侮れません。

小英雄に拍手・喝采を送る第二の人たちの言うことを信じていると、山本夏彦氏ではありませんが、とんでもない所に案内されて、驚くことになります。

公立の部門に、左翼的表現の自由を!

1.「表現の不自由展・その後」

今月1日に開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」は、3日に企画展「表現の不自由展・その後」を中止したそうです。
慰安婦少女像などに対して、抗議の電話やメールが殺到して、平和裏に展示会を続けられなくなったためらしい。

2.表現の自由に反する?

それに対して、左派は、表現の自由を守れとの訴えています。
8月6日付朝日新聞は、社説「あいち企画展 中止招いた社会の病理」に書いています。

「人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく、その営みを根底で支える『表現の自由』が大きく傷つけられた。深刻な事態である」

3.表現の自由の問題か

東京の銀座であれ、大阪の御堂筋であれ、その他の都市の人通りの多い商業地であれ、しかるべき場所を借りて、「表現の不自由展」を開催する自由はあります。
もしそれが妨げられたのなら一大事で、表現の自由が危殆に瀕している、あるいは「深刻な事態」であると言えるでしょう。しかし、今回の事例は違います。

4.津田大介氏の意図

芸術監督津田大介氏は記者会見で、次のように述べたとのことです。

「物議を醸す企画を公立の部門でやることに意味があると考えた」(1)

津田氏だって分かっているのです。この度の騒動は表現の自由の問題ではないこと。「表現の不自由展・その後」は一種のゴリ押しであることを。

朝日新聞の編集委員大西若人氏は書いています。

「作品選択の基準は『過去の展示不許可』であって、トリエンナーレが『いい作品』と推したわけではない」(2)

この文言でも分かるように、「表現の不自由展」は、政治(イデオロギー)を芸術に持ち込んだ典型例です。

5.右派による「表現の不自由展」を認めるか

この度の表現の不自由展の出し物は、左派が喜びそうな展示品でした。
ではもし、左派が激怒するような作品を目玉に、右派が「表現の不自由展」を「公立の部門でや」ったのだとしたらどうだったでしょうか。
左派は、それでも表現の自由を守れと叫んだでしょうか。
左派の「前科」を見れば、反対したであろうことは疑いえません。

6.左翼的表現の自由を!

結局のところ、左派が求めているのは、<公立の部門における、左翼的表現の自由を特権的に認めよ!>ということです。

そして彼らは、実質的には左翼的表現の自由を求めていながら、一般的な表現の自由の問題にすり替えて論じているのです。
これは、左翼の常套戦術です。
「ああ、またこの手か」
この度の騒動を見ての感想です。

7.左翼的表現の自由の後退

「表現の不自由展」を3日で断念せざるをえなくなって、津田氏は次のように語ったとのことです。

「表現の自由が後退する悪しき事例を作ってしまったことに対する責任は重く受け止めている」(3)

これは次のように読み替えるべきででしょう。
「左翼的表現の自由が後退する悪しき事例を作ってしまったことに対する責任は重く受け止めています。(左翼)同志の皆様、ゴメンナサイ」

(1)朝日新聞2019年8月4日
(2)同上2019年8月6日 
(3)https://www2.ctv.co.jp/news/2019/08/04/60290/

左翼信仰

1.信仰の対象

キリスト教徒は唯一神Godを信仰の対象にしています。共産主義者は唯一のイデオロギー、マルクス主義を「信仰」の対象にしています。しかし、冷戦後、自他共に認めるという共産主義者は激減しました。彼らに代わって勢力を伸ばしているのが、リベラルという「多神教徒」です。

戦後のわが国の左翼が信仰の対象にしてきたのは、次のようなものです。
資本主義から社会主義への社会の発展、非武装中立、平和憲法、東京裁判史観、核兵器の廃絶、差別なき社会・・・・
共産主義者にとって、「資本主義から社会主義への社会の発展」が上位目的で、その他はそれに役立つ限りで支持しうる下位目的に過ぎません(実際に、非武装中立を主張したのは日本社会党で、日本共産党は武装中立ですが)。

一方、旧社会党的な、優柔不断な左翼は、それらを並立して目的としていました。彼らは一種の多神教徒です。優柔不断な左翼の正嫡たる現在のリベラル派は、平和憲法、東京裁判史観、核兵器の廃絶、差別なき社会をいまだに信仰の対象にしています。

2.理解というより信仰

それら政治目的に対するリベラルを含めた左翼の信じ方は、科学者の仮説に対する態度ではなく、信徒の「ご本尊」に対する態度と同じです。
信徒は信仰に都合が悪い事実が発覚しても、それを見ようとはしません。彼らは多くの宗教・宗派を比較研究した上で、一番正しいと思えるものを選んだわけではありません。にも拘らず、説得によって彼らに改宗もしくは棄教させることは不可能です。
左翼は、対象は宗教ではなく政治問題に過ぎないのに、理解ではなく、信仰しようとします。

3.説明・証明の不在

冷戦後、資本主義から社会主義への社会の発展及び非武装中立に対する信仰は薄れましたが、その他の論点への左翼の信仰はいまだ健在です。

・平和憲法について
1950年時点で韓国に平和憲法があったら、北朝鮮は南進しなかったでしょうか。2003年にイラクが平和憲法を持っていたら、アメリカは同国を攻撃しなかったでしょうか。2014年にウクライナが平和憲法を所有していたら、ロシアはクリミア・セヴァストポリを併合しなかったでしょうか。
現在支那はわが国の尖閣諸島に野心を持っているのは周知の通りですが、その野心を阻んでいるのは平和憲法でしょうか。
自衛隊と米軍=軍事力であるのは明らかでしょう。

・東京裁判史観について
そもそも戦争の勝敗と善悪は無関係です。どうして敗戦国のみ悪のレッテルを貼られなければならないのでしょうか。戦争犯罪は戦勝国も敗戦国もおかしています。前者の戦争犯罪は不問に付し、後者のそれだけを追及するのは二重基準でしょう。しかも、東京裁判では事後立法によって、そして「戦争犯罪」の拡大解釈によって日本を裁きました。それは、法の不遡及の原則に反しています。

戦前先進国は皆植民地を持っていました。戦勝国の植民地支配は非難されないのに、なぜ敗戦国の植民地支配のみが反省や謝罪の対象になるのでしょうか。

・核兵器の廃絶について
それでも核兵器は廃絶できない」をご覧下さい。

・差別なき社会について
差別的と見られる制度をいくら改めても、最後は人間の差別意識というどうしょうもないものに突き当たります。そして、それは人間が人間である限り永遠に無くすことはできないのです。

以上について、左翼は何ら納得できる説明なり証明なりを行っていません。
それにも拘らず、彼らは頑として自らの信仰を疑おうとはしません。そして、信仰を同じくする者たち同士で合言葉を交わしてメートルを上げる一方、信仰を同じくしない者の言論は封殺します。

4.神は死んだ

左翼教の信徒は、平和憲法、東京裁判史観、核兵器の廃絶、差別なき社会といった「神」が、もう既に死んでしまっていることに、気づいていないようです。

左翼的思考とそれが生みだす社会

保守主義者は存在(事実)から出発しますが、進歩主義者(左翼)は当為から出発します。
前者は「あること」から出発するのに対して、後者は「あるべきこと」から出発します。

たとえば、後者の場合は、次のような具合です。
・戦争はあってはならない、戦争は放棄しなければならない。
・武力はなくさなければならない、陸海空軍その他の戦力は、これを保持すべきではない。
・核兵器は廃絶しなければならない。
・人民は経済的に平等でなければならない。
・差別はなくさなければならない。
・外国人・移民と共生できる社会を作らなければならない、など。
「でなければならない」、からスタートするのが左翼の発想法です。

でなければならない、と言うためには、そもそもそれが可能でなければなりません。それが不可能なら、でなければならないと言うのは無意味です。
では、以上の事柄は、実現可能なのでしょうか。

・戦争はあってはならない、と言いますが、戦争をなくすことはできるのでしょうか。他国の侵略から自国・自国民を守るための戦争も、「あってはならない」(してはならない)のでしょうか。
・武力はなくさなければならない、と言いますが、国家は武力をなくすことができるのでしょうか。
現在の東アジアにおいて、日本が一方的に軍隊も武器も捨て去ることができるのでしょうか。そうすれば、日本も周辺各国も平和になるのでしょうか。
・核兵器は廃絶しなければならない、と言いますが、それをなくすことは可能なのでしょうか。
・人民は経済的に平等でなければならない、と言いますが、当の人民は平等な社会を望んでいるのでしょうか。
能力のある人、身を粉にして働く人は、能力のない人、ろくに働かない人と経済的に平等であることに満足できるのでしょうか。
・差別はなくさなければならない、と言いますが、差別をなくすことはできるのでしょうか。
制度としての差別はなくすことができるかもしれませんが、差別意識をなくすことはできるのでしょうか。
・外国人・移民と共生できる社会を作らなければならない、と言いますが、それは可能なのでしょうか。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、同じ国民なのに民族・宗教・言語の違いによって対立し、さらに殺し合い、国家が空中分解してしまいました。
欧米で移民(二世も含む)による犯罪、テロ、暴動が発生していますが、それは外国人・移民との、あるいは多文化共生というものがいかに困難であるかの証拠でしょう。

左翼は当為から出発します。が、そもそもそれは実現可能であるか否かということを問おうとはしません。その問いを素通りしています。それが可能なのを自明のこととしています。
彼らの主張の体系は、一階のない二階建ての構造物のようなものです。
そして、事実として、それが実現可能なのかを問わないから、現実に裏切られるのです。一階部分が安普請だから、理想の宮殿が倒壊するのです。
結果、彼らの予想とは違った世界が現出します。

「あること」を直視することができないのが、左翼の大きな欠点です。
左派は、右派は非合理だと一言で片付けますが、そして、レベルの低い右派は確かにそうかもしれませんが、「あること」をすっ飛ばして、「あるべきこと」を直接目指す左派も、相当に非合理的な思考の人たちだと思います。

左翼中の左翼、共産主義者たちは、かつて実現しようと試みました。
経済的に平等な社会、階級なき社会、人間疎外なき社会、資本家による搾取なき社会、公害なき社会・・・・
しかし、現実に生まれたのは、経済的に平等ということになっている社会(毛沢東にしろ、金正恩氏にしろ一般民衆のレベルとは隔絶した生活を送っています)、階級がないということになっている社会、人間疎外がないということになっている社会、資本家による搾取はないけれども赤い貴族による搾取はある、搾取がないということになっている社会、公害がないということになっている社会・・・・でした。
左翼の熱狂によって生まれたのは、「一である社会」ではなく、「一であるということになっている社会」でした。

今日の左翼たるリベラルが目的としているのは、差別なき社会、外国人・移民と共生できる社会等です。
しかし、彼らは進歩主義者であり、一階部分に対するおもんぱかりがありませんから、彼らの意図とは違った社会が生まれるのは必定です。

リベラルの熱狂によって出現するのは、差別がないということになっている社会、外国人と共生できているということになっている社会でしょう。
言っても無駄ですが、なぜ彼らはそれに気がつかないのでしょうか。

では、左翼はどのような方法によって、「一ということになっている社会」を作り上げるのでしょうか。
共産主義国では恐怖政治と思想・言論・報道の自由の封殺によってでしたが、リベラルはもっぱら後者の制限によってです。

リベラル派は、「差別的発言に、言論の自由はない」と平然と口にします。そして、差別的であるかどうかは、彼らが判定します。その言動を見れば分かりますが、彼らは自由主義者というより、進歩主義者なのです。

思想的敵に対してレッテルを貼り、左翼が牛耳るマスメディアで袋叩きにし、社会的に抹殺しようとします。LGBTに関する発言の際の、杉田水脈議員に対する迫害を見れば良く分かります。
そのようにして、社会にタブーや物言えぬ風潮を作り出し、思想敵を駆逐して行きます。

かくして、実際には差別はあるのに、皆吊し上げられるのを恐れてそれを口外することができない、差別がないということになっている社会が出き上がります。

なぜ左派に偉大な言論人・評論家がいないのか

二十代前半より保守派の評論家の文章に親しんできました。
1980年代前半に「発見」したのが、竹山道雄氏、清水幾太郎氏、福田恒存氏、山本夏彦氏、渡部昇一氏などです。彼らを斑(まだら)理解しかしていませんが、この歳まで各氏の著書等を読んできて、いまだに彼らのファンです。彼らの文章は余り古びていません。

私は右派ですが、私と同年輩の、青年時代から左派だった人で、ずっと読んできて今でも面白いと思えるような言論人なり評論家なりを持っている人はいるのでしょうか。たぶん殆んどいないのではないでしょうか。
なぜでしょうか。

左派は進歩主義者であり、今流行っているか、近いうちに流行るであろう思想・立場を追い求めます。その方が、世間から先見の明があるとか、良心的だと思われるからでしょう。また、そういうスタンスをとる方が実入りが良いからでしょう。

しかし、流行りものは廃りものです。現実は、彼らの予想とは違った方向に進みます。左派の評論家に先見の明があるわけではありません。彼らに時代の先を見通す能力などありません。たとえば冷戦時代、進歩主義者は片足もしくは両足をマルクス主義の足場の上に置いていました。が、冷戦後足場そのものが崩落してしまいました。すなわち、彼らは進歩主義者なのに、進歩に裏切られます。結果、彼らが愛する思想が破綻し、パラダイムが変わります。すると、彼らの書いたものが一挙に古びてしまう。戦前の言論が、戦後ひどく間抜けて見えたように(注)。
朝日新聞の論壇時評欄などは、その手の論や文の宝庫でしょう。そこで推奨されている論文を、数年後誰が読むでしょうか。
という訳で、左派には長期的に読むに耐えうる著者は少ないのだと思います。

もう一つ、左派の評論家の言論の息が短い理由は、彼らは可変的な制度ばかりを見て、不変的な人間性を見ないからでしょう。というよりも、彼らは人間性をも可変的だと誤解する。だから、現実に裏切られるのです。

右派の言論人・評論家は、文学者が多い。彼らは不変的な人間的自然を思考の基礎に据えている。だから、右派の評論家の文章の方が、息が長いのだと思います。

(注)
戦前、戦意高揚記事を書いたのは右派だと思われがちですが、書いた中の少なからぬ知識人たちが、あるいはその旗を振ったメディアが、戦後左派に転じたのでも分かるように、進歩主義者=勝ち馬主義者といったタイプの人たちは、以外に多いのです。つまり、「今流行っているか、近いうちに流行るであろう」立場に、ダボハゼのように飛びついて行くのが彼らの習性です。

女医の増加は無医地区の増加なり

1.医科大学の入試不正問題

東京医科大学での発覚を端緒に、入試不正問題がその他の医大へ波及していきました。
問題になったのは、女子受験生に対する点数操作です。女子は合否判定で不利な扱いを受けていたらしい。それが世の怒りを買い、騒動になりました。

それに対して、医大が男子学生を優先的に合格させていたことを、必要悪とする意見も一部で語られました。
たとえば、医師でタレントの西川史子氏は発言しています。
「女性ばかりを医者にしてしまうと眼科と皮膚科ばかりになってしまう。(中略)外科は女性だと大変です。人の太腿だけで20キロもある。女医だと持てないですね。私は持てません」云々。

その他、結婚や出産もあって女医は離職率が高いこと、休日出勤、夜勤、あるいは夜間の呼び出しに対応できないこと、そのために男性医師に負担がかかるなどの理由が指摘されました。
しかし、そのような主張がかき消されるほど、女性差別は許せないとの声が圧倒しました。

2.無医地区への赴任

次のような想定はどうでしょうか。
若い男性医師なら、単身で、あるいは妻子を伴って、無医村なり、無医地区なりへ赴任するということはありうるでしょう。
では、女性医師の場合はどうでしょうか。単身で、あるいは夫子を伴って無医地区へ赴任するということはありうるでしょうか?
夫も医師で、夫婦揃ってというのでない限り(その場合も女性が離職したり、補助役へ回ったりではないでしょうか)、女医が無医地区へ赴くということはないだろうと思います。たいていの女医は都市部に留まるでしょう。

すると、どうなるでしょうか。
都市部では医師不足は発生しませんが、田舎や僻地、過疎地では医師不足が発生することになります。
医大入試での、女性差別は不当だ!との「正論」が、数十年後には、無医地区の拡大をもたらすことになるのではないでしょうか。

3.「左派の正論」

朝日新聞は2018年8月3日付の社説、「東京医大入試 明らかな女性差別だ」で言っています。

「女性医師の休職や離職が多いのは事実だ。だがそれは、他の多くの職場と同じく、家庭や子どもを持ちながら仕事を続けられる環境が、医療現場に整っていないためだ。(中略)
その解決に向け先頭に立ち、意識改革も図るのが、医療、研究、教育を担う医大の大きな役割ではないか」

朝日新聞が属するメディアの世界では、「家庭や子供を持ちながら仕事を続けられる環境が」「整ってい」るのでしょうか?
東京医大の入試不正を盛大に批判するメディアこそ、そのような環境を作り、模範を示せば良いと思うのですが。

それはともかく、左派はいつも正義派ぶり、抽象的にしか「正論」を語りません。そして、実効性のある改善策は示されないまま、現実は進行します。女医は増えるでしょう。
かくして、女医の増加は無医地区の増加なり、ということになります。

【追記】
「都市部では医師不足は発生しませんが、田舎や僻地、過疎地では医師不足が発生することになります」と書きましたが、「左派の正論」によって、彼らの多くが住む都市部は困らない一方、地方がそのしわ寄せを受けることになる。
これは何かに似ていないでしょうか。
アメリカにおける社会の分断にそっくりです。
割りを食うのは、地方の人たちです。

【関連記事です】
社会の分断の原因