高市早苗氏を支持します

1.自民党はリベラルと保守の寄合所帯

一般的に自民党は右派=保守政党であり、立憲民主党や共産党は左派政党であると考えられています。しかし、実際はそう単純ではありません。

冷戦時代は社会・共産主義体制支持派=左派、自由主義体制支持派=右派でした。だから、当時自由主義体制支持のリベラルも保守も「保守」でした。社・共主義勢力に対抗するために、リベラルと保守は腕を組みました。

昭和三十年の、日本民主党と自由党の保守合同は、イデオロギー的には保守とリベラルの合同でした。それ以来、自民党はずっとリベラルと保守の雑魚寝政党です。

ところが、冷戦が終了し、社会・共産主義勢力が没落、あるいは退潮することにより、政治的左右の対立軸が移行しました。今日左派と右派の対立は、リベラル=左派対保守=右派になりました。
リベラル対保守の時代、冷戦時代とは違って、リベラルはもはや保守ではありません。

自民党は、英語ではLiberal Democratic Partyですが、それは自由世界が共産世界と対峙した冷戦時代に相応しい名称で、今日はむしろLiberal Conservative Partyと表現する方が適しているのではないでしょうか。そう言えば、「リベラル保守」を宣言した、ズレた政治学者がいましたよね(笑)。

今日、自民党のみならず、政界もマスコミ界も相変わらず冷戦的思考の中にあって、誰が敵であり、味方なのか、無自覚で、本来戦うべきリベラルと保守が同一の政党の中で同居したりしています。
自民党の同じ派閥の中でも、理念の異なるリベラル派と保守派が混在しています。派閥は横糸としての理念と、縦糸としての人間関係が絡み合って、同党は鵺的な政党になってしまっています。
それを増長しているのが、選挙に勝てるかどうか=自分が当選できるかどうかしか関心がない政治家たちの存在です。彼らは国政選挙の顔として、誰が相応しいかという視点からしか、総裁を見ていません。理念に無関心な彼らは、政治家というよりも政治屋と言うべきです。

そのような状況なので、自民党政治家だからといって、保守政治家であるとは限りません。
この度の、自民党総裁選挙も、同党が保守政党ならば、立候補しているのは保守政治家ばかりのはずです。ところが、同党はリベラルと保守の寄合所帯だから、リベラル政治家も立候補しています。

2.保守政治家は高市氏だけ

今月17日告示、29日投開票の、自民党の総裁選挙の立候補者は、岸田文雄氏、河野太郎氏、高市早苗氏、野田聖子氏の四名です。四名の内、誰が保守政治家なのでしょうか。

高市氏は、憲法改正論者ですし、女系天皇に反対していますし、原子力発電に賛成の立場ですし、歴史認識でも東京裁判史観には否定的ですし、靖国神社への参拝は肯定していますし、外国人参政権の付与には反対していますし、選択的夫婦別姓にも反対していますし、同性婚についても反対の立場です。
要するに、保守正統派です。

その主張から見て、高市氏のみが保守政治家で、後は皆リベラル政治家です。
自民党は保守政党のはずなのに、総裁選に立候補しているのは、保守派よりもリベラル派もしくは鵺派の方が多い!寄合所帯であるゆえんです。

安倍晋三氏は理念重視の政治家なので、高市氏を支持しているのだろうと思います。
自分が衆参議院選挙で当選することしか関心のない、理念なき政治家たちとは違って、安倍氏が高市氏を支援しているのは、今回の総裁選で高市氏の当選を見込んでいるわけではないかもしれません。

安倍氏の後、日替定食ならぬ年替総理の時代に突入しました。岸田氏にしろ、河野氏にしろ、石破氏にしろ、長期政権を担うような能力がないのは明らかです。どうしてそれが当人たちには分からないのでせうか?それを見越して、次または次の次の本命として、安倍氏は高市氏に期待しているのかもしれません。

私は自民党員ではありませんが、今回の同党総裁選挙について、立候補者のうち保守政治家は高市氏だけなので、勝敗にかかわりなく彼女を支持します。

野党の混迷の理由

1.野党の支持率

各党の支持率は NHK世論調査|選挙|NHKニュース」によれば、2021年1月12日時点における、わが国の各党の支持率は、以下の通りです。

自由民主党 37.8%
立憲民主党 6.6%
公明党 3.0%
日本維新の会 1.1%
共産党 2.9%
国民民主党 0.5%
社民党 0.5%
れいわ新選組 0.5%
NHKから自国民を守る党 0.2%
特に支持している政党はない 40.5%

2.混迷の理由

野党がぱっとしない原因は何なのでしょうか。与党の自民党と公明党がしっかりしているからでしょうか。
根本的な理由は、野党が理念を喪失しているからだろうと思います。
理念とは、自分たちが何のために、何を実現するために戦うのか、あるいは誰のために戦うのか、ということです。それに対する解答を野党は持っていないのではないでしょうか。

野党の政治家たちは言うかもしれません。
「与党の自民党と公明党の連立政権だって、理念が相違する者同士の野合にすぎないし、彼らだってちゃんとした理念など持っていない!」
けれども、与党は特に理念を示す必要はありません。彼らは大筋としてこれまでやってきた政治を、これからも継続する立場なのですから。
むしろ、与党に取って代わろうとする野党こそ、理念を提示する必要があります。

3.理念の喪失の経緯

冷戦時代は、自由・資本主義体制と、社会・共産主義体制が対峙した時代でした。
左派は、資本主義社会における虐げられた労働者階級のために、ひいては社会・共産主義社会の実現のため戦うのを目的にしていました。
しかし、第二次世界大戦後、社会・共産主義者の予想に反して、西側資本主義国は経済的に発展し、また労働者階級も「鉄鎖のほかにうしなうなにものもない」階級ではなくなりました。そして、今日のわが国では、大企業の正社員や正規公務員はむしろ特権層です。

東側の国々は社会主義体制を放棄し、後進諸国もだんだんに経済的に発展し、西側先進諸国の一人勝ちの時代も終わりました。また、先進国の企業は、工場等を安価な労働力を有する後進国に移し、国内では非正規雇用の社員を利用し、利益の確保に奔走しました。

わが国の少子化の原因の一つは、非正規雇用の社員が結婚に踏み切れないことにあるのは明らかです。野党は当然、労働者一般から、非正規労働者へと軸足を移し、彼らと共に戦うものと思われました。ところが、野党は、非正規労働者には目もくれませんでした。そして、今でも彼らの権利は捨て置かれたままです。

野党は何のために、誰のために戦うのかということを見失っているので、冷戦終了後から今日まで、様々な政党が生まれましたが、それらの殆んどは泡のように、生まれては消えて行きました。

4.アメリカと日本

アメリカの左派政党民主党は、以前は労働者のための政党でした。しかし、トランプ氏の時代になって、ラストベルト(錆びた地帯)を初め、労働者は共和党支持へ流れているようです。一方、民主党は労働者の政党であることから、社会のマイノリティのために戦う方向へ舵を切りました。
アメリカは人種も宗教も多様で、見るからに多数派=白人ではないという人たちが大勢います。要するに、多数のマイノリティがいます。

しかし、わが国には、見た目で直ぐにわかるというようなマイノリティはいませんし、マイノリティ自体が少数です。彼らの権利を勝ち取るために、彼らを救うために戦うことを目標に掲げても、大勢の人たちの賛同も、票も得られません。だから、現実政治家は、そのような方向に走ることはできません。
マスメディアや学者など進歩思想輸入業に携わる人たちは、アメリカを真似てマイノリティ救済の報道や言論を行っていますが。

5.理念の探求と設定

わが国の野党は、以前は労働者階級のために戦ってきましたが、しかし、今後マイノリティのために戦うだけのモチベーションはありません。野党が伸び悩むはずです。

混迷を止めるには、新たな理念を模索し、設定すること。世の中で困っている人、救われるべき人たちは誰なのかを、探求すれば良いのですが、野党だって、もともと理念が異なる人たちの寄り合い所帯なので(自民党を飛び出した人たちと旧社会党的な人たちと)、それをすると分裂の危険性が高まります。

党の分裂を避けるためには、どのような戦い方をすれば良いでしょうか。
理念の問題は棚上げにして、それ以外の問題で、与党の非を衝くしかない、その結果が、モリ・カケ・サクラでしょう。
しかし、そんなことをやっていれば、じり貧になるばかりでしょう。

野党の理念の喪失は、国民にとって、とりわけ苦しんでいる人たちにとって、不幸です。

木俣正剛氏の「ドーナツ現象」

『週刊文春』、『文藝春秋』の編集長を務めた木俣正剛氏は、「石原慎太郎『コワモテ』の裏側、身近な人が離反しない理由とは」という記事を書いています。
一部を引用します。

「私には長い経験則があります。ドーナツ現象というものです。『時の人』となった人物を見るとき、本物の人ほど、身近な人がずっと身近にい続けて、離れません。ところが、偽物というのでしょうか、時流に乗っただけの人は、身近な人から離れて行きます。ドーナツみたいに真ん中が空洞で、外側の人ばかりが褒めている、そんな人は信用できない。そう思って編集してきました。

田中真紀子さんしかり、小沢一郎さんしかり、身近な人が離反し公に声を上げるような人は、やはりどこか人間として欠けている部分があるのでは、と思ってきました。その点では、石原慎太郎さんや小泉純一郎さんは身近なところから離反者がでません。それを人徳というべきなのでしょうか」

この記事が配信されたのは、昨年10月28日ですが、その前の月に自民党総裁選が行われ、三氏によって争われました。菅義偉氏と岸田文雄氏と石破茂氏です。
石破氏はマスメディアではずいぶん前から人気がありましたが、9月の総裁選では議員票は少なくて、最下位でした。
因みに、都道府県票は、菅氏89票、岸田氏10票で、石破氏は42票です。一方、議員票は、菅氏288票、岸田氏79票に対し、石破氏はわずか26票です。なぜメディアでの人気は高いのに、議員票は少ないのでしょうか。
直に知っている人=身近な人から好かれていないからではないでしょうか。たぶん石破氏も、田中真紀子氏や小沢一郎氏などに近い、外面は良いけれども、内面は悪いと言ったタイプの人なのだろうと思います。

人生経験をある程度積めば、直に知っている人たちから嫌われるような人たちとは、どのような人なのか、おおよそ見当がつくはずです。

田中氏や小沢氏や石破氏のような人たちに声援を送ったり、期待したりした人たちは、外面は良いけれども内面は悪い嫌なヤツ、というのが身近にいた経験はないのでしょうか。

政治の理想と現実

進歩派(左派)は往々にして、実現不可能な理想を掲げます。

一方、保守派(右派)はそれに反対します。後者の方が、現実的です。

左派の主張は、実現できない、綺麗事が多い。
その綺麗事に対して、右派はなかなか正面切って批判できません。

左派の、インテリ世界を動員したイデオロギー的な攻勢とマスメディアを中心とする、イデオロギー敵に対する吊し上げが烈しいため、右派は時に左派に抵抗しようとして発言した勇気ある味方を見捨て、時に勇気ある発言をした人物も、左派の吊し上げに耐えられなくなり、発言を撤回して、同調者の梯子を外します。
そのようにして、右派は次第に抵抗を諦め、左派のイデオロギーに妥協して行きます。

かくして、現実の政治は、左派が意図した空想とも、右派が思い描いた目標とも異なった世界が現出します。

左派は必然的にポピュリストである

1.先攻と後攻

たとえ非合理であり、不平等であろうとも、一国あるいは社会の成員全員が、その政治的経済的社会的法的諸制度に、そして文化や生活様式の現状に満足しているのなら、進歩派(左派)と保守派(右派)の対立も、社会の分断も起こりません。
ところが、それらに対して、異議申し立てを行う人が、あるいはそれらに代わる制度を求める人たちが現れてから、左派と右派の対立が、そして社会の分断が発生します。

社会の分断の原因」に書きました。

「夫婦同姓が当たり前だった時代、この問題に関する限り、社会に分断はありませんでした。
ところが、同姓に不都合なり、疑問に感じたある人物が、別姓を唱え、それに同調する人たちの数がある程度に達し、彼らがその権利を公然と主張するようになってから、分断が始まりました。

外国人参政権、外国人労働者・移民の受け入れ、同性婚、男女平等原理主義その他もそうです。
国籍を有する者が参政権を有するのが当たり前だと考えられていた時代・・・・
移民の受け入れがわずかだった時代・・・・
異性婚が当たり前だった時代・・・・
男女に性差があるのは当たり前だと考えられていた時代(女性差別もあったでしょうが)・・・・
同じパターンです。

進歩派が新しい思想を提起することによって、社会の分断が発生します」

初めに戦いの狼煙を上げるのは進歩派です。彼らからの攻撃を受けてようやく防戦に取りかかるのが保守派です。
いつも先攻は進歩派で、後攻は保守派です。
言い換えるなら、進歩派は先制攻撃派で、保守派は専守防衛派だと言えるでしょう(笑)。

2.ポピュリズムの発生

新しい思想的立場を提起する進歩派は、自分たちの主張の正しさを世に訴え、あるいはより多くの人たちの賛同を得る必要があります。そこで、彼らは口当たりの良い、人気取りの言葉を発します。
経済的に平等な社会、搾取なき社会、階級のない社会、差別なき社会、少数派が尊重される社会、外国人・移民との共生社会・・・・を実現しようではありませんか、それはきっとできるはずです、Yes,we can。

ポピュリズム(注)は、進歩派の登場とともに始まります。ポピュリズムを必要とする進歩派は、必然的にポピュリストです。

現状が非合理であることを、そして目指すべき社会が合理的であり、幸福に充ちていることををアピールしなければならないが故に、進歩派はポピュリズムを必要とします。一方、大筋は現状維持ですし、改革するにしても漸進主義ですし、一っ飛びの、ばら色の未来を語る必要はないので、保守派は原則的にポピュリズムを必要としません。
要するに、本来的に進歩派はポピュリズムを必要とするのに対し、保守派は必ずしもそれを必要としません。

(注)
ウィキペディアによれば、ポピュリズムとは、「一般大衆の利益や権利を守り、大衆の支持のもとに、既存のエリート主義である体制側や知識人などに批判的な政治思想、または政治姿勢のことである」そうですが、本稿では「複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始」する大衆迎合主義の意味で使用しています。

3.なぜ右派のポピュリズムだけが注目されるのか

そのように言えば、左派の人たちから異論がでそうです。
一歩譲って、左右の両派ともポピュリズムと無縁ではないことを認めましょう。しかし、左派がポピュリズムをあおるから、右派もそれをもって対抗するのです。ポピュリズムの活用も先攻は進歩派で、保守派は後攻なのです。

それなのに、マスメディアを見ていると、ポピュリズムのゆえに批判されているのは、もっぱら右派の政治家や党派なのです。
たとえば、トランプ大統領、イギリスのEU離脱、フランスのマリーヌ・ル・ペン氏、ドイツのための選択肢(AfD)その他の欧州の右派政党などです。

「コトバンク」の「ポピュリズム」の項の、知恵蔵の解説も下記の通りです。
「なお、日本では石原慎太郎や橋下徹(はしもととおる)(1969-)、小池百合子(こいけゆりこ)(1952-)など、大都市の知事を務める改革志向の政治家がポピュリストとされることが多い」

なぜなのでしょうか。
マスメディアを掌握しているのが左派だからです。
先に移民の受け入れを推進したのは左派なのに、それに反発する右派のみが批判される。進歩派が美しいイメージで語ったから(=ポピュリズム)、文化摩擦や犯罪やテロや暴動が発生しているのにです。

左派の論理は、次のようなものでしょう。
良いポピュリズムはいわゆるポピュリズムではない、悪いポピュリズムがポピュリズムである。だから、我々はポピュリズムを批判するのだ。あるいは、

すべてのポピュリズムは悪い。
しかし、右派のそれは、左派のものよりももっと悪質である、
が左派のモットーでしょう。
ここでも左派の得意技、ダブル・スタンダード(二重基準)が発揮されます。

右派のポピュリズムばかりを非難しているメディアがあるとすれば、そのメディアは左派である証拠です。

一流の野党・二流の野党・三流の野党

1.野党三種

与党は、複数政党制の民主主義国において、政権を担当している(政権に与っている、あるいは政府の側に与している)政党のことです。一方、野党とは政権を担当していない(野にある)政党のことです。
さて、野党は三種類に分けることができるでしょう。一流の野党と二流の野党と三流の野党です。

第一。一流の野党とは、時々与党に取って代わって政権を担うことができる責任政党のことです。イギリスではそのような野党が野にある時にも、政権を担った場合を想定して「影の内閣」が設けられているそうです。
与党とは別の理念によって結成された野党は、自らの理念に基づいた政策を立案し、有権者にそれを提示及び説得し、選挙に勝つことによって、政権を獲得、自らの政策を実施して行きます。

第二。二流の野党とは、与党とは別の政策を提示するものの、それが非現実的だったり、不人気だったりして、なかなか政権に就くことができず、万年野党化した政党です。
但し、政権は担えないものの、比較的図体が大きいために、与党がへまをすれば取って代わるかもしれないとか、図体は小さくても独自の理念を有するため、一定の固定支持層があり、政府に対して厳しい追及ができるとかで、与党に緊張感をあたえることができる野党のことです。

第三。三流の野党とは、政権を担う意思も能力も可能性もない、創立から数年で消滅してしまうような泡沫野党のことです。

2.現在の野党

現在のわが国の野党は、以上の何れに相当するでしょうか。

時事通信社の11月の政党支持率によると、与党の自民党30.1%、公明党3.7%に対し、野党は立憲民主党3.1%、共産党2.0%、日本維新の会1.3%、社民党とれいわ新選組が各々0.6%、国民民主党とNHKから国民を守る会が各々0.2%、そして、支持政党なしが55.5%です。

どの野党も、万年野党と半ば嘲られた旧日本社会党には及びませんし、自民党のコバンザメ公明党よりも支持率が低い。
いつの時代でも、大小に拘らず政治が解決すべき問題は山積しています。国民はそれらが解決されることを切望しています。
ところが、現在の野党がやっているのは、政府の政策批判でも、自らの政策提示でもありません。総理大臣や国務大臣の失言や不祥事を攻撃することばかりです。いわゆるモリ・カケから桜を見る会の問題まで。

確かに野党ですから、総理大臣他の失言や不祥事を問題にすることがあって当然です。けれども、国会においては政策に関する議論が主で、不祥事等は従であるべきです。
ところが、現在の野党の政治家たちには、主従が逆転しているという自覚さえないように見えます。それなのに、自分たちは政府・与党と英雄的に戦っていると自己陶酔しているのではないでしょうか。

主従逆転では困ります。野党に投票した有権者たちは、刺身定食を注文したのに、刺身のないツマだけの定食が出されたように感じていることでしょう。
もう国民は、うんざりしています。だから、野党の支持率が低いのです。
現在の野党は、二流半と三流ばかりです。

3.一流の野党を作るには

1990年代のいわゆる政治改革によって、政治家たちは政権交代可能な、自民党とは別のもう一つの有力な政党を作ろうと考えました。が、それはいまだに実現していません。

理念の同じ政党による二大政党制などありえません。それが可能だと考えて失敗したのが、希望の党です。
もし政権交代可能な、自民党とは別の政党を作ろうと思うのなら、自民党よりももっと右寄りな政党か、それとも左寄りの政党を作るしかありません。そして、現在のわが国の国民意識から考えるなら、後者の政党を作るのが現実的です。

2017年に希望の党と民進党が、一部の政治家を排除して丸ごと合流しようとしましたが、その騒動が明らかにしたのは、野党の政治家たちは、国会議員になるのが人生の目的で、理念や政策は後からついてくると考えているということです。

野党の政治家たちは選択すべきです。
国民のためを思うのなら、社会・共産主義やいわゆる戦後平和主義という古着を脱ぎ捨て、私情を抑え、大同団結して、自民党よりも少し左寄りの、愛国的な<陛下の反対党>を結成すべきです。
自分自身の栄達のためにしか関心がないのなら、今直ぐにでも辞職した方が良い。その方がお国のためです。

私の廃君愛国

以前書きましたが、私は二十代前半(1980年代前半)より、もつぱら保守派の評論家の文章を讀んできました。
しかし、天皇制には懷疑的でした。天皇制に關しては、殆んどの保守派の意見とは違つてゐました。
私がスローガンにしてゐたのは、「廢君愛國」です。私は自分を保守派であるよりも愛國派だと考へてゐました。
私は保守派の正統ではなく、異端だつたのでせう(今でもさうですが)。

今頃そんなことを理解したのかと呆れられさうですが、比較的最近になつて漸く、次のやうに考へるやうになりました。
政治的經濟的社會的な制度は、不效用が明確になつてゐるのでない限り、現行を維持すべし、といふことです。不效用が明確な場合のみ、制度を變へて宜しい。それは、保守派の準則でせう。
一方、進歩派の準則は、效用が明確になつてゐるのでない限り、現行は改變して良し、です。不效用が明確な場合のみならず、效用不效用がはつきりしない場合も現行を改變して良し、といふことです。しかし、社會的な諸制度の效用不效用の判定は、往々にして人知を超えてゐます。進歩派の言ふ通りにしてゐれば、實際には效用があるのに、人間がそれを認識できないために、制度を改めてトンデモナイ社會が實現するといふことになります。社會諸制度は、不效用が明らかでないなら、安易に變更すべきではありません。
そして、天皇制は政治的不效用が明らかになつてゐる譯ではありません。

共和制の國では、政治上の權威と權力が一致するため、獨裁者が生まれやすい。
スターリンも毛澤東もヒトラーもポル・ポトも金日成も共和制の國が生み出しました。
一方、日本は天皇と幕府のやうに、歴史的に權威と權力が分離してゐて、獨裁者が生まれません。
もつとも、だから、たとへば大東亞戰爭に際しては、責任の所在が誰にあるのか分からない「無責任の體系」が生まれたとの批判もあるでせうが。

キリスト敎では、人間はただ神の前においてのみ平等である、といふ觀念が生まれました。
わが國だつて、國民は天皇の下において平等(國民は天皇の赤子)との無意識的な理解があるから、諸外國と比較して平等なのだらうと思ひます。逆説的ですが、超越する存在を假構することによつて、その超越する存在の下の平等といふ思想が生まれうる。

「天皇制は身分制度であり差別である」と主張する人もゐますが、その道理を理解しない(理解したくない)からでせう。
日本で天皇制を廢止したところで、さらに平等な社會になるとは思へません。

政治制度として、天皇制はプラスであつても、マイナスではないでせう。
とすれば、天皇制は維持すべし、との結論にならざるをえません。

今から考へれば、私が若い頃から抱き續けてきた廢君愛國は、單なる感情論に過ぎません。
理性に從ふなら、忠君愛國が正しいと思ひます。

沖縄における民主主義のディレンマ

米軍普天間飛行場の移設のため、昨年12月14日、名護市辺野古の埋め立て区域への土砂投入が始まりました。

翌日15日の朝日新聞によれば、玉城デニー沖縄県知事は、「地方の声を無視し、国策を強行するやり方は民主主義国家としてあるまじき行為だ」、あるいは「民意をないがしろにし、県の頭越しに工事を進めることは、法治国家そして民主主義国家において決してあってはならない」と述べたとのことです。
政府が行っている辺野古埋め立ては、民主主義に悖(もと)る行動なのでしょうか。

文民であり、なおかつ国会議員である自民党総裁安部晋三氏は、国政選挙で勝利し、衆参両院で多数を占める与党から推され、国会の選挙で指名されて、内閣総理大臣を務めています。すなわち、安部氏は合法的かつ民主的に選ばれた首相です。
辺野古埋め立ても、その政治運営の一つでしょう。
どうしてそれが「民主主義国家としてあるまじき行為」なのでしょうか。

昨年12月14日付朝日新聞夕刊一面には「政府強行 沖縄は反発」、同15日朝刊一面には「辺野古 土砂投入を強行」、同日付社会面にも「投入強行『何を言っても』」など、「強行」の文言が見えます。
が、新聞を読んでも、政府の行為は明らかに違法である、とは書かれていません。
埋め立ては合法的だけれども、「強行」なのでしょう。法律に則って行われているけれども、感情的に許せないということなのでしょう。

辺野古の問題は、民主主義に反しているかいないかの問題ではなく、全体の民主主義と部分の民主主義は往々にして衝突しがちであるという民主主義のディレンマの問題であり、今回それが浮き彫りになったということでしょう。

単純化して言うなら、米軍の普天間基地を辺野古へ移すことに、日本国民全体は賛成の立場であるけれども、沖縄県民は反対の立場であり、両者のどちらを優先すべきか、あるいは両者をどのように調整すべきかが問題になっているのでしょう。

玉城知事は沖縄の「民意をないがしろにし」と批判しますが、では、国民全体の民意よりも、沖縄県民の民意を優先すべきというのでしょうか。それは、日本国民の「民意をないがしろに」することにならないのでしょうか。
沖縄は、部分の民主主義優先を貫徹できるのでしょうか。

沖縄では県内の某市の問題で、県と市の主張が対立することはないのでしょうか。
あるでしょう。
では、その場合県は、市の民意を優先しているのでしょうか。市の「頭越しに」県政を推し進めることはないのでしょうか。たぶん、あるでしょう。
それなら、どうして県と市の意見が対立した場合は県の意思優先で、一方、国と県の主張が対立した場合も県の意思が優先なのでしょうか。

沖縄は、県と市の意見が衝突した場合、どちらを優先すべきか、もしくはどう調整すべきか、その最善の方法を考えてみてはどうでしょうか。そして、その方法を、辺野古の問題に適用したら良いのだと思います。

沖縄県知事になろうとするほどの人なら、国と県の、県と市の意見が相違した場合の調整法の妙案ぐらい持って立候補すべきではないでしょうか。何の案もなしに立候補するのは、あるいは、国の譲歩に期待し、国と県の対立を煽るのは、ポピュリストだと言われても仕方がないのではないでしょうか。

実際問題として、部分の民主主義を全体の民主主義に優先することはできません。少数の人たちの利益のために、多数の人たちが不利益を被(こうむ)ることになりますから。そのようなことをしていると、民主主義そのものが破壊されます。

まず全体の民主主義と部分の民主主義の適切な調整法を見出すことを考え、それが見つからなければ、次善の策として、全体の民主主義を優先、を選択せざるをえないと思います。

【追記】
『岩波 社会思想事典』の「民主主義」の項目の一部を引用します。

「これまでは1国単位の民主主義が前提とされてきたが、それが実情に合わなくなってきた。国よりも大きな単位や、国よりも小さな自治体などについて、それぞれ民主主義を考える必要が生じ、民主主義の”重層化”とも言うべき状態が現れるなかで、さまざまな民主的決定をいかに調整するかが問題となっているのである。」

現実の政治は、眼前の”重層化”の何れかを決断・選択しなければなりません。
「問題になっているのである」などと言って済ましている人は、政治学者にはなれても、政治家には不向きでしょう。