戦争と核兵器と人類の滅亡

有史以前から人類はずっと戦争を続けてきました。

しかし、人類は滅亡していません。

世界終末時計というのがあって、ウィキペディアによれば、それは「核戦争などによる人類の絶滅を『午前0時』になぞらえ、その終末までの残り時間を【0時まであと何分(秒)】という形で象徴的に示す(中略)時計」のことです。
しかし、核戦争によって人類が絶滅するようなことがありうるでしょうか。

将来どこかの国で核兵器が使用されるかもしれません。けれども、たとえ使用されたとしても、その後戦争も核兵器もなくなることはないでしょう。すなわち、核兵器の実際の使用によって人類が全滅することはないでしょう。

その証拠に、これまで人類は絶え間なく戦争をしてきましたし、核兵器も使用されましたが、世界の人口は増加し続けています。

世界の人口の増加が止まった時までが人類の歴史の上り坂(前半)で、それ以降が下り坂(後半)かもしれません。

戦争や核兵器によっては、人類は滅亡しません。
滅亡するとしたら、それら以外の原因によってだろうと思います。

何が原因で人類が滅亡するかは分かりませんが、絶滅した時、終末時計の針は、きっと午前0時を指していないでしょう。

なぜならば、私たちは、自らの絶滅を予知できないだろうからです。

核兵器問題 正気なのは誰か

2020年7月28日付朝日新聞夕刊によれば、

「北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は27日、朝鮮戦争(1950~53年)の参戦者らを招いて平壌で開いた『全国老兵大会』で演説し、核保有国となったことを改めて強調したうえで『わが国の安全と未来は永遠に堅固に保証されるだろう』と語った。朝鮮中央通信が28日、報じた。
27日は朝鮮戦争の休戦協定が結ばれて67周年にあたる。正恩氏は核兵器保有国の道を歩んだ理由について『1950年代の戦争のような苦痛を再び繰り返さないよう抑止できる絶対的な力を持つためだ』と述べた。核を持つことで自らを守れるようになったと主張し『頼もしく効果的な自衛的核抑止力により、この地に、もはや戦争という言葉はないであろう』とも語った」

そうです。
また、1993年10月、朝日新聞で自決した右翼の野村秋介氏は、講演で発言しています。

「ご存知の通り、世界で戦争の無い所は核兵器のある所だけですね。核兵器のある所には戦争が起きない。南米にしろ、中米にしろ、中近東にしろ、戦争は必ず核兵器のない所で起きる」(『いま君に牙はあるか』、二十一世紀書院、284頁)

核兵器があるところで、今後も戦争が起こらないかどうかは分かりません。しかし、北朝鮮という国は、何十年も前に日本人を拉致していまだ返さない、また他国で平気でテロを行う異様な国ですし、右翼は相変わらず社会では鼻つまみ者扱いをされています。
けれども、核兵器に関しては、核兵器廃絶論者とか、わが国のいわゆる戦後平和主義者などよりも、正恩氏や野村氏の方がよっぽど正気だと思います。

核兵器保有国の制限は不当か

1.非保有国の不満

2017年7月核兵器禁止条約(TPNW)が国連で採択され、2019年10月批准国が50カ国に達し、今年1月22日同条約は発効の予定です。
それに対して、核兵器保有国は参加の意向を示していません。

核拡散防止条約(NPT)は、米露英仏支の5カ国には核保有を認めつつ、核軍縮交渉の義務を課す一方、その他の国には核兵器の製造や取得を禁止しました。
しかし、保有国が核兵器の削減を行わないのと、保有国と非保有国との間に不平等があるために、多数の非保有国の不満が禁止条約の発効へとむかわせたのでしょう。

では、5カ国を初めとする少数の諸国にのみ核保有を認める現状は、不当なのでしょうか。そして、そのような状態は正されなければならないのでしょうか。

2.銃の保有者の制限と無制限

現在の日本では、銃の保有に制限があります。
たとえば、狩猟や有害鳥獣駆除などのための銃の所持は例外として、一般市民は、銃の保有が禁じられています。一方、警察官は拳銃の携帯を認められています。
警官が社会の治安維持のために銃を所持しているのは、皆当然と考えていて、それについて文句を言う者は殆んどいません。

もし、一般市民と警察官に銃の非保有と保有の違いがあるのは不平等だと言って、保有の制限を撤廃したらどうなるでしょうか。
保有の制限の撤廃には、二通りの方法があります。一般市民も警官も保有を可にするか、両者とも不可にするかです。前者の実例がアメリカのような銃社会です。そのような社会になることを、日本国民は支持するでしょうか。

では反対に、一般市民も警官も銃の保有が禁じられたら、どうなるでしょうか。
警察官は、暴力団や犯罪者に対して、警棒だけで立ち向かわなければならなくなります。一方、暴力団他は闇で銃を調達する可能性が大いにあります。彼らを逮捕する際、警棒しか手にしていない警官が発砲されたら?

そのような場に直面すれば、いくら日頃から誇りをもって職務に励んでいる警察官たちだって、さすがにたじろぐでしょう。そして、そのような状況が頻発すれば、警官が次第に犯罪に対して見て見ぬふりをするような事態も予想されます。
その結果生まれるのは、警官よりも犯罪集団の方が幅を利かす社会です。

3.全ての国が条約に参加した場合

核兵器禁止条約の最終目標は、すべての国が条約に参加し、核兵器を地上からなくすことでしょう。それが実現したら、どうなるでしょうか。素晴らしい国際社会が生まれるでしょうか。

予想されるのは、一般市民も警察官も銃の保有が認められなくなった社会と同じような状態になることです。普通の、善良な諸国は条約を遵守する一方、邪悪な国家は闇での核兵器調達を画策するでしょう。もしそのような国家が核の調達を目指さないとしたら、その時は既に、国際社会で悪徳国家の力の優位が達成されているからでしょう。

そして、ある日邪悪な国家が核保有を宣言したら?
非核の善良な諸国は、核を保有した邪悪な国家と対峙しなければならなくなります。国際社会の力関係はがらりと変わります。悪徳国家を中心とした「悪の枢軸」が国際社会を牛耳ることになるでしょう。

現在の国際社会は、警察官国家と暴力団国家が核兵器を保有し(どの国がそれぞれに相当するかは書きませんが)、一般市民国家は核を持たないという状況ですが、全ての核をなくすことは、警察官国家の核を取り上げることにつながるでしょう。

進歩主義者(左翼)や空想家が主張する理念を追求したら、彼らが思い描く理想とはまるで異なった社会が現出する、というのが歴史の教訓です。
経済的平等を求めた挙句、共産主義という「大いなる失敗」がもたらされましたが、核兵器なき社会というものも同じでしょう。

4.売春防止法と核兵器禁止条約

核禁条約を批准したメンバーを見れば、何れも自国の力で自国を守れない国ばかりです。彼らは、世界最大の核兵器保有国米国の、パクス・アメリカーナの下にあるから、平和を享受できていることさえ理解しません。

世の中は進歩主義者、空想家ばかりではありません。現実的な人たちもいます。自国及び同盟国を守る責任を持っている国は、同条約に参加したりはしないでしょう。

昭和三十二年売春防止法が施行されましたが、それ以来わが国では売買春は行われなくなったでしょうか。行われなくなったのは、合法的なそれで、非合法な売買春は相変わらず行われているでしょう
売春防止法は、売買春はあってはならない、それが合法なのは許せないという綺麗事主義者の感情を宥めるために存在しているのでしょうか。

核兵器禁止条約も、核兵器は廃絶しなければならないと考える空想的平和主義者のガス抜きのためには有効なのかもしれません。

銃の保有者の制限同様、核保有国の制限も、必ずしも不当だとは言えません。

現実の社会では、売買春と売春防止法が併存しているように、核兵器と核兵器禁止条約だって、これからも末永く共存することでしょう。


ご先祖様を利用することなかれ

8月13日付朝日新聞「声」欄に、下記の投稿が掲載されました。

核禁条約の批准 被爆国日本こそ

地方公務員 H・M (千葉県 44)

「今年も広島、長崎の「原爆の日」を迎えた。日本の被爆から既に75年を経たが、いまだに核兵器が核兵器がなくなる気配は全くない。それどころか世界は、核兵器を保有する一部の国によって寡頭支配されている。
唯一の戦争被爆国である我々は、核兵器自体を禁止する条約を忘れていないだろうか。核兵器の製造や保有などを禁じる「核兵器禁止条約」。国連で3年前、122カ国の賛成で採択された。50カ国の批准という発効要件を満たすのは目前である。
この条約に日本の政権が調印しなかったのはもちろん残念だが、調印運動を盛り上げなかったメディアにも失望した。新型コロナでの自粛要請時のように、強調した報道を見せれば、日本も参加していたのではないかとさえ思う。
日本は戦争被爆国でありながら、核兵器を禁止する条約に参加していない。しかも冷戦後もなお、日本に原爆を落とした世界有数の核兵器保有国と、軍事的要素が強い日米安全保障条約を結び続け、「核の傘」に依存していると見える。
お盆に入り、戦争で亡くなった方の霊も戻ってくる。私たちは、ご先祖様に顔向けができるだろうか」

この人には、戦前のご先祖様は、現在の私たちとは全く異なるパラダイムの中にあったであろうという想像力が欠如しています。

ご先祖様は、戦争に勝って欲しかったのです。
アメリカよりも先に、日本が核兵器の開発に成功していたら良かったのに、と残念に思っていることでしょう。
そして、核兵器によって戦争に勝利していたら、今頃はきっと核兵器禁止条約に参加しろとは言わなかったはずです(笑)。

【追記】
お前の意見だって、ご先祖様の利用ではないかと言われたら、否定できませんが。

禁酒法と核兵器禁止条約

1.禁酒法

アメリカで、アルコール飲料の製造、販売、輸送と輸出入を禁じる禁酒法が、1919年1月に成立し、翌20年1月に施行されました。
酒を原因とする家庭内暴力や貧困という問題があって、それを阻止するのが元々の目的だったようです。

「元野球選手で、禁酒推進に貢献したビリー・サンデーは、1万人の聴衆を前にこう語った。『今夜、午前0時を回れば、新しい国が生まれます。明晰な考えと好ましいマナーの時代が始まるのです。スラム街はすぐに過去の遺物になるでしょう。刑務所や少年院は空っぽになり、工場へ姿を変えます。男性たちは皆まっすぐに歩き、女性たちは皆ほほ笑み、子どもたちは皆笑い声を上げるでしょう。地獄の門は、永遠に閉ざされたのです』」(注)

ウィキペディアによれば、禁酒法は革新派、女性、南部人、農村地帯の人々、アフリカ系アメリカ人、クー・クラックス・クラン(KKK)までも、「それが社会を改善すると信じて支持した」そうです。

禁酒法の実施は、「高貴なる実験」と呼ばれました。

ところが、同法が実施された後、酒の密輸や密造、闇酒場が横行、それで儲けるマフィアが台頭し、あるいは彼らの間で暴力沙汰や殺人などが頻発しました。
それで、世論は禁酒法反対に転じ、1933年同法は廃止されました。

現代では、「高貴な実験」について、「皆笑い声を上げ」ています。

2.核兵器禁止条約

核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用などを禁じる核兵器禁止条約を、8月6日アイスランド、ナイジェリア、ニウエの3か国が批准しました。発効に必要な50か国まで、あと7か国になったということで、先日ニュースになりました。

核兵器禁止条約が成立し、それが実施された場合、新しい世界が生まれるのでしょうか。核兵器問題における「地獄の門は、永遠に閉ざされ」るでしょうか。

生まれてしまった以上、核兵器製造の知識をなくすことはできません。
また、核兵器をなくしたところで、各国間の対立はなくなりはしませんから、近隣国に対して通常戦力で劣る国は、密造核を製造するかもしれません。しかも、情報統制されているために、自由民主主義体制の国よりも、独裁主義体制の国の方が密造核の製造は容易です。
正直な民主主義国は条約を遵守し、不正直な独裁主義国は秘密裏に核兵器を製造するようになればどうなるでしょうか。国際社会はマフィア国家の力が強大化することになるでしょう。

酒は悪いばかりではありません。それにも効用もあります。そのマイナス面ばかりを見て、プラス面を見ないから、あるいは人間性がそれを必要とすることを考えないから、予想外の結果が生まれたのです。

核兵器も、同様効用があります。
その効用とは、国家の価値を守ることにあります。国家の主権や領土、国民の生命や財産、自由や民主主義などの(独裁国なら、独裁者や独裁政党の権力維持などの)政治的価値を守っている面もあるのです。国産の核が無理なら、同盟国の核を利用してでも自国の価値を守らなければなりません。国家の価値を守る他の方法が発見されない限り、核兵器は必要とされます。

現実を眺めれば、世界の平和は主としてアメリカの、核兵器を含めた軍事力によって、あるいは、米国とその他の大国間のバランス・オブ・パワーによって、守られています。
核兵器廃絶論者の人たちは、現に世界には非核兵器地帯がいくつかできているではないかと言うかもしれませんが、それらだって、実は世界が基本パクス・アメリカーナの下にあり、米国およびその他の大国がそれを認めているから(非核兵器地帯に属する国々が、核に対する野心を持たない方が都合が良いから)、実現できているのです。

核兵器禁止条約は、たとえ成立したとしても、禁酒法の二の舞になるだろうと思います。それは時を置かず破綻するでしょう。
禁酒法は14年間続きましたが、核禁条約は何年間保つでしょうか。

核兵器禁止条約に幻想を抱いている人たちは、早く酔いから覚めて欲しいと思います。

(注)https://style.nikkei.com/article/DGXMZO54893860X20C20A1000000/

核兵器の問題を解くのは誰か

核兵器に関する問題あるいは専門分野は様々あるでしょうが、各々の専門家は誰なのでしょうか。

核兵器の開発の専門家は物理学者です。
自国が核兵器を保有すべきかどうかを決めるのは、政治家の仕事です。非民主国では、独裁者もしくは独裁政党が民意を無視してその決定を下します。一方、民主国では政治家は、国民にそれをはかってから(実際は事後承認ですが)決定します。

先の大戦の終戦間際、アメリカは広島市と長崎市に原爆を投下しました。それにより、数十万人もの死傷者が出ました。そのため、戦後のわが国では核兵器廃絶運動が盛んになり、今でもその活動は続けられています。
では、核兵器廃絶の是非、あるいは可能不可能の問題の専門家は誰なのでしょうか。

相対性理論を提唱したアインシュタインも、中間子の存在を予言した湯川秀樹も共にノーベル物理学賞を受賞しました。そして彼らは、核兵器廃絶運動にも積極的にかかわりました。しかし、彼らの理想は今もって実現していません。すなわち、核兵器廃絶の問題を解くのに、彼らは成功しませんでした=失敗しました。

なぜでしょうか。
世間は思い違いをしています。核兵器開発の専門家である物理学者こそが、核兵器廃絶問題の専門家に違いないと。少なくとも、彼らは後者の問題に関して一家言あるに違いないと。
しかし、開発の専門家は、廃絶問題の専門家ではありません。後者は、人間観あるいは政治における人間性の問題です。だから、それを解くべきは、自然科学者ではなく、人文科学者または社会科学者なのです。

ところが、戦後のわが国の人文科学者にしろ、社会科学者にしろ、その多数は戦後七十五年も経つのにいまだに、いわゆる戦後平和主義の枠内から出られずにいます。
だから、彼らから核兵器廃絶に関する適切な回答が得られるはずもありません。戦後平和主義から抜け出せずにいる人文科学者や社会科学者は、核兵器の存廃に関して、人々に幻想を与えることしかできません。

藤原帰一氏の「待ったなしの核軍縮」

国際政治学者藤原帰一氏は朝日新聞に「時事小言」というコラムを連載しています。
9月18日付の「待ったなしの核軍縮」に書いています。

「いま世界の核兵器をどのように考えるべきだろうか。一方には、核兵器は廃絶すべきだという議論があり、他方には安全保障のためには抑止力としての核が必要だという主張がある。核兵器に関する議論の多くは、この正反対の立場の間で行われてきた」

どちらかと言えば、私は後者の側ですが、正確に言うなら、そもそも核兵器は廃絶できないという第三の立場です(それでも核兵器は廃絶できない)。

「だが、差し迫った危険として核兵器を見ていない点において、この二つの主張には共通点がある」

「抑止力」派はともかく、「廃絶」派は「差し迫った危険として核兵器を見て」いると、一応考えて良いのではないでしょうか。
それはさておき、「差し迫った危険」があろうがなかろうが、核兵器の廃絶は無理だと私は考えます。

「核戦争は決して遠い将来の危険ではない。日本政府は、緊急の政策課題として核軍縮を実現しなければ現在の平和が失われるという緊張感のなかで核兵器の削減に努めなければならない」

藤原氏自身、「緊急の政策課題として核軍縮を実現しなければ現在の平和が失われるという緊張感のなか」にあるのでしょうか。
それはともかく、「日本政府は、(中略)核兵器の削減に努めなければならない」。
ん?
日本が核兵器を所有しているのであれば、政府の考えで自国の「核兵器の削減に努め」ることができるでしょう。しかし、わが国は核を保有していません。
それに、日本政府が核兵器の削減を呼びかけたところで、朝米露支印パがそれを実行するとはとても思えません。

思えませんが、米露が核軍縮を行ったと仮定しましょう。
両国が大幅な核軍縮を行えば、支那が保有する核兵器の相対的な存在感が増します。そうなった場合、核戦争が起こる可能性は減るのでしょうか。あるいは、とりわけ、私たちの東アジアはより平和になるのでしょうか。

藤原氏は、本気で「核軍縮」は、「待ったなし」だと考えているのでしょうか?

蛇足ながら、指摘します。

「核廃絶を求める者は廃絶が難しいことを自覚し、核抑止を求める者も現実の戦争で核兵器が使われる懸念には目を向けない」

これは、「核廃絶を求める者は廃絶が難しいことを自覚しないし、」とすべきではないでしょうか。

北東アジア核兵器地帯構想

迂闊でした。
北朝鮮の核やミサイル開発は、対米対韓対日のためにやっているのだとばかり考えていました。が、某氏の、今年1月1日付のブログ記事を読んで、今更ではありますが、対支対露のためでもあるのに気がつきました。

北朝鮮は、独立(対支対露対韓対日対米)と体制維持のため、核・ミサイルの開発を続けています。考えてみれば、同国の行動は、日本に向けられた匕首(あいくち)である朝鮮半島を、支那とロシアから守ってくれている面もあります。日本が日清、日露戦争をたたかわざるをえなかったのは、その短刀を支那やロシアに渡すわけにはいかなかったからでしょう。

米露支、そして日本もそうですが、朝鮮半島の周りは大国ばかりで、北朝鮮であれ、韓国であれ、統一韓国(朝鮮)であれ、核兵器を持ったとしても戦争はできません。この点、日本も同じです。

わが国は、北朝鮮の独立の気概を少し見習ってはどうでしょうか。対米同盟強化を通じての核武装化が、その近道だと思います。

台湾も含めて各国が、核兵器を保有しているけれども、平和を維持している、そのような北東アジアを目指すべきだと考えます。

清水幾太郎氏の核武装論?

国会議員、とりわけ政府の要職にある人物や与党の幹部たちにとって、公の場での核の論議は、今なおタブーです。一方、保守言論の世界では、核武装論は珍しくなくなりました。
ところが、四十年ほど前の、1980年頃は、その世界でも、核武装論は皆無だったのではないかと思います(注)。
そういう時代に発表されたのが、清水幾太郎氏の雑誌論文「核の選択」であり(『諸君!』1980年7月号掲載)、その後、その論文に「軍事科学研究所」による第二部が追加されて、単行本となって出版されたのが『日本よ 国家たれ  核の選択』(文藝春秋、1980年刊)です。

(注)
もっとも、核武装論よりも、さらにラディカル(根本的)な核兵器廃絶不可能論を、たとえば福田恒存氏はそれよりもさらに四半世紀以上前に語っていました(「戦争と平和と」『平和の理念』所収、新潮社)。

1960年の日米安保条約の改定において、安保反対の闘士で「平和主義者」だった清水氏が、二十年後「核の選択」で核武装に触れ、世間の話題になりました。
それ以降、氏は核武装を主張した人物とされています。
しかし、はたして清水氏は本当にそれを主張したのでしょうか。

確かに清水氏は書いています。

「核兵器が重要であり、また、私たちが最初の被爆国としての特権を有するのであれば、日本こそ真先に核兵器を製造し所有する特権を有しているのではないか。むしろ、それが常識というものではないか」(『日本よ 国家たれ』、93頁)

これは、清水氏特有のアジテーション的物言いであり、このような表現が核武装を主張したとされるゆえんでしょう。
しかし、氏は同著の「『節操』と経験 一『あとがき』に代えて一」で述べています。

「第一の焦点は、核の問題であって、読者の中には、日本は直ちに核武装すべし、と私が主張しているかのように解した人もいた」(同前、254頁)

これを素直に読めば、「日本は直ちに核武装をすべし、と私が主張し」た訳ではないと言っているのは明らかです。
こういうと、ある人たちは反論するかもしれません。そこでは「直ちに」と述べているけれども、氏なら何れ核武装すべしと力説したに違いないと。
けれども、清水氏は現実にそう主張したわけではありませんし、氏の事です、三たび転向して、その後核兵器は廃絶すべしと公言したかもしれません(笑)。
氏が実際に唱えていないことを、流布すべきではないでしょう。
知的誠実に則するなら、氏は核武装は主張していないとすべきだろうと思います。

別に、清水氏が核武装を主張したから、反対にそれを主張していないから、評価に値するとか、値しないとか言いたいわけではありません。
言いたいのは、事実はどうなのかということです。
少なくとも、清水氏は「核の選択」あるいは『日本よ 国家たれ』で、核武装は主張していない、というのを定説とすべきだと思います。

「北朝鮮の非核化」という悪夢

6月12日、トランプ米大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長はシンガポールで、米朝初の首脳会談を行いました。共同声明には、「北朝鮮は朝鮮半島の完全な非核化に向け努力することを約束する」とあります。しかしその後、北朝鮮による「朝鮮半島の完全な非核化」は進んでいません。

わが国の左派も右派も、非核化について諸手を挙げて歓迎しています(あれ?一部の左派は片手しか上げていない?)。しかし、それは手放しで喜ぶべきことなのでしょうか。

北朝鮮が核武装を断念すれば、東アジア近辺は米露支は核兵器保有国に、日韓朝は非核保有国になり、それが固定化されます。ということは、日韓朝は米露支に生殺与奪の権を握られてしまいます。はたしてそれで良いのでしょうか。

そもそもなぜ北朝鮮の核兵器保有を認めることができないのでしょうか。同国が非民主的な国だからです。
ラングーン爆弾事件や大韓航空機爆破事件のようなテロを行う国、天安沈没事件や延坪島砲撃事件のように他国を突然攻撃する国、国際社会の非難にも拘らず核兵器開発やミサイル発射を繰り返す国、国家の実質的なトップが他国で公然と異母兄を毒殺する国、要するに狂犬みたいな国家だからです。

もし北朝鮮が普通の民主国なら、たとえばロシア、中共、北朝鮮、韓国が、各々ヨーロッパの、ドイツ、フランス、オランダ、ベルギーのような国だったなら、核保有をさほど憂慮する必要はないでしょう。
しかし、ロシアも中共も北朝鮮も民主国家ではありませんし、近い将来民主化する可能性もありません。そして、日本はそのような諸国に囲まれています。

とするなら、わが国は独立と安全を維持するために、何らかの方法を考えなければなりません。
日本はアメリカとの同盟強化を通じて、核武装化を目指すべきだと思います。

勿論、現時点で米国がすんなりそれを認めることはないでしょう。しかしこの先、露支はさらに台頭し、アメリカの力は相対的に低下するかもしれません。米国がわが国の核武装に半永久的に反対するとは限りません。インドの核武装も徐々に容認の方向へむかいました。

わが国は北朝鮮の、あるいは統一韓国(朝鮮)の核保有を認めて良いと思います。その上で、日本も核武装すれば良い。
その方が、東アジアの平和に資すると思います。