郷富佐子氏の8月7日付「日曜に想う」を読んで

8月7日付朝日新聞の「日曜に想う」に、論説委員の郷富佐子氏は、「イタリアの同胞」について、書いています。

「最新の世論調査では、ジョルジャ・メローニ党首が率いる極右政党『イタリアの同胞』の支持率が24%で一番高い。別の極右政党『同盟』も、中道右派の『フォルツァ・イタリア』と組めば5割近くになる。このままいけば、戦後初めて極右の首相が就任するかもしれない。(中略)
『脱悪魔化』をはかったフランスのマリーヌ・ルペン氏のように、メローニ氏も、『私はファシストではない』と主張している。だが、今年6月にスペインの極右政党の集会で行った演説は衝撃的だ。
『大勢の移民にノー!』『LGBT活動家にノー!』『我々の文明にイエス!』などと叫び、熱狂する聴衆をあおった」

人によって意見は違いますし、だから、「大勢の移民にノー!」「LGBT活動家にノー!」「我々の文明にイエス!」だって、逆に、「大勢の移民にイエス!」「LGBTの活動家にイエス!」「我々の文明にノー!」だって、別に「衝撃的」ではありません。それに、「大勢の移民にノー!」以下の主張をする者は、ファシストなのでしょうか。

むしろ、そのような意見に対して、「衝撃的」だとレッテルを貼り、反対意見の生存権を認めないような主張を、特定のイデオロギー団体の機関紙ならともかくも、全国紙で、特定のイデオロギーに基づいた主張を「あおっ」ている論説委員がいることこそ、衝撃的です。

朝日新聞は、戦前は戦意高揚の報道や言論を行い、戦後の冷戦期は社会主義寄りの報道や言論を行い、現在はリベラル寄りの姿勢を示しています。要するに、いつも時代に迎合するような、しかし、次の時代には反故になるような、思潮の側に与しています。

一体、本心からそのような思想を信じているのでしょうか、あるいは、進歩的だと思われたいがために、そのような思想を信じている振りをしているのでしょうか、それとも、商売のため、そのような主張の拡販に勤めているのでしょうか。

また、郷氏は、「ジョルジャ・メローニ党首が率いる極右政党『イタリアの同胞』」と書いていますが、なぜイタリアの同胞は右翼政党ではなく、極右政党なのでしょうか。彼らは、わが国の右翼よりも、政治的にもっと「右」に位置するのでしょうか。
日本の右翼団体は、国会に議席を持っていません。それは、自らの活動が、合法的な枠内に限定されないことを自覚しているからでしょう。では、イタリアの同胞は、非合法な活動を行っているのでしょうか。そのような活動がメインなのでしょうか。ウィキペディアで見る限り、彼らが暴力に訴えているようには思われません。もしそうなら、なぜ彼らは極右政党なのでしょうか。

そんな質問をしても、郷氏は答えられないでしょう。たぶん、あちらのメディアやジャーナリストや学者(その主流は左派でしょう)が、極右だと書いているから、そのまま写しているだけでしょう。横のもの(イタリア語)を、縦(日本語)にしているだけです。

右翼や極右、左翼や極左など、かの国とわが国では、異なった事象を同じ言葉で表現していたり、あるいは、同じ事象を異なった言葉で表現していたりする、ということを認識しないまま、言葉を適当に用いて、日本国民に向かって論評を行っている。

政治的であるがために意味に振幅のあるような言葉を使用する場合は、まずその意味を明確にしてから、物事を論じるべきです。全国紙の論説委員なのですから、言葉のいい加減な使用が、日本人の思考の混乱に拍車をかけているということに、もう少し注意を払うべきではないでしょうか。

ジャーナリズムとその敵

1.今年のノーベル平和賞

今年のノーベル平和賞は、フィリピンのマリア・レッサ氏とロシアのドミトリー・ムラトフ氏に授与されました。
前者は、インターネットメディア「ラップラー」の代表かつジャーナリストであり、後者は独立系新聞の編集長です。両者とも、独立系のジャーナリストであるらしい。
因みに、独立系とは、「政府、特定の企業や団体の後ろ盾を持たないジャーナリズム」のことだそうです。

「自由で独立し、事実に基づいたジャーナリズムは、権力の乱用と戦争への扇動から人々を守ることができる」「2人は、民主主義と恒久的な平和の前提となる、表現の自由を守るために、勇気を出して闘っている。民主主義と報道の自由が、逆境に直面する世界で、理想の実現のために立ち上がるすべてのジャーナリズムの代表だ」(「ノーベル平和賞にフィリピンとロシアの政権批判の報道関係者」)

選考委員会のベーリット・ライスアンネシェン委員長は、授与理由の中で、そのように述べたそうです。

2.もっと酷い国がある

受賞した二人の国籍は、フィリピンとロシアですが、当然疑問に思う人もあるでしょう。表現や報道の自由に関して、フィリピンやロシアよりももっと酷い国があるのではないか。

世界報道自由度ランキング」によれば、フィリピンは138位、ロシアは150位です。最下位は180位のエリトリアとのことで、ロシアからエリトリアまで29カ国あります。
その中には、中共177位、北朝鮮180位があります。

考えるべきなのは、どうしてフィリピンやロシアよりも下位の国のジャーナリストはノーベル平和賞の対象にならないのだろうか?
ということです。

3.政府から独立したジャーナリズムのある国ない国

フィリピンやロシアは、政府から独立したジャーナリズムのある国です。そして、ぎりぎり独立系ジャーナリズムも存在するのでしょう。
全体主義国には国営放送や新聞があるだけで、政府から独立したジャーナリズムも独立系ジャーナリズムもありません。180位の北朝鮮には、両者は存在しません。

「ドミトリー・ムラトフさんが編集長を務めるノーバヤ・ガゼータ紙は政権批判をひるまず続ける。ロシアの言論の最後の砦とも見られてきた。それが逆に、同紙の存在が『ロシアに言論の自由がある証し』だと、体制側の言い訳に使われることがある」(10月9日付朝日新聞)

そうかもしれません。しかし、やはり「言論の最後の砦」がない国よりも、ある国の方が増しなのです。政府から弾圧を受けていると言っても、政府から独立した、あるいは独立系ジャーナリズムのある国は、ない国よりも報道や表現の自由がある国なのです。

どうして政府から独立したジャーナリズムのない国のジャーナリストは、ノーベル平和賞の対象にならないのでしょうか。
そのような国の報道や言論機関には、表現や報道の自由はありませんし、そこで働く人たちは、国家の公式見解しか表明できません。その線から外れた報道等を行えば、失職や収容所送りになったりして、その存在が闇から闇へ葬られ、世界の知るところとはならないからでしょう。

4.自由国家・半自由国家・無自由国家

報道や表現の自由という観点から、全ての国家は、三種類に分けることができるでしょう。
普通に自由な、政府から独立したジャーナリズムのある国と、独立したジャーナリズムはあるけれども、権威主義的な政府によって恒常的に圧力を受けている国と、そもそも独立したジャーナリズムなど存在しない国です。
第一の国は自由国家であり、第二の国は半自由国家であり、第三の国は無自由国家です。
自由国家の例は、冷戦時代からの西側諸国や日本、半自由国家は戦前の日本やかつての軍事政権下の韓国や国民党政権下の台湾のような国です。一方、無自由国家の典型は、冷戦時代のソ連や中共であり、冷戦前から今日にいたる北朝鮮のような国です。

本来なら、自由国家のジャーナリズムは、半自由国家よりも無自由国家をより批判すべきです。
ところが、今日の北朝鮮のような無自由国家やそれに近い中共は社会主義国であり、自由国家のジャーナリズムやインテリは左翼に傾きがちで、社会主義国を余り批判しませんし、そのような国の見えざる報道や表現の不自由には、関心を寄せません。その結果、もっと酷い状況下にある無自由国家の、報道他に従事する人たちの中の、ごく一部の政府に批判的な人たちの反抗は知られないままである一方、いくらか増しな、その活動が知られる半自由国家のジャーナリストに脚光が当たることになります。
それが、今年のノーベル平和賞となって表れたのだと思います。

5.ジャーナリズムとその敵

自由国家や半自由国家のジャーナリズムの役割の一つは、権力を監視することです。
一方、無自由国家のジャーナリズムは政府と一体であり、彼らの監視の対象は、むしろ一般民衆です。

無自由国家の民衆の敵は、国家権力です。では、自由国家の民衆の敵も、国家権力なのでしょうか。勿論、そういう面もあります。しかし、マスゴミという言葉が象徴するように、国家権力と並んで、マスメディアも民衆の敵の一つなのです。

なぜでしょうか。
自由国家のジャーナリズムは、玉石混交で、事実に反する報道を行うメディアが少なくありません。しかも、そのようなメディアでは、進歩的イデオロギーに沿った報道が優先され、それに反する事実には、報道しない自由が発動されます。虚偽の吉田清治証言を、30年以上にもわたって隠蔽し続けた朝日新聞が、その代表例でしょう。
そのために、自由国家の民衆は、マスメディアを余り信用していません。

10月9日付朝日新聞の社説「ノーベル平和賞 民主主義を守る報道の力」の、一部を引用します。

「米国では、前大統領が意に沿わぬメディアを『民衆の敵』と非難した。さらには、根拠も示さぬまま選挙の不正を訴えるなど、指導者自らが事実を曲げる事態が生まれた。
為政者が事実を語らず、不都合な報道を封じる社会に、健全な民主主義はありえない。それは、日本を含む各国の指導者が改めて認識すべきである」

「根拠も示さぬまま選挙の不正を訴えるなど、指導者自らが事実を曲げる事態が生まれた」と言いますが、昨年11月3日に行われた大統領選挙での、不正の根拠は、バイデン氏の得票数です。過去の大統領選挙と比べても、あるいは、コロナ禍で盛り上がりを欠いた(トランプ氏の演説会が盛況だったのに、バイデン氏のそれは閑散としていた)にも拘らず、バイデン氏の得票数は異様に多い。今後選挙を積み重ねることによって、それがますます際立つになるでしょう。
そのような指摘が挙がっているのに、左派メディアはそのような声を無視する。そして、「根拠を示さぬまま選挙の不正を訴える」などと、米左派メディアの文言を鸚鵡返しに繰り返しています。

それはさておき、後段は次のように言い換えることができるでしょう。
メディアが事実を語らず、不都合な報道を封じる社会に、健全な民主主義はありえない。それは、日本を含む各国のメディアが改めて認識すべきである。

いい加減な報道が少なくない、自由国家のジャーナリズムは、命をかけて闘っている半自由国家のジャーナリストの姿勢に、もっと学ぶべきではないでしょうか。そして、国民に信頼されるような報道に務めて欲しいと思います。

朝日新聞の値上げの弁を読んで

1.値上げの弁

6月10日付朝日新聞第一面に、値上げの通告「読者のみなさまへ 購読料改定のお願い」が掲載されました。
記録しておいた方が良いと思うので、全文を引用します。内容は下記の通りです。

「朝日新聞社は7月1日から、本紙の朝夕刊月ぎめ購読料を、現在の4037円(消費税込み)から4400円(同)に改定いたします。ご負担をお願いするのは誠に心苦しい限りですが、一層みなさまのお役に立てるよう、紙面づくりに全力を尽くします。引き続きのご愛読をお願い申し上げます。

消費税を除く本体価格の改定は1993年12月以来、27年7カ月ぶりです。

当社は、記者が一つひとつ事実を確認しながら、くらしや仕事に役立ち、日々を豊かにする情報をお伝えしようと努めています。隠れた事実を掘り起こす調査報道に力を入れるとともに、週末別刷り「be」や「GLOBE」を発行するなど紙面の拡充にも取り組んでまいりました。質の高い新聞づくりのためにシステムの投資も続けています。

購読料を据え置きつつ、良質な紙面を変わらずお届けできるよう、新聞製作の合理化、人件費や経費の節減を進めてきました。しかし、インターネットの普及で新聞事業を取り巻く環境が厳しさを増し、販売・広告収入が減る一方、製作コストは高くなっています。深刻な人手不足などで戸別配達を維持することも難しくなってきました。

新聞業界全体が同じような状況で、全国の多くの新聞社が購読料をすでに見直しています。当社も長年の経営努力が限界に達し、ご負担をお願いせざるを得ないと判断しました。

ネット上にフェイクニュースが飛び交う今、新聞の役割は増していると考えています。事実を正確に報じるという報道機関の使命を肝に銘じ、新聞を広げるのを楽しみにお待ちいただけるよう、内容とサービスを一層充実させてまいります。ご理解をお願いいたします。

なお、朝刊の1部売りは160円(現行150円)、夕刊の1部売りは60円(現行50円)といたします。                     朝日新聞社

因みに、同紙は1993年12月には約820万部だったのが、昨年8月には500万部を割ったそうです。

2.論評

いくつか、論評します。

・「ネット上にフェイクニュースが飛び交う今、新聞の役割は増していると考えています」

新聞上にフェイクニュースが飛び交う今、ネットの役割は増していると考えています、と言い換えても、そのまま通用するのが悲しい。 

・「記者が一つひとつ事実を確認しながら・・・・事実を正確に報じるという報道機関の使命を肝に銘じ・・・・」

ネットで、「吉田清治 朝日新聞」「吉田調書 朝日新聞」をキーワード検索すれば分かりますが、「記者が一つひとつ事実を確認しな」かったから、誤報が生まれたんですね。そして、そんな報道を行ってきたから、なおさら「インターネットの普及で新聞事業を取り巻く環境が厳しさを増し」たのではないでしょうか。

「お願い」では語られていませんが、新聞には報道機関としての役割とは別に、言論機関としての役割があります。朝日新聞の場合は、たとえば戦後の平和主義、冷戦時代の社会主義信仰、同時代からの歴史認識問題、そして昨今のリベラル思想の風靡まで、いつも言論機関としてのイデオロギーが、報道機関としての事実を妨害してきたのだと思います。言っても無駄なのは分かっていますが、報道を歪めるイデオロギーを払拭すべきです。

「事実を正確に報じるという報道機関の使命」を、本気で「肝に銘じ」ないなら、同紙の転落は留まることがないでしょう。 

朝日新聞と忖度

安倍晋三首相は、8月28日夕方辞任を表明しました。翌29日朝日新聞の素粒子欄は下記の通りです。

「いかにも首相らしい。『痛恨の極み』『断腸の思い』は拉致、領土、改憲で結果を残せない現実への心情だった。
×  ×
少子化を打開できず、待機児童ゼロも介護離職ゼロも、物価上昇率2%も掛け声倒れの政策面は多くを語らない。
×  ×
ましてや、『森友・加計・桜』での説明忌避や、忖度をはびこらせた政治責任など、知らん顔して退陣してゆく。」

朝日新聞の読者投稿欄などは、同紙編集部への忖度競争の勝利者の投書が掲載されているわけですし、紙面に登場する学者や文化人たちも、新聞社の論調を忖度しているから採用されているわけでしょう。
首相にしろ、左翼新聞にしろ、忖度する人は沢山います。もしある人物がそのどちらかに忖度をして、非合法な行為をした場合、罪を問われるべきは、忖度した人物であって、忖度された側ではありません。
朝日は、「忖度をはびこらせた」報道や言論を散々やっている癖に、「知らん顔して」良く言うなあ。同紙も早く社会から「退陣して」欲しいと思います。

「『森友・加計・桜』での説明忌避」と言いますが、刑事訴訟では、検察官が挙証責任を負担しますが、森友以下に関しては、誰が立証責任を負うべきなのでしょうか。
それらについては、白であることを説明する責任が首相の側にあるのではなく、黒であることを証明する責任が左派メディアの側にあります。そしてメディアが、首相が黒であることを証明できなければ、白だと判定して当然です。
証明忌避を行っているのは、メディアの側です。 

「拉致、領土、改憲」も、少子化も、「待機児童ゼロも介護離職ゼロも、物価上昇率2%も」、安倍氏以外の誰かが首相を務めていたら実行できていたでしょうか。できていないでしょう。
それらについて、右派の首相だったから批判をして、左派だったら口を噤むというようなダブル・スタンダードな報道や言論を行うから、右派と左派の分極化が進むのです。

燕雀がつまらない批判をするから、鴻鵠の持病が悪化するんですね。
政界は、「そして誰もいなくなった」状態ですから、安倍さん以降は、日替定食ならぬ年替総理の時代が到来するのは必至でしょう。左派メディアは、自分たちが日本をそのような年替総理の時代に追いやったのだということを、認識しているのでしょうか。言っても無駄ですが、少しは反省して欲しいと思います。

安倍総理、長い間お疲れさまでした。

マスメディアは二度間違えた

1.戦前と戦後

戦前、政府・軍は判断を誤りました。
ドイツ、イタリアと軍事同盟を結び、アメリカを中心とする連合国との戦争を決断しました。その結果、多くの兵士たちは、各地で戦死することになりましたし、銃後の国民は空襲で逃げ惑い、あるいは焼夷弾や原爆で焼かれることになりました。大東亜戦争における戦没者は、三百万人余りに上ります。
新聞は政府と協調し、戦意高揚を煽り、国民を戦争に駆り立てました。戦前、政府のみならず、マスメディアも間違えました。

政府と歩調を合わせて失敗したマスメディアは、それに懲りて、戦後は反権力とか権力監視を標榜するようになりました。当時自由・資本主義体制は何れ社会・共産主義体制に取って代わられるという予想が通用していました。
そういう中で、政府は自由主義体制を選択したのに対し、マスメディアは社会主義体制寄りの報道や言論を行いました。

しかし、マスメディアや知識人たちの予想に反して、その後資本主義国は経済的に発展する一方、社会主義国は政治的経済的に停滞し、あるいは行き詰まりました。結局、ベルリンの壁崩壊とソ連邦の解体により、体制選択における社会主義の敗北が明確になりました。

細かいことを言えば、何れも間違いは沢山おかしていますが、大局的に見れば、戦前戦後を通じて、政府・軍は一度しか間違えていないのに、マスメディアは二度間違えました。
前者は一勝一敗ですが、後者は0勝二敗です。

2.マスメディアは三度目の間違いをおかしている

そして今、マスメディアは三度目の間違いをおかそうと、いいえ、現におかしています。
冷戦時代、社会・共産主義寄りの言説を行っていた多くのマスメディアや知識人たちは、冷戦後徐々にリベラルへ転向して行きました。そして、現在彼らはリベラル派に宗旨替えし、その旗を振っています。
リベラル・イデオロギーは現在流行の進歩主義思想であり、冷戦時代のマルクス主義同様、その矛盾が徐々に膨れ上がり、何れ破綻するでしょう。もっとも、それが何十年後になるかは分かりませんが。
彼らは、三度目の間違いを驀進中です。

3.マスメディアと大衆

マスメディアと大衆が各々、支持するか支持しないかという観点から分類した場合、政府は四つに分けられるでしょう。
マスメディアも大衆も共に支持する政府、マスメディアは支持するけれども、大衆は支持しない政府、マスメディアは支持しないけれども、大衆は支持する政府、マスメディアも大衆も共に支持しない政府です。
何れの政府が国民にとって望ましく、何れの政府が望ましくないでしょうか。

第一。マスメディアも大衆も共に支持する政府は、とりわけ両者が熱狂する政府は危険です。ドイツのヒトラー政権や先の大戦開戦前のわが国はそのようなものだったでしょう。
宗教団体の信者はその新聞を、共産主義党派の支持者はその機関紙・誌に書かれてあることを信じて疑いませんが、マスメディアも大衆も支持する政府とは、それら宗教や政治団体と信者や支持者が丸ごと国家を形成しているようなものでしょう。

第二。マスメディアは支持するけれども、大衆は支持しない政府も余り好ましくありません。
「悪夢のような」民主党政権成立前とその政権初期はそのようなものでした。
マスメディアは、民主党を贔屓にするような、一方、自民党を政権から追い落とすような報道や言論を行いました。
大衆の支持がなければ、民主党政権はありえなかったと反論する人もあるかもしれません。しかし、多数派メディアが過度に民主党寄りの報道をしたから、有権者も惑わされて、同党に投票したと考えるべきでしょう。

ところで、共産主義国のメディアは国営ですが、そこでのメディアと大衆と政府の関係をどう考えるべきでしょうか。共産国の政府は、マスメディアも大衆も共に支持する政府なのでしょうか、それともマスメディアは支持するけれども、大衆は支持しない政府なのでしょうか。
共産国では、大衆はメディアの報道や論評の正しさを信じていたのでしょうか、それともそれに異議を申し立てれば、強制収容所送りになる等の恐怖のために、報道や論評を信じている振りをしていたのでしょうか。
革命初期には前者だったのが、次第に幻想から覚めて、後者になっていったのではないでしょうか。

第三。マスメディアは支持しないけれども、大衆は支持する政府です。
現在私たちが目にしているのは、そのような政府です。日本の安倍晋三首相もアメリカのトランプ大統領も、多数派の進歩的メディアから毛嫌いされています。しかし、大衆の支持は意外に根強い。国民にとって、マスメディアは支持しないけれども、大衆は支持するという政府の下での生活が、一番幸福なのではないでしょうか。

第四。マスメディアも大衆も共に支持しない政府です。
そのような政府は民主主義国では長続きしません。なので、そのような政府のことは余り心配する必要はないでしょう。
もっとも、そのような政府は第一の政府よりも国民にとっては良い政府であり、ひょっとすると、第二の政府よりも増しかもしれません。

結論を述べるなら、マスメディアからでも知識人からでもなく、大衆から支持される政府が、最も良い政府です。

「死の商人」という言葉があります。
『広辞苑』(第二版)によれば、「軍需品を製造・販売して巨利を得る大資本をさしていう語」とあります。
もう一つの死の商人=マスメディアは、間違った報道や言論を「製造・販売して」、国民を酷い目に遭わせる「大資本さしていう語」、と定義できるでしょう。

二度あることは三度あります。
戦前、冷戦時代、冷戦後、マスメディアは、間違えてばかりです。いまや、0勝三敗です。
大衆は自らの判断を信じ、マスメディアや知識人の言うことは、話四!半分に聞いていた方がいい。
彼らの指し示す方向へ突っ走ったら、ろくな事にはなりません。

週刊ポスト言論弾圧事件と朝日新聞

9月4日付朝日新聞の「素粒子」曰く、

「さて、小学館はどうする。
週刊誌の嫌韓特集が差別的と
批判され、執筆拒否も続出。」

さて、朝日新聞はどうする。
全体主義の側で論陣を張るのか、自由主義の側で論陣を張るのか。
皆前者だと思ってるけどね(笑)。

第四の権力と第五の権力

1.第四の権力とは

『広辞苑』(第二版)によれば、三権分立とは「権力の濫用を防ぎ、人民の政治的自由を保障するため、国家権力を立法、司法、行政の相互に独立する三機関に委ねようとする原理」とあります。

立法、司法、行政の三権と並んで、人民に対して権力を行使しているとされるマスメディアは、第四の権力と言われます。
以前私たちは、政治、経済、社会に関する情報の殆んどを、テレビ、新聞、ラジオなどのマスメディアを通じて得ていました。政治家の不適切な発言をメディアが報じたり、論評したりすることで、大臣の首が飛んだり、時の内閣が揺らいだりしました。

2.第五の権力とは

1990年代からのインターネットの登場によって、マスメディア以外からも情報を得られるようになりました。そして。それは今世紀爆発的に普及しました。もしマスメディアが第四の権力なら、ネットは第五の権力だと言えるでしょう。

私は昨年三月にブログを始めましたが、そして、それまではパソコンは殆んど見ていなかったのですが、ネットを覗くようになってから分かったのは、その情報は早く、しかも深いということです。もっとも、ネットで得られる情報は、見る人の興味や検索能力に応じて懸隔がありますが。
たとえば、新聞は色々な分野の情報を網羅していますが、個別の、自分が関心を寄せるテーマに限れば、情報量は少ないし、質的にも低いのが分かりました。

3.第四の権力の役割

第四の権力の役割は、正確な報道、的確な解説、適切な言論にあります。その他に、立法、司法、行政の三権の、とりわけ政府の監視もあるでしょう。

独裁主義国では、マスメディアは国家権力の一部門です。一方、自由主義国では、マスメディアは国家から独立しています。後者のメディアは、客観的には自由で民主的な体制だから存立できていますし、自由に活動できているのですが、主観的にはまるで独裁主義国の政府を監視し、なおかつそれと闘っているような、自らは英雄的活動を行っているような錯覚に陥っている会社や個人もあります(朝日新聞や望月某記者はその典型)。

ところで、自由で民主的な国の政府は、国民の投票によって択ばれた政府です。すなわち、政府の主張≒国民の考えです。ですから、マスメディアの政府に対する批判的監視が行き過ぎると、国民意識と乖離します。
アメリカの主流派メディアは、トランプ氏の大統領当選を予想できませんでしたし、韓国に対する輸出管理優遇措置の廃止について、わが国の主流派メディアは優遇措置の維持を声高に訴えましたが、国民の圧倒的多数は政府による廃止を支持しました。
自由で民主的な国のマスメディアは、自国の政府に対しては厳しいけれども、非自由で、非民主的な、あるいは自国と敵対的な国の政府は監視の対象外ですから、甘く対する。
その結果、自国を普通に愛する国民の意識とのズレが生じるのです。

わが国のメディアは、戦前政府・軍と足並みをそろえて、国民を戦争に駆り立て、国民に塗炭の苦しみを舐めさせた経験から、戦後は過ちを二度と繰り返さないよう政府を監視しているつもりなのかもしれません。
しかし、冷戦時代の政府は反社会主義だったのに対し、マスメディアは親社会主義でした。メディアの言う通りにしていれば、日本は共産化しているところでした。

戦前と戦後、政府(軍も含む)は一度しか間違えていないのに、マスメディアは二度共間違えました。
どうして私たちは、マスメディアを信じられるでしょうか。

4.第五の権力の役割

もし第四の権力が正確な報道を心がけ、国民に寄り添うような言論を行ってきたのなら、マスメディアに対する批判がネット上でこんなにも氾濫するようなことはなかったでしょう。
マスメディアは角度をつけた報道や言論を行ってきましたし、自社の社論にとって都合の悪い情報には、報道しない自由を行使してきました。

第五の権力の隆盛は、とりわけ第四の権力に対する不信、反発にあります。たとえば、ネトウヨを育てたのは、マスメディアの不誠実な報道や言論でしょう。
第五の権力の監視の対象は、三権もありますが、とりわけ第四の権力です。

5.第四の権力の今後

第五の権力の情報や主張がいつも正しいわけではありません。この点、第四の権力と同じです。両権力はお互いにチェック・アンド・バランスを通じて、よりよき社会を作って行けば良いのだと思います。

さて、第四の権力の今後ですが、どうなるでしょうか。
第五の権力の監視を受けて、反省し、よりまともな報道・言論機関になるでしょうか。それとも、唯我独尊、相変わらず不誠実な活動で購読者や視聴者から見放され、ジリ貧になるのでしょうか。

 

どの権力を監視しているか

1.メディアの役割

メディアの仕事は、報道や解説や言論の他に、権力を監視することだと言われます。

2.監視の対象

日本のメディアが監視しているのは、当然わが国政府です。ところが、政府以外にその監視対象になっている権力があります。

戦後の日本は連合国の軍隊に、実質的にはアメリカ軍に占領され、1952年の主権回復後も、米軍はわが国に駐留し続けています。主権回復と同時に米国と日米安全保障条約を結び、1960年の改定を経て、今日に至っています。

いまでは反対派もずいぶん減りましたが、日米安保条約を結んでいるとアメリカが行う戦争に巻き込まれるということで、戦後から冷戦後のしばらくの間は、左派政党やメディアは同条約に反対していました。
左派が大勢のわが国のメディアが今でも監視の対象にしているのは、日本国政府と、日本と軍事同盟を結んでいるアメリカ政府です。露支英仏独、どの大国の首脳と比較しても、メディアの米大統領に対する関心が突出しているので、それが分かります。

3.処世術としての反権力

前大戦でわが国のメディアが得た教訓は、政府と歩調を合わせるのは得策ではないということです。そのため、主流派メディアは、反権力を標榜しています。
反権力という立場はなかなか居心地が良い。
政府の政治が正しければ、その中で温々と商売に励んでいられますし、政府の政治が間違っていれば、それに反対した勇気と見識ある人たちということで、読者や国民から賞賛を受けられるからです。
要するに、いつも政府とは反対のことを言っていればいい。
反権力を掲げるわが国の主流派=左派メディアは、政府に対して肯定的監視ではなく(それを行っているのは産経新聞)、常に否定的監視を行っています。

4.権力監視の結果

ところが問題なのは、反権力とか、権力を監視するというメディアのスタンスが、かえって日本やアメリカに敵対的な国にとって好都合な報道や言論となって表れることです。まるで、敵(日米政府)の敵は味方です。

冷戦中日本やアメリカの負の側面は散々報道する一方、共産国のそれは殆んど報じませんでした。そのため、少なからぬ人たちが、ソ連や中共や北朝鮮を理想の国だと誤解しました。

冷戦前後を通じて、左派メディアは不思議に、わが国にとって最も害を及ぼすと思われる国の脅威を否定する報道や言論を行っています。冷戦中はソ連の、冷戦後は中共の。
現在わが国の最大の軍事的脅威は中共です。そして、沖縄の基地問題は冷戦中から続いています。ところが、冷戦時代よりも現在の方が、沖縄の基地問題を多く報じ、否定的な論説を行っています。
たとえば、左派メディアが辺野古埋め立てに反対しているのは、沖縄県民や日本国民のためなのでしょうか、それとも中共政府のためなのでしょうか。

歴史問題でも、韓支に寄り添うような言説を行っています。南京事件、慰安婦問題、徴用工問題。
その典型は、韓国済州島で慰安婦狩りをしたという吉田清治の虚偽の主張を、三十年以上にも渡って誤りだと認めなかったことです。
最近でも、いわゆる徴用工を「いわゆる」抜きで報じています。一体自称徴用工のうち何人が本当に徴用工だったのか、そのファクトチェックすらしようとしません。
日本政府には監視で、韓国政府には忖度なのでしょうか。

5.善悪の転倒

ウィキペディアの「マスメディア」の項目には、次のような記述があります。

「権力を監視し批判することこそマスメディアの使命であるとする考え(ウオッチドッグ機能)も存在するが、権力批判を至上命題(至上命令 いけまこ)とした場合ともすれば権力に従わない犯罪者をも擁護することになりかねず、善悪の転倒が起きる場合がある」

正に、前節で述べたように、「善悪の転倒」が起こっています。

民主的な、一応人権が保障されている国の政府に対しては、小さな悪をも批判する一方、独裁制の、人権が保障されていない、あるいは反日的な国に対しては、大きな悪をも見過ごすということになって表れています。
わが国の左派メディアにとって、前者のような日本やアメリカ政府は監視対象ですが、後者のような中共や北朝鮮や韓国政府は監視対象ではないからです。

わが国の左派メディアは善悪の転倒を避なければなりません。そのためにも、独裁主義国家、人権無視国家、反日国家の政府をも、その監視の対象にすべきだと思います。

なぜメディアは左派が体制派なのか

日本に限らず欧米もそうでしょうが、国民全体では右派が多数派なのに、なぜメディアの世界は左派が多数派なのでしょうか。
以下は、それに対する私の仮説です。

1.インテリ=左派、大衆=右派

どこの国でも大衆は多数派で、インテリは少数派です。そして、一般的に大衆は右派が多い。
ところが、インテリだけに限るなら逆転して、左派が多数派で、右派は少数派です。だから、インテリの牙城大学は、俗世間とは違って左翼優勢なのでしょう。

2.体制と反体制

日本のメディアを見てみましょう。
普通全国紙では朝日新聞と毎日新聞が左派で、読売新聞と産経新聞が右派だとされます。しかし、読売新聞はどうも右派として中途半端ですし、地方紙はたいていが前者の亜流です。だから、新聞は左派が多数派にして体制派です。
本を読まない大衆は新聞も余り読みませんから、新聞がインテリ向けなのは自然です。

テレビは、大衆はもっぱら娯楽番組を見ます。一方、インテリは教養番組も見ます。
ニュース番組のコメンテーターは左派が多数を占めていますし、歴史教養番組は左翼偏向を指摘されることはあっても、右翼偏向を指摘されることはありません。
娯楽番組以外は、インテリの視聴者が多いから、彼らの嗜好に合ったものになるのでしょう。

雑誌はどうでしょうか。
朝日新聞の『朝日ジャーナル』も『論座』もとっくに廃刊になっていますし、『週刊金曜日』を初め左派雑誌は低調です。
他方、右派雑誌、たとえば『WiLL』、『Hanada』、『正論』は元気があるように見えます。しかし、それは新聞やテレビというメディアの主流派=体制派があっての、それら作用に対する反作用に過ぎません。
新聞とテレビがメディアの体制派で、右派雑誌は反体制派です。だから屋上屋を架すような左派雑誌が需要が少ないのは当然です。

要するに、インテリ層がメディアを支えているから、大学同様メディアの世界も左派が体制派なのだと思います。

3.通説

では、なぜインテリは左派になるのでしょうか。
彼らは秀才であって、真面目に教科書を読んだ人たちです。すなわち、彼らは教科書に記述されていること=通説を信じる人たちです。政治社会問題でもそうです。政治的通説を信じる人たちが左派になります。

通説といっても、現実政治で実施されていることを意味しません。実施されてはいないけれども、その時代に世評で正しいとされている主張のことです。
資本主義から社会主義への社会の発展、非武装中立、平和憲法、東京裁判史観、核兵器の廃絶、差別なき社会・・・・
インテリはそれらの通説を信じます。だから、インテリは左派に傾くのです。
左派の中の上層インテリが進歩的思想の旗を振り、下層インテリがそれに盲目的に従う。
メディアで左派の意見が氾濫する理由です。
一方、通説を信じない少数の人が、右派インテリになるのだと思います。

4.通説は真理とは限らない

もっとも通説は所詮通説に過ぎなくて、ある日それが真理でないことが判明したりします。
「資本主義から社会主義への社会の発展」を信じたのは、大衆よりもインテリの方が多かった。「インテリの世間」に流されやすいから、後者の方がかえって判断を誤ったりします。
左派メディアや左派評論家の言うことは、話半分に聞いていた方が賢明です。