自由社会の自由の敵

1.トランプ氏のアカウント停止

1月6日トランプ前大統領の支持派とされる人たちによる、米連邦議会への乱入事件が発生しました。
さらなる暴力をあおる危険があるとの理由で、ツイッター社による永久停止を初め、SNS各社による同氏のアカウント停止が行われました。
アカウントの停止は、トランプ氏本人のみならず、支持者他にも及んでいるようです。

2.SNS媒体の行為に対する批判

SNS媒体の、そのような行為に対し、支持する意見がある一方、他方では疑義が呈されています。

ドイツ政府のザイベルト首相報道官は、1月11日の定期記者会見で、

「『言論の自由は、根本的に重要な基本的人権だ。そしてこの基本的人権が制限され得るのは、法律を通じて、また立法者が定めた枠組みの中でであり、ソーシャルメディア各社の経営陣の決定によってではない』と言明。『この観点から、(メルケル)首相は米大統領のアカウントが永久停止されたことは問題だと考えている』」(1)

と述べたそうです。メルケル首相の判断は、正しいでしょう。

その他、メキシコのオブラドール大統領、フランスのル・メール経済・財務相、同欧州問題担当副大臣のボーヌ氏からも批判的な主張がなされました(2)。
さらにつけ加えれば、アメリカのヘイリー前国連大使も「米大統領は言うまでもなく、人々を沈黙させようというのは、中国で起きていることだ。わが国ではあってはならない」(3)と発言したそうですし、「米公共ラジオなどによる調査では、トランプ氏の退任後のSNS利用を、企業が制限すべきでないとした回答が50%にのぼり、制限を続けるべきだとした43%を上回った」(4)そうです。

3.自己の考えを絶対視する人たち

第一。トランプ氏は選挙で国民から選ばれた大統領であるのに対し、SNS媒体の経営陣はそうではありません。
第二。トランプ氏のツイート他は非合法で行われたわけではないのに対し、SNS媒体が行ったアカウント停止は、法的根拠がありません。
第三。そもそも議会に乱入した者たちは、トランプ氏支持者だとされていますが、本当にそうなのでしょうか。中に、それを装った者はいなかったのでしょうか。それが明確になっていない段階での、トランプ氏のアカウント停止は、早計ではないでしょうか。
第四。トランプ氏は支持者に議会へ突入せよと呼びかけたのでしょうか。もし呼びかけたのなら、どの発言がそれに当たるのでしょうか。もし同氏が呼びかけていないのなら、責任は突入した当人にあります。
また、トランプ氏はそんな呼びかけを行っていないのに、SNS媒体の経営陣が勝手にそう解釈したということはないでしょうか。

トランプ前大統領のアカウント停止で分かるのは、SNS媒体の経営陣は、合法的に選ばれた現職の大統領よりも自分たちの方が見識があり、判断も優れていると思い込んでいる!ということです。
彼らは、ひょっとしたら自分たちの判断の方が間違っているかもしれないとの疑いがありません。自らは無謬だと確信しているようです。

1月7日フェイスブックのザッカーバーグ氏は述べたそうです。

「トランプ大統領に我々のサービスを利用することを容認するリスクは、大きすぎる」(5)

むしろ、SNS媒体の経営陣に、誰の発言を容認するか容認しないかの判断を委ねることこそ、「リスクは、大き過ぎる」と言うべきでしょう。

4.ダブル・スタンダードの理由を示さない人たち

「SNSのトランプ氏アカ停止は『問題』独首相」(6)という記事に、ある日面白いコメントが寄せられていました。

「暴動に発展したのを理由に停止するなら、BLMを支持した政治家・歌手・俳優・アスリートなんかも停止しなければおかしい。
明らかにダブスタだ。言論の自由が侵害されている」

もっともな主張です。オーストラリアのマイケル・マコーマック副首相も発言しています。

「トランプ氏の阻止は、検閲に値する。
ツイッター社はなぜ、オーストラリアの兵士がアフガニスタンの子どもを殺しているように合成されたフェイク写真を中国政府が投稿したことを許し、削除しなかったのか。まだアメリカの大統領である人物の投稿を削除する場合、それらの兵士の写真についても考える必要があると、ツイッター社のオーナーに言いたい。(その偽りの写真は)まだ削除されておらず、誤りである」(7)

自己の考えを絶対視する人たちには、もう一つの特徴があります。ダブル・スタンダードです。
一歩譲って、米議会に乱入した者たちは皆トランプ支持派だったとしましょう。では、なぜ暴動を引き起こしたトランプ氏及びその支持者のアカウントは停止し、暴動を引き起こしたBLMの支持者たちのアカウントは停止しないのでしょうか。それはどうしてなのでしょうか。

SNS媒体の経営陣は、前者のアカウント停止は可で、後者のアカウント停止は不可であるとする合理的な理由を示すべきです。示しえないなら、アカウントの停止はすべきではありません。しかし、彼らはその理由を説明しないまま、アカウントの停止を続けています。
他人を説得できないのに、力に任せて自己の主張を貫徹している。
彼らは、独善的な全体主義者です。

5.自由社会の自由の敵

今日、自由社会の自由の最大の敵はだれなのでしょうか。

自己の考えを絶対視し、なおかつ自分たちが行っているダブル・スタンダードの合理的な理由を示さないという、二つの性質を併せ持つ人たちです。
そのような人たちは、わが国にもいます。「差別的発言に言論の自由はない」と言った人たち(差別的であるかどうかは私が決める。そして私の判断は絶対に正しい!)や、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」は可で、あいちトリカエナハーレ「表現の自由展」はヘイトとした、前者の主催者大村秀章愛知県知事のような人たちです。
要するに、いわゆるリベラル派です。

本当のリベラリストなら、ヴォルテールの言葉「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」を遵守するはずですが、しかし、いわゆるリベラルは、それとは真反対の人たちです。彼らは、ヴォルテールの言葉が耳から入っても、脳味噌まで届かない人たちです。

(1)(6)「SNSのトランプ氏アカ停止は『問題』独首相」。
この記事は、「このページが削除された可能性があります」となっています。なぜでしょうか?
(2)(7)「跡形もなくなったトランプ氏ツイッター。世界のリーダー7人はビッグテックの制裁をどう見たか?」
(3)(4)2021年1月18日付朝日新聞
(5)「トランプ氏のFBを無期限停止に ツイッターは凍結解除

誰が自由を抑圧しているか

1.自由なき社会では

近代より前の時代は、洋の東西を問わずあらゆる国で、近代になっても、自由や民主主義を実現した欧米諸国以外の国では、国民の言論や表現の自由を奪ったのは国家権力でした。

今日でも、共産主義国のような独裁主義国家や近代化が遅れた権威主義体制の国では、国民の自由を奪っているのは、もっぱら国家権力です。

2.自由社会では

では、現在の、日米欧などの、自由で民主的な体制の国では、いまや自由を抑圧する者は誰もいないでしょうか。残念ながら、います。
これらの国では、国民の言論や表現の自由を奪っているのは、国家権力というよりも、各種の社会権力です。

具体的には、新聞やテレビ、その他出版社などのマスメディアやSNS媒体です。
これらの媒体の主流派にして多数派を形成しているのはリベラルです。彼らが、国民に与えて良い情報と、与えるべきではない情報を選り分けています。そして、与えるべき報道や言論は湯水のように国民に提供し、与えるべきではないそれは、制限もしくは封殺しているのです。

このたびの米大統領選挙で、不正投票が行われたであろうことを隠そうとする米国の主流派メディアとそれに追随した=丸写しにした情報を垂れ流すわが国のメディアの報道、そして、不正投票に関する投稿を恣意的に削除する米国のSNS媒体の行為によって、それが明白になりました。

3.リベラル派による自由の抑圧

このようなリベラル・メディアによる情報の選別は、国家や社会を破壊したいという彼らの悪意に基づいているのでしょうか、それとも何らかの利益によって誘導されているのでしょうか。恐らく、綺麗事に傾く、かつ非現実的な彼らの思想に基づく正義感がそのような行動を採らせるのだと思います。

リベラル派による、自由の抑圧の典型的な例を挙げましょう。
2018年『新潮45』8月号に掲載された杉田水脈議員の論文「『LGBT』支援の度が過ぎる」に対して、左派から批判の声が上がりました。その際に、リベラル派は言いました。
「差別的発言に言論の自由はない」

これは恐るべき言説です。
ある発言が差別的であるかどうかの認識は、万人が共有しうるのでしょうか。ヘイト・スピーチに関する議論も同じです。ある発言が、ヘイト表現に当たるかどうか、万人の意見は一致しているのでしょうか。
もしそれが一致しているのなら、差別的発言やヘイト・スピーチに言論の自由はないとの主張も、一理あるかもしれません。しかし、人によって差別的であるか否か、ヘイト表現であるか否かの認識は異なっているのです。
そして、それらが異なっているから、言論や表現の自由が必要とされるのです。

「差別的発言に言論の自由はない」などという人たちは、次のことを前提としています。
私には差別的発言かどうかを判断する能力があり、私とは違った判断をする者には、その能力がない。故に、私とは異なった判断をする者の発言の権利を奪うことは正当である。

「差別的発言に言論の自由はない」という人たちは、自分が神のごとき判断力の持ち主=無謬であることを自明の理としています。自らの無謬を確信しているから、そんな発言ができるのです。

彼らに問いたいのは、次の二言です。
「あなたは、神(唯一神)なのですか?あなたは間違ったりしないのですか?」

4.自由社会の自由の敵

真の自由主義者は、自分が可謬であること(間違える可能性があること)を当然のことと考えます。自分が可謬であることを理解するから、他者に対しても寛容になれるのです。
ヴォルテールは、「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言いましたが、リベラルの言動はヴォルテールとは反対です。

「私はあなたの意見には反対だ。だからあなたがそれを主張する権利は認めない」

可謬な人間が、無謬を前提に、自己の正義を他者に強要しようとするから、粛清や虐殺や全体主義が生まれるのです。

今日、日米欧において、自由の最大の敵は、語義矛盾ですが、リベラル派です。
彼らが自らの無謬を反省し、それを改めない限り、自由社会での自由の抑圧は、なくなることはないでしょう。

【追記】
今月4日からブログ記事の検索順位を、全体的かつ一挙に落とされました。
ペナルティを科されるようなことはしていませんし、心当たりがありません。

先日パソコンの先生に見ていただきましたが・・・・現在様子見の状態です。

【追記2】
グーグルが12月4日にコアアルゴリズムのアップデートをしたそうで、当サイトは「被弾」したようです。
かすり傷と致命傷の間ですが、後者の方により近いです。トホホ。
(2021・1・4)

武漢ウィルス なぜ中国の死者は少ないか

昨年末支那の武漢市で、新型コロナウィルス感染症が発生しました。当然ながら、初期には感染者、死亡者数共に同国の数字が突出していました。

ところが、その後感染が世界へ波及し、とりわけ欧米で感染者数及び死亡者数が激増しました。
一方、発生源の支那では3月10日習近平国家主席が、「湖北省での感染を『基本的に抑え込んだ』と宣言」(1)しました。
そして、worldometers.info/coronawirus/によれば、支那の死亡者数は三千三百人程度でずっと横ばい状態が続きました。

支那の死者数が少ない原因を説明する議論も現れました。それによると、自由主義諸国と違って同国は強権主義の国であり、外出や移動の禁止を徹底できたからだという。しかし、それだけで支那の死者数の少ないのを説明できるでしょうか。

4月19日のworldometers-によれば、人口8300万人強のドイツの死者数は4459人、また人口1149万人のベルギーの死者数は5453人です。それに対して、ウィルス発生元の支那の人口は14億人弱でありながら死者は4632人です。
ん? そんなことがありうるのでしょうか。
それに、武漢市は支那の内陸部の都市です。北京や上海よりも田舎でしょう。ドイツやベルギー国民よりも、武漢市民の方が清潔な生活を送っているのでしょうか。あるいは、前者よりも後者の方が、医療体制が充実しているのでしょうか。

支那政府発表の数字に疑念が生じるのは当然です。
発生初期、感染者数と死亡者数が突出したのは注目を集めましたが、その後の、それらの増加の少なさの「突出」ぶりも疑念を呼び起こします。
支那の指導部は、欧米諸国の、とりわけ死者数の増大を見て思ったのではないでしょうか。
「こんなことなら、もっと正直な数字を発表しておけば良かった」

そこで、疑念がさらに拡大する前に、適当な時点で数字を増やさなければならないと判断した結果が、4月17日の死者数の積み増しではないでしょうか。

「新型ウィルス流行の中心地となった中国・武漢(wuhan)の市当局は17日、死者数の集計において『誤った報告』や漏れが多数あったと認め、市の死者数をこれまでより5割近く多い3869人に修正した。
市当局がソーシャルメディアで明らかにしたところによると、修正により武漢市内の死者数は1290人増加。中国全土の死者数も39%近く増加し、4632人になった」(2)

けれども、この数は、はたして「正直な数字」なのでしょうか。

二つの記事から引用します。

「中国が前例のない移動制限に踏み切ったことで、新型ウィルスの感染拡大が緩やかになったという評価の声もある」(3)
「中国は、情報の隠蔽によって、初動が遅れたが、その後は強権的にウィルスを抑え込んで、4月8日には、2カ月半ぶりに武漢の閉鎖を解いた」(4)

「強権的にウィルスを抑え込ん」だ方法・措置とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。武漢の都市封鎖(ロックダウン)の際、「荒業」(自由体制ではありえないような)は、行われなかったでしょうか。私は、たぶん行われただろうと考えます。

対ウィルス戦争において、共産主義国では二つの対策が採られます。一つは感染の抑え込みであり、もう一つは数字の抑え込みです。
後者は、習近平政権による数隠蔽です(笑)。

4月6日に公開した「全体主義国の対ウィルス戦争」の最後に書きました。
「数年後か十数年後、この度のウィルス禍が本当の意味で検証されることになるでしょう。その時、現在の北朝鮮や支那発表の数字がいかに嘘であるかが暴露されることになるだろうと思います」

(1)https://www.bbc.com/japanese/51829500
(2)https://www.afpbb.com/articles/-/3279060
(3)https://www.bbc.com/japanese/52334931
(4)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60212

【追記】
将来また新型コロナウィルスが発生するかもしれません。「新型コロナウィルス」と書いていると、今回と次回のそれの区別ができません。なので、本投稿文から発生地の名前をとって、「武漢ウィルス」と記述することにしました。

全体主義国の対ウィルス戦争

「この事態はなんとしても外の世界からかくしておかねばならなかった」(ジョージ・オーウェル著、高畠文夫訳、『動物農場』、角川文庫、79頁)

昨年末中華人民共和国の湖北省武漢市で発生した新型コロナウィルス感染症は、当初はもっぱら発生源の同国で拡大しましたが、現在は欧米を中心に世界へ波及しています。いまだピークには達していません。

worldometers.info/coronavirus/によれば、4月5日現在の死亡者数は、以前は断トツで一位だったChina(支那)を、その後イタリア、スペイン、アメリカ、フランス、イギリス、イランが抜き去りました。

一方、発生元の支那は何時ごろからか、感染者数も死亡者数もほぼ横ばい状態で、あまり増えていません。
3月10日武漢市を訪れた習近平国家主席は、「湖北省での感染を『基本的に抑え込んだ』と宣言」したそうです(1)。
以前は断トツの感染者数と死亡者数で世界の注目を集めましたが、現在は断トツの抑え込み?で目を引いています。

支那は独裁主義国家(2)だから、都市封鎖や、外出や移動の制限、身分の確認などを徹底的に行いえたから、抑え込みに成功した、一方、イタリアやスペインを初めとする自由主義国は、それらが徹底できないがゆえに、ウィルスが拡大したとの解釈も見られます。

しかし、外出や移動の禁止などが徹底されていると言っても、食料が尽きたら人々はその調達のために夜陰に紛れてでも外出せざるをえないでしょう。また支那の内陸部は、衛生観念の低い地域が少なくないでしょう。
そんなことを考えると、同国の「抑え込み」というものに疑いを持たざるをえません。

対ウィルス戦争の対策の一つは、外出や移動などの制限であり、強弱の差はありますが、それは自由主義国でも全体主義国でも実施されています。が、全体主義国特有の、もう一つの対策も見逃すことはできません。それは、あったことをなかったことにすること、つまり、数字の改ざんという対策です。

かつてのソ連、中共は正真正銘の全体主義体制の国でしたし、北朝鮮は1948年の成立以来今もってそうです。一方、現在の支那は冷戦時代とは違って、国民は外国へ旅行できるようになりました。しかし、いまだ共産党の一党独裁の国であるのは変わりません。
なので、純粋な全体主義体制の国とは言えないにしても、準全体主義体制の国であるとは言えるでしょう。

4月2日付のニュースによれば、「北朝鮮の保健当局幹部は、自国の新型コロナウィルス感染者はいまだに『ゼロ』だと主張している」そうです(笑)。
北朝鮮にしろ支那にしろ、新型コロナウィルス感染症による感染者数や死亡者数について、第二の対策を用いているのだと思います。
ちゃんとカウントしない、あるいは別の病名でカウントするという手法です。

イタリアやスペインの死亡者数が支那のそれを抜いたというのがニュースになりましたが、それは支那政府発表の数字を信じているということを意味します。信じていないなら、ニュースになりませんから。
全体主義国の政府発表の数字を信じている人が多ければ多いほど、同体制の国の、国際世論上の対ウィルス戦は勝利していることになります。
支那の、最近の感染者数・死亡者数の横ばいは、第一の対策よりも、第二の対策が効いている証拠ではないでしょうか。

数年後か十数年後、この度のウィルス禍が本当の意味で検証されることになるでしょう。その時、現在の北朝鮮や支那発表の数字がいかに嘘であるかが暴露されることになるだろうと思います。

(1)https://www.bbc.com/japanese/51829500
(2)全体主義や独裁主義ではなく、権威主義体制という言葉を用いている記事を見かけますが、それは筆者が左翼である証拠です。権威主義という言葉で、左翼国家の悪の印象を薄めようとしているのです。

誰が表現の自由を侵すのか

1.誰が表現の自由を「保障する」のか

現在の日本では、表現の自由は一応保障されています。それは、日本国憲法に規定されています。

第二一条 [集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密] 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

「これを保障する」とありますが、だれが保障するのでしょうか。
それらに対する侵害行為は、個々の国民が防げるはずもありませんから、公権力(国及び公共団体)でしょう。

2.誰が表現の自由を侵すのか

では、逆の場合を考えてみましょう。
国民の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(以下、表現の自由等)を侵す(可能性がある)のは誰でしょうか。
公権力または私権力です。

第一は、公権力です。
過去国家権力は、人民の表現の自由等を侵してきました。その反省から、憲法にそれらの権利が明記されるようになりました。今後も、表現の自由等を保障するはずの公権力が、逆に国民の自由を侵す可能性があります。

第二は、私権力もしくは民間人です。
ある特定の政治的立場にたつ個人または集団・団体が、信条の異なる人たちの自由を侵す場合です。
たとえば、少々極端な例を挙げるなら、左派の政治集会に右翼の街宣車が突っ込んだり、右派の雑誌社に極左が火炎瓶を投げ込んだりしたようなケースです。

第一の、公権力による表現の自由等の侵害も、二つの種類に分けられるでしょう。積極的侵害と消極的侵害です。

(1)積極的侵害
積極的侵害とは、古より行われた公権力による人民に対する、表現の自由等の圧殺あるいは制限です。

典型的には、共産主義やファシズムのような全体主義体制では、その圧殺が恒常的に行われましたし、それらよりも緩やかですが、権威主義体制の下でもその制限が行われました。

(2)消極的侵害
消極的侵害とは、積極的侵害とは違って、ある特定の政治的立場にたつ個人もしくは集団・団体の表現の自由等を公権力が優遇すること、あるいは冷遇することです。
ある特定の政治的な個人または団体を優遇することは、その他の思想的立場の人たちの権利を冷遇することと同じですし、ある特定の政治的な個人または団体を冷遇することは、その他の人たちを優遇することと同じです。

公権力による積極的侵害ばかりでなく、消極的侵害も忘れてはならないでしょう。そして、積極的侵害と消極的侵害は、公権力による表現の自由等に対する権利侵害の、二つの形態です。

日本国憲法第二〇条 [信教の自由、国の宗教活動の禁止]の一項には次のような記述があります。

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け(中略)てはならない」とあります。これは「宗教団体」のみならず、宗教的個人にも当てはまることでしょう。
また、これは公権力による(この場合は、信教の)自由の消極的侵害を禁止していると解すべきでしょう。そして、公権力による自由の消極的侵害の禁止は、第二一条にも適用すべき原則のはずです。

すなわち、<公権力は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現」において、ある特定の政治的立場にたつ個人または団体に対して、特権または便宜を与えてはならない>のです。

3.表現の不自由展・その後

2019年8月1日に開幕し、10月14日に閉幕した「あいちトリエンナーレ2019」で、物議を醸した特別企画「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展」)は、前節の観点から、<公権力による表現の自由の消極的侵害>に当たると私は考えます。

昨年の12月24日付朝日新聞に、「表現の自由のいま」と題する、大村秀章愛知県知事に対するインタビュー記事が掲載されました。そこで大村知事は語っています。

「僕は法律上、公権力者の立場にあります。行政権限を持ち、公的な美術館の責任者でもある。その僕が『この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ』と言うのは、表現の自由を保障した憲法21条に照らして、決してやってはいけないことなのです。検閲そのものにもなりかねません」

一見もっともな主張のように聞こえますが、それは公権力がある特定の政治的立場にたった表現を、優遇もしくは冷遇していない場合に限り当てはまります。
では、不自由展は、特定の政治的立場の表現を優遇していないでしょうか。明らかにしています。

8月1日の開幕後、不自由展には市民による抗議の電話やメールが殺到し、同月3日早くも中止を余儀なくされましたし、一部の有志がそれに対抗して、10月27日同じ名古屋市で「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」を開催しました。それにより、公権力による不自由展の優遇が可視化されました。
その結果、トリエンナーレは公的な美術館で認められるのに、トリカエナハーレは認められない二重基準に対する批判の声が、ネットで溢れました。後者に対して、大村知事はヘイトだと言っていますが、その判定も恣意的だと言わざるをえませんし、それは「この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ」と言っているのに等しい。

文化庁はあいちトリエンナーレに対する補助金の不交付を決めましたが、それに対して大村知事は同記事で述べています。

「求められた手続きに従って補助を申請し、文化庁の審査委員会で審査されたうえで採決が決定していました。文化庁は我々の手続きに不備があったと言っていますが、いわれのないことです。行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があり、裁量権の逸脱だと考えています」

不自由展の展示品こそ、「行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があり」、そのような政治的に偏向した作品群に対し、クレームをつけない大村氏の不作為こそ、「裁量権の逸脱だと」断ずべきでしょう。

大村知事は、こうも発言しています。

「公的な芸術祭であるからこそ逆に、憲法21条がしっかり守られなければならないのです」

その通りです。
公的な(=公金が投入された)芸術祭であるからこそ、憲法21条がしっかり守られなければならない、つまり、公権力による表現の自由の、積極的侵害のみならず、消極的侵害もあってはならないし、行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があってはならないのです。

大村知事はさらに言っています。

「日本だけではなく世界各地で、分断をあおる政治が台頭しています。こうした分断社会は日本が目指すべき社会ではありません」

第一、「表現の不自由展・その後」は、「公権力による表現の自由の消極的侵害」に該当すること。
第二、その「公権力による表現の自由の消極的侵害」について、大村氏はまったく考えが及んでいないこと。
第三、そのような展示を氏が無理強いしたことが、市民の間で分断を引き起こしていること。
第四、大村氏自身が分断を「あお」った張本人であること。

どうしてそれに気がつかないのでしょうか。

4.蛇足

蛇足ながら、憲法八九条にも疑義を呈したいと思います。

第八九条 [公の財産の支出利用の制限] 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

最低限、次のように改めるべきではないでしょうか。

「宗教上及び特定の政治上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、(中略)これを支出し、又はその利用に供してはならない」

公的な芸術祭で表現の自由はどこまで認められるべきか

1.トリカエナハーレ展の意義

10月27日、名古屋市で「芸術祭 あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」が開催されました。
そこで展示されたのはライダイハン像や、「ルンルン楽しい日韓断交」「犯罪者はいつも韓国人」と書かれたかるたなどだそうです。

これは言うまでもなく、「平和の少女像」という名の朝鮮人慰安婦美化像や昭和天皇の肖像を燃やす展示があったあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」に対抗して開かれたものです。
トリエンナーレの方が左派偏向の展示(左派が喜ぶ内容)だったとすれば、トリカエナハーレの方は右派偏向の展示(右派が喜ぶ内容)だったと言えるでしょう。
右派偏好の内容であったとはいえ、左派に「表現の不自由展・その後」の政治的偏りを気づかせ、あるいは政治的無関心層に、左派の二重基準を認識させることになった点は評価したいと思います。
トリカエナハーレ展の展示内容を聞いて、左派は一時的に豆鉄砲を食らったハトのような表情になったに違いありません。

2.頑迷な左翼

大村愛知県知事は、トリカエナハーレ展の「展示内容がヘイトスピーチ(差別煽動表現)に『明確に当たる』と指摘した。施設側(県施設「ウィルあいち」)が当日に催しを中止させなかった対応を『不適切だった』と述べた」(10月30日付朝日新聞)とのことです。

しかし、ネットを見ると、トリエンナーレに表現の自由が認められるのなら、トリカエナハーレにそれが認められないのはおかしいとの意見が多数でした。前者は可で、後者は不可というのは明らかにダブル・スタンダードです。

大村知事は、トリカエナハーレの展示はヘイトに「明確に当たる」と述べていますが、ヘイトスピーチの、現行の定義はともかく、公序良俗(「国家社会の秩序と善良の風俗と」『広辞苑』第二版)に反するという点で、トリエンナーレもトリカエナハーレも同類です。だから、<トリエンナーレは可、トリカエナハーレは不可>に対して、異議ありの声が挙がるのです。

大村知事をも含めて左派(注)は、<ある作品が表現の自由に反するかどうかは私たちが決める。そして、私たちの判断は絶対に正しい。私たちがアウトだと見なす作品には表現の自由は認めない>と言っているのと同じです。
表現の自由に関するセーフとアウトの線引きが恣意的かつ自己都合的過ぎるのです。
要するに、彼らは自由主義者ではなく、全体主義者なのです。

(注)
大村知事が以前自民党の代議士だったこともあって、氏は左派ではないという人もあるかもしれません。が、自民党は保守とリベラルの混成政党です。そして、自民党のリベラル政治家が、歴史教科書問題では近隣諸国条項を許し、あるいは慰安婦問題では河野談話を発したのです。
自民党の代議士であったことは、保守派であることの証明にはなりません。

3.両者とも可か、両者とも不可か

ネットではトリエンナーレが可なら、トリカエナハーレも可であって当然だとの意見が多数表明されましたが、では、公的な、税金が投入された芸術祭や美術館(以下、芸術祭等)において、今後両者とも平等に展示が認められるべきでしょうか。

トリエンナーレの展示も、トリカエナハーレの展示も、何れも芸術に名を借りた政治です。それらは、政治イデオロギーの表出以外の何物でもありません。
自民党主催による政治的作品展が、あるいは共産党主導による作品展が、公的な芸術祭等で行われるのが許可されてはならないのと同様に、トリエンナーレの表現の不自由展も、トリカエナハーレの表現の自由展も、認められてはなりません。
余りにも政治的に偏った「作品」は、公的な芸術祭等から排除すべきです。

もっとも、政治的作品といっても、かつての社会主義リアリズムやファシズム・軍国主義リアリズム(?)に基づいた作品を、愚行の歴史的作品(中には良品もあったでしょうが)として展示するのは、あり、でしょう。
数十年後、「表現の不自由展・その後」が、私たちの時代の愚行として、芸術監督の顔写真付で展示されるのは、それはそれとして意味があることかもしれません。

【おすすめ記事です】
あいちトリカエナハーレとヘイトスピーチと表現の自由

左派の言論・表現は、もっと自由である

1.公的部門における

8月1日に開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は同月3日中止になりました。展示物に対する抗議の電話やメールが押し寄せ、安全に続けられない恐れが出たためらしい。
この展示について、左派は表現の自由を守れと訴えています。

しかし、芸術監督津田大介氏が「物議を醸す企画を公立の部門でやることに意味があると考えた」(8月4日付朝日新聞)と述べているのでも分かりますが、この度の事例は、「公立の部門で」なされたから問題なのであって、私立の部門ないし民間でなされたのなら問題はありません。すなわち、表現の自由云々の問題ではなく、税金が投入されている芸術祭に、それらの展示物は相応しいかという問題です。

もし右派が、左派が激怒するような展示品を集めて「表現の不自由展」を「公立の部門でや」ったのだとしたら、先の人たちはその場合も、表現の自由を守れと叫んだでしょうか?

今回の表現の不自由展が、左翼主導のものだったから、曲がりなりにも開催にこぎ着けられたのであって、もし右派によるものだったなら、計画の段階で発覚し、マスメディアで叩かれて、事前に潰されていたでしょう。

「表現の不自由展」は、「左翼的表現の自由展」に改めた方がいいと思います。

2.私的部門(民間)における

「表現の不自由展・その後」は、東京であれ、大阪であれ、名古屋であれ有志が画廊などを借りて開催することはできます。すなわち、現在の日本では、表現の自由は保障されています。
もしそれが、たとえば右翼によって妨害されたのなら一大事で、その時こそ、表現の自由を守れと訴えるべきでしょう。

ところで、問題なのは、左派は私的部門(民間)においてなされる言論に対してでさえ、平然と妨害行動を起こすことです。
昨年杉田水脈議員の論文が掲載された『新潮45』を廃刊に追い込みましたし、今月「韓国なんて要らない」という特集を組んだ『週刊ポスト』に対して、言論封殺的な言動を行いました。
『新潮45』にしろ『週刊ポスト』にしろ、私企業による私的活動であり、税金は注がれていません。民間部門に対する妨害こそ、言論や表現の自由の危機です。

3.言論で勝てなければ、裁判があるさ

左派の特徴の一つは、言論で勝てない場合は、裁判に持ち込むことです。

元朝日新聞記者植村隆氏は、名誉を傷つけられたとして、西岡力氏と文藝春秋を訴えていますし、朝日新聞は小川榮太郎氏と飛鳥新社を訴えています。
植村氏は6月の地裁の判決後の記者会見で、「ひるむことなく言論人として闘いを続けていきたい」と述べていますし、朝日新聞は天下の大言論機関のはずです。
どうして両者とも言論で戦おうとしないのでしょうか。
恐らく、言論では勝ち目がないから、裁判に持ち込むのでしょう。そして、裁判沙汰にして、相手が根を上げるのを期待しているのでしょう。

4.左派のダブル・スタンダード

左派であれ右派であれ、たとえ自分の気に入らないものであっても、言論や表現の自由を認めるべきです。

ところが左派は、自分たちの思想に適う言論や表現は、公的な部門であっても社会に強制して当然と考え、ゴリ押しし、それが批判されるや言論や表現の自由を盾に擁護する一方、自分たちの思想に反する、右派的な言論や表現に対しては、私的な部門であっても、差別やヘイトのレッテルを貼って葬り去ろうとします。
左派の二重基準は甚だしい。

5.『動物農場』的

ジョージ・オーウェルの『動物農場』を読めば、左翼(全体主義者)は変わらないなあと納得させられます。

荘園農場から人間ジョーンズ氏を追い出した動物たちは、彼らだけの農場を作りました。
そこで決められた七戒のうちの七番目は、次のようなものでした。

「すべての動物は平等である」

ところが、その後動物の中の豚が特権階級化し、ある日七戒が一つになっていました。

「すべての動物は平等である。
しかし、ある動物は、ほかのものよりも
もっと平等である」

「ある動物」とは勿論豚のことです。豚の特権階級化を正当化するものに変わっていたのです。
私たちの時代に、左派がモットーとしていて、しかも実践しているのは、次のような「戒律」です。

「すべての言論・表現は自由である。
しかし、左派のそれは、右派のものよりも
もっと自由である」

これを例証する事件はこれまでも起こったし、これからも起こるでしょう。このような言論状況は、当分の間続きます。

【折々の迷言】
「加害者は脅迫者だ。なのに被害者である芸術祭に補助金を出さず、表現の自由を窒息させる。敵を誤った文化庁」(9・27朝日新聞「素粒子」)

加害者は芸術祭で左翼的表現をゴリ押しする愛知県知事と主催者。被害者は納税者。表現の自由の濫用に一矢を報いた文化庁。

真の自由主義者とは

LGBTのカップルには生産性がない、との杉田水脈議員の発言に対しては、いくつかの立場がありうるでしょう。

第一。私は彼女の意見には反対だ。だから、彼女がそれを主張する権利は認めるべきではない。

第二。私は彼女の意見には反対だ。だが彼女がそれを主張する権利は認めるべきだ。

第三。私は彼女の意見には賛成だ。だから、彼女がそれを主張する権利は認めるべきだ。しかし、彼女とは反対の意見を主張する権利は認めるべきではない。

第四。私は彼女の意見には賛成だ。だから(あるいは、私は彼女の意見には賛成の箇所もあれば反対の箇所もある。けれども)、彼女がそれを主張する権利は認めるべきだ。しかし、彼女とは反対の意見を主張する権利も認めるべきだ。

第五。私は彼女の意見には賛成だ。しかし、彼女がそれを主張する権利は認めるべきではない。

実際には、第五の立場を主張する者などありえませんから、世人のとりうる立場は、第一、二、三、四の何れかでしょう。

ヴォルテールの名言、「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」に上記を照らし合わせてみれば良く分かります。
第一と第三の立場は、自由否定の、全体主義者の立場です。第一が一方の全体主義の立場なら、第三が他方の全体主義の立場です。
第二と第四の立場が、自由主義者の立場です。

『新潮45』8月号に掲載された杉田議員の論文が問題になってから、メディア、政治家、文化人、マスコミ人その他様々な人たちが発言しています。数の上で圧倒しているのは第一の立場の人たちでしょう。第三の立場の人たちは見たことがありません。第二、第四の立場の人たちは少数派でした。

「ラ・ブリュイエールが『世の中でいちばん珍しいものは、識別する心の次にダイヤモンドと真珠だ』と言っているのは、いみじき言であると同時に、残念ながら真実な言葉なのである」と、ドイツの哲学者ショーペンハウアーは書いています(秋山英夫訳、『随感録』、白水社 10頁)。
杉田論文を巡るこの度の騒動で明らかになったのは、真の自由主義者というものが如何に「珍しいもの」かということではないでしょうか。

追記
『新潮45』は10月号で、「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題する特集を組んだそうです。それに対して、余りにも反発が大きかったせいか、新潮社の社長は声明を発しました。一部を引用します。

「今回の『新潮45』の特別企画『そんなにおかしいか【杉田水脈】論文』のある部分に関しては、それら(言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性)に鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足とに満ちた表現が見受けられました」

「ある部分」とは、どの部分を指すのでしょうか。
杉田氏本人の論文に対する8月の自民党の「LGBTに関するわが党の政策について」にもこうありました。

「今回の杉田水脈議員の寄稿文に関しては、個人的な意見とは言え、問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現があることも事実であり」云々。

「問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現」とはどの部分のことなのでしょうか。
新潮社の社長にしろ、自民党にしろ、「ある部分」を明確にしないまま、幕引きをはかろうとしています。
このような姿勢は、大人の対応と言うべきでしょうか、それとも、卑怯者の遁走と呼ぶべきでしょうか。

何れにせよ、両者とも台風一過を待つつもりなのでしょう。しかし、それはそう簡単には通り過ぎてはくれません。
いよいよ日本も、リベラル(リベラリズム)という名の台風の暴風圏内に入ったようです。

香山リカ氏と「冤罪の自由」

朝日新聞の、8月21日付「オピニオン&フォーラム」欄のテーマは、「ネット言論を見つめる」でした。
そこに文化人三氏が登場していて、内二名が寄稿をよせ、一名がインタビューを受けています。寄稿した一人、香山リカ氏は書いています。

「実は最近、ネットの巨大匿名掲示板の5ちゃんねる(旧・2ちゃんねる)で画期的なできごとがあった。そこに集う人たちが、動画サイト『ユーチューブ』に韓国や中国への差別煽動主義的な内容の映像があふれていることに気づき、管理者に報告するように呼びかけ、3カ月でなんと50万本近い動画が規約違反として削除されたのだ。
その取り組みに参加している匿名の若者たちは、その問題に自分で気づき、お互いに知識を授けあい、瞬く間にヘイトスピーチについて正しい知識を身につけ、『これを後の世代に残すわけにはいかない』という合意に至った。『教えてあげよう』ではなく、自ら気づいて『なんとかしたい』と考える複数の人たちが同時多発的に現れれば、ネット言論の空間は爆発的に変わる可能性を秘めている」。

当然次のような疑問がわきます。
「韓国や中国への差別煽動主義的な内容の映像が、(中略)50万本近い動画が規約違反で削除された」とのことですが、その中に一本も「冤罪」はなかったのだろうかということです。
確かに、見るのも聞くのも不愉快で、下品な動画が殆んどだったのかもしれません。しかし、例外はなかったのでしょうか。
3カ月で約50万本とのことですが、日割り計算すれば一日5555本余り、一日は二十四時間で計千四百四十分ですから、一分間に3、4本のペースです。「管理者」は、その一つ一つに目を通し、削除したのでしょうか。あるいは、そこに判断ミスはなかったのでしょうか。

香山氏は、100%判断ミスはないと考えているのでしょうか、それとも、たとえわずかばかりの無実の動画があるにしても、規約違反の動画を削除することの方が大事だと考えているのでしょうか。
彼女の思想傾向から推測するなら、数本の無実の動画があるかもしれない以上、数多くの動画を「瞬く間」に削除するのは、不適切であり、かつ表現の自由に反すると発言しても良さそうなものです。

たぶん、香山氏の本音はこうでしょう。
左派の動画なら無実なものが一本もあってはならないが、右派のそれなら少々濡れ衣があっても構わない。

「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言ったとされるヴォルテールとは相違して、「私はあなたの意見には反対だ。だからあなたがそれを主張する権利は認めない」という左派の遣り口を、そのメンバーである彼女は奨揚しているだけなのでしょう。

左派には「冤罪の自由」という特権が認められて良い、そう考えているとしか、解釈のしようがありません。

【読書から】
「何十年も前『古事記』を読んでいて気づいた。皇祖神たちは初めから日本語を話している。ああ、皇祖神より日本語の方が先なのだと知った。」(呉智英、『週刊ポスト』2018年9月7日号、46頁)

杉田水脈発言と言論の自由

「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。

実際には、ヴォルテールの発言ではないそうですが、彼の名言とされているものです。
他者の意見であれ、自分のそれであれ、本当に「命をかけて」まで守れるかどうか疑問ですが、一般的な意味でなら、誰もこれに反対しないでしょう。ところが、自分のこだわる思想に関する主題になると、途端に雲行きが怪しくなります。

杉田水脈衆議院議員の、LBGTのカップルは、「『生産性』がない」との主張の論文が話題になりました。
異論がある人は、大いに反論したら良いと思います。しかし、同議員の思想・言論の自由を封じるような言動は、常軌を逸していると言わざるをえません。杉田氏を批判する人たちは、彼女の意見に反対しているのでしょうか。それとも、彼女の主張を社会的に抹殺せよと言っているのでしょうか。
杉田氏の除名と議員辞職を求める人たちがいるようですが、それは過剰要求であり、彼らは抹殺論者でしょう。

「私はあなたの意見には反対だ。だから、あなたがそれを主張する権利は認めない」を実践しています。彼らは、全体主義者です。
その意見の賛否に拘らず、杉田氏が「それを主張する権利を守る」人たちは一致して、「それを主張する権利を認めない」人たちと、戦わなければならないと思います。

追記
8月1日付自民党の、「LGBTに関するわが党の政策について」には、こうあります。
「今回の杉田水脈議員の寄稿文に関しては、個人的な意見とは言え、問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現があることも事実であり、本人には今後、十分に注意するよう指導したところです」。

左翼としてのリベラル」に書きましたが、自民党はリベラルと保守が混在する同床異夢政党です。理念・政策の実現よりも、選挙互助が優先なのでしょう。そして、杉田議員の主張は世間的には実に不評だった。選挙(総裁選も含む)と政権の支持率を憂慮する上層部の意向が、「指導」を生んだのでしょう。
当初二階幹事長は、「『人それぞれ政治的立場、色んな人生観がある』と述べ、党として問題視しない考えを示してい」(2018年8月2日付、朝日新聞夕刊)ましたが、一転指導になりました。
「わが党はLBGTの方々と共にあります」とのメッセージを表明した。
このフットワークの良さが自民党の強さであり、野党が伸び悩んでいる理由の一つだと思います。