『功利主義入門 ーはじめての倫理学』を読んで

はじめに

1月31日公開のブログ記事で、児玉聡氏の『功利主義入門 ーはじめての倫理学』(ちくま新書、2012年刊)を読んで、何れ読後感を書いてみたいと思います、と述べました。で、読んでみました。
ただ、同書を読んで、全般的に論じようとすると膨大な時間が必要ですし、一度のブログ記事ではとても語りつくせません。なので今回は、所々気になった点についてだけ、コメントすることにしました。その他の点については、今後個別に論じることもあるだろうと思います。
今月11日に、「箇条書き 功利主義とはなにか」(以下、「箇条書き」)という記事を公開しましたが、一応そこで提示した基準に照らし合わせて、評することにします。

1.個人倫理と社会倫理

児玉氏の『功利主義入門』(以下『入門』、( )内は同著の頁)から引用します。

「J美はそう思って、『序説』(ベンサム著『道徳および立法の諸原理序説』)を読み進めた。功利性の原理(功利原理)とは何か。人がなすべきこと、正しい行為とは、社会全体の幸福を増す行為のことであり、反対になすべきではない、不正な行為とは、社会全体の幸福を減らす行為のことだと書いてある。そして、幸福とは快楽に他ならず、不幸とは快楽がない状態か、苦痛のことだとある」(太字 いけまこ)(46頁)

「(3)総和最大化。功利主義では、一個人の幸福を最大化することを考えるのではなく、人々の幸福を総和、つまり足し算して、それが最大になるよう努める必要がある」(56頁)

「功利主義は『社会全体の幸福を最大化せよ』と主張する立場であるため(後略)」(134頁)

しかし、功利主義の目的は、「社会全体の幸福」だけなのでしょうか。
ベンサムは『序説』(『世界の名著 38 ベンサム J・S・ミル』、中央公論社、1967年刊)で述べています。

「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、また同じことを別のことばで言いかえただけであるが、その幸福を促進するように見えるか、それともその幸福に対立するように見えるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。私はすべての行為と言った。したがって、それは一個人のすべての行為だけではなく、政府のすべての政策をも含むのである。(中略)ここでいう幸福とは、当事者が社会全体である場合には、社会の幸福のことであり、特定の個人である場合には、その個人の幸福のことである」(太字 いけまこ)(82-83頁)

太字の箇所の記述で分かるように、功利主義が求めたのは、「当事者が社会全体である場合」だけではありません。「箇条書き」のE、G、Iで記しているように、私的な幸福も目的の一つです。
もっとも、児玉氏は別のところでは、次のように語っています。

「ベンタムにとっては、『倫理』は個人の道徳と、政治や立法の両方を意味していた。そして、ベンタムの主著『道徳および立法の諸原理序説』という書名に示されているように、功利主義はそのどちらについても使えるものだった」(93頁)

児玉氏は「ベンタム」と書き、私は「ベンサム」と書いていますが、同一人物です。
さて、児玉氏の、前の三つの発言と、この発言は矛盾しているように思われます。そして、ベンサム及び功利主義の思想は、後者の方が正しいでしょう。道徳(個人倫理)および立法(社会倫理)の『諸原理序説』なのですから。
ベンサムは、社会全体の幸福だけを問題にしたのではありません。ただ、彼は立法による社会改革を目指したので、個人の幸福よりも社会の幸福を追求したのだと誤解されることになったのだと思います。

児玉氏は、書いています。

「現代の功利主義は、二つの点で洗練されている。
一つは、功利主義的に行為するために、ひたすら最大多数の最大幸福のことばかりを考えて行為する『功利主義マシーン』になる必要はないとする点だ。(中略)
かつてベンサムの弟子の一人のジョン・オースティン(1790-1859)という功利主義者は、この考えを次のように表現した。『健全で正統な功利主義者は≪彼氏が彼女にキスするさいには公共の福祉について考えていなければならない≫などと主張したことも考えたこともない』。
功利主義者は年がら年じゅう、功利原理を用いて意思決定をする必要はないとするこの考え方は、現在では『間接功利主義』と呼ばれる。それに対して、ゴドウィンは少なくとも最初の内は、立派な功利主義者は最大多数の最大幸福について始終考えていなければならないと考えていたので、『直接功利主義』の立場を取っていたと言える」(80-81頁)

功利主義の創始者ベンサムは、『序説』の記述でも分かるように、間接功利主義の立場なのは明らかです。なので、「現代の功利主義」ではありませんが、「洗練されてい」たと言えるでしょう。

2.倫理至上主義と真善美並立主義

児玉氏は、述べています。

「ベンタムはいわゆる快楽説を取っているが、これは幸福主義の一種だ」(55頁)

そして、

「たとえばわれわれは自由や真理にも価値があると考えているだろう。幸福主義は、それらに一定の価値は認めるものの、自由や真理に価値があるのは、それらが人々の幸福を増進するからに他ならないと考える。何かの役に立つという理由からではなく、それ自体に価値があることを『内在的価値』と呼ぶが、幸福主義によれば、その世界で内在的価値を持つのは幸福だけであり、それ以外のものは幸福になるための手段として道具的価値を持つに過ぎない。この立場を取らず、自由や真理は人々の幸福とは独立に価値を持つと主張するならば、それは非幸福主義である」(56頁)

「箇条書き」に書きました。

「A、真善美という言い方がありますが、物事の真偽を取り扱うのが、狭義の哲学や科学であり、善悪を扱うのが倫理学であり、美醜の問題を扱うのが美学です」
「C、功利主義は、最高善(善悪を判断するための究極標準としての最高目的ー広辞苑)は幸福だと考えます」

私は、真や美は、善とは別の次元の問題だと思います。そして、それらは「独立に価値を持つ」と考えます。最高善は幸福だと思いますが、最高真や美?は幸福だと考えません。
自由はともかく、真理は、「幸福になるための手段として道具的に価値を持つに過ぎない」とするのは、真美よりも善の方が上位の価値であるする倫理至上主義ではないでしょうか。

私は倫理至上主義の立場は採りません。真善美並立主義が正しいと考えます。
たとえ人を不幸にするとしても、真理や美はそれ自体として価値があると思います。
もっとも、aとbはどちらが真理であるかとか、cとdのどちらがより美しいか、というような、個別的かつ具体的な判断は容易ではありませんが。

3.宗教と倫理

『入門』の第一章の中に、「宗教なしの倫理はありうるか」との小見出しがあります。

「たしかに、仏教にせよキリスト教にせよ、倫理を説いてきたのは伝統的に宗教者であることが多かった。しかし、だからといって、宗教なければ倫理なし、ということには必ずしもならないだろう。(中略)仮に神がいないとしても、倫理は成り立つのである」(22-25頁)

この点は、世間の大勢と違って、私は児玉氏に同意します。
真偽、美醜における判断同様、善悪の判断においても、神も仏もGODも不要だと考えます。こんなことを言うと、猛反発されそうですが、「神」がいなければ善悪もない、というのは、ユダヤ的一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の迷信もしくは誤解だと思います。

ただ、私は次の児玉氏の発言には、同意できません。

「神の存在を信じない人は、倫理的ルールを、スポーツやゲームのルールと似たものと考えることができる。たとえば将棋のルールは人間が作ったものだが、それと同様に、倫理のルールも人間が作ったものである、また、将棋のルールがそうであるのと同様、倫理のルールも必ずしも誰かが一度に考え出したものではなく、社会生活を営む間に、人々が徐々に作り出したものだと考えられる」(23頁)

スポーツやゲームのルールは、簡単に変えられますが、倫理のそれは簡単には変更できません。真偽や美醜の判断(個別の事例に対する判断ではなく)同様、善悪の根源的な判断も、人間のア・プリオリ(先験的)な認識に基づいていると考えます。

4.上位価値と下位価値

児玉氏の記述を引きます。

「ミル流の自由主義によっても、個人の自由は最大限保障される。ただし、その基本となる発想が異なる。ミルが個人の自由を尊重せよというのは、われわれが最初から自由権を持っているからではない。個人の自由を保障した方が、長期的に見て社会全体のが幸福になるとい理由からだ。この意味で、功利主義においては自由の価値は、社会全体の幸福の価値から派生するものと言える」(101頁)

私は第二節で、真善美の価値は並立すると思うと書きました。しかし一方、善に関する価値の中には、上位の価値と下位の価値との序列があるのではないでしょうか。
自由、民主主義、平等、人権、法の支配、福祉などの政治経済社会的な価値は、真偽や美醜に関する価値ではなく、善悪に連なる価値であり、それらは倫理的善という目的のための手段だと判断します。なので、それらの価値は幸福という上位価値に対する下位価値だと考えます。

「功利主義においては自由の価値は、社会全体の幸福の価値から派生するものと言える」の中の「社会全体の」という箇所を除けば、児玉氏の発言は正しいと思います。

5.快楽の質と量

功利主義において快楽や苦痛とは何を意味するのかについては、ベンサムの『序説』「第五章 快楽と苦痛、その種類」を見れば、おおよそ見当がつくでしょう。
児玉氏は、快楽の質と量の問題について書いています。

「彼(ベンサム)の有名な言葉に『快の量が同じであれば、プッシュピン遊びと詩作は同じぐらいよい』というものがある」(140頁)
「実際、わたしがテレビゲームをして楽しんでいると、快楽のソムリエの称号を持っている人たちがやってきて、わたしが全く知らないオペラの方が快楽の質が高いからと、無理やり劇場に連れて行かれても困るし、おそらく幸福にもならないだろう」(143頁)

ベンサムの言も、児玉氏の言も正しいでしょう。
快楽の質と量の問題では、それには質の高低があると言う人がいて、プッシュピン遊びよりも詩作の方が質が高いというようなことを、即座に断言します。しかし、そもそもどのような場合に、あるいはどのような証明がなされたなら、快楽に質の差がある、もしくは、ないと言いうるのか。それについて、一歩立ち止まって、考えてみてはどうでしょうか。

6.善い人間を論じることと善い人間になること

児玉氏は、マルクス・アウレリウスの言葉を引用しています。

「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ」(194頁)

この言葉は知りませんでしたが、読んで笑ってしまいました。
過去から現在までの、道徳哲学または倫理学者という人たち、とりわけ些末な事柄に拘泥している人々を風刺した適切な評言ではないでしょうか。 

箇条書き 功利主義とは何か

功利主義とは何かについて、私の解釈を箇条書きにしてみます。

A、真善美という言い方がありますが、物事の真偽を取り扱うのが、狭義の哲学や科学であり、善悪を扱うのが倫理学であり、美醜の問題を扱うのが美学です。

B、功利主義は、さまざまに存在する倫理学説の一つです。

C、功利主義は、最高善(善悪を判断するための究極標準としての最高目的ー広辞苑)は幸福だと考えます。

D、人間のすべての行為は、他人に影響を与えない行為(無人島で一人で暮らすロビンソン・クルーソーや休日に自室で趣味に興ずる人など)と、他人に影響を与える行為に分けられるでしょう。

E、前者における行為の善悪を扱うのが、個人的(私的)倫理であり、

F、後者における行為の善悪を扱うのが、社会的(公的)倫理です。

G、個人倫理の目的は、その人物の最大幸福であり、

H、社会倫理の目的は、最大多数の最大幸福です。

I、個人倫理で、何をなすべきかは、その人物の幸福の総量=快楽の総量+苦痛の総量、によって決めるべきであり、

J、社会倫理で、何をなすべきかは、その行為が影響を与える人々の、幸福の総量=快楽の総量+苦痛の総量、によって決定すべきです。

K、政治的経済的社会的な諸問題で、どのような選択・政策を行うべきかは、社会倫理の延長上の問題です。なので、功利主義は、政治思想でもあります。

「全体のためには少数が犠牲になっても仕方ない」は功利主義か

今年の1月15日付朝日新聞(夕刊)に、「いま聞く interview」という記事が掲載されました。
インタビューをしているのは、同紙編集委員田村建二氏で、受けているのは、京都大准教授児玉聡氏です。

「新型コロナウイルスのオミクロン株が拡大している。昨年の『第5波』のように、重い症状でも入院できないような事態が続出したとき、どんな選択をすべきなのか。『公衆衛生倫理』を専門とする児玉聡さん(47)に聞いた」

との前置きの後、続けています。

「重い肺炎の人が2人。だが、人工呼吸器は一つしかない。そんな場面に出くわしたら、どちらの人に呼吸器を使うのか」

後段のような問題意識は、住吉雅美氏の『あぶない法哲学』(講談社現代新書)第六章と共通しています。ただ、児玉氏は、次のように述べています。

「ベンタム(ベンサム)といえば『最大多数の最大幸福』が有名で、全体のためには少数が犠牲になっても仕方ない、という考えだと誤解されがち。実際は、これまで考慮されてこなかった弱者の幸福にも配慮しようというのが本来の思想です」

『あぶない法哲学』の第六章を読めば分かりますが、功利主義は、「全体のためには少数が犠牲になっても仕方ない、という考えだと誤解」しているのが、住吉雅美氏です(「住吉雅美氏と功利主義」)。

功利主義に関する書物は、気が付いたときはなるべく購入するようにしています。ただ、これまで功利主義や倫理学について、真剣に考えてきた訳ではないので、知りませんでしたが、児玉氏の発言から、二つのことが分かりました。
第一。功利主義が、全体のためには少数が犠牲になっても仕方ないと考える思想だと思っているのは、住吉氏だけではないこと。
第二。功利主義に対する、そのような誤解が世間に流布しているらしいこと、です。

どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。
外国の偉い学者先生が、どこかでそのような説を唱えているのでしょうか。わが国の学者がそれを鵜吞みにして、そのような主張を拡大再生産しているのかもしれません。

児玉聡氏には『功利主義入門』(ちくま新書)という著書があるらしい。倉庫の本棚を見たら、既に購入していました。何れ読んで、読後感を当ブログに書いてみたいと思います。

住吉雅美氏と功利主義

1.はじめに

去年の前半ですが、朝日新聞を読んでいて、功利主義に言及している記事を見かけました。
それは、青山学院大学教授(法哲学)住吉雅美氏へのインタビュー記事でした。それを切り抜いていたはずなのですが、紛失してしまいました。探してみましたが、見当たりません。

パソコンで検索したところ、住吉氏が『あぶない法哲学』(講談社現代新書、2020年刊)という本の著者であること、その中に功利主義を論じている箇所があるのを知りました。それで、同書を購入して、読んでみました。
功利主義を対象にしているのは、「第六章 大勢の幸せのために、あなたが犠牲になってくださいー功利主義」です。
以下で、その章で述べられている事柄を論じます。

2.功利主義の考え方?

住吉氏の著書から、引用します。今回の記事の引用は、長くなります。

「たとえば、こんな例を考えてみよう。プレミアム・グッズ付きコミックスが店舗に並べられた途端、一人の熱烈なファンが全部買い占めてしまった。抗議する他の客に対し、そのファン曰く『自分は誰よりも昔から熱心にこの漫画を愛しているファンだし、開店前から並んでいたし、ちゃんと自分のまっとうな貯金で買ったし、法に触れることなんて何もしてない。どこが悪いの?』。(中略)
一方で、この例を功利主義の立場から見ると、買い占めファンの権利の完全行使は、他の多数のファンのグッズ付きコミックスを入手するという幸福を奪い、その結果『最大多数の最大幸福』の実現を妨げるから、ゆるされないということになる。功利主義的思考の利点は、『最大幸福』を独り占めするのではなく、みんなで分かち合うことを求める点にある。
いま検討している例において、たとえば100個あるグッズが総量100の幸福をもたらすとしよう(幸福を量化できるのかという問題はさておいて)。グッズを買い占めファンが独り占めすれば、その人は1人で100の幸福を満喫することになるが、他の買えなかった99人は幸福ゼロになる。それでも幸福の総量は100であるが、その100は1人の人間に享受されているだけなのである。それに対して、買い占めをやめ、グッズが1人に1個ずつ購入されるならば、1人あたりの幸福は1であるが、そういう人が100人いることになって結果的に幸福の総量は100になる。100×1+0×99=100がよいのか、それとも1×100=100がよいのか。功利主義は後者をとる。1人あたりの幸福量は減るにもせよ、全員が幸福になった結果として幸福の総量が最大になる方がずっとまし、というのが功利主義の考え方なのである」(137-138頁)

住吉氏は、「 100×1+0×99=100がよいのか、それとも1×100=100がよいのか。功利主義は後者をとる」と書いています。しかし、当然のことですが、前者と後者は100対100で、幸福の総量は同じなのですから(100=100)、「功利主義は後者をとる」となる訳がありません(笑)。
100対100の場合は、どちらもとってはならない、と両者を禁止するのは不自然なので、どちらをとっても良い、と考えるのが自然でしょう。

J・ベンサム(1748-1832)著『道徳および立法の諸原理序説』(山下重一訳、『世界の名著 38』所収、中央公論社、1967年刊)を読めば分かりますが、功利主義の公式は、

幸福の総量=快楽の総量+苦痛(不快)の総量

です。

なので、「買い占めファンが独り占めすれば、その人は1人で100の幸福を満喫することになる」としても、「他の買えなかった99人は幸福ゼロになる」訳ではありません。「苦痛=ー快楽」なので、他の買えなかった99人は幸福がマイナスになります。ですから、100×1+(-1)×99=1がよいのか、それとも1×100=100がよいのか、の選択になります(1<100)。

さらに、買い占めファンは、「自分は誰よりも昔から熱心にこの漫画を愛している」と考えているかもしれませんが、買えなかった99人の人たちの中にも、同様に考えている人がいるかもしれないので、買い占めファン1人の幸福の量だけ100で、買えなかった99人の各人の幸福の量を1だと想定する訳にはいきません。前者も後者も、一人当たりの幸福の量は同一だとしなければなりません。

すると、こうなります。
買い占めファンが独り占めした場合。
1×1+(-1×99)=-98
一方、グッズが1人に1個ずつ購入された場合。
1×100=100
-98対100(ー98<100)になるので、「功利主義は後者をとる」になります。
これが、功利主義の考え方だと思います。

3.「選別」しなければならないのは功利主義だけではない

住吉氏は、書いています。

「私は二〇一八年の夏、札幌で深夜にとんでもない大地震に遭遇した。北海道胆振(いぶり)東部地震である。その直後からブラックアウト、北海道全域にわたる大停電が始まり、きわめて長時間の停電に困惑した。私の居場所では通電までに三九時間を要した。しかし、地域によってはそれよりももっと早く通電したところがあった。役所、放送局、病院、警察、大学などがあるエリアは比較的早く回復した。一挙に全面回復できない場合には、可及的速やかに電気を必要とする施設、つまり病院や放送局などが優先されざるを得ないことは理解できる。だがその一方で、スーパーや飲食店は電力の回復が遅れ、結果的に多くの生鮮食品をダメになってしまい、また乳業も大ダメージを受けた。
行政が限定された財、希少な財を人々に分配する時には、どの層に、なにゆえに優先的に与えるかを即座に判断しなければならない。その判断においても功利主義が用いられるのだが、最大多数の最大幸福のためにどう分配すべきかを考えることはなかなか困難である。なぜなら、人々にとっての『幸福とは何か』という問い自体が、簡単に答えの出る問題ではないからだ。そこで、むしろ逆に、最小不幸で済ませよう、という発想になる。社会のどの層の人々に犠牲を被ってもらった方がましな結果になるか、より損失が少なく、また不満の声が少なくなるか、ということを考慮するようになる。こうなると功利主義は、不利益を被る人々を選び出す理論と化す」(141-142頁)

さらに、住吉氏は、こんなことも言っています。

「功利主義は確かに博愛精神に支えられているけれども、それに基づいて限られた財をどう使うか、いかに分配するかを考える場合には、人々を比較して、どのような人々に優先的に利益を与えるべきか(その際どのような人々を後回しする、もしくは切り捨てるか)という厳しい判断を迫られる、ということである」(141頁)
「当初、人々を平等にみてできるだけ多くの人々を幸福にしようという思いから生じた功利主義が、『社会全体の不利益を最小限にしよう』という発想に切り替わった途端、不利益を負わせる人々を探し出す選別思想に転じてしまう」(143頁)
「とにかく一国の政治が多様性への寛容さを失い特定の目的に向かって突き進む時、功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わってしまう」(148頁)

その他、小見出しにも、次のような表現があります。
人々を選別しなければならない功利主義」(141頁)
生かす者と死すべき者とを選別するーかなり恐ろしい功利主義」(147頁)(太字、原文)

小見出しには、両者とも「選別」という言葉が用いられていますが、その語が使用されているのは、著者が功利主義に対して、悪意を抱いているからでしょう。選別という言葉を、没価値的もしくは中立な表現にするなら、選択です。

どうも住吉氏は、「選別」しなければならないのは、功利主義だけだと思っているらしい。
「限られた財をどのように使うか、いかに分配するかを考える場合には、人々を比較して、どのような人々に優先的に利益を与えるべきか(その際どのような人々を後回しにするか、もしくは切り捨てるか)という厳しい判断を迫られる」のは、何も功利主義だけではありません。功利主義以外の、他の倫理思想の立場、あるいは政治思想の立場も同じです。

個人の、私的な行動における、Aをなすべきか、Bをなすべきかという問題にしろ、政治経済社会的な選択において、Cの政策を採るべきか、それともDの政策を実施すべきかという問題にしろ、「選別」しなければならないのは、功利主義だけではありません。あらゆる倫理かつ政治思想的立場は、決断しなければならないのです。

ただ、功利主義は、最高善を幸福だと考えますから、AとB、CとDを選択する際は、幸福をより増加させるか、減少させるかによって、どちらを選択すべきかを判断します。選択しなければならないのは、他の思想だって同じなのです。たとえば、人格主義という倫理思想があります。人格主義思想の人たちは、人格の成長ないし陶冶に資するか否かによって、何れを採るべきかを決定しなければなりません。

功利主義には幸福計算という考え方がありますが、功利主義以外の他の思想的立場だって、複数の選択肢の中からどれかを一つを選ばなければならない場合は、〇〇計算は必要なのです。
「計算」をしなければ、AとBの、CとDの選択は不可能だからです。

また、同じ倫理・政治思想的立場の者が、実際の個別な行動や政策の問題において、別々の判断を行うことが往々にしてあります。同じX思想を奉じるa氏とb氏がいて、一方同じY思想を信じるc氏とd氏がいるとします。政府の国防政策にa氏とd氏が賛成し、b氏とc氏が反対する、ということはありえます。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。各人が行う判断が、曖昧かつ恣意的だからです。

功利主義の幸福計算の意義の一つは、選択の恣意性を避けることを目指した点にあります。それに対する批判として、幸福計算はできないとの主張があります。確かに厳密な意味での計算はできません。それは、ベンサムも認めています。

「あらゆる道徳的判断、またはあらゆる立法上、司法上の活動に先立って、このような手続きが厳密に追求されると期待されてはならない」(『原理序説』、115頁)。

しかし、何らかの客観的かつ合理的な基準がないならば、功利主義に限らず、他の思想的立場においても、「選別」は常に恣意的にならざるをえないでしょう。

その他、本節の引用文に関して、住吉氏の主張に対する疑問点が三つあります。
第一。「 行政が限定された財、希少な財を人々に分配する時には、どの層に、なにゆえに優先的に与えるかを即座に判断しなければならない。その判断においても功利主義が用いられるのだが 」

我こそは功利主義者であると自認する人は殆んどいないでしょう。それなのになぜ「行政」で実際に「功利主義が用いられる」と言えるのでしょうか。「行政」で「功利主義が用いられ」ている根拠を示して欲しいと思います。

世の中には、様々な思想的立場の人たちがいて、またそれよりも、自らが依って立つ思想を自覚していない人の方がはるかに多いでしょう。彼らは功利主義者ではないにも拘わらず、行政の従事者も含めて、人々はAかBか、CかDかを選択しなければならないのです。

第二。「 当初、人々を平等にみてできるだけ多くの人々を幸福にしようという思いから生じた功利主義が、『社会全体の不利益を最小限にしよう』という発想に切り替わった途端、不利益を負わせる人々を探し出す選別思想に転じてしまう 」

なぜ、社会全体の利益を最大限にしよう、が「『 社会全体の不利益を最小限にしよう』という発想に切り替わった途端、不利益を負わせる人々を探し出す選別思想に転じてしまう 」という理屈になるのか。理解できません。前者と後者は、「社会全体の利益を最大限に」するための、二つの方法です。

第三。「とにかく一国の政治が多様性への寛容を失い、特定の目的に向かって突き進む時、功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わってしまう」

この文の理屈も、理解不能です。ヒトラーもスターリンも毛沢東も、そして、戦前のわが国の軍国主義者も功利主義者ではありませんでしたし、「一国の政治が多様性への寛容を失い特定の目的に向かって突き進む時」は、「功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わっていまう」どころか、そのような時代には、功利主義者は発言できなくなっていることでしょう。

「限定された財、希少な財」が限られている以上、敢えて「不利益を負わせる人々を探し出」さなければならないのは、別に功利主義だけではありません。

4.「一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、犠牲は正当化できる」と功利主義者は考えるか

やはり、引用が長くなります。

「優れた頭脳と運動能力をもつ人々が、内臓に致命的な疾患をもっている。なんとか健康になってその能力を国家のために発揮してほしいのだが、移植できる健康な臓器のストックがない。そこで政府は国民を見わたし、健康な肉体を有しているがこの国にとって生かしておく価値がないと思われる犯罪者やクズ人間をリストアップした。それらの人々を生かしておいても税金の無駄遣いなので、健康な内臓を取り出して、有益な病人たちに移植しようと考えたのだ。一人から心臓、肝臓、目、腎臓、骨髄を取り出し移植すれば、五人を生きながらえさせることができる。生かされた人々は政府に感謝して、その後の人生を国家のために捧げてくれるだろう。一方で国家のために何の役もない税金の無駄遣い連中は死んでくれるし、めでたしめでたし・・・・・・ということになったらどうだろうか?

これはイギリスのジョン・ハリス(一九四五ー)という倫理学者が提起したたとえ話に私が少々味付けしたものだが、単なる絵空事と割り切れるだろうか。もちろんこの例は、医療技術が発達して人から人への臓器移植が必要なくなる時代を迎えれば無効になる話であるが、問題はそこではない。国家目的と功利主義が結びつけば、一人一人の人権をすっ飛ばして国民を選別することも肯定される点が問題なのである。

しかし、さらにこういう提案もありうるだろう。選別が差別でけしからんというならば、皇族も総理大臣も財界の大物もスーパースターも死刑囚も、とにかく国民すべてが一斉にくじを引いて、当たった人が否応もなく臓器を取り出される、というのではどうか?万人相手のくじだから差別にならない、と。たしかに表向き差別ではないが、明らかに人間が臓器の詰め合わせ、つまり物と見られているのである。それでよいのだろうか?

人を、幸福を感じる『主体』としてではなく、幸福最大化のための『手段』として捉えはじめた時に、功利主義は冷酷な選別思想へと一転する」(148-150頁)

第六章の題は「大勢の幸せのために、あなたが犠牲になって下さい一功利主義」(133頁)ですし、その頁には次のような問題が提起されています。
「Q 一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、犠牲は正当化できる?」

住吉氏が以上のように書いているのは、功利主義者ならそう考えるに違いないと思っているからでしょう。しかし、功利主義者は、そのように考えるでしょうか。彼らの中の誰かが、私たちはそのように考えると、どこかで表明しているのでしょうか?
もし功利主義者が上記の論に賛意を示しているのなら、住吉氏の批判は当たっているかもしれません。

先に、功利主義の公式は、幸福の総量=快楽の総量+苦痛の総量、だと述べました。
一人の「犯罪者」または「クズ人間」を殺して、「健康な臓器」を取り出し、五人の「有益な病人たちに移植」するとという案が、社会で採用されたとしましょう。

犠牲になる「国家のために何の益もない税金の無駄遣い連中」が受ける苦痛(殺される恐怖)の量と、「生かされる人々」の快楽(健康な体が持てる喜び)の量を比較した場合、後者の量は前者の量を常に上回っているでしょうか。もし後者の健康な体が持てる喜びの量よりも、前者の殺される恐怖の量の方が、時に上回っている場合もあるのだとしたら、「正当化できる」とは限らない、ということになります。
功利主義の公式で説明するなら、仮に、快楽の総量>苦痛の総量、が常に成り立つなら、移植は正当化できると言えますが、もし時に、快楽の総量<苦痛の総量、だったりするのなら、必ずしも正当化できるとは言えません。

ベンサムは『原理序説』の「第五章 快楽と苦痛、その種類」の中で、「慈愛の苦痛」ということを語っています。その内容は、「他の人々が受けると想像される苦痛を考えることから生み出される苦痛である。それは、好意または同情、慈悲深い感情、または社会的感情の苦痛とも名づけることができる」(122頁)、と。
一人が犠牲になるような移植に対して、「有益な病人たち」五人の中から、「慈愛の苦痛」を感じる人が現れるかもしれませんし、その可能性はあるということです。

だから、「有益な病人たち」だって、他者を殺害して自ら助かることを、皆が望むとは限りませんし、彼らの中に、そんなおぞましい移植は拒否すると言う者が出るかもしれません。そのような移植は、ある者にとっては喜びかもしれませんが、別のある者にとっては苦しみかもしれません。後者にとって、移植は、快楽<苦痛、になります。
そうすると、犠牲になる犯罪者が受ける苦痛の量と、生かされる人々が受ける快楽の量を比べた場合、後者の快楽の総量の方が、前者の苦痛の総量よりも、常に多いとは言えません。

犠牲になる一人が受ける苦痛と、助かる五人が受ける快楽が、具体的にベンサムの快楽と苦痛のリストのどれに該当するかは分かりませんし、そんなことを照合する必要もないでしょう。何れにしろ、殺される一人の苦痛<命が助かる五人の快楽、は常に成立するとは限らないということ、殺される一人の苦痛>命が助かる五人の快楽、もありうるということです。

なので、「一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、犠牲は正当化できる」とは、功利主義者は考えないだろうと思います。

5.必要な二つの証明

住吉氏は、以下の二つを論証する必要があるでしょう。
第一。功利主義以外の倫理・政治思想は、「選別」は行わない。
第二。「一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、移植は正当化できる」と、すべての功利主義者は考える、もしくは、功利主義なら、論理的にそう考えなければならない。
それらを証明しなければ、『あぶない法哲学』の第六章は、論として成立しないと思います。

蛇足ですが、「国家目的と功利主義が結びつけば、一人一人の人権をすっ飛ばして国民を選別することも肯定される点が問題なのである」という文言に対して。
私は、この文章の功利主義の箇所は、たとえばマルクス主義という言葉に置き換えた方がピッタリくると思いますが、住吉氏は、ここはやはり功利主義でなければならないとお考えになるのでしょうか。

清水幾太郎氏と功利主義

清水幾太郎氏は書いています。

「元来、私にとって、経済学など、どうでもよいことであった。大切なのは、幸福であった。幸福は、人間が遠い昔から求め続けて来たものであり、それゆえに、古代以来、倫理学の中心には、いつも幸福の観念が据えられていた。この伝統が二十世紀の倫理学に生きていたら、私が経済学に関心を寄せるチャンスはなかったであろう。(中略)
以上に述べたことは、次のように言い換えることが出来る。功利主義のどこが悪いのか、どうしても、私には納得することが出来ないのである。多くの人々が、功利主義というのは、昔の滑稽な失敗であるかのように、もう片付いてしまった愚行であるかのように振舞っている理由が判らないのである。(中略)正直のところ、多くの研究者が功利主義に向かって侮蔑の表情を示せば示すほど、私には、功利主義の魅力が抗し難く増して行った」(清水幾太郎著、『倫理学ノート』、岩波書店、105-107頁)

道徳的善から、幸福の観念が離れれば離れるほど、倫理が机上の、非実践的なものになります。

これまで多くの人たちが功利主義を批判してきましたが、その息の根を止めることはできませんでした。というよりも、それらの批判は、当を得ていたのでしょうか。
逆転の発想で、一度功利主義が正しいと仮定して、その証明に打ち込んでみてはどうでしょうか。正解はミル(J・S)の思想の延長線上にはなく、ベンサムのそれの延長線上にしかないでしょう。

私は、大枠において、功利主義は正しいと考えます。