習近平氏訪露が意味するもの

ーロシアの負け、はないー

先月20日、習近平支国家主席はロシアを訪問し、プーチン露大統領と会談を行いました。
その「双方のねらいと世界への影響」の分析はNHKに任せて、私の個人的な見解を述べます。

昨年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻で、西側諸国はロシアに対しては経済制裁を、ウクライナに対しては軍事・経済支援を、現在も継続して行っています。

もし西側の経済制裁が効力を発揮し、ロシアが経済的に苦境に陥り、継戦が困難になっていたなら、また、西側の軍事支援が功を奏し、ウクライナ軍がロシア軍を押し返し、占領地をますます取り戻しているようなら、習近平氏は先月ロシアを訪問したでしょうか。

する訳がありません。中共が、負けると分かったロシアを、訪問するはずがありません。
開戦後、一年が経過して、大勢の見極めがついたから、つまり、ロシアが勝つとは言えないまでも、その負けはないと踏んだから、習氏は訪露したのではないでしょうか。

読まれないブログを続けることの困難

ブログを始めてから、丸五年が経ちました。
元々、ろくに読まれない過疎ブログでしたが、最近それに拍車がかかり、無人ブログへ、限りなく近づいています。
いよいよ、世間から相手にされなくなったか、見放されたという印象です。

・書いている内容のレベルが低いためなのか、
・読んでも面白くないためなのか(それは、大いにあり得ます)、
・内容が難しくて、理解できないためなのか、
・文章が拙くて、内容が理解できないためなのか、
・私の物言いがエラソーなためなのか、
・昨年3月辺りから、ずっとウクライナ問題を論じていて、読むのにウンザリだからなのか、
・私の親露的?立場が嫌われているためなのか、
・それとも、誰かの妨害を受けているためなのか(注)、

判然としません。自分の欠点は、意外に、本人には分からないものです。
何れにせよ、リピーターは知人の二人?しかいません。

普通の人なら、もうとっくにブログを止めているでしょう。
毎日グーグル・アナリティクスを見ては、ガッカリしています。そして、書く意欲が失われることもしばしばです。
けれども、ブログを止めるつもりはありません。これが、私の生きる意味なのですから。

仕事は、私にしかできないことをしている訳ではありませんが、このブログは、私にしかできません(たぶん)。

(注)
今月15日に、グーグルはアルゴリズムのコア・アップデートを行ったらしい。
無人ブログ化はそのせいかもしれませんが、それだけではないような気もします。

雑文事始

2018年3月に当ブログを始めました。しかし、四年半経っても、相変わらず、読み人居らずの、過疎ブログです(涙)。リピーターも、殆んどいません(ごく少数の、時々読んで下さっている方ー方々と書けないところが悲しいーには、大変感謝しております)。

友人知人の二、三人から、面白くないとか、何を言っているのか分からないとか、云われました。何を言っているのか分からないという人は、私が論じている分野に全然興味がないからでしょう。一方、面白くないという人は・・・・たぶん、その評は、当たっています。

今年の3月からずっとウクライナ侵攻のことばかりを書いていて、その問題に関心のない人は、ウンザリしているでしょうし、しかも、私の論調がロシア寄り?のため、不興を買っているという面もあるだろうと思います。

元々、私がブログを始めた理由は、妄想かもしれませんが、十幾つかの小さな発見があると思われたからです。その内のおおよそ三分の一は、既に公開していますが、殆んど読まれていません。一番読まれているのは、「それでも核兵器は廃絶できない」でしょうか。

十幾つかのブログを公開するだけなら、更新が一年か二年か三年かに一度だけになってしまいます。なので、ブログを、長文と短文に分け、前者は小さな発見を、後者はもっと小さな、ミクロな発見?を、書くことにし、後者で投稿の公開の頻度を上げ、サイトが休眠していないことを示すことにしました。因みに、最後の長文は、2021年2月22日に公開した「右翼って何」です。

ブログを始めて以来、短文の公開は、原則として週に一本としていました。しかし、それは、私にはハイペース過ぎて、時にノルマを果たすためだけの文章を公開することになってしまいました。
週一原則はキツくて、やむなく今年から十日に一本原則に変えました。そうすると、ペース的にちょうど良いようにに感じられます。

けれども、十日に一本は、更新頻度として少ないですし、そのペースだと、世の中で起こっていて、しかも、書きたいと思うテーマを、見送ってしまうことになります。
最近の事例であれば、安倍晋三元総理のこと、ペロシ米下院議長の訪台のことなど。

それで、長文、短文とは別に、雑文=雑多なテーマというのを設けることにしました。短文も雑文も、週一公開というペースは無理なので、両方とも、十日に一本というペースにします。
十日に一本といっても、短文は、たとえば一日から十日まで、雑文は六日から十五日までという具合にして、執筆と公開の日をズラせば、できそうですし、そのようにすると、公開は五日に一本のペースになります。
もっとも、更新頻度を上げても、「読み人」が増えるとは限りませんが、作文の練習にはなるでしょう。

本当に実行できるかどうか分かりませんが、当面はそれでやってみようと思います。

【追記】
雑文を、「掌文」に改めます。
掌文とは短文よりも、もっと短い文章のことです。
(2022・11・24)

「男性脳は問題解決型、女性脳は共感型」と真理の探究

1.妻のトリセツ

前回公開の記事で、自称婚活中であるとカミングアウトしましたが、最近女性の気持ち、あるいは思考を理解するために、ベストセラーの黒川伊保子編著、『妻のトリセツ』(講談社+α新書)を買って、読んでみました。
結婚している男性にとっては、膝を叩きたくなる箇所が満載なのかもしれませんが、独身の私には、書かれていることが本当のことなのかどうか、どうも実感が湧きませんでした。

ただ、「『夫にひどく厳しく、子どもやペットにはべた甘い』が母性の正体であって、男たちがロマンティックに憧れる『果てしない優しさ』が母性なんかじゃないのである。(中略)男にとって結婚の継続とは、女性の母性ゆえの攻撃から、いかに身を守るかの戦略に尽きる。(中略)家庭を、のんびりくつろぐ癒しの場所だと思ったら大間違い。それは、母親の翼の下にいた時代の家庭のことだ」(5-6頁)の箇所には、ゾッとさせられました。

なるべく、婚歴はあっても子供(孫)がいない、またペットを飼っていない女性を探した方が賢明だろうなあ。参考になりました。

2.女性は問題解決ではなく、共感を求めている

今日男女の違いを、何でもジェンダー(社会的・文化的な性差)によって説明する進歩思想が、世を風靡しています。が、それは現代の迷信でしょう。何れ、反動が来るのは必至だと思います。

それはさておき、男性脳は問題解決型で、女性脳は共感型、との主張は、男女の性差が、ジェンダーよりももっと根深い所に由来することが暗示されていますし、それゆえに、この説はジェンダー派にとっては、面白くない、否定すべき言説であることでしょう。
その原因が、社会的・文化的なのか、生物学的なのかはともかく、男性は問題解決を求め、女性は共感を求めるという仮説は、どうも真実であるように思います。

昨年発売された雑誌『月刊 Hanada』2020年11月号に掲載された、「人間だもの 村西とおるの人生相談」への質問は下記のようなものでした。

「『意見はいらない!ただ聞いてろ!』と嫁が毎日のように怒鳴ります。仕事から帰宅するなり、小一時間は嫁の愚痴を聞くことに。それなのに、なんたる言い種(ぐさ)か。九割九分は『うんうん』うなずいて、一分で『反抗期だからねえ』とつぶやいて何が悪いのか。息子が反抗期で毎日つらいのはわかるが、あんたの“地”のほうがよっぽどつらいよ。『意見はいらない!』なら地蔵に向かって話せ、と思う私は甲斐性のなしの旦那でしょうか」(172頁)

「意見はいらない!」
これを読んだ同じ頃、職場にお客様の奥方が来社されました。女性同僚に娘さんとの軋轢のことを長々話し、解決策を求めていない、ただ共感が欲しいと訴えたのを横で聞いていて、印象的でした。後で、同僚に、女性はそうなん?と聞いたら、そうだと言う。
女性は問題解決よりも、共感を求める。既婚の、賢い男性にとっては自明なことなのかもしれませんが、私には初耳でした。

男性脳は問題解決型、女性脳は共感型、というのがもし本当ならば、女性の学者や物書きだって例外ではないのかもしれません。少なくとも、男性と比べて、その傾向が強いのではないか。これまでエッセイやコラムやブログを読んできた女流について改めて考えてみると、思い当たる節がない訳ではありません。
彼女たちは、真実や真理よりも、自分の文章への共感の方が優先なのかもしれません。

3.男女と真理探究

男性は問題解決を求め、女性は共感を求める。
これは、全く当たっていないのでしょうか、それとも、当たっているけれども、学問やエッセイやブログに関しては女流も問題解決を優先するのでしょうか、それとも、それは当たっていて、学問その他の分野でも、女性にとって共感が第一で、問題解決は二の次なのでしょうか。

『妻のトリセツ』の著者は真理を追究して、男性脳は問題解決型、女性脳は共感型、との結論に達したのでしょうが、著者の意図はともかく、その説は女性よりも男性の方が真理探究に適していることを、図らずも示してしまったように思います。

ポリコレ旋風によって、当分の間、学問の世界は女性学者の数が増えるでしょうが、たいていの分野で、真理の探究を担うのは、これまで同様、今後も男性の学者だろうと思います。

自分のペースで

2018年3月にブログを始めてから、3年が経ちました。

途中何度か休止しましたし、止めてしまおうと考えたこともあります。

これまで、おおよそ週に1本公開を原則にしてきました。が、自分にとってハイ・ペースなのと、殆んど読まれていないブログで、はたしてそのような義務を自己に課すことに意味があるのか疑問に感じてもいました。
熟慮した結果、週1公開原則を放棄することにしました。

これからは、自分に適した、もっと緩やかなペースで書いて行こうと思います。
月に3つ、2つ、1つ、場合によっては公開なしの月もあるかもしれません。

宜しくお願い致します。

森発言は女性蔑視か

1.森発言

東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗前会長は、2月3日日本オリンピック委員会(JOC)の臨時評議員会で、次のように述べたそうです。

「女性理事を選ぶっていうのは、4割、これは文科省がうるさくいうんですよね。
だけど、女性がたくさん入っている理事会は、理事会の会議は時間がかかります。(中略)
女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげて言われると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。(中略)女性を必ずしも数を増やしていく場合は、発言の時間をある程度、規制して促していかないとなかなか終わらないで困ると言っておられた。誰が言ってとは言いませんけど」(1)

2.批判の嵐

森氏の発言に対して、蜂の巣をつついたように、各方面から批判の声が上がりました。
女性差別だ、女性蔑視だ、「このオリンピック憲章の定める権利及び自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」と謳っている五輪憲章に反している。

森氏の「政治的またはその他の意見」つまり、彼の発言を過剰に批判することだって、「いかなる種類の差別を受けることなく」という同憲章に違反していると思うのですが。

スポンサー企業からも、批判が相次ぎましたが(2)、それらの企業は森氏を非難できるほど、日頃から女性を尊重する姿勢を示しているのでしょうか。

3.事実はどうなのか

批判が激しい割に、森氏の発言が事実かどうかを冷静に検討した上での批評は、殆んどないように思います。
第一、「女性がたくさん入っている理事会の会議は、時間がかか」るというのは、事実なのか、事実ではないのか。
第二、事実だとして、それは女性の先天的な性質によるのか、後天的な性質によるのか。言い換えるなら、原因はセックス(生物的な性差)にあるのか、ジェンダー(文化的社会的な性差)にあるのか、です。

森発言を批判する人たちは、第一の「事実ではない」か、第二の後天説=ジェンダー原因説を前提としています。しかし、私は女性の先天的な性質に起因するのではないかと疑っています。

たとえば、大江麻理子というキャスターは、2月5日テレビ東京系の番組『ワールドビジネスサテライト』で発言したそうです。

「女性の話が長いかどうかというより、本当に個人の問題だと思う。それを性の違いから結論を導き出しているところに問題がある」(3)

しかし、大江氏が言うように、「本当に個人の問題」なのでしょうか。

男性と女性には、先天的な違いがあります。
女性は子供を産めますが(トランス女性には叱られるかもしれませんが)、男性は産めません。一般的に、男性は女性よりも体が大きく、筋肉も発達していて、運動能力に優れています。一方、女性は言語能力に優れています。
男女には各々長所もあれば短所もあるでしょう。

女性のピンク好き。これは良く指摘されます。これを否定したり、その原因はジェンダーにあると考える人たちは少なくないでしょう。
しかし、私が知っている女性でピンクの車に乗っている人は複数いますし(男性はいません)、私の仕事の同僚女性はピンクが好きです。一方、先日男性のお客さんで、ある商品を決めるのに、何色が良いですかと尋ねたら、ピンク以外で、と言われました。
女性のピンク好きだって、ジェンダーではなく、セックスに起因するのかもしれません。

男性脳は問題解決型、女性脳は共感型との説があります。
「女性脳は、何よりも共感を求めている。話を聞いてくれて、共感さえしてくれればOK。男に問題解決なんか期待してはいない」(4)そうです。この説は明らかに男女には先天的な差異があることを前提としていますが、これに対して男性差別だとか、女性差別だという批判の声が出ないのはなぜでしょうか。男女には先天的な性差があることを、皆薄々認めているからではないでしょうか。
もっとも、この説だって森氏が発言していれば、問題になっていたかもしれませんが。

大抵の子供は、お父さんよりもお母さんの方が好きです。なぜでしょうか。上記の記事の別の箇所にはこうにあります。「女性がパートナーに期待しているのは、中立の評価なんかじゃない。えこ贔屓して『よしよし』してくれることなんだから」。
女性が子供に好かれるのは、男性は自分の子供でも突き放して見る傾向があるのに対して、女性は「中立の評価なんかじゃない。えこ贔屓して『よしよし』してくれる」からではないでしょうか。それも、男性と女性の長所であり、短所でしょう。

以前土木に従事する同級生が言っていました。
仕事の打ち合わせは、相手が男性であれば一度で決まるのに、女性だと二度、三度しないと決まらないので大変だと。
特に仲が良いわけではないし、数年に一度くらいしか会わない同級生の発言でしたが、彼の話に嘘はないだろうし、妙に感慨を覚えました。

仕事の打ち合わせにしろ、(理事会の)会議にしろ、女性は時間がかかるというのは、本当のことだろうと思います。そして、それは男女に生得的な違いがあるからではないでしょうか。
「女性がたくさん入っている会議は、時間がかか」るのを事実として認めている人もあります。

「上野(千鶴子)さんによると、意思決定の場で女性の数が多くなると、森会長のいうように『会議は時間がかかる』のは事実だという。それは『出来レース』にせず、議論を活発にしている証」(5)

だそうです。女性に都合良く解釈していますが、会議については、丸谷才一氏の次のような発言もあります。

「文学賞の選考会で、こんなことがよくありますね。ある作品をめぐって、まずA氏とB氏が批評する。次に指名された三番目のC氏が、前の二人と同じようなことをもう一回、繰り返してしゃべる。そんなとき、僕がC氏だったら、『AB両氏のおっしゃったことにまったく同感で、付け加えることがありません』、と言って終わっちゃうんですよ。
言葉つきはいくらか違っても、結局同じことをもう一ぺん言って時間をとる、手間をかける、そういうのはハタ迷惑なことだと僕は思ってるんです」(6)

「結局同じことをもう一ぺん言って時間をとる、手間をかける、そういうのはハタ迷惑なことだ」と考えない人たちがいるのでしょう。そしてそのような人には女性が多い、その結果が、森発言ではないでしょうか。

森氏の発言に対して、その場にいた委員会のメンバーの数人が、笑い声を上げたと言って批判する向きもありますが、笑った人たちだって思い当たる節があるからでしょう。
森氏の発言には、次のような個所もあります。

「女性を必ずしも数を増やしていく場合は、発言の時間をある程度、規制して促していかないとなかなか終わらないで困ると言っておられた」

実際に困っている人がいるのは事実なのでしょう。また、森氏曰く、

「女性理事を選ぶっていうのは、4割、これは文科省がうるさくいうんですよね」

理事会に、女性4割枠を設けると、門外漢が含まれることになるので、「ハタ迷惑」な状況が一層拡大するでしょう。

現代の人たち、とりわけ左派は、男女の性差を、何でも後天的なそれだと解釈しようとする傾向があるように思います。だから、先天的な性差に起因するかもしれない言説が否定され、そのような主張が袋叩きにされる。そういうイデオロギーが社会に蔓延している。それは、自民党の女性代議士だって例外ではありません。そのようなイデオロギーに憑かれた人たちが、森発言を批判しているのです。

森発言は事実ではない、事実であるにしても先天的な性差に起因しないと言うのなら、厳密な証明はできないにしても、何らかの論証はすべきでしょう。
それをした上で、その根拠に基づいて森発言を批判すべきです。
しかし、ろくに根拠を示さないまま、森氏を吊し上げる。近年、反知性主義という言葉が流行りましたが、そのような態度こそ、反知性主義というべきではないでしょうか。

「日本スポーツとジェンダー学会執行部」による「森喜朗・公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長の発言に関する緊急声明」にあります。

「日本スポーツとジェンダー学会執行部は、森氏のこの発言が客観的な証拠に基づかず、女性の特性を恣意的に作り上げ貶めるものであること・・・・」(7)

では、「日本スポーツとジェンダー学会執行部」の、「森氏のこの発言が客観的な証拠に基づかず」との主張は、「客観的な証拠に基づ」いているのでしょうか。基づいているのなら、その証拠を示して欲しいと思います。もしその証拠を示しえないなら、森氏の発言と五十歩百歩だと言えるでしょう。
森氏は学者ではありませんが、「日本スポーツとジェンダー学会」は、学者の集まりでしょう。それなら、なおさら証拠を明示する必要があると思います。

4.<事実>と<事実はそうあって欲しいとの願望>

「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」とは、『共産党宣言』にある文言ですが、一面では、人類の歴史は<事実>主義者と、<事実はそうあって欲しいとの願望>主義者との闘争の歴史ではないでしょうか。

ガリレオ・ガリレイの時代は、殆んどの人たちは、太陽が地球の周りを回っているのが事実であって欲しいと願いました。だから、それに異を唱えたガリレイは吊し上げられました。
そして今日、左派を中心とする多く人たちは、男女の性差の殆んどは、ジェンダー=後天的であって欲しいし、そうであるはずだと信じています。

いわゆる女性差別に反対する左派の理想とする社会は実現するでしょうか。しないでしょう。なぜならば、先天的な性差を、後天的だと見做すことによって、何れ事実から復讐されることになるだろうからです。
原因はジェンダーだと思っていたけれど、セックスだった!

先天的な性差のことごとくを否定する意見の持ち主に反省を促すには、一度オリンピックの競技の全てから男女の区別をなくし、性別を問わず、強い者、早い者が勝つようにしたらどうでしょうか。

(1)2021年2月5日付朝日新聞【要旨】
(2)https://news.yahoo.co.jp/articles/653f761efb5566679f61e27a1b925c7bd0266c43
(3)https://news.yahoo.co.jp/articles/ffed202edbdc84ee8d13806f44d5f298f78e7c52
(4)https://www.gentosha.jp/article/14739/
(5)https://dot.asahi.com/dot/2021020400085.html
(6)丸谷才一著、『思考のレッスン』、文春文庫、11頁
(7)https://jssgs.org/archives/3363

三つの流行病(はやりやまい)

現在三つの流行病(はやりやまい)が世を席捲しています。

一つは言わずと知れたコロナですが、後の二つは、

政治的左派のリベラル真理教(差別主義者や暴動を煽る大統領に、言論や表現の自由はない!)

と、

政治的右派の陰謀論(トランプ大統領はディープ・ステートを一網打尽にするため、軍を動員するはずだった!)

です。

皆さん、感染に注意しませう。

祝 バイデン氏当選

11月3日の投票の結果、トランプ氏を破って、バイデン氏が第46代アメリカ大統領に就任することが決まりました。

日本では、2009年9月から「悪夢のような民主党政権」が始まりましたが、アメリカでは、来年1月から、悪夢のような民主党政権が始まるでしょう。

わが国では、民主党に対する積極的な支持というよりも、反自民の情念によって同政権が生まれましたが、米国ではバイデン氏に対する積極的な支持というよりも、反トランプの情念によって同政権が生まれました。反〇〇の感情によって生まれた政治は、危ういと思います。

日本の民主党政権を主導したのはルーピーでしたが、かの国ではチホーのようです。

わが国では鳩菅と続きましたが、バイデン氏が高齢なため、もし任期中に死亡するようなことがあれば、カマラ・ハリス氏が大統領になります。彼女は国内のゴタゴタを抑え、まとめることができるでしょうか。
また、彼女を極左と評する向きもあり、危惧されます。

トランプ時代は共和党と民主党の、右派と左派の外ゲバの時代でしたが、民主党は支持基盤が多様なので、内ゲバの時代になりそうです。

来年からの散々な民主党政権の後は、長期的な共和党政権の時代が期待できます。
次の米大統領は、現副大統領のペンス氏でしょうか。

めでたし、めでたし。

肝腎な数字を見ない人たち

1.武漢ウィルス

対ウィルス戦争の下、記者が、「危機的な状況下でリーダーはどうあるべきなのか」を、東京工業大学教授中島岳志氏に問うている記事が、5月20日付朝日新聞に掲載されました。そこで、中島氏は答えています。

「今回目立ったリーダーに共通するのは『弱さ』。ドイツのメルケル首相と米ニューヨーク州のクオモ知事です。メルケル氏がなぜあんなに共感を得たかというと、『私も心配。私も弱い』という視点から連帯を訴えたからです。演説でも、感染者や死者の数字について『これは数字じゃない。具体的なお父さんであり、お母さんであり、おじいちゃんの話である』と語る。クオモ氏も同様です。自分たちの痛みと同じところに立っていると思える、弱さが見えるリーダーが共感されているのです」

言うまでもありませんが、「共感されている」ことと、ウィルス対策が成功していることとは別です。
私たちは、「共感されている」リーダーよりも、成功しているリーダーこそを賞賛すべきです。そして、成功しているリーダーとは、人口比で死者数をより少なく抑えている政治家のことです。
中島氏はメルケル首相とクオモ知事を挙げていますが、彼らは賞賛に値するでしょうか。

6月20日の時点での数字ですが、ドイツの総人口8300万人に対して、同国の死者数は8960人で、百万人当たりの死者数は107人です。そして、ニューヨーク州は人口1950万人に対して、死者数は24661人で、百万人当たりの死者数は1264人です。
一方、日本は人口1億2650万人に対して、死者数は935人で、百万人当たりの死者数は7人です(1)(2)。
ドイツやニューヨーク州と比べて、わが国の死者数はずっと少ない。
とするなら、私たちが賞賛すべきは、クオモ氏やメルケル氏ではなく、安倍首相でしょう。

「具体的なお父さんであり、お母さんであり、おじいちゃんの話である」とメルケル氏は演説したそうですが、そうであるからこそ、国家レベルでの、死者の数字が肝要なのです。
そして、死者数の多い国・地方は、少ない国・地方のやり方を見習う、もしくは参考にすべきなのです。その逆ではありません。

クオモ氏やメルケル氏を賞賛するのであれば、安倍氏がニューヨーク州の知事やドイツの首相だったら、もっと死者が多かっただろうことを、あるいはクオモ氏やメルケル氏が日本の首相だったらもっと死者が少なかっただろうことを論証すべきです。しかし、中島氏はそれをしていません。主張の証明となる根拠が全く示されていません。

中島氏は判断を誤っていると思います。そして、氏を初め、ある種の人たちはなぜ判断を誤るのでしょうか。死者数という肝腎な数字を無視して、問題を論じているからでしょう。
では、なぜ肝腎な数字を見ないのでしょうか。
このように見なければならないとの教条のようなものがあって、それを通してしか眺めることができないからだと思います。
左派学者の「世間」には反安倍イデオロギーという教条が蔓延していて、氏もその影響下にあるからではないでしょうか。

2.冷戦時代

冷戦時代には、日本の主流派メディアにしろ、知識人世界にしろ、社会・共産主義=善、自由・資本主義=悪が当然のこととされていました。
今月五日横田めぐみさんの父親滋さんは亡くなられましたが、北朝鮮が拉致などするはずがないと言っていた人たちも、社会・共産主義=善という信仰の中にあった人たちです。

ドイツのベルリンでは、人々は東から西へ亡命しているのに、隣の朝鮮半島やベトナムでは人々は北から南へ逃げているのに、左派メディアや知識人は社会・共産主義体制は、自由・資本主義体制よりも優れていると信じていましたし、そのような報道や言論を行っていました。
彼らは、人々は東から西へ、北から南へ逃れているという肝腎な数字を見ませんでした。

3.大東亜戦争

私は、大東亜戦争は連合国=善、日本=悪という見方には与しません。連合国にしろ日本にしろ、自国の権益のために戦って、前者が強かったから勝ち、後者は弱かったから負けたにすぎないと考えます。

しかし一方、当時のわが国の指導者に対しては不思議に思わざるをえません。
どうして彼らは、日米の軍事力や経済力の差にも拘らず、戦争を開始したのでしょうか。彼らも、肝腎な数字を見ない人たちだったのでしょうか。

そうかもしれませんし、あるいは国内において、ある種の問題あるいはゴタゴタがあって、それが彼らの目を塞いで、肝腎な数字どころではなかったのかもしれません。

(1)https://www.worldometers.info/coronavirus/
(2)https://news.yahoo.co.jp/byline/abekasumi/20200620-00184177/

原因が分からなくても勝ちは勝ち 対ウィルス戦争

1.サンデー・ジャポン

4月26日のテレビ番組「サンデー・ジャポン」で、元衆議院議員の杉村太蔵氏が、この度の武漢ウイルスに関して、死者の数が少ないのを根拠に、「日本は圧倒的に勝(まさ)っている」と主張したのに対し、元経産省官僚の岸博幸氏は「全体を考えると死亡者だけじゃなくて感染者数の増加を抑えられているかどうかとか、いろんな要因を考える必要がありますので(中略)死亡者数が少ない本当の原因が分からない中では、日本が勝っているというのは正直言って訳が分かんない」と反論したそうです(1)(2)。

「死亡者数が少ない本当の原因が分からな」ければ、「勝っている」ことにはならないのでしょうか。私には岸氏の主張の方が「訳が分かんない」。

2.勝敗の結果と原因

大東亜戦争で日本がアメリカに敗れた「本当の原因」は何だったのでしょうか。それは分かっているのでしょうか。あるいは、ベトナム戦争でアメリカが北(共産)ベトナムに敗れた原因は何だったのでしょうか。それは分かっているのでしょうか。
それらに関しては、今もって論者あるいは識者によって解釈の違いがあるでしょう。

しかし、大東亜戦争で日本が、ベトナム戦争でアメリカが敗北したのは明らかです。敗北の根本因が説明できないからと言って、前者で日本が、後者でアメリカが負けていないことにはなりません。

戦争は、負けた原因が分からないからと言って、負けていないことにはなりませんし、勝った原因が明確ではないからと言って、勝っていないことにはなりません。

3.原因・条件が不明でも勝ちは勝ち

この点、対ウィルス戦争でも同じです。
この戦争の勝敗の指標は死者数です。そして、死者が多い国は負けている国であり、少ない国は勝っている国です。他国と比較して、人口比で日本の死者数は少ないのです(3)。

日本の死者数が少ない理由については、衛生観念が高いとか、靴を脱いで家に上がるとかの要因が指摘されますが、死者が少ない原因、あるいはどのような条件が幸いしてわが国の死者が少ないのかが明確ではないからといって、この戦争に勝っていないことにはなりません。勝ちは勝ちです。

大東亜戦争で、日本が敗れた原因が明らかではないとか、わが国のある種の文化的な諸条件が不利だった、あるいは災いしたからということで、戦争指導者の情状を酌量するような言説を見たことがありますか?殆どが、負けは負けと斬り捨てるような議論ばかりでしょう。

4.なぜ難癖をつけるのか

人口比で日本の死者数が少ないのは明らかなのに、安倍首相を過剰に批判する人たちは、結局のところ、対ウィルス戦争における政府・専門家会議の功績を、認めたくないのだと思います。

安倍氏を批判する、とりわけ、政治家や元政治家、官僚たちには、次の評言があてはまるでしょう。
「功績に対する態度は二とおりある。自分がなにがしかの功績をもつか、あるいはどういう功績も認めないか、どちらかなのだ。あとのほうがずっと楽だから、たいがいこの態度がえらばれる」(4)

(1)https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200426-04260037-sph-soci
(2)https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/04/26/kiji/20200426s00041000142000c.html
(3)https://www.worldometers.info/coronavirus/
(4)A・ショーペンハウアー著、秋山英夫訳、『随感録』、白水社、21頁

【追記】
5月6日付朝日新聞に、「対コロナ 『戦争』の例えは適切か」と題する社説が掲載されました。
武漢ウイルスの対処について、朝日は戦争に例えるのは適切ではないと言いたいらしい。
同紙が「適切ではない」と言えば言うほどますます戦争に例えたくなります(笑)。