なぜ日本人慰安婦は問題にならないのか

1.慰安婦は朝鮮人よりも日本人の方が多かった

身近な人と喋っていて、たまたま話題が慰安婦に及んだ時、私が慰安婦は朝鮮人よりも日本人(1)の方が多かったと言ったら、相手は驚いていました。日本人よりも朝鮮人の方が多いと思っていたらしい。それを聞いて、私の方が驚きました。

身近な人は、テレビと新聞しか見ない、いわゆる情報弱者です。それで分かるのは、テレビや新聞がいかに正確な、あるいは肝腎な情報を伝えていないかということです。

2.なぜ日本人慰安婦は問題にならないのか

慰安婦は、朝鮮人よりも日本人の方が多かった(2)。それなのに、なぜ慰安婦で問題になるのは朝鮮人ばかりなのでしょうか。なぜ日本人は問題にならないのでしょうか。
慰安婦は女性の人権の問題である、のたぐいの言説がありますが、それが女性の人権の問題なら、なぜ日本人慰安婦のそれは無視されるのでしょうか。

朝鮮で、日本の軍人が慰安婦狩りを行い、朝鮮人女性を強制的に連れ去り、慰安婦にしたとの説は、嘘だというのが明らかになりました。
当時朝鮮は日本に併合されていたので、朝鮮人は日本人でした。本人か親が業者の募集に応じ、慰安婦になりました。その点、日本人も朝鮮人も同じです。つまり、彼女たちが慰安婦になったのは、強制ではなく任意でした。

それなのに、どうして朝鮮人慰安婦(の人権)のみが問題になり、日本人慰安婦は話題にもならないのでしょうか。
日本が朝鮮を併合していたから、慰安婦も朝鮮人は被害者で、日本人は加害者との論理なのでしょうか。
当時の朝鮮にはわずかながらも男娼がいて、仕事か旅行で現地を訪れた日本人男性が彼を買ったような事例もあったかもしれません。その論理に従うなら、その場合も、朝鮮人男娼は被害者であり、日本人男性は加害者ということになるでしょう。それなら、踏みにじられたはずの朝鮮人男娼の人権も、問題にすべきではありませんか?

3.真理に抗う人たち

第一、慰安婦は朝鮮人よりも日本人の方が、数が多かったということを知ること。
第二、多かった日本人慰安婦がなぜ問題にならないのかを疑問に思うこと。
この二つによって、慰安婦問題がフェイク・プロブレム=偽問題であることが分かります。

真理に抗う人たちは、この二点を隠しています。徐々にであれ、時が経つにつれて、慰安婦問題の嘘は覆るだろうと思います。
朝鮮人慰安婦しか問題にしない左派は、何れ沈む運命にある泥舟に乗っているようなものです。左派メディアの社員たちは、その時は自分は退職しているか、死んでいると割り切っているのでしょうか。

(1)当時朝鮮は日本に併合されており、朝鮮人も日本人だったので、専門的に慰安婦を論じた書物では、両者を区別するために、日本人を「内地人」と記述しています。
(2)秦郁彦著、『慰安婦と戦場の性』、新潮選書

立派な朝鮮人売春婦・立派でない朝鮮人売春婦

戦前日本の植民地下の朝鮮で、同じ朝鮮人男性に身を任せても、日本人その他には身を任せないのを貫いた娼婦がいたとしたら、彼女は立派な売春婦です。

一方、金のためなら、朝鮮人であろうが日本人であろうが支那人であろうが満州人であろうが、枕を交わしたのは、立派ではない売春婦です。

売春婦になったぐらいだから、経済的に困窮していて、職業あるいは人生の自主的な選択などできなかったのかもしれません。しかし、中には、荒稼ぎできるから、「相手は誰でも構わない」を選んだ女性も少なくなかったでしょう。そして、日本軍の慰安婦になった人たちは、そのような人たちでしょう。

1991年8月14日、金学順さんが慰安婦であったことを明らかにした日を記念して、韓国では日本軍慰安婦をたたえる日が制定され、一昨年施行されました。
けれども、たたえられるべきは、たとえ売春婦であったとしても、朝鮮人男性にしか身を任せなかった女性たちではないのでしょうか。

金のためなら、誰であろうと身を売った人たちは、「たたえ」られるに相応しいでしょうか。
それとも、当時の朝鮮には志操ある娼婦など全くいなかったのでしょうか。

【追記】
私は、慰安婦問題の被害者は日本国および日本国民だと考えるので、「日本軍慰安婦被害者をたたえる日」の、「被害者」の語は、敢えて省きました。

左翼にとって法の原則と真理とは

(下記は、よもぎねこさんのブログ記事、「女性はいくらでも嘘をつけますから 性暴力」への、一回目と二回目のコメントです。)

【一回目】(9月30日)
普通の民主的で、人権の保障された社会では、疑わしきは被告人に有利に、あるいは無罪推定が原則なのですが、左翼は自分たちが敵だと見做す人物、嫌悪する事柄、イデオロギー的に相反する立場に対しては、たとえば安倍前首相のモリ・カケ・サクラ、戦前日本の南京事件や慰安婦問題、弱者(女性)救済イデオロギーに都合の良い伊藤詩織事件などに対しては、途端に有罪推定を適用するんですね。

左派(の主張)には無罪推定。
右派には有罪推定。
が、彼らのモットーでしょうか。

【二回目】(10月4日)
「あること」と「あるべきこと」、事実と価値、存在と当為を区別するのは、今日常識でしょう。

ところが、マルクス主義者はその区別を、ブルジョア的分裂思考と言って否定してきました。
マルクス主義者にとって、真理とは共産主義社会の実現に資する事実のみが真実であって、それに反する事実は真理ではありません。

左翼の目標は社会・共産主義社会の実現から、いわゆる弱者(女性、在日、黒人、LGBT他)に対する差別なき社会の実現に移行したようです。

けれども、目標は変わっても、左翼の真理観は変わっていません。弱者救済に役立つ事実のみが真実であり、そうでない事実は彼らにとって真実ではありません。
左翼にとって真理は、政治の手段であり、下僕にすぎません。

真理だけではありません。よもさんが言うところの、疑わしきは被告人の有利にや証拠主義などの法の原則も、自分たちのイデオロギーに資するものだけか、それに役立つ場合に限り尊重して、そうでない場合は尊重しません。

真理や法の原則に関するそのような思考や行動は異様なのだ、ということを少しも疑問に思わないし、それを指摘しても聞く耳を持ちません。

目の両側を遮蔽され、正面に人参をぶら下げられた馬のように、左翼はイデオロギーという人参しか見えなくなっているのかもしれません。

覇権国の論理

18、19世紀の世界における覇権国イギリスと20、21世紀の覇権国アメリカの行動原則は、<自国の覇権を脅かすもの、自国に取って代わろうとするものは潰せ>、ではないでしょうか。

イギリスは英蘭戦争でオランダを潰し、覇権を維持しました。
アメリカも、第二次世界大戦で独日を潰し、冷戦でソ連を潰し、冷戦後は経済的に脅威となった日本を潰し、そして今、中共を標的にしているのだと思います。

このように言うと、イギリスもアメリカもあくどい国のような印象を受けますが、必ずしもそうではありません。米英のような覇権国が、自由で民主的な体制の国であったのは幸いでした。
もっとも今後の世界で、自由や民主主義、人権や法の支配を保障しない国は、一時的に覇者になったとしても、各国から異議申し立てや反抗が起こり、長期的に覇権を維持するのは困難でしょう(だから、中共は長期的な覇権国にはなりえません)。

自国に取って代わろうとするものは許さない、という覇権国の原則の是非はともかく、というよりも、その是非を論じるのは無意味なので、事実は事実として認め、その時々の置かれた状況により、日本は自国の舵取りを考えれば良いのだと思います。
すなわち、現在はアメリカ側について、独裁主義国家中共の覇権国化を阻止すべきでしょう。

百年後か二百年後、アメリカがBLMやANTIFAのような極左に乗っ取られ、自由や人権等がない国になる一方、支那が共産党一党独裁の体制を脱し、自由で民主的な国になり、そのような米支が世界の覇権を争うことになったなら、その時は支那と同盟を結び、アメリカを潰すことを考えれば良いのだと思います。

【追記】
独裁主義国が長期的に覇権を保持するのは無理だとしても、一時的に覇権を握る可能性はあります。そして、それは国際社会の災厄です(10月9日)

戦後平和主義への痛撃

福田恒存氏は戦後十年目の昭和三十年、雑誌『文藝春秋』6月号に「戦争と平和と」と題する論文を寄せています。
世がいわゆる戦後平和主義の潮流にある中で、そして戦後七十五年経った今でも、そこに浸り続けている中で、福田氏はその風潮とは無縁でした。それは、以下の言説で明らかです。
ところどころ引用しましょう(『平和の理念』、新潮社、昭和四十年より)。

・「私が自分の人間觀、文化觀にもとづいて、戰爭と平和とをどう考へてゐるか、まづそのことを書いてみませう。
私はこの人間社會から戰争は永遠になくならないと信じてをります。ある雜誌のインターヴューで、さう答へましたら、あまりにショッキングであり、反動的だといふ理由で沒になりました。文字どほり、私は理解に苦しむ。私に關するかぎり、すでに言論の自由がおびやかされてゐるやうです」(75頁)

(笑)。
戦後平和主義に取り付かれた人たちは、このような主張を見るだけで、表情が強張ってしまうのでしょう。

・「進歩主義の歴史觀からいへば、シーザーだのアレクサンダーなどといふ英雄は、民衆の命など藁しべほどにもおもつてゐない、支配者は自分の野心のため、平氣で民衆を犧牲にするといふことになつてゐるらしい。そんなばかな話はないので、かれらも、またかれらに支配されてゐた民衆も、戰爭と平和との相關關係をよく呑みこんでゐたでせうし、平和の贈物を實らせるために戰爭をしたり、戰爭をしなかつたりしてきたのです」(76頁) 

わが国の、天下統一を目指した過去の武将たちだって、泰平の世を実現するために戦争をしたのでしょう。
反権力を掲げる左派メディアや文化人たちは、「進歩主義的歴史觀」に囚われているから、安倍晋三前首相のように、戦後平和主義という迷信の埒外にある政治家に対して、病的なまでに嫌悪し、批判的な言辞を弄するのだと思います。

・「原水爆であらうと惡魔であらうと、生まれてしまつたら、もうどうにもならないのです。あと私たち人間のできることは、さらにそれをおさへる強力なものの發明あるのみです」(78-79頁)

これも、戦後平和主義者あるいは核兵器廃絶論者には認めがたい主張でしょう。でも、認めがたかろうが、真実は真実です。

・「力の政治は力によつてしかおさへられません」(79頁)

有史以来、国際社会で繰り広げられているのは、「力の政治」です。話し合いによる平和とか外交による平和とかは、補助的な役割しか担っていません。主従を見誤っているのが、戦後平和主義者の特徴です。

・「ここ十年の平和を顧みて、じつさいそれが維持できたのは、ソ聯のためとも、平和論のためともいへない、アメリカの力もその大きな役割をなしてゐることは否めません。ソ聯とアメリカの武力が、原水爆が、平和を維持してきたのです」(85頁)

ここ七十五年の、日本の平和を顧みて、実際にそれが維持できたのは、憲法のためとも、戦後平和主義のためとも言えません。中共公船の尖閣侵入をみても明らかですが、自衛隊とアメリカの武力が平和を維持してきたのです。

・「戰争はかならず起るといふのは、過去に示された人間性の現實を見て、さう判斷するだけのことです」(87頁)

進歩主義者=左翼は、とにかく「過去に示された人間性」を、あるいは自分の内心を見ない人たちです。

・「私は元來、日本人を平和的な國民だとおもひます。(中略)たしかに日本人は神經が細かくて、我と我との摩擦をきらふのです。が、それが戰爭をきらふ氣もちにはならない。逆説めきますが、それがかへつて人々を戰爭に驅りやるのです。かう考へられないでせうか。一家の仲間うちの爭ひを嫌ふ日本人は、仲間そとにたいして、その逆に出る。仲間うちと仲間そとを極端にわけて考へるのは、封建制の名ごりといへさうですが、そればかりではなく仲間うちの、すなはち、國内のごたごたにたへられなくて、その結果、外に向ふといふこともありえませう」(92頁)

戦前日本は、経済力においても、軍事力においても、アメリカと比較して格段の差があったのに、なぜ無謀な戦いを挑んだのでしょうか。
東条英機氏以下の指導層は、カルトの信者でもなく、鳩山由紀夫氏のようなルーピーでもなかったはずです。陸軍と海軍の葛藤のような、「国内のごたごたにたへられなくて」、対米戦に突き進んだのではないでしょうか。

安倍前首相の靖国参拝に思う

当ブログには、唯一「よもぎねこです♪」をリンクに付けています。
よもぎねこさんの8月29日公開の記事「安倍総理辞任について 個人的感想」のコメント欄に、30日次のような短文を送りました。

「辞任後、一代議士となった安倍さんには、靖国神社の参拝を期待したいですね」

安倍晋三首相の任期は、正式には9月16日まででした。
そして、その三日後の19日、安倍前首相は靖国神社に参拝されました。
英霊に、首相を退任したことを報告したのだそうです。

わずか三日後の参拝ということで、安倍氏の信条と心情が理解できます。
2013年12月に一度参拝しましたが、韓支とアメリカの圧力によって、それ以降できず仕舞いでした。
任期中に随時参拝できなかったことは、さぞや悔しかったことでしょう。

8月2日公開の「なぜ私は宗教を信じないか」で述べましたが、私は無神論者です。
初詣は当然のこと、一年に一度も参詣しません。また、車のルームミラーにお守りを下げたり、車体に〇〇神社の安全祈願のシールを貼ったりもしません。

けれども、私的な信条と公的な立場とは別です。
キリスト教徒の政治家も首相になったらそうすべきであるように、もし私が首相になったとしても、靖国神社への参拝を目指すでしょう。

朝日新聞と忖度

安倍晋三首相は、8月28日夕方辞任を表明しました。翌29日朝日新聞の素粒子欄は下記の通りです。

「いかにも首相らしい。『痛恨の極み』『断腸の思い』は拉致、領土、改憲で結果を残せない現実への心情だった。
×  ×
少子化を打開できず、待機児童ゼロも介護離職ゼロも、物価上昇率2%も掛け声倒れの政策面は多くを語らない。
×  ×
ましてや、『森友・加計・桜』での説明忌避や、忖度をはびこらせた政治責任など、知らん顔して退陣してゆく。」

朝日新聞の読者投稿欄などは、同紙編集部への忖度競争の勝利者の投書が掲載されているわけですし、紙面に登場する学者や文化人たちも、新聞社の論調を忖度しているから採用されているわけでしょう。
首相にしろ、左翼新聞にしろ、忖度する人は沢山います。もしある人物がそのどちらかに忖度をして、非合法な行為をした場合、罪を問われるべきは、忖度した人物であって、忖度された側ではありません。
朝日は、「忖度をはびこらせた」報道や言論を散々やっている癖に、「知らん顔して」良く言うなあ。同紙も早く社会から「退陣して」欲しいと思います。

「『森友・加計・桜』での説明忌避」と言いますが、刑事訴訟では、検察官が挙証責任を負担しますが、森友以下に関しては、誰が立証責任を負うべきなのでしょうか。
それらについては、白であることを説明する責任が首相の側にあるのではなく、黒であることを証明する責任が左派メディアの側にあります。そしてメディアが、首相が黒であることを証明できなければ、白だと判定して当然です。
証明忌避を行っているのは、メディアの側です。 

「拉致、領土、改憲」も、少子化も、「待機児童ゼロも介護離職ゼロも、物価上昇率2%も」、安倍氏以外の誰かが首相を務めていたら実行できていたでしょうか。できていないでしょう。
それらについて、右派の首相だったから批判をして、左派だったら口を噤むというようなダブル・スタンダードな報道や言論を行うから、右派と左派の分極化が進むのです。

燕雀がつまらない批判をするから、鴻鵠の持病が悪化するんですね。
政界は、「そして誰もいなくなった」状態ですから、安倍さん以降は、日替定食ならぬ年替総理の時代が到来するのは必至でしょう。左派メディアは、自分たちが日本をそのような年替総理の時代に追いやったのだということを、認識しているのでしょうか。言っても無駄ですが、少しは反省して欲しいと思います。

安倍総理、長い間お疲れさまでした。

反省・謝罪と左翼

歴史認識に関する左翼の紋切型に、次のようなものがあります。

かつて西洋先進国はアジア・アフリカその他を侵略し、植民地支配を行ったけれども、それを謝らない。だからと言って、戦前日本がアジア、とりわけ韓国に対して行った植民地支配を謝らなくて良いということにはならない。たとえ西洋諸国が謝罪しなくても、日本はちゃんと謝罪すべきである

というのです。
一見もっともな主張ですが、ではそう言うご当人は、自己の過失について、相手に対してちゃんと謝っているのでしょうか?

冷戦時代、資本主義は何れ社会主義に取って代わられると多くの人たちが信じていました。その時代、社会・共産主義者は、未来は自分たちに味方していると、意気揚々でした。
彼らは、社会主義の旗を振り、いまだその旗の下に集まらない者、それを支持しない者に対し、社会主義体制の優位や必然性を説き、あるいは組織に誘い、組織を抜けたいと言えば、脅しまたは爪はじきにしました。
一方、社会・共産主義の反対者に対しては、右翼、反動、資本主義の走狗(手先)のレッテルを貼り、彼らの言論を左傾化した主流派メディアから閉め出しました。

しかし、その後社会主義の盟主ソ連は解体し、中共や北朝鮮の政治的・経済的行き詰まりも明らかになり、そして、冷戦は終了しました。

今日、冷戦の終結から三十年経ちましたが、冷戦時代社会・共産主義者だった人で、冷戦後その過ちを表明した人が何人いるでしょうか。社会主義に同調しないが故に他者を批判、心理的に傷つけ、あるいはたとえば、学生運動などで、機動隊員に石を投げ、彼らを身体的に傷つけた人たちのうち、誰がそれを謝罪したでしょうか。

西洋諸国がアジア・アフリカを侵略したことを謝らないからといって、日本がアジアに対する侵略を謝らなくても良いことにはならないという左翼の主張が正しいのなら、他の社会・共産主義者だった人たちが、冷戦後反省を表明しないからと言って、あなたが!謝らなくても良いということにはならないということになりませんか?

歴史問題で、政府や右派が反省や謝罪をしないと非難するよりも、自らがまず冷戦時代におかした過ちを反省し、謝罪の手本を示したら良いと思います。

ところが、左翼は殆んど誰も、反省も謝罪もしません。なぜでしょうか。
<他人の過失を責めるは易し、自分の過失を認めるは難し>だからです。
戦前日本の「侵略」は、左翼=反日派にとって他人事です。だから、容易に謝罪の要求ができるし、その態度が居丈高になるのです。一方、自分の過失は、自身のことだから反省も謝罪もできないのです。

ある左翼が個人的な問題で過失をおかしたとしましょう。彼は素直に、反省の姿勢を示すでしょうか。示さないでしょう。
なぜちゃんと反省や謝罪をしないのかと詰ったら、彼は何と言うでしょうか。
たぶん、次のように言うでしょう。
「お前(皆)だって、同じようなことをやっているじゃないか」

植民地支配は当時の主な先進国がやっていたことです。それはいわば、当時のグローバル・スタンダードでした。そのような行為を、私たちが現在の価値観で道徳的に断罪するのは無意味です。
そんな無意味なことをする暇があるのなら、現在進行形で行われていて、しかも今日の価値観から見ても不当な侵略を非難すべきです。

中共が行っているチベットやウイグルに対する植民地支配、東シナ海や南シナ海での侵略、台湾に対する威嚇、それらに対し、抗議をすべきです。
ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、1985年の演説で述べました。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」
しかし、現実は逆です。現在の不正に気がつく者だって、過去の不正に気がつくとは限りません。が、現在の不正に気がつかない者が、過去の不正にだけは気がつくということなどありえません。
だから、むしろこう言うべきでしょう。
「現在に目を閉ざす者は、過去を語る(批判する)資格がない」

左翼は、戦前の先人たちの行為を云々するよりも、まず自分自身の過失を問題にすべきです。第一、冷戦時代に自分がおかした罪と、第二、現在の中共の侵略等を見て見ぬふりをしている罪とです。
戦前日本の過失を論うのはそれからにすべきです。

私自身は、戦前のわが国の行為を反省や謝罪するのは無意味だと思いますが、一歩譲って、西洋諸国が謝罪しなくても、日本は謝罪する必要があるとしましょう。
それなら、今後左翼が手本を見せてくれるであろう、二つの過失に対する見事な謝罪っぷりを見せて貰ってから、それを参考に戦前の行為の反省や謝罪を考えたら良いと思います。

もし、左翼が反省も謝罪もしなかったなら?
戦前の日本の行為に対して、反省も謝罪もする必要がないことを、彼らが身をもって示してくれたと解釈すれば良いのだと思います(笑)。

【追記】
左翼とは、20世紀の左翼=社会・共産主義者と21世紀の左翼=リベラルのことです。

差別と左翼

また、「差別意識はなくならない」から引用します。

「差別という観点から考えると、左派にとって人間は二種類に分けられます。差別する人としない人です。
差別する人としない人の二種類の人間がいると考える左派は、右派や大衆=差別をする人、自分たち=差別をしない人だと考えます。そして、前者が意識を変えれば、社会から差別がなくなると信じています。(中略)
左派の人たちは、自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます」

左翼は、「自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます」。だから、社会で差別が問題になった時の、それを批判する時の物言いが物凄くエラソーなのです。以前存在した「レイシストをしばき隊」などその典型でしょう。差別やヘイト(スピーチ)を糾弾する時の、彼らの表情を見てください。自分だけが正義を体現していると思っている!
最近のブラックライブズマターに関する一部の人たちの(たとえば、西崎文子同志社大学教授や荒このみ東京外大名誉教授の)発言を見ていると、やはり同様の印象を受けます。彼らはBLMの暴力的行動を見て見ぬふりをしているか、その暴力的行動をも造反有理として許容しているように見えます。

差別などしないし、差別意識もない人はいるでしょうか。
そんな人間などはいません。
だから、次のように書きました。

「差別という観点から考えると、右派の私も、人間は二種類に分けられると思います。自分に差別意識があるのを自覚している人と、その自覚のない人です」

左翼は、差別をしない人、ではなく、差別意識があるのを自覚しない人です。要するに、自分のやっている差別に鈍感なだけです。彼らだって、差別意識はありますし、時に差別を行います。だから、彼らを観察していると、いつかしっぽを出します。

左翼は、自分の行う差別には鈍感ですが、他人の行う差別には敏感なので、そのうち仲間の中に差別主義者を発見します。そして、お互いに非難合戦を始めます。もっぱら、急進左派が、穏健左派の言動を槍玉に挙げるようになります。
共産主義的左翼が、お互いの中に反革命的言動を見つけては、相手を告発、そして粛清をしたのと同じです。

左翼の追及の激しさとその風潮に圧されて、一般社会では、人々は他人の罪の告発と自らの潔白証明で、精神を消耗して行くでしょう。
そして、左翼のそのような差別摘発運動によって、息が詰まる社会が生まれます。

左翼は根本的に考え違いをしているのです。
皆誰にでも差別意識はありますし、それは左翼だって例外ではありません。彼らはそれを認めるべきなのです。そうすれば、他人の行為のうちに差別を発見した時も、自分のこととして考え、あるいは相手に対してもう少しやんわりと窘めるような言い方をするようになるでしょう。

福田恒存氏は書いています。

「近頃は、正義の主張者がことごとく原告を氣取るので困る。やはり自分の奉じてゐる眞理だけは迷信ではないと考へてゐるからだ。それなら、もつとよく考へる訓練をすれば、正義の主張もうしろめたいことだと感じるやうになり、被告席からそれをするやうになるだらう」(注)

皆無実ではないのだから、差別を批判する、あるいはその改善を求める主張は、福田氏が言うように、原告席からではなく、被告席からなすべきです。

そうすれば、他人を吊し上げる必要のない、息の詰まらない社会が実現できるはずです。

(注)福田恒存著、『福田恒存全集 第五巻』、文藝春秋、444頁 

ご先祖様を利用することなかれ

8月13日付朝日新聞「声」欄に、下記の投稿が掲載されました。

核禁条約の批准 被爆国日本こそ

地方公務員 H・M (千葉県 44)

「今年も広島、長崎の「原爆の日」を迎えた。日本の被爆から既に75年を経たが、いまだに核兵器が核兵器がなくなる気配は全くない。それどころか世界は、核兵器を保有する一部の国によって寡頭支配されている。
唯一の戦争被爆国である我々は、核兵器自体を禁止する条約を忘れていないだろうか。核兵器の製造や保有などを禁じる「核兵器禁止条約」。国連で3年前、122カ国の賛成で採択された。50カ国の批准という発効要件を満たすのは目前である。
この条約に日本の政権が調印しなかったのはもちろん残念だが、調印運動を盛り上げなかったメディアにも失望した。新型コロナでの自粛要請時のように、強調した報道を見せれば、日本も参加していたのではないかとさえ思う。
日本は戦争被爆国でありながら、核兵器を禁止する条約に参加していない。しかも冷戦後もなお、日本に原爆を落とした世界有数の核兵器保有国と、軍事的要素が強い日米安全保障条約を結び続け、「核の傘」に依存していると見える。
お盆に入り、戦争で亡くなった方の霊も戻ってくる。私たちは、ご先祖様に顔向けができるだろうか」

この人には、戦前のご先祖様は、現在の私たちとは全く異なるパラダイムの中にあったであろうという想像力が欠如しています。

ご先祖様は、戦争に勝って欲しかったのです。
アメリカよりも先に、日本が核兵器の開発に成功していたら良かったのに、と残念に思っていることでしょう。
そして、核兵器によって戦争に勝利していたら、今頃はきっと核兵器禁止条約に参加しろとは言わなかったはずです(笑)。

【追記】
お前の意見だって、ご先祖様の利用ではないかと言われたら、否定できませんが。