ジャーナリズムとその敵

1.今年のノーベル平和賞

今年のノーベル平和賞は、フィリピンのマリア・レッサ氏とロシアのドミトリー・ムラトフ氏に授与されました。
前者は、インターネットメディア「ラップラー」の代表かつジャーナリストであり、後者は独立系新聞の編集長です。両者とも、独立系のジャーナリストであるらしい。
因みに、独立系とは、「政府、特定の企業や団体の後ろ盾を持たないジャーナリズム」のことだそうです。

「自由で独立し、事実に基づいたジャーナリズムは、権力の乱用と戦争への扇動から人々を守ることができる」「2人は、民主主義と恒久的な平和の前提となる、表現の自由を守るために、勇気を出して闘っている。民主主義と報道の自由が、逆境に直面する世界で、理想の実現のために立ち上がるすべてのジャーナリズムの代表だ」(「ノーベル平和賞にフィリピンとロシアの政権批判の報道関係者」)

選考委員会のベーリット・ライスアンネシェン委員長は、授与理由の中で、そのように述べたそうです。

2.もっと酷い国がある

受賞した二人の国籍は、フィリピンとロシアですが、当然疑問に思う人もあるでしょう。表現や報道の自由に関して、フィリピンやロシアよりももっと酷い国があるのではないか。

世界報道自由度ランキング」によれば、フィリピンは138位、ロシアは150位です。最下位は180位のエリトリアとのことで、ロシアからエリトリアまで29カ国あります。
その中には、中共177位、北朝鮮180位があります。

考えるべきなのは、どうしてフィリピンやロシアよりも下位の国のジャーナリストはノーベル平和賞の対象にならないのだろうか?
ということです。

3.政府から独立したジャーナリズムのある国ない国

フィリピンやロシアは、政府から独立したジャーナリズムのある国です。そして、ぎりぎり独立系ジャーナリズムも存在するのでしょう。
全体主義国には国営放送や新聞があるだけで、政府から独立したジャーナリズムも独立系ジャーナリズムもありません。180位の北朝鮮には、両者は存在しません。

「ドミトリー・ムラトフさんが編集長を務めるノーバヤ・ガゼータ紙は政権批判をひるまず続ける。ロシアの言論の最後の砦とも見られてきた。それが逆に、同紙の存在が『ロシアに言論の自由がある証し』だと、体制側の言い訳に使われることがある」(10月9日付朝日新聞)

そうかもしれません。しかし、やはり「言論の最後の砦」がない国よりも、ある国の方が増しなのです。政府から弾圧を受けていると言っても、政府から独立した、あるいは独立系ジャーナリズムのある国は、ない国よりも報道や表現の自由がある国なのです。

どうして政府から独立したジャーナリズムのない国のジャーナリストは、ノーベル平和賞の対象にならないのでしょうか。
そのような国の報道や言論機関には、表現や報道の自由はありませんし、そこで働く人たちは、国家の公式見解しか表明できません。その線から外れた報道等を行えば、失職や収容所送りになったりして、その存在が闇から闇へ葬られ、世界の知るところとはならないからでしょう。

4.自由国家・半自由国家・無自由国家

報道や表現の自由という観点から、全ての国家は、三種類に分けることができるでしょう。
普通に自由な、政府から独立したジャーナリズムのある国と、独立したジャーナリズムはあるけれども、権威主義的な政府によって恒常的に圧力を受けている国と、そもそも独立したジャーナリズムなど存在しない国です。
第一の国は自由国家であり、第二の国は半自由国家であり、第三の国は無自由国家です。
自由国家の例は、冷戦時代からの西側諸国や日本、半自由国家は戦前の日本やかつての軍事政権下の韓国や国民党政権下の台湾のような国です。一方、無自由国家の典型は、冷戦時代のソ連や中共であり、冷戦前から今日にいたる北朝鮮のような国です。

本来なら、自由国家のジャーナリズムは、半自由国家よりも無自由国家をより批判すべきです。
ところが、今日の北朝鮮のような無自由国家やそれに近い中共は社会主義国であり、自由国家のジャーナリズムやインテリは左翼に傾きがちで、社会主義国を余り批判しませんし、そのような国の見えざる報道や表現の不自由には、関心を寄せません。その結果、もっと酷い状況下にある無自由国家の、報道他に従事する人たちの中の、ごく一部の政府に批判的な人たちの反抗は知られないままである一方、いくらか増しな、その活動が知られる半自由国家のジャーナリストに脚光が当たることになります。
それが、今年のノーベル平和賞となって表れたのだと思います。

5.ジャーナリズムとその敵

自由国家や半自由国家のジャーナリズムの役割の一つは、権力を監視することです。
一方、無自由国家のジャーナリズムは政府と一体であり、彼らの監視の対象は、むしろ一般民衆です。

無自由国家の民衆の敵は、国家権力です。では、自由国家の民衆の敵も、国家権力なのでしょうか。勿論、そういう面もあります。しかし、マスゴミという言葉が象徴するように、国家権力と並んで、マスメディアも民衆の敵の一つなのです。

なぜでしょうか。
自由国家のジャーナリズムは、玉石混交で、事実に反する報道を行うメディアが少なくありません。しかも、そのようなメディアでは、進歩的イデオロギーに沿った報道が優先され、それに反する事実には、報道しない自由が発動されます。虚偽の吉田清治証言を、30年以上にもわたって隠蔽し続けた朝日新聞が、その代表例でしょう。
そのために、自由国家の民衆は、マスメディアを余り信用していません。

10月9日付朝日新聞の社説「ノーベル平和賞 民主主義を守る報道の力」の、一部を引用します。

「米国では、前大統領が意に沿わぬメディアを『民衆の敵』と非難した。さらには、根拠も示さぬまま選挙の不正を訴えるなど、指導者自らが事実を曲げる事態が生まれた。
為政者が事実を語らず、不都合な報道を封じる社会に、健全な民主主義はありえない。それは、日本を含む各国の指導者が改めて認識すべきである」

「根拠も示さぬまま選挙の不正を訴えるなど、指導者自らが事実を曲げる事態が生まれた」と言いますが、昨年11月3日に行われた大統領選挙での、不正の根拠は、バイデン氏の得票数です。過去の大統領選挙と比べても、あるいは、コロナ禍で盛り上がりを欠いた(トランプ氏の演説会が盛況だったのに、バイデン氏のそれは閑散としていた)にも拘らず、バイデン氏の得票数は異様に多い。今後選挙を積み重ねることによって、それがますます際立つになるでしょう。
そのような指摘が挙がっているのに、左派メディアはそのような声を無視する。そして、「根拠を示さぬまま選挙の不正を訴える」などと、米左派メディアの文言を鸚鵡返しに繰り返しています。

それはさておき、後段は次のように言い換えることができるでしょう。
メディアが事実を語らず、不都合な報道を封じる社会に、健全な民主主義はありえない。それは、日本を含む各国のメディアが改めて認識すべきである。

いい加減な報道が少なくない、自由国家のジャーナリズムは、命をかけて闘っている半自由国家のジャーナリストの姿勢に、もっと学ぶべきではないでしょうか。そして、国民に信頼されるような報道に務めて欲しいと思います。

日英同盟終焉とその教訓

1.総説

黒野耐氏は『戦うことを忘れた国家』(角川書店、<角川oneテーマ21>、2008年刊)に書いています。

「(一九)十七年七月に第一次世界大戦が勃発すると、日本は英仏露などの連合国側に立って参戦しましたが、彼らが求めた陸海軍主力の欧州派兵には応じることなく、大戦に忙殺されている間隙を突いて、極東における権益の拡大に奔走しました。一方、アメリカは総力戦の死命を制する兵站庫として連合国を支え、一七年一〇月になると陸軍を派遣して(最終的には二百万人の兵力を投入)、連合国の勝利に大きく貢献しました。
イギリスには、日本との同盟よりもアメリカとの提携がはるかに大きな利益となりました。そのアメリカから日本との二者択一を迫られたイギリスは、日本を切り捨てなければならなくなり、日英同盟は終焉したのです」(164頁)

なぜ日英同盟は終わったのか。黒野氏が指摘している通りでしょう。
ただ、この記述を読んで、同盟が終焉した理由を実感できない人も、少なくないのではないでしょうか。日米のある種の数字を比較することによって、それが納得できるようになると思われます。

2.投入兵力と戦死者数

上記には、アメリカの投入兵力は記述されていますが、日本のそれは書かれていません。

ウィキペディアの記述から、改めて、日米の投入兵力を見ましょう。
ウィキの「第一次世界大戦」によれば、参戦国アメリカの兵力は474万3826人に対して、日本は80万人です。日本はアメリカの六分の一ほどです。しかし、わが国の80万人の中身は、「極東における権益の拡大に奔走し」た、たとえば支那の青島や膠州湾を攻略し、あるいは南洋諸島をドイツから奪った戦いでの兵の数も含まれているでしょう。
重要なのは、極東の権益の拡大以外にどれだけ兵力を割いたかです。

一方、私は投入兵力ではなく、戦死者数に着目しました(「同盟国の義務、あるいは両大戦の教訓について」)。
それを見ると、日米の貢献の差が歴然とします。第一次世界大戦におけるアメリカの戦死者数は11万6708人であるのに対し、日本はわずかに415人です(注)!

投入兵力と戦死者数の、欧州地域と、それを含めた世界全体での内訳は不明ですが、投入兵力はともかく、戦死者数を比べれば、日米の貢献度は一目瞭然です。しかも、当時日英は同盟関係にあったのに対し、米英は同盟関係にありませんでした。その後、イギリスが日本よりもアメリカをとったのは、当然でしょう。

因みに、当時イギリス帝国に属していたとは言え、日本同様、主要な戦場となった欧州に位置しない諸国の戦死者数は、オーストラリア6万1966人、カナダ6万4976人、ニュージーランド1万8052人です。英国と同盟関係にあったわが国のそれと比べても、格段に多い。しかも、それらの国の人口は、日本よりもずっと少なかったのです。

第一次世界大戦で、日本が戦力の出し惜しみをしたのは明白です。
そのために、戦後イギリスとの同盟を断ち切られ、当時の世界のメイン・ストリームから外れました。

こういうと、中には、犠牲者をたくさん出せばよかったのかと反発する人もあるでしょう。しかし、その結果が、第二次世界大戦における戦没者三百万人!となって表れたのだと思います。

3.Too little, too late

同盟国の命運をかけた戦いにおいて、兵力および犠牲の出し惜しみしたから、同盟関係を断ち切られ、その後の戦争において、それをはるかに上回る犠牲者を出す羽目になった。それが、日英同盟終焉とその教訓だと思います。

ところが、そういう歴史の教訓がありながら、第二次大戦後の日本は相変わらず、それらの出し惜しみを続けています。
湾岸戦争(1991・1・17~2・28)において日本は、資金協力が小出しだった=遅かったこと、しかも資金協力ばかりで、人的貢献がわずかだったため、Too little, too lateと蔑まされました。また、湾岸戦争後クウェートが米紙に広告を出し、解放に貢献した国々に感謝の意を表明しましたが、その中に日本は含まれていませんでした。
要するに、第一次大戦でも日本の貢献は、Too little, too lateだったのです。

4.メイン・ストリーム

現在世界のメイン・ストリームはどこの国々なのでしょうか。
ファイブ・アイズ(米英加豪新)とEU・NATOでしょう。そして、メイン・ストリームの諸国は、今中共の人権侵害を批判していますし、その覇権国化を阻止しようとしています。
言うまでもなく、メイン・ストリームの中心はアメリカであり、そして、日米は同盟関係にあります。とするなら、わが国もメイン・ストリーム諸国と協調すべきでしょう。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の結果、わが国が得た教訓は、
第一、世界のメイン・ストリームから外れてはならない。
第二、メイン・ストリーム諸国との協調においては、Too littleであっても、Too lateであっても、ましてや、 Too little, too late であってはならない、
だと思います。

(注)
日本の戦死者数については、300人とする説もあります。
・「戦争による国別犠牲者数-人間自然科学研究所
・衛藤瀋吉他著、『国際関係論 第二版』、東京大学出版会、1989年、7頁

高市早苗氏を支持します

1.自民党はリベラルと保守の寄合所帯

一般的に自民党は右派=保守政党であり、立憲民主党や共産党は左派政党であると考えられています。しかし、実際はそう単純ではありません。

冷戦時代は社会・共産主義体制支持派=左派、自由主義体制支持派=右派でした。だから、当時自由主義体制支持のリベラルも保守も「保守」でした。社・共主義勢力に対抗するために、リベラルと保守は腕を組みました。

昭和三十年の、日本民主党と自由党の保守合同は、イデオロギー的には保守とリベラルの合同でした。それ以来、自民党はずっとリベラルと保守の雑魚寝政党です。

ところが、冷戦が終了し、社会・共産主義勢力が没落、あるいは退潮することにより、政治的左右の対立軸が移行しました。今日左派と右派の対立は、リベラル=左派対保守=右派になりました。
リベラル対保守の時代、冷戦時代とは違って、リベラルはもはや保守ではありません。

自民党は、英語ではLiberal Democratic Partyですが、それは自由世界が共産世界と対峙した冷戦時代に相応しい名称で、今日はむしろLiberal Conservative Partyと表現する方が適しているのではないでしょうか。そう言えば、「リベラル保守」を宣言した、ズレた政治学者がいましたよね(笑)。

今日、自民党のみならず、政界もマスコミ界も相変わらず冷戦的思考の中にあって、誰が敵であり、味方なのか、無自覚で、本来戦うべきリベラルと保守が同一の政党の中で同居したりしています。
自民党の同じ派閥の中でも、理念の異なるリベラル派と保守派が混在しています。派閥は横糸としての理念と、縦糸としての人間関係が絡み合って、同党は鵺的な政党になってしまっています。
それを増長しているのが、選挙に勝てるかどうか=自分が当選できるかどうかしか関心がない政治家たちの存在です。彼らは国政選挙の顔として、誰が相応しいかという視点からしか、総裁を見ていません。理念に無関心な彼らは、政治家というよりも政治屋と言うべきです。

そのような状況なので、自民党政治家だからといって、保守政治家であるとは限りません。
この度の、自民党総裁選挙も、同党が保守政党ならば、立候補しているのは保守政治家ばかりのはずです。ところが、同党はリベラルと保守の寄合所帯だから、リベラル政治家も立候補しています。

2.保守政治家は高市氏だけ

今月17日告示、29日投開票の、自民党の総裁選挙の立候補者は、岸田文雄氏、河野太郎氏、高市早苗氏、野田聖子氏の四名です。四名の内、誰が保守政治家なのでしょうか。

高市氏は、憲法改正論者ですし、女系天皇に反対していますし、原子力発電に賛成の立場ですし、歴史認識でも東京裁判史観には否定的ですし、靖国神社への参拝は肯定していますし、外国人参政権の付与には反対していますし、選択的夫婦別姓にも反対していますし、同性婚についても反対の立場です。
要するに、保守正統派です。

その主張から見て、高市氏のみが保守政治家で、後は皆リベラル政治家です。
自民党は保守政党のはずなのに、総裁選に立候補しているのは、保守派よりもリベラル派もしくは鵺派の方が多い!寄合所帯であるゆえんです。

安倍晋三氏は理念重視の政治家なので、高市氏を支持しているのだろうと思います。
自分が衆参議院選挙で当選することしか関心のない、理念なき政治家たちとは違って、安倍氏が高市氏を支援しているのは、今回の総裁選で高市氏の当選を見込んでいるわけではないかもしれません。

安倍氏の後、日替定食ならぬ年替総理の時代に突入しました。岸田氏にしろ、河野氏にしろ、石破氏にしろ、長期政権を担うような能力がないのは明らかです。どうしてそれが当人たちには分からないのでせうか?それを見越して、次または次の次の本命として、安倍氏は高市氏に期待しているのかもしれません。

私は自民党員ではありませんが、今回の同党総裁選挙について、立候補者のうち保守政治家は高市氏だけなので、勝敗にかかわりなく彼女を支持します。

猿のイコン

ことわざによれば、

猿は人間よりも、

毛が三本足りないらしい。

本物の猿ではなく、

知性と見識の点で、

猿に近い人たちを、

敢えて、猿と呼ぶならば、

猿たちが崇拝するするイコン(Icon・偶像)は・・・・

人類史上最大の猿のイコン

一ヘーゲル

戦後最大の、日本猿のイコン

一吉本隆明

「男性脳は問題解決型、女性脳は共感型」と真理の探究

1.妻のトリセツ

前回公開の記事で、自称婚活中であるとカミングアウトしましたが、最近女性の気持ち、あるいは思考を理解するために、ベストセラーの黒川伊保子編著、『妻のトリセツ』(講談社+α新書)を買って、読んでみました。
結婚している男性にとっては、膝を叩きたくなる箇所が満載なのかもしれませんが、独身の私には、書かれていることが本当のことなのかどうか、どうも実感が湧きませんでした。

ただ、「『夫にひどく厳しく、子どもやペットにはべた甘い』が母性の正体であって、男たちがロマンティックに憧れる『果てしない優しさ』が母性なんかじゃないのである。(中略)男にとって結婚の継続とは、女性の母性ゆえの攻撃から、いかに身を守るかの戦略に尽きる。(中略)家庭を、のんびりくつろぐ癒しの場所だと思ったら大間違い。それは、母親の翼の下にいた時代の家庭のことだ」(5-6頁)の箇所には、ゾッとさせられました。

なるべく、婚歴はあっても子供(孫)がいない、またペットを飼っていない女性を探した方が賢明だろうなあ。参考になりました。

2.女性は問題解決ではなく、共感を求めている

今日男女の違いを、何でもジェンダー(社会的・文化的な性差)によって説明する進歩思想が、世を風靡しています。が、それは現代の迷信でしょう。何れ、反動が来るのは必至だと思います。

それはさておき、男性脳は問題解決型で、女性脳は共感型、との主張は、男女の性差が、ジェンダーよりももっと根深い所に由来することが暗示されていますし、それゆえに、この説はジェンダー派にとっては、面白くない、否定すべき言説であることでしょう。
その原因が、社会的・文化的なのか、生物学的なのかはともかく、男性は問題解決を求め、女性は共感を求めるという仮説は、どうも真実であるように思います。

昨年発売された雑誌『月刊 Hanada』2020年11月号に掲載された、「人間だもの 村西とおるの人生相談」への質問は下記のようなものでした。

「『意見はいらない!ただ聞いてろ!』と嫁が毎日のように怒鳴ります。仕事から帰宅するなり、小一時間は嫁の愚痴を聞くことに。それなのに、なんたる言い種(ぐさ)か。九割九分は『うんうん』うなずいて、一分で『反抗期だからねえ』とつぶやいて何が悪いのか。息子が反抗期で毎日つらいのはわかるが、あんたの“地”のほうがよっぽどつらいよ。『意見はいらない!』なら地蔵に向かって話せ、と思う私は甲斐性のなしの旦那でしょうか」(172頁)

「意見はいらない!」
これを読んだ同じ頃、職場にお客様の奥方が来社されました。女性同僚に娘さんとの軋轢のことを長々話し、解決策を求めていない、ただ共感が欲しいと訴えたのを横で聞いていて、印象的でした。後で、同僚に、女性はそうなん?と聞いたら、そうだと言う。
女性は問題解決よりも、共感を求める。既婚の、賢い男性にとっては自明なことなのかもしれませんが、私には初耳でした。

男性脳は問題解決型、女性脳は共感型、というのがもし本当ならば、女性の学者や物書きだって例外ではないのかもしれません。少なくとも、男性と比べて、その傾向が強いのではないか。これまでエッセイやコラムやブログを読んできた女流について改めて考えてみると、思い当たる節がない訳ではありません。
彼女たちは、真実や真理よりも、自分の文章への共感の方が優先なのかもしれません。

3.男女と真理探究

男性は問題解決を求め、女性は共感を求める。
これは、全く当たっていないのでしょうか、それとも、当たっているけれども、学問やエッセイやブログに関しては女流も問題解決を優先するのでしょうか、それとも、それは当たっていて、学問その他の分野でも、女性にとって共感が第一で、問題解決は二の次なのでしょうか。

『妻のトリセツ』の著者は真理を追究して、男性脳は問題解決型、女性脳は共感型、との結論に達したのでしょうが、著者の意図はともかく、その説は女性よりも男性の方が真理探究に適していることを、図らずも示してしまったように思います。

ポリコレ旋風によって、当分の間、学問の世界は女性学者の数が増えるでしょうが、たいていの分野で、真理の探究を担うのは、これまで同様、今後も男性の学者だろうと思います。

折々の婚活

1.年上のひと

超もてない男いけまこは、今年殆んど彼女いない歴61年を迎えました。
「殆んど」には、見えも含まれています。
結婚相談所に入会して活動をしている訳ではありません。が、自称婚活中です。

先月20日、仕事の関係先の、訪問した時は挨拶を交わしている女子社員と会話をしていて、彼女には婚歴がなく、独身なのが判明しました。少し年下かと思いましたが、話から年上のようでした。
ひょっとしたら、彼女になって貰えるかもしれないし、結婚もできるかもしれない!
狂喜しました。

彼女も私も、老母と二人で暮らしていますし、何れ同居できそうだし、その他の条件を考えても、相性が良いように思えました。
今月2日、自身の携帯番号を記し、また彼女の番号を尋ねる内容の紙片を手渡しました。近くで見る彼女は、優しそうな顔をしていました。この人に決めた!

その夜彼女から、ショート・メールが来ました。翌日も、彼女とメールを交わしました。でも、メールでは複雑な話はできないし、もどかしいので、翌々日彼女が帰宅する時間を見計らって、メールを送りました。

「電話をしたいのですが、何時頃可能ですか。ややこしい話ではありません」

彼女の方から、間もなく電話がかかってきました。
同年輩の、独身の女性が身近にいて、寂しくないし、結婚する意思はないとのことでした。彼女は三つ年上でした。

今年二敗目。
断られることに慣れてきたせいか、泣きませんでした。

生来ぐうたらですし、先月20日から、連休中もずっと彼女のことばかりを考えていたし、酒量は増えたし、まだ後遺症は残っています。
なので、本来のブログは全然進んでおりません。

2.歩くひと

いつ頃からか、朝近くのバス停で降りて、職場の前を歩いて通勤している女性に気づきました。姿からして、四十代後半くらいに思われます。

自称婚活中の身としては、彼女のことが気になっていました。
歩く姿は背筋が真っすぐでしたが、足取りが弾んだ感じではないので、少し生活に疲れているのだろうと勝手に解釈していました。バツイチかなにかで、夫も彼氏もいないかもしれない!
少し先の、病院か保育園に勤めているのかなあ。

ある日、バスが停留所を発車した後、歩道の辺りに用事がある振りをして、歩く彼女に声をかけてみました。

「お早うございます」
「お早うございます」

「どこまでですか」
「駅まで行きます」

病院や保育園が職場ではありませんでした。もう少し先の駅まで歩いて、電車に乗るらしい。

「職場はどこですか」
「〇〇です」

〇〇は遠いですし、さらに電車を乗り継いで行かなければなりません。

「それは大変ですね」
彼女は少し笑って、歩いて行きました。

その翌日から、彼女を見なくなりました。
出勤日は不定期らしくて、それまでにも見かけない日がありましたし、靴によっては音がしなくて、前を通るのに気がつかない日もあったので、あまり気にしませんでした。

翌週、発車した後、職場の前を通り過ぎるバスを遠くから眺めていて、中に彼女の姿があるのを発見しました。近くのバス停で降りるのを止めたんだ。通勤は、電車を止め、バスだけにしたようです。

通勤経路を変える予定の前日に、偶然私が声をかけたのか、それとも変なオジサンを避けたのか。

(歩くひとは、「二敗」には含まれておりません)

なぜ私は立花隆氏に興味がないか

1.立花隆氏に興味がない

今年4月30日、急性冠症候群のため、ジャーナリストでノンフィクション作家の立花隆氏は亡くなられたそうです。
立花氏は、ベストセラー作家であり、「三万冊を読み百冊書い」たという博識の人であり、知の巨人と称せられました。私も僅かですが、『中核VS革マル』、『日本共産党の研究』や『精神と物質』を読みました。
しかし、世間で持ち上げられるほど、引かれませんでした。

当ブログの最初の記事「はじめまして」に、「(後期)清水幾太郎氏、福田恒存氏、山本夏彦氏、渡部昇一氏を特に尊敬しております」と書きましたが、私にとって、立花氏は彼らに匹敵する著者だとは思えませんでした。
氏には、余り興味がありません。なぜでしょうか。
立花氏がノンフィクション作家で、私が評論家好みだからでしょうか、あるいは、氏と政治的立場が異なっているからでしょうか。
どうもそれだけではないように思います。

2.理系的・文系的

<過去に誰も知らなかった(言っていない)、新しい真理を発見した人物が、最も偉大な知性である>
これは、いわゆる理系でも、文系でも同じでしょう。ただ、理系と文系とでは、研究の対象が違うために、表出の形態も違ったものになります。

理系の対象は自然です。そして、自然を対象とする科学や技術は日進月歩なため、常に最新が追い求められます。民主党政権時代、スーパーコンピューター開発の予算を巡る攻防の際に、蓮舫議員が「世界一になる理由は何があるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」と言ったそうですが、世界中の研究者は真理に真っ先に到達することを目指して鎬を削っています。ノーベル賞を受賞するのも、真理を最初に発見した人のみです。

一方、<新しい真理を発見した人が、最も偉大な知性である>という点は、文系も変わりません。が、その対象は人間です。人生、友情、恋愛、親子関係、戦争、平和・・・・それは、人類が有史以来ずっとやってきたことです。日の下に新しきことなしということわざがありますが、それらの事柄に関する重要な真理を、過去の人が既に、しかも明確に述べているかもしれません。そして、現在の人間が付け加えることができるのは、わずかな事かもしれません。

だから、理系にとって最先端は現在にありますが、その性質上、文系にとって最先端は過去にあります。理系は最新を指向し、文系は最古を指向する。
理系の、たとえば100年、200年前の論文は、科学史家以外は読まないでしょうが、文系の優れた過去の著書・文章は、千年前、二千年前であろうと現在でも読むに値します。

文系の偉大な知性とは、再読、三読に値する本を書いた人です。この点、音楽と同じです。音楽も今現在に作られたもの、今流行っているものが最も優れたものという訳ではありません。過去の作曲家の作品の方がはるかに優れた曲があります。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンは、現代でも大勢の人たちによって、繰り返し聴かれていますし、彼らの生み出した傑作が音楽の最先端です。

3.最新しかない

立花氏が対象としたのは、その当時に世間で話題となったり、問題であったりした事柄です。中核派と革マル派、田中角栄、脳死・・・・。氏は、いわば、常に最新を追求しています。一種、理系的です。しかし、それが故に、書かれたものが対象とともに古くなる可能性が高い。
立花氏は理系の研究者でもないのに、なぜ最新を求めるのでしょうか。

なるべく流行語を使わないようにしなければならないとの準則が、小説家にはあるようですが、それは新語は往々にして時が移れば死語になるので、文章はそこから古くなるからであるらしい。
同様に、立花氏の著書の場合も、専らその時代に流行した対象を扱ったが故に、そこから古くなっているのではないでしょうか。公刊当時はベストセラーだった著書も、時の経過とともに世間の関心が薄れざるをえません。

なぜ私は立花氏に余り興味がないのでしょうか。氏の著書は、ジャーナリスティックであって、再読はともかくも、三読、四読に耐ええないからだと思います。
ノンフィクション作家を志している人なら、立花氏の著書を何度も読み返し、研究する必要があるかもしれません。しかし、私たち一般人はそんな必要がありません。要するに、書かれたものが、三読四読に値するかどうかです。

ドイツの哲学者ショーペンハウアーは書いています。

「文士は流星・遊星・惑星というふうに分類できる。第一の者は瞬間的場当たりを提供する。みんなが空を仰いで『ほら、あれだ!』と叫んだと思うと、それっきり永遠に姿を消してしまうのである。惑星・遊星にあたる第二の者は、はるかに長持ちする。これは恒星に近いおかげで、ときには恒星以上に明るく輝き、素人からは恒星とまちがえられる。しかしとかくするうちに場所を明け渡さざるをえなくなり、その光というのも借り物にすぎず、その影響する範囲は同じ軌道を走っている仲間(同時代人)に限られる。彼らは動き、変化する。二、三年にいのちで一まわりするのが彼らの仕事なのだ。第三の者だけが不変で、天空にしっかりと座を占めており、自分の光をもっている。そして一時代のみならず、他の時代にも影響を及ぼす」(『随感録』、秋山英夫訳、白水社、8頁)

立花氏は巨星なのかもしれませんが、恒星ではなく、惑星なのだと思います。

桐野夏生という病

1.表現の世界 今とこれから

7月11日付朝日新聞に、「表現の世界 今とこれから」と題する記事が掲載されました。朝日の口上は以下の通りです。

「今年5月に女性として初めて日本ペンクラブ会長に就任した桐野夏生さんと、昨年、やはり女性として初めて日本文芸家協会の理事長に就いた林真理子さん。表現の世界をいまどう考えるのか、2人の作家に語り合ってもらった」

2.左翼としての桐野夏生氏

そこで、桐野氏は言っています。

「ペンクラブは表現の自由を守るために、またあらゆる戦争に反対するために、ものを書く人間たちが自ら発信していこうという団体」

「あらゆる戦争に反対するために」、ということは、自国を守るための戦争にも反対するということなので、私は同意できません。
かつて林真理子さんや中野翠さんのエッセイを読んでいた時期もありましたが、彼女たちは頭の良い人たちなので、桐野氏のように「あらゆる戦争に反対するために」などといった、不用意かつ単純な発言をするようなことはしないはずです。

林氏は、桐野氏に問うています。

「こんなことをいうと怒られちゃうかもしれないけれど、ペンクラブというと、世間では『左っぽいところね』という反応が多い。それについてはどうですか?」

それに対して、桐野氏は、

「右、左という単純な二元論ではなくて、私たちのように言葉に携わる人間が、おかしいと思うことに抗議する、声明を発信していく、ということだと思っている」

と返しています。林氏の質問への答えになっていません。

はっきり言いますが、あらゆる戦争に反対する、と言うこと自体が、左翼である証拠です。彼らは、あらゆる戦争に反対すると言いながら、ある種の戦争には反対するけれども、ある種の戦争には反対しません。正確に言うなら、あらゆる戦争に反対すると聞いて、それが本当だと信じるのがロバ左翼で、そんなのは嘘だと承知していながら、建前としてそう言うのがキツネ左翼です。キツネ派は、いつもロバ派よりも一枚上手です。
そのような次第で、左翼は社会主義国の戦争、社会主義国の核兵器、社会主義国の人権侵害には、殆んど抗議をしません。

3.ソーシャリベラル

桐野氏は、ロバなのかキツネなのかは分かりませんが、左翼だとしか言いようがありません。次の発言によって、それが明確になります。

「香港だけでなく、ミャンマー、ベラルーシと世界中でいろんな弾圧が起きていて怖い。
だから、私たちのような団体は、これから、より必要になってくるのではないでしょうか」

「世界中でいろんな弾圧が起きてい」るのに、桐野氏はなぜミャンマーやベラルーシには言及するのに、中共や北朝鮮には言及しないのでしょうか。「いろんな弾圧が起きていて怖い」のは、ミャンマーやベラルーシだけではないでしょう。というよりも、中共や北朝鮮のそれのほうが、よっぽど怖い。最近は、ウイグルでの人権侵害が報じられていますし、米欧諸国はそれを批判しています。なのに、なぜそれには言及しないのでしょうか?

桐野氏は自らの信念に基づいて発言しているのでしょうか、それとも、自らが所属する団体の空気を読んで、発言しているのでしょうか。
なぜ日本のリベラルは社会主義国の人権侵害を批判しないのか」でも述べましたが、日本のリベラルはいまだ社会・共産主義が抜け切れていないために、社会主義国批判がタブーになっているのだと思います。
そして、マスメディアも日本ペンクラブも、そのような思想傾向の人たち(ソーシャリベラル)に牛耳られている。あるいは、そのような人たちが主流派を形成している。それが、桐野発言となって表れているのでしょう。

桐野氏の発言から、<日本ペンクラブは左翼的表現の自由を守るために、また資本主義国のあらゆる戦争(自衛のためのそれを含めて)に反対するために、一方、社会主義国の全ての戦争には必ずしも反対しないために、ものを書く人間たちが自ら発信していこうという団体>のように見えます。
そして、そのような思想性が鮮明だから、「ペンクラブというと、世間では『左っぽいところね』という反応が多い」と評されるのでしょう。

4.桐野夏生という病?

当記事は、桐野夏生という病、という題名にしました。
勿論、痛風という病や癌という病はありますが、桐野夏生という病はありません。
けれども、桐野氏の発言を読んで、「ものを書く人間」にしては、発言が杜撰なので、私もそれに付き合って、少々ふざけた題名にしました。

【折々の名言】
「日本の自由で開かれたインド太平洋戦略が米国の戦略となり、いまや欧州を含めて世界の戦略となっています」(45頁)
「軍事費は負担とだけ考える人々がいるのですが、米国はあれだけ軍事費を支出していて、圧倒的な経済成長をしています。そもそも軍事費も政府の支出ですから、GDPにはプラスになる。産業は育成され、そこで培われた技術は民生移転されていく。米国がまさにその典型です。軽武装によって経済成長したという人がいますが、神話なのではないかと思います」(48頁)

月刊『Hanada』2021年8月号に掲載された、櫻井よしこ氏との対談での、安倍晋三前総理の発言です。

反米の理由

当ブログサイトは、唯一「よもぎねこです♪」をリンクに付けています。
管理人のよもぎねこさんが、6月22日に公開した記事「反米・反ヨーロッパ・反イスラエルでも中国にはダンマリ イスラム教徒の不思議」に、下記のコメントを行いました。
主として、本文中の、「イスラム教徒によるテロや暴動など、暴力行為の本質って、実は信仰でも何でもなくて、欧米やイスラエルの豊かさへ嫉妬と怨嗟じゃないですか?」の文言に対してです。

「2001年の9・11テロの後、左派や自称保守派(西部邁氏や小林よしのり氏)は、テロリストの造反有理を擁護しました。
なぜ世界から嫌われるのか、アメリカは反省しなければならない、のたぐいの言説です。
彼らの発想は、テロリストが、あれだけ大それたことをやったからには、それなりに合理的な理由があるに違いない、ということでしょう。

しかし、首謀者ビン・ラディンの発言を見ても、パレスチナ問題や、湾岸戦争を契機にアメリカがサウジアラビアに軍隊を駐留させたことなどに言及しているものの、自分たちはこのために9・11テロを実行したのだ、という決定的な理由を語っていません。
『オサマ・ビン・ラディン 発言』(河出書房新社)を読みましたが、なぜ9・11テロを行ったのか、不明です。

そもそも、彼らの行動に合理的な理由を求めること自体が間違っているのかもしれません。
9・11テロの原因は、イスラム過激派による、アメリカに対する『嫉妬と怨嗟』ではな(い)かと思います」【( )内 原文脱字】

それに対して、よもぎねこさんから返答をいただきました。一部を引用します。

「右翼にも左翼にも反米は多いのですが、しかし右派、左派関係なく反米の理由って『アメリカがデカイ顔をするのが面白くない』だけじゃないでしょうか?」

これは、反米論者の心理を、的確に衝いていると思います!

後、若干補足をするなら、左派(社会・共産主義的左派)の場合は、アメリカが資本主義世界の牙城だからでしょう。
一方、自称保守=反米保守派の場合は、なぜでしょうか。
彼らはニッポン・ネオコン(転向保守)です。冷戦終了間際もしくは冷戦終了後保守=右派に転向した、元左翼です。左翼だった時代、彼らは当然反米でした。
社会主義を信じたのは間違いだったけれども、反米に関しては正しかった!
せめて、反米に関しては一貫していることを示したい(かった)のでしょう。

戦争をしない唯一の方法

ブログを始めた2018年3月23日当日に公開した投稿、「戦争と夫婦喧嘩」に書きました。

「なぜ夫婦喧嘩は起こるのでしょうか。
夫が妻の、妻が夫の言い分を全て受け入れることができるのなら、夫婦間に喧嘩などありえません。両者の主張が対立していて、お互いに譲歩できないから起こるのでしょう。国家間の喧嘩たる戦争も同じです。一方の国が、他方の国の要求を吞めないから起こるのです。(中略)他国と戦争をしない唯一の方法は、その国の要求を全て受け入れることです」

<他国と戦争をしない唯一の方法は、その国の要求を全て受け入れること>
これは、自分の小さな発見だと思っていました。
が、最近小室直樹著、『新戦争論』(光文社、1981年刊)をパラパラ捲っていて、次の箇所を見つけました。

「いかなる事態になろうとも戦争を回避するということは、他国のどんな不合理な要求でも、最終的には受諾するということである」(79頁)

しかも、赤のボールペンで傍線を引いてある!
なーんだ、小室氏の方がずっと前に言ってて、私も読んでたんだ。