変数としての+(プラス)NATO ウクライナ侵攻

1.戦争における倫理的善悪と力の優劣

これまで二度ほど、高坂正堯氏の『国際政治』(中公新書)から引用しました。次の箇所です。

「じっさい国際社会のついて考えるとき、まずなによりも重要な事実は、そこにいくつもの常識があるということなのである。(中略)
国際社会にはいくつもの正義がある。だからそこで語られる正義は特定の正義でしかない。ある国が正しいと思うことは、他の国から見れば誤っているということは、けっしてまれではないのである」(太字 原文は傍点)(19頁)

その後に続けて、高坂氏は書いています。

「各国家は力の体系であり、利益の体系であり、そして価値の体系である。したがって、国家間の関係はこの三つのレベルの関係がからみあった複雑な関係である。国家間の平和の問題を困難なものとしているのは、それがこの三つのレベルの複合物だということなのである。しかし、昔から平和について論ずるとき、人びとはその一つのレベルだけに目をそそいできた」(19-20頁)

「昔から平和について論ずるとき、人びとはその一つのレベルだけに目をそそいできた」。
今でもそれは変わりません。ウクライナ侵攻においてもそうです。「人びとはその一つのレベルだけに目をそそいで」います。
ロシアは侵略し、ウクライナは侵略された。故に、侵略したロシア=悪、侵略されたウクライナ=善、という価値のレベルだけしか、人々は見ていません。そのため、ウクライナは善である(ロシアは悪である)→だからウクライナは勝って欲しい→勝てるはずである→勝つにちがいない、という希望的観測的思考に陥っています。

作家であり、元外務省主任分析官の佐藤優氏は、幾つかのネット記事やユーチューブの動画で、高坂氏の、この三つの体系の分類を援用して、人々は価値の体系しか見ていない。力の体系という視点が欠けていると指摘しています。氏は書いています。

「ウクライナ戦争に関する日本の報道は、『政治的、道義的に正しいウクライナが勝利しなければならない』という価値観に基づいてなされている。
このことが総合的分析の障害になっている」(1)

それは、正しいでしょう。

先史時代から今日まで、戦争は無数に行われてきました。しかし、善の側、正しい側が勝ってきたわけではありません。力の強い側が勝ってきました。だから、ウクライナ侵攻に関しても、正しい側ではなく、強い側が勝つと考えるのが自然でしょう。
ところが、現在の日本では、力の優劣ないし強弱という点を無視して、ウクライナに勝って欲しいと、駄々をこねるような発言をする人が多い(2)。

2.力の優劣を「計算」することの困難

もっとも、問題は、今回のウクライナ侵攻に関しては、戦争当事国双方の力の優劣を判定するのが困難なことです。それは、言うまでもなく、直接参戦していないけれども、NATOが、特にアメリカが、ウクライナに対して、多大な軍事支援を行っているからです。

もし、ウクライナもロシアも他国の軍事支援を受けず、独力で戦っているのなら、双方の力の差は、ロシア>ウクライナ(ロシアの力はウクライナよりも優越している)なので、戦争の勝敗は既に決していたでしょう。

一方、NATO諸国、とりわけ核兵器保有国の米英仏が核戦争も辞さずとして参戦していたなら(核兵器が使用されたかもしれませんが)、双方の力はウクライナ+NATO>ロシアになっていて、前者は勝利しているでしょう。しかし、核戦争も第三次世界大戦も起こすわけにはいかないというのが、一応の前提ですから、実際は、NATOは直接参戦せず、間接的参戦としての対宇支援と対露制裁を行っています。なので、ウクライナ(+NATO)とロシアの力関係が、前者≦後者になっています(間接的参戦なので、括弧付きのNATOです)。

NATOを主導するアメリカが、ウクライナ問題にどこまで関与するのか、どこまで関与しうるのかについて、言い換えるなら、奪われた四州とクリミア奪還までウクライナに付き合うのか、それとも、ある程度のところで支援を諦めるのかが読めないので、つまり、(+NATO)が変数なので、この戦争の帰趨が分からなくなっています。

もっとも、アメリカはその曖昧政策によって、ロシアを動揺させ、同国の譲歩を誘おうとしているのでしょう。しかし、そのような曖昧政策が、かえって世界に、核兵器使用なり、第三次世界大戦なりへの不安を呼び起こす原因となっています。
そのような綱渡りのような曖昧政策は、世界の平和のために、はたして賢明なのでしょうか。

(1)https://www.tokyo-sports.co.jp/social/4296977/
(2)強い側が勝ったのは19世紀までで、20世紀以降は正しい側が勝っていると言う人もありますが、それは皮相な見方です。