はじめに
1月31日公開のブログ記事で、児玉聡氏の『功利主義入門 ーはじめての倫理学』(ちくま新書、2012年刊)を読んで、何れ読後感を書いてみたいと思います、と述べました。で、読んでみました。
ただ、同書を読んで、全般的に論じようとすると膨大な時間が必要ですし、一度のブログ記事ではとても語りつくせません。なので今回は、所々気になった点についてだけ、コメントすることにしました。その他の点については、今後個別に論じることもあるだろうと思います。
今月11日に、「箇条書き 功利主義とはなにか」(以下、「箇条書き」)という記事を公開しましたが、一応そこで提示した基準に照らし合わせて、評することにします。
1.個人倫理と社会倫理
児玉氏の『功利主義入門』(以下『入門』、( )内は同著の頁)から引用します。
「J美はそう思って、『序説』(ベンサム著『道徳および立法の諸原理序説』)を読み進めた。功利性の原理(功利原理)とは何か。人がなすべきこと、正しい行為とは、社会全体の幸福を増す行為のことであり、反対になすべきではない、不正な行為とは、社会全体の幸福を減らす行為のことだと書いてある。そして、幸福とは快楽に他ならず、不幸とは快楽がない状態か、苦痛のことだとある」(太字 いけまこ)(46頁)
「(3)総和最大化。功利主義では、一個人の幸福を最大化することを考えるのではなく、人々の幸福を総和、つまり足し算して、それが最大になるよう努める必要がある」(56頁)
「功利主義は『社会全体の幸福を最大化せよ』と主張する立場であるため(後略)」(134頁)
しかし、功利主義の目的は、「社会全体の幸福」だけなのでしょうか。
ベンサムは『序説』(『世界の名著 38 ベンサム J・S・ミル』、中央公論社、1967年刊)で述べています。
「功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、また同じことを別のことばで言いかえただけであるが、その幸福を促進するように見えるか、それともその幸福に対立するように見えるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。私はすべての行為と言った。したがって、それは一個人のすべての行為だけではなく、政府のすべての政策をも含むのである。(中略)ここでいう幸福とは、当事者が社会全体である場合には、社会の幸福のことであり、特定の個人である場合には、その個人の幸福のことである」(太字 いけまこ)(82-83頁)
太字の箇所の記述で分かるように、功利主義が求めたのは、「当事者が社会全体である場合」だけではありません。「箇条書き」のE、G、Iで記しているように、私的な幸福も目的の一つです。
もっとも、児玉氏は別のところでは、次のように語っています。
「ベンタムにとっては、『倫理』は個人の道徳と、政治や立法の両方を意味していた。そして、ベンタムの主著『道徳および立法の諸原理序説』という書名に示されているように、功利主義はそのどちらについても使えるものだった」(93頁)
児玉氏は「ベンタム」と書き、私は「ベンサム」と書いていますが、同一人物です。
さて、児玉氏の、前の三つの発言と、この発言は矛盾しているように思われます。そして、ベンサム及び功利主義の思想は、後者の方が正しいでしょう。道徳(個人倫理)および立法(社会倫理)の『諸原理序説』なのですから。
ベンサムは、社会全体の幸福だけを問題にしたのではありません。ただ、彼は立法による社会改革を目指したので、個人の幸福よりも社会の幸福を追求したのだと誤解されることになったのだと思います。
児玉氏は、書いています。
「現代の功利主義は、二つの点で洗練されている。
一つは、功利主義的に行為するために、ひたすら最大多数の最大幸福のことばかりを考えて行為する『功利主義マシーン』になる必要はないとする点だ。(中略)
かつてベンサムの弟子の一人のジョン・オースティン(1790-1859)という功利主義者は、この考えを次のように表現した。『健全で正統な功利主義者は≪彼氏が彼女にキスするさいには公共の福祉について考えていなければならない≫などと主張したことも考えたこともない』。
功利主義者は年がら年じゅう、功利原理を用いて意思決定をする必要はないとするこの考え方は、現在では『間接功利主義』と呼ばれる。それに対して、ゴドウィンは少なくとも最初の内は、立派な功利主義者は最大多数の最大幸福について始終考えていなければならないと考えていたので、『直接功利主義』の立場を取っていたと言える」(80-81頁)
功利主義の創始者ベンサムは、『序説』の記述でも分かるように、間接功利主義の立場なのは明らかです。なので、「現代の功利主義」ではありませんが、「洗練されてい」たと言えるでしょう。
2.倫理至上主義と真善美並立主義
児玉氏は、述べています。
「ベンタムはいわゆる快楽説を取っているが、これは幸福主義の一種だ」(55頁)
そして、
「たとえばわれわれは自由や真理にも価値があると考えているだろう。幸福主義は、それらに一定の価値は認めるものの、自由や真理に価値があるのは、それらが人々の幸福を増進するからに他ならないと考える。何かの役に立つという理由からではなく、それ自体に価値があることを『内在的価値』と呼ぶが、幸福主義によれば、その世界で内在的価値を持つのは幸福だけであり、それ以外のものは幸福になるための手段として道具的価値を持つに過ぎない。この立場を取らず、自由や真理は人々の幸福とは独立に価値を持つと主張するならば、それは非幸福主義である」(56頁)
「箇条書き」に書きました。
「A、真善美という言い方がありますが、物事の真偽を取り扱うのが、狭義の哲学や科学であり、善悪を扱うのが倫理学であり、美醜の問題を扱うのが美学です」
「C、功利主義は、最高善(善悪を判断するための究極標準としての最高目的ー広辞苑)は幸福だと考えます」
私は、真や美は、善とは別の次元の問題だと思います。そして、それらは「独立に価値を持つ」と考えます。最高善は幸福だと思いますが、最高真や美?は幸福だと考えません。
自由はともかく、真理は、「幸福になるための手段として道具的に価値を持つに過ぎない」とするのは、真美よりも善の方が上位の価値であるする倫理至上主義ではないでしょうか。
私は倫理至上主義の立場は採りません。真善美並立主義が正しいと考えます。
たとえ人を不幸にするとしても、真理や美はそれ自体として価値があると思います。
もっとも、aとbはどちらが真理であるかとか、cとdのどちらがより美しいか、というような、個別的かつ具体的な判断は容易ではありませんが。
3.宗教と倫理
『入門』の第一章の中に、「宗教なしの倫理はありうるか」との小見出しがあります。
「たしかに、仏教にせよキリスト教にせよ、倫理を説いてきたのは伝統的に宗教者であることが多かった。しかし、だからといって、宗教なければ倫理なし、ということには必ずしもならないだろう。(中略)仮に神がいないとしても、倫理は成り立つのである」(22-25頁)
この点は、世間の大勢と違って、私は児玉氏に同意します。
真偽、美醜における判断同様、善悪の判断においても、神も仏もGODも不要だと考えます。こんなことを言うと、猛反発されそうですが、「神」がいなければ善悪もない、というのは、ユダヤ的一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の迷信もしくは誤解だと思います。
ただ、私は次の児玉氏の発言には、同意できません。
「神の存在を信じない人は、倫理的ルールを、スポーツやゲームのルールと似たものと考えることができる。たとえば将棋のルールは人間が作ったものだが、それと同様に、倫理のルールも人間が作ったものである、また、将棋のルールがそうであるのと同様、倫理のルールも必ずしも誰かが一度に考え出したものではなく、社会生活を営む間に、人々が徐々に作り出したものだと考えられる」(23頁)
スポーツやゲームのルールは、簡単に変えられますが、倫理のそれは簡単には変更できません。真偽や美醜の判断(個別の事例に対する判断ではなく)同様、善悪の根源的な判断も、人間のア・プリオリ(先験的)な認識に基づいていると考えます。
4.上位価値と下位価値
児玉氏の記述を引きます。
「ミル流の自由主義によっても、個人の自由は最大限保障される。ただし、その基本となる発想が異なる。ミルが個人の自由を尊重せよというのは、われわれが最初から自由権を持っているからではない。個人の自由を保障した方が、長期的に見て社会全体のが幸福になるとい理由からだ。この意味で、功利主義においては自由の価値は、社会全体の幸福の価値から派生するものと言える」(101頁)
私は第二節で、真善美の価値は並立すると思うと書きました。しかし一方、善に関する価値の中には、上位の価値と下位の価値との序列があるのではないでしょうか。
自由、民主主義、平等、人権、法の支配、福祉などの政治経済社会的な価値は、真偽や美醜に関する価値ではなく、善悪に連なる価値であり、それらは倫理的善という目的のための手段だと判断します。なので、それらの価値は幸福という上位価値に対する下位価値だと考えます。
「功利主義においては自由の価値は、社会全体の幸福の価値から派生するものと言える」の中の「社会全体の」という箇所を除けば、児玉氏の発言は正しいと思います。
5.快楽の質と量
功利主義において快楽や苦痛とは何を意味するのかについては、ベンサムの『序説』「第五章 快楽と苦痛、その種類」を見れば、おおよそ見当がつくでしょう。
児玉氏は、快楽の質と量の問題について書いています。
「彼(ベンサム)の有名な言葉に『快の量が同じであれば、プッシュピン遊びと詩作は同じぐらいよい』というものがある」(140頁)
「実際、わたしがテレビゲームをして楽しんでいると、快楽のソムリエの称号を持っている人たちがやってきて、わたしが全く知らないオペラの方が快楽の質が高いからと、無理やり劇場に連れて行かれても困るし、おそらく幸福にもならないだろう」(143頁)
ベンサムの言も、児玉氏の言も正しいでしょう。
快楽の質と量の問題では、それには質の高低があると言う人がいて、プッシュピン遊びよりも詩作の方が質が高いというようなことを、即座に断言します。しかし、そもそもどのような場合に、あるいはどのような証明がなされたなら、快楽に質の差がある、もしくは、ないと言いうるのか。それについて、一歩立ち止まって、考えてみてはどうでしょうか。
6.善い人間を論じることと善い人間になること
児玉氏は、マルクス・アウレリウスの言葉を引用しています。
「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ」(194頁)
この言葉は知りませんでしたが、読んで笑ってしまいました。
過去から現在までの、道徳哲学または倫理学者という人たち、とりわけ些末な事柄に拘泥している人々を風刺した適切な評言ではないでしょうか。