目次
1.はじめに
去年の前半ですが、朝日新聞を読んでいて、功利主義に言及している記事を見かけました。
それは、青山学院大学教授(法哲学)住吉雅美氏へのインタビュー記事でした。それを切り抜いていたはずなのですが、紛失してしまいました。探してみましたが、見当たりません。
パソコンで検索したところ、住吉氏が『あぶない法哲学』(講談社現代新書、2020年刊)という本の著者であること、その中に功利主義を論じている箇所があるのを知りました。それで、同書を購入して、読んでみました。
功利主義を対象にしているのは、「第六章 大勢の幸せのために、あなたが犠牲になってくださいー功利主義」です。
以下で、その章で述べられている事柄を論じます。
2.功利主義の考え方?
住吉氏の著書から、引用します。今回の記事の引用は、長くなります。
「たとえば、こんな例を考えてみよう。プレミアム・グッズ付きコミックスが店舗に並べられた途端、一人の熱烈なファンが全部買い占めてしまった。抗議する他の客に対し、そのファン曰く『自分は誰よりも昔から熱心にこの漫画を愛しているファンだし、開店前から並んでいたし、ちゃんと自分のまっとうな貯金で買ったし、法に触れることなんて何もしてない。どこが悪いの?』。(中略)
一方で、この例を功利主義の立場から見ると、買い占めファンの権利の完全行使は、他の多数のファンのグッズ付きコミックスを入手するという幸福を奪い、その結果『最大多数の最大幸福』の実現を妨げるから、ゆるされないということになる。功利主義的思考の利点は、『最大幸福』を独り占めするのではなく、みんなで分かち合うことを求める点にある。
いま検討している例において、たとえば100個あるグッズが総量100の幸福をもたらすとしよう(幸福を量化できるのかという問題はさておいて)。グッズを買い占めファンが独り占めすれば、その人は1人で100の幸福を満喫することになるが、他の買えなかった99人は幸福ゼロになる。それでも幸福の総量は100であるが、その100は1人の人間に享受されているだけなのである。それに対して、買い占めをやめ、グッズが1人に1個ずつ購入されるならば、1人あたりの幸福は1であるが、そういう人が100人いることになって結果的に幸福の総量は100になる。100×1+0×99=100がよいのか、それとも1×100=100がよいのか。功利主義は後者をとる。1人あたりの幸福量は減るにもせよ、全員が幸福になった結果として幸福の総量が最大になる方がずっとまし、というのが功利主義の考え方なのである」(137-138頁)
住吉氏は、「 100×1+0×99=100がよいのか、それとも1×100=100がよいのか。功利主義は後者をとる」と書いています。しかし、当然のことですが、前者と後者は100対100で、幸福の総量は同じなのですから(100=100)、「功利主義は後者をとる」となる訳がありません(笑)。
100対100の場合は、どちらもとってはならない、と両者を禁止するのは不自然なので、どちらをとっても良い、と考えるのが自然でしょう。
J・ベンサム(1748-1832)著『道徳および立法の諸原理序説』(山下重一訳、『世界の名著 38』所収、中央公論社、1967年刊)を読めば分かりますが、功利主義の公式は、
幸福の総量=快楽の総量+苦痛(不快)の総量
です。
なので、「買い占めファンが独り占めすれば、その人は1人で100の幸福を満喫することになる」としても、「他の買えなかった99人は幸福ゼロになる」訳ではありません。「苦痛=ー快楽」なので、他の買えなかった99人は幸福がマイナスになります。ですから、100×1+(-1)×99=1がよいのか、それとも1×100=100がよいのか、の選択になります(1<100)。
さらに、買い占めファンは、「自分は誰よりも昔から熱心にこの漫画を愛している」と考えているかもしれませんが、買えなかった99人の人たちの中にも、同様に考えている人がいるかもしれないので、買い占めファン1人の幸福の量だけ100で、買えなかった99人の各人の幸福の量を1だと想定する訳にはいきません。前者も後者も、一人当たりの幸福の量は同一だとしなければなりません。
すると、こうなります。
買い占めファンが独り占めした場合。
1×1+(-1×99)=-98
一方、グッズが1人に1個ずつ購入された場合。
1×100=100
-98対100(ー98<100)になるので、「功利主義は後者をとる」になります。
これが、功利主義の考え方だと思います。
3.「選別」しなければならないのは功利主義だけではない
住吉氏は、書いています。
「私は二〇一八年の夏、札幌で深夜にとんでもない大地震に遭遇した。北海道胆振(いぶり)東部地震である。その直後からブラックアウト、北海道全域にわたる大停電が始まり、きわめて長時間の停電に困惑した。私の居場所では通電までに三九時間を要した。しかし、地域によってはそれよりももっと早く通電したところがあった。役所、放送局、病院、警察、大学などがあるエリアは比較的早く回復した。一挙に全面回復できない場合には、可及的速やかに電気を必要とする施設、つまり病院や放送局などが優先されざるを得ないことは理解できる。だがその一方で、スーパーや飲食店は電力の回復が遅れ、結果的に多くの生鮮食品をダメになってしまい、また乳業も大ダメージを受けた。
行政が限定された財、希少な財を人々に分配する時には、どの層に、なにゆえに優先的に与えるかを即座に判断しなければならない。その判断においても功利主義が用いられるのだが、最大多数の最大幸福のためにどう分配すべきかを考えることはなかなか困難である。なぜなら、人々にとっての『幸福とは何か』という問い自体が、簡単に答えの出る問題ではないからだ。そこで、むしろ逆に、最小不幸で済ませよう、という発想になる。社会のどの層の人々に犠牲を被ってもらった方がましな結果になるか、より損失が少なく、また不満の声が少なくなるか、ということを考慮するようになる。こうなると功利主義は、不利益を被る人々を選び出す理論と化す」(141-142頁)
さらに、住吉氏は、こんなことも言っています。
「功利主義は確かに博愛精神に支えられているけれども、それに基づいて限られた財をどう使うか、いかに分配するかを考える場合には、人々を比較して、どのような人々に優先的に利益を与えるべきか(その際どのような人々を後回しする、もしくは切り捨てるか)という厳しい判断を迫られる、ということである」(141頁)
「当初、人々を平等にみてできるだけ多くの人々を幸福にしようという思いから生じた功利主義が、『社会全体の不利益を最小限にしよう』という発想に切り替わった途端、不利益を負わせる人々を探し出す選別思想に転じてしまう」(143頁)
「とにかく一国の政治が多様性への寛容さを失い特定の目的に向かって突き進む時、功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わってしまう」(148頁)
その他、小見出しにも、次のような表現があります。
「人々を選別しなければならない功利主義」(141頁)
「生かす者と死すべき者とを選別するーかなり恐ろしい功利主義」(147頁)(太字、原文)
小見出しには、両者とも「選別」という言葉が用いられていますが、その語が使用されているのは、著者が功利主義に対して、悪意を抱いているからでしょう。選別という言葉を、没価値的もしくは中立な表現にするなら、選択です。
どうも住吉氏は、「選別」しなければならないのは、功利主義だけだと思っているらしい。
「限られた財をどのように使うか、いかに分配するかを考える場合には、人々を比較して、どのような人々に優先的に利益を与えるべきか(その際どのような人々を後回しにするか、もしくは切り捨てるか)という厳しい判断を迫られる」のは、何も功利主義だけではありません。功利主義以外の、他の倫理思想の立場、あるいは政治思想の立場も同じです。
個人の、私的な行動における、Aをなすべきか、Bをなすべきかという問題にしろ、政治経済社会的な選択において、Cの政策を採るべきか、それともDの政策を実施すべきかという問題にしろ、「選別」しなければならないのは、功利主義だけではありません。あらゆる倫理かつ政治思想的立場は、決断しなければならないのです。
ただ、功利主義は、最高善を幸福だと考えますから、AとB、CとDを選択する際は、幸福をより増加させるか、減少させるかによって、どちらを選択すべきかを判断します。選択しなければならないのは、他の思想だって同じなのです。たとえば、人格主義という倫理思想があります。人格主義思想の人たちは、人格の成長ないし陶冶に資するか否かによって、何れを採るべきかを決定しなければなりません。
功利主義には幸福計算という考え方がありますが、功利主義以外の他の思想的立場だって、複数の選択肢の中からどれかを一つを選ばなければならない場合は、〇〇計算は必要なのです。
「計算」をしなければ、AとBの、CとDの選択は不可能だからです。
また、同じ倫理・政治思想的立場の者が、実際の個別な行動や政策の問題において、別々の判断を行うことが往々にしてあります。同じX思想を奉じるa氏とb氏がいて、一方同じY思想を信じるc氏とd氏がいるとします。政府の国防政策にa氏とd氏が賛成し、b氏とc氏が反対する、ということはありえます。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。各人が行う判断が、曖昧かつ恣意的だからです。
功利主義の幸福計算の意義の一つは、選択の恣意性を避けることを目指した点にあります。それに対する批判として、幸福計算はできないとの主張があります。確かに厳密な意味での計算はできません。それは、ベンサムも認めています。
「あらゆる道徳的判断、またはあらゆる立法上、司法上の活動に先立って、このような手続きが厳密に追求されると期待されてはならない」(『原理序説』、115頁)。
しかし、何らかの客観的かつ合理的な基準がないならば、功利主義に限らず、他の思想的立場においても、「選別」は常に恣意的にならざるをえないでしょう。
その他、本節の引用文に関して、住吉氏の主張に対する疑問点が三つあります。
第一。「 行政が限定された財、希少な財を人々に分配する時には、どの層に、なにゆえに優先的に与えるかを即座に判断しなければならない。その判断においても功利主義が用いられるのだが 」
我こそは功利主義者であると自認する人は殆んどいないでしょう。それなのになぜ「行政」で実際に「功利主義が用いられる」と言えるのでしょうか。「行政」で「功利主義が用いられ」ている根拠を示して欲しいと思います。
世の中には、様々な思想的立場の人たちがいて、またそれよりも、自らが依って立つ思想を自覚していない人の方がはるかに多いでしょう。彼らは功利主義者ではないにも拘わらず、行政の従事者も含めて、人々はAかBか、CかDかを選択しなければならないのです。
第二。「 当初、人々を平等にみてできるだけ多くの人々を幸福にしようという思いから生じた功利主義が、『社会全体の不利益を最小限にしよう』という発想に切り替わった途端、不利益を負わせる人々を探し出す選別思想に転じてしまう 」
なぜ、社会全体の利益を最大限にしよう、が「『 社会全体の不利益を最小限にしよう』という発想に切り替わった途端、不利益を負わせる人々を探し出す選別思想に転じてしまう 」という理屈になるのか。理解できません。前者と後者は、「社会全体の利益を最大限に」するための、二つの方法です。
第三。「とにかく一国の政治が多様性への寛容を失い、特定の目的に向かって突き進む時、功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わってしまう」
この文の理屈も、理解不能です。ヒトラーもスターリンも毛沢東も、そして、戦前のわが国の軍国主義者も功利主義者ではありませんでしたし、「一国の政治が多様性への寛容を失い特定の目的に向かって突き進む時」は、「功利主義は博愛主義から差別と切り捨ての思想に変わっていまう」どころか、そのような時代には、功利主義者は発言できなくなっていることでしょう。
「限定された財、希少な財」が限られている以上、敢えて「不利益を負わせる人々を探し出」さなければならないのは、別に功利主義だけではありません。
4.「一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、犠牲は正当化できる」と功利主義者は考えるか
やはり、引用が長くなります。
「優れた頭脳と運動能力をもつ人々が、内臓に致命的な疾患をもっている。なんとか健康になってその能力を国家のために発揮してほしいのだが、移植できる健康な臓器のストックがない。そこで政府は国民を見わたし、健康な肉体を有しているがこの国にとって生かしておく価値がないと思われる犯罪者やクズ人間をリストアップした。それらの人々を生かしておいても税金の無駄遣いなので、健康な内臓を取り出して、有益な病人たちに移植しようと考えたのだ。一人から心臓、肝臓、目、腎臓、骨髄を取り出し移植すれば、五人を生きながらえさせることができる。生かされた人々は政府に感謝して、その後の人生を国家のために捧げてくれるだろう。一方で国家のために何の役もない税金の無駄遣い連中は死んでくれるし、めでたしめでたし・・・・・・ということになったらどうだろうか?
これはイギリスのジョン・ハリス(一九四五ー)という倫理学者が提起したたとえ話に私が少々味付けしたものだが、単なる絵空事と割り切れるだろうか。もちろんこの例は、医療技術が発達して人から人への臓器移植が必要なくなる時代を迎えれば無効になる話であるが、問題はそこではない。国家目的と功利主義が結びつけば、一人一人の人権をすっ飛ばして国民を選別することも肯定される点が問題なのである。
しかし、さらにこういう提案もありうるだろう。選別が差別でけしからんというならば、皇族も総理大臣も財界の大物もスーパースターも死刑囚も、とにかく国民すべてが一斉にくじを引いて、当たった人が否応もなく臓器を取り出される、というのではどうか?万人相手のくじだから差別にならない、と。たしかに表向き差別ではないが、明らかに人間が臓器の詰め合わせ、つまり物と見られているのである。それでよいのだろうか?
人を、幸福を感じる『主体』としてではなく、幸福最大化のための『手段』として捉えはじめた時に、功利主義は冷酷な選別思想へと一転する」(148-150頁)
第六章の題は「大勢の幸せのために、あなたが犠牲になって下さい一功利主義」(133頁)ですし、その頁には次のような問題が提起されています。
「Q 一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、犠牲は正当化できる?」
住吉氏が以上のように書いているのは、功利主義者ならそう考えるに違いないと思っているからでしょう。しかし、功利主義者は、そのように考えるでしょうか。彼らの中の誰かが、私たちはそのように考えると、どこかで表明しているのでしょうか?
もし功利主義者が上記の論に賛意を示しているのなら、住吉氏の批判は当たっているかもしれません。
先に、功利主義の公式は、幸福の総量=快楽の総量+苦痛の総量、だと述べました。
一人の「犯罪者」または「クズ人間」を殺して、「健康な臓器」を取り出し、五人の「有益な病人たちに移植」するとという案が、社会で採用されたとしましょう。
犠牲になる「国家のために何の益もない税金の無駄遣い連中」が受ける苦痛(殺される恐怖)の量と、「生かされる人々」の快楽(健康な体が持てる喜び)の量を比較した場合、後者の量は前者の量を常に上回っているでしょうか。もし後者の健康な体が持てる喜びの量よりも、前者の殺される恐怖の量の方が、時に上回っている場合もあるのだとしたら、「正当化できる」とは限らない、ということになります。
功利主義の公式で説明するなら、仮に、快楽の総量>苦痛の総量、が常に成り立つなら、移植は正当化できると言えますが、もし時に、快楽の総量<苦痛の総量、だったりするのなら、必ずしも正当化できるとは言えません。
ベンサムは『原理序説』の「第五章 快楽と苦痛、その種類」の中で、「慈愛の苦痛」ということを語っています。その内容は、「他の人々が受けると想像される苦痛を考えることから生み出される苦痛である。それは、好意または同情、慈悲深い感情、または社会的感情の苦痛とも名づけることができる」(122頁)、と。
一人が犠牲になるような移植に対して、「有益な病人たち」五人の中から、「慈愛の苦痛」を感じる人が現れるかもしれませんし、その可能性はあるということです。
だから、「有益な病人たち」だって、他者を殺害して自ら助かることを、皆が望むとは限りませんし、彼らの中に、そんなおぞましい移植は拒否すると言う者が出るかもしれません。そのような移植は、ある者にとっては喜びかもしれませんが、別のある者にとっては苦しみかもしれません。後者にとって、移植は、快楽<苦痛、になります。
そうすると、犠牲になる犯罪者が受ける苦痛の量と、生かされる人々が受ける快楽の量を比べた場合、後者の快楽の総量の方が、前者の苦痛の総量よりも、常に多いとは言えません。
犠牲になる一人が受ける苦痛と、助かる五人が受ける快楽が、具体的にベンサムの快楽と苦痛のリストのどれに該当するかは分かりませんし、そんなことを照合する必要もないでしょう。何れにしろ、殺される一人の苦痛<命が助かる五人の快楽、は常に成立するとは限らないということ、殺される一人の苦痛>命が助かる五人の快楽、もありうるということです。
なので、「一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、犠牲は正当化できる」とは、功利主義者は考えないだろうと思います。
5.必要な二つの証明
住吉氏は、以下の二つを論証する必要があるでしょう。
第一。功利主義以外の倫理・政治思想は、「選別」は行わない。
第二。「一人を殺して臓器移植をしたら五人の命が助かる場合、移植は正当化できる」と、すべての功利主義者は考える、もしくは、功利主義なら、論理的にそう考えなければならない。
それらを証明しなければ、『あぶない法哲学』の第六章は、論として成立しないと思います。
蛇足ですが、「国家目的と功利主義が結びつけば、一人一人の人権をすっ飛ばして国民を選別することも肯定される点が問題なのである」という文言に対して。
私は、この文章の功利主義の箇所は、たとえばマルクス主義という言葉に置き換えた方がピッタリくると思いますが、住吉氏は、ここはやはり功利主義でなければならないとお考えになるのでしょうか。