ジャーナリズムとその敵

1.今年のノーベル平和賞

今年のノーベル平和賞は、フィリピンのマリア・レッサ氏とロシアのドミトリー・ムラトフ氏に授与されました。
前者は、インターネットメディア「ラップラー」の代表かつジャーナリストであり、後者は独立系新聞の編集長です。両者とも、独立系のジャーナリストであるらしい。
因みに、独立系とは、「政府、特定の企業や団体の後ろ盾を持たないジャーナリズム」のことだそうです。

「自由で独立し、事実に基づいたジャーナリズムは、権力の乱用と戦争への扇動から人々を守ることができる」「2人は、民主主義と恒久的な平和の前提となる、表現の自由を守るために、勇気を出して闘っている。民主主義と報道の自由が、逆境に直面する世界で、理想の実現のために立ち上がるすべてのジャーナリズムの代表だ」(「ノーベル平和賞にフィリピンとロシアの政権批判の報道関係者」)

選考委員会のベーリット・ライスアンネシェン委員長は、授与理由の中で、そのように述べたそうです。

2.もっと酷い国がある

受賞した二人の国籍は、フィリピンとロシアですが、当然疑問に思う人もあるでしょう。表現や報道の自由に関して、フィリピンやロシアよりももっと酷い国があるのではないか。

世界報道自由度ランキング」によれば、フィリピンは138位、ロシアは150位です。最下位は180位のエリトリアとのことで、ロシアからエリトリアまで29カ国あります。
その中には、中共177位、北朝鮮180位があります。

考えるべきなのは、どうしてフィリピンやロシアよりも下位の国のジャーナリストはノーベル平和賞の対象にならないのだろうか?
ということです。

3.政府から独立したジャーナリズムのある国ない国

フィリピンやロシアは、政府から独立したジャーナリズムのある国です。そして、ぎりぎり独立系ジャーナリズムも存在するのでしょう。
全体主義国には国営放送や新聞があるだけで、政府から独立したジャーナリズムも独立系ジャーナリズムもありません。180位の北朝鮮には、両者は存在しません。

「ドミトリー・ムラトフさんが編集長を務めるノーバヤ・ガゼータ紙は政権批判をひるまず続ける。ロシアの言論の最後の砦とも見られてきた。それが逆に、同紙の存在が『ロシアに言論の自由がある証し』だと、体制側の言い訳に使われることがある」(10月9日付朝日新聞)

そうかもしれません。しかし、やはり「言論の最後の砦」がない国よりも、ある国の方が増しなのです。政府から弾圧を受けていると言っても、政府から独立した、あるいは独立系ジャーナリズムのある国は、ない国よりも報道や表現の自由がある国なのです。

どうして政府から独立したジャーナリズムのない国のジャーナリストは、ノーベル平和賞の対象にならないのでしょうか。
そのような国の報道や言論機関には、表現や報道の自由はありませんし、そこで働く人たちは、国家の公式見解しか表明できません。その線から外れた報道等を行えば、失職や収容所送りになったりして、その存在が闇から闇へ葬られ、世界の知るところとはならないからでしょう。

4.自由国家・半自由国家・無自由国家

報道や表現の自由という観点から、全ての国家は、三種類に分けることができるでしょう。
普通に自由な、政府から独立したジャーナリズムのある国と、独立したジャーナリズムはあるけれども、権威主義的な政府によって恒常的に圧力を受けている国と、そもそも独立したジャーナリズムなど存在しない国です。
第一の国は自由国家であり、第二の国は半自由国家であり、第三の国は無自由国家です。
自由国家の例は、冷戦時代からの西側諸国や日本、半自由国家は戦前の日本やかつての軍事政権下の韓国や国民党政権下の台湾のような国です。一方、無自由国家の典型は、冷戦時代のソ連や中共であり、冷戦前から今日にいたる北朝鮮のような国です。

本来なら、自由国家のジャーナリズムは、半自由国家よりも無自由国家をより批判すべきです。
ところが、今日の北朝鮮のような無自由国家やそれに近い中共は社会主義国であり、自由国家のジャーナリズムやインテリは左翼に傾きがちで、社会主義国を余り批判しませんし、そのような国の見えざる報道や表現の不自由には、関心を寄せません。その結果、もっと酷い状況下にある無自由国家の、報道他に従事する人たちの中の、ごく一部の政府に批判的な人たちの反抗は知られないままである一方、いくらか増しな、その活動が知られる半自由国家のジャーナリストに脚光が当たることになります。
それが、今年のノーベル平和賞となって表れたのだと思います。

5.ジャーナリズムとその敵

自由国家や半自由国家のジャーナリズムの役割の一つは、権力を監視することです。
一方、無自由国家のジャーナリズムは政府と一体であり、彼らの監視の対象は、むしろ一般民衆です。

無自由国家の民衆の敵は、国家権力です。では、自由国家の民衆の敵も、国家権力なのでしょうか。勿論、そういう面もあります。しかし、マスゴミという言葉が象徴するように、国家権力と並んで、マスメディアも民衆の敵の一つなのです。

なぜでしょうか。
自由国家のジャーナリズムは、玉石混交で、事実に反する報道を行うメディアが少なくありません。しかも、そのようなメディアでは、進歩的イデオロギーに沿った報道が優先され、それに反する事実には、報道しない自由が発動されます。虚偽の吉田清治証言を、30年以上にもわたって隠蔽し続けた朝日新聞が、その代表例でしょう。
そのために、自由国家の民衆は、マスメディアを余り信用していません。

10月9日付朝日新聞の社説「ノーベル平和賞 民主主義を守る報道の力」の、一部を引用します。

「米国では、前大統領が意に沿わぬメディアを『民衆の敵』と非難した。さらには、根拠も示さぬまま選挙の不正を訴えるなど、指導者自らが事実を曲げる事態が生まれた。
為政者が事実を語らず、不都合な報道を封じる社会に、健全な民主主義はありえない。それは、日本を含む各国の指導者が改めて認識すべきである」

「根拠も示さぬまま選挙の不正を訴えるなど、指導者自らが事実を曲げる事態が生まれた」と言いますが、昨年11月3日に行われた大統領選挙での、不正の根拠は、バイデン氏の得票数です。過去の大統領選挙と比べても、あるいは、コロナ禍で盛り上がりを欠いた(トランプ氏の演説会が盛況だったのに、バイデン氏のそれは閑散としていた)にも拘らず、バイデン氏の得票数は異様に多い。今後選挙を積み重ねることによって、それがますます際立つになるでしょう。
そのような指摘が挙がっているのに、左派メディアはそのような声を無視する。そして、「根拠を示さぬまま選挙の不正を訴える」などと、米左派メディアの文言を鸚鵡返しに繰り返しています。

それはさておき、後段は次のように言い換えることができるでしょう。
メディアが事実を語らず、不都合な報道を封じる社会に、健全な民主主義はありえない。それは、日本を含む各国のメディアが改めて認識すべきである。

いい加減な報道が少なくない、自由国家のジャーナリズムは、命をかけて闘っている半自由国家のジャーナリストの姿勢に、もっと学ぶべきではないでしょうか。そして、国民に信頼されるような報道に務めて欲しいと思います。

日英同盟終焉とその教訓

1.総説

黒野耐氏は『戦うことを忘れた国家』(角川書店、<角川oneテーマ21>、2008年刊)に書いています。

「(一九)十七年七月に第一次世界大戦が勃発すると、日本は英仏露などの連合国側に立って参戦しましたが、彼らが求めた陸海軍主力の欧州派兵には応じることなく、大戦に忙殺されている間隙を突いて、極東における権益の拡大に奔走しました。一方、アメリカは総力戦の死命を制する兵站庫として連合国を支え、一七年一〇月になると陸軍を派遣して(最終的には二百万人の兵力を投入)、連合国の勝利に大きく貢献しました。
イギリスには、日本との同盟よりもアメリカとの提携がはるかに大きな利益となりました。そのアメリカから日本との二者択一を迫られたイギリスは、日本を切り捨てなければならなくなり、日英同盟は終焉したのです」(164頁)

なぜ日英同盟は終わったのか。黒野氏が指摘している通りでしょう。
ただ、この記述を読んで、同盟が終焉した理由を実感できない人も、少なくないのではないでしょうか。日米のある種の数字を比較することによって、それが納得できるようになると思われます。

2.投入兵力と戦死者数

上記には、アメリカの投入兵力は記述されていますが、日本のそれは書かれていません。

ウィキペディアの記述から、改めて、日米の投入兵力を見ましょう。
ウィキの「第一次世界大戦」によれば、参戦国アメリカの兵力は474万3826人に対して、日本は80万人です。日本はアメリカの六分の一ほどです。しかし、わが国の80万人の中身は、「極東における権益の拡大に奔走し」た、たとえば支那の青島や膠州湾を攻略し、あるいは南洋諸島をドイツから奪った戦いでの兵の数も含まれているでしょう。
重要なのは、極東の権益の拡大以外にどれだけ兵力を割いたかです。

一方、私は投入兵力ではなく、戦死者数に着目しました(「同盟国の義務、あるいは両大戦の教訓について」)。
それを見ると、日米の貢献の差が歴然とします。第一次世界大戦におけるアメリカの戦死者数は11万6708人であるのに対し、日本はわずかに415人です(注)!

投入兵力と戦死者数の、欧州地域と、それを含めた世界全体での内訳は不明ですが、投入兵力はともかく、戦死者数を比べれば、日米の貢献度は一目瞭然です。しかも、当時日英は同盟関係にあったのに対し、米英は同盟関係にありませんでした。その後、イギリスが日本よりもアメリカをとったのは、当然でしょう。

因みに、当時イギリス帝国に属していたとは言え、日本同様、主要な戦場となった欧州に位置しない諸国の戦死者数は、オーストラリア6万1966人、カナダ6万4976人、ニュージーランド1万8052人です。英国と同盟関係にあったわが国のそれと比べても、格段に多い。しかも、それらの国の人口は、日本よりもずっと少なかったのです。

第一次世界大戦で、日本が戦力の出し惜しみをしたのは明白です。
そのために、戦後イギリスとの同盟を断ち切られ、当時の世界のメイン・ストリームから外れました。

こういうと、中には、犠牲者をたくさん出せばよかったのかと反発する人もあるでしょう。しかし、その結果が、第二次世界大戦における戦没者三百万人!となって表れたのだと思います。

3.Too little, too late

同盟国の命運をかけた戦いにおいて、兵力および犠牲の出し惜しみしたから、同盟関係を断ち切られ、その後の戦争において、それをはるかに上回る犠牲者を出す羽目になった。それが、日英同盟終焉とその教訓だと思います。

ところが、そういう歴史の教訓がありながら、第二次大戦後の日本は相変わらず、それらの出し惜しみを続けています。
湾岸戦争(1991・1・17~2・28)において日本は、資金協力が小出しだった=遅かったこと、しかも資金協力ばかりで、人的貢献がわずかだったため、Too little, too lateと蔑まされました。また、湾岸戦争後クウェートが米紙に広告を出し、解放に貢献した国々に感謝の意を表明しましたが、その中に日本は含まれていませんでした。
要するに、第一次大戦でも日本の貢献は、Too little, too lateだったのです。

4.メイン・ストリーム

現在世界のメイン・ストリームはどこの国々なのでしょうか。
ファイブ・アイズ(米英加豪新)とEU・NATOでしょう。そして、メイン・ストリームの諸国は、今中共の人権侵害を批判していますし、その覇権国化を阻止しようとしています。
言うまでもなく、メイン・ストリームの中心はアメリカであり、そして、日米は同盟関係にあります。とするなら、わが国もメイン・ストリーム諸国と協調すべきでしょう。

第一次世界大戦と第二次世界大戦の結果、わが国が得た教訓は、
第一、世界のメイン・ストリームから外れてはならない。
第二、メイン・ストリーム諸国との協調においては、Too littleであっても、Too lateであっても、ましてや、 Too little, too late であってはならない、
だと思います。

(注)
日本の戦死者数については、300人とする説もあります。
・「戦争による国別犠牲者数-人間自然科学研究所
・衛藤瀋吉他著、『国際関係論 第二版』、東京大学出版会、1989年、7頁