1.立花隆氏に興味がない
今年4月30日、急性冠症候群のため、ジャーナリストでノンフィクション作家の立花隆氏は亡くなられたそうです。
立花氏は、ベストセラー作家であり、「三万冊を読み百冊書い」たという博識の人であり、知の巨人と称せられました。私も僅かですが、『中核VS革マル』、『日本共産党の研究』や『精神と物質』を読みました。
しかし、世間で持ち上げられるほど、引かれませんでした。
当ブログの最初の記事「はじめまして」に、「(後期)清水幾太郎氏、福田恒存氏、山本夏彦氏、渡部昇一氏を特に尊敬しております」と書きましたが、私にとって、立花氏は彼らに匹敵する著者だとは思えませんでした。
氏には、余り興味がありません。なぜでしょうか。
立花氏がノンフィクション作家で、私が評論家好みだからでしょうか、あるいは、氏と政治的立場が異なっているからでしょうか。
どうもそれだけではないように思います。
2.理系的・文系的
<過去に誰も知らなかった(言っていない)、新しい真理を発見した人物が、最も偉大な知性である>
これは、いわゆる理系でも、文系でも同じでしょう。ただ、理系と文系とでは、研究の対象が違うために、表出の形態も違ったものになります。
理系の対象は自然です。そして、自然を対象とする科学や技術は日進月歩なため、常に最新が追い求められます。民主党政権時代、スーパーコンピューター開発の予算を巡る攻防の際に、蓮舫議員が「世界一になる理由は何があるんでしょうか? 2位じゃダメなんでしょうか?」と言ったそうですが、世界中の研究者は真理に真っ先に到達することを目指して鎬を削っています。ノーベル賞を受賞するのも、真理を最初に発見した人のみです。
一方、<新しい真理を発見した人が、最も偉大な知性である>という点は、文系も変わりません。が、その対象は人間です。人生、友情、恋愛、親子関係、戦争、平和・・・・それは、人類が有史以来ずっとやってきたことです。日の下に新しきことなしということわざがありますが、それらの事柄に関する重要な真理を、過去の人が既に、しかも明確に述べているかもしれません。そして、現在の人間が付け加えることができるのは、わずかな事かもしれません。
だから、理系にとって最先端は現在にありますが、その性質上、文系にとって最先端は過去にあります。理系は最新を指向し、文系は最古を指向する。
理系の、たとえば100年、200年前の論文は、科学史家以外は読まないでしょうが、文系の優れた過去の著書・文章は、千年前、二千年前であろうと現在でも読むに値します。
文系の偉大な知性とは、再読、三読に値する本を書いた人です。この点、音楽と同じです。音楽も今現在に作られたもの、今流行っているものが最も優れたものという訳ではありません。過去の作曲家の作品の方がはるかに優れた曲があります。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンは、現代でも大勢の人たちによって、繰り返し聴かれていますし、彼らの生み出した傑作が音楽の最先端です。
3.最新しかない
立花氏が対象としたのは、その当時に世間で話題となったり、問題であったりした事柄です。中核派と革マル派、田中角栄、脳死・・・・。氏は、いわば、常に最新を追求しています。一種、理系的です。しかし、それが故に、書かれたものが対象とともに古くなる可能性が高い。
立花氏は理系の研究者でもないのに、なぜ最新を求めるのでしょうか。
なるべく流行語を使わないようにしなければならないとの準則が、小説家にはあるようですが、それは新語は往々にして時が移れば死語になるので、文章はそこから古くなるからであるらしい。
同様に、立花氏の著書の場合も、専らその時代に流行した対象を扱ったが故に、そこから古くなっているのではないでしょうか。公刊当時はベストセラーだった著書も、時の経過とともに世間の関心が薄れざるをえません。
なぜ私は立花氏に余り興味がないのでしょうか。氏の著書は、ジャーナリスティックであって、再読はともかくも、三読、四読に耐ええないからだと思います。
ノンフィクション作家を志している人なら、立花氏の著書を何度も読み返し、研究する必要があるかもしれません。しかし、私たち一般人はそんな必要がありません。要するに、書かれたものが、三読四読に値するかどうかです。
ドイツの哲学者ショーペンハウアーは書いています。
「文士は流星・遊星・惑星というふうに分類できる。第一の者は瞬間的場当たりを提供する。みんなが空を仰いで『ほら、あれだ!』と叫んだと思うと、それっきり永遠に姿を消してしまうのである。惑星・遊星にあたる第二の者は、はるかに長持ちする。これは恒星に近いおかげで、ときには恒星以上に明るく輝き、素人からは恒星とまちがえられる。しかしとかくするうちに場所を明け渡さざるをえなくなり、その光というのも借り物にすぎず、その影響する範囲は同じ軌道を走っている仲間(同時代人)に限られる。彼らは動き、変化する。二、三年にいのちで一まわりするのが彼らの仕事なのだ。第三の者だけが不変で、天空にしっかりと座を占めており、自分の光をもっている。そして一時代のみならず、他の時代にも影響を及ぼす」(『随感録』、秋山英夫訳、白水社、8頁)
立花氏は巨星なのかもしれませんが、恒星ではなく、惑星なのだと思います。