差別と人間観察

1.人文・社会科学の基礎

一般的に言って、自然科学は自然が研究の対象であり、人文科学、社会科学は人間がその対象です。学問が細分化し、また技術的になっているためにあまり意識されませんが、人文・社会科学の基礎には人間観察があるべきでしょう。
当ブログでは、広義の政治を扱っていますが、政治もまた人間が行っていることなので、その研究(私は学者ではないので、研究というよりも観察に過ぎませんが)の基礎には、政治における人間性の探求があって当然でしょう。

人間観察とは、自己と他者の観察です、とりわけ自己観察です。自己観察とは、自己の心と行動の観察です。
私たちは他人の心を直接知ることはできません。なので、自己の心を覗いて、他者の心を推し量ります。

私の心はこうである。
私は人間である。
故に、人間の心は(他者の心も)こうであろう。

行動についても同じです。

私の行動はこうである。
私は人間である。
故に、人間の行動は(他者の行動も)こうであろう。

2.エドマンド・バークの名言

いわゆるモラリストと呼ばれる著述家たちがいます。モンテーニュ(1533-92)やラ・ロシュフコー(1613-1680)といった人たちが、それに相当します。彼らは、「人間の行動や振舞い全般を省察」しました。人間観察家と言って良いでしょう。
彼らの著書が今でも読み継がれているのは、読者が自らを省みて、彼らの述べていることに、思い当たる節があるからです。
モラリストたちが、

私の心はこうである。
私は人間である。
故に、人間の心は(他者の心も)こうであろう。

と考えなかったなら、彼らの作品は生まれていなかったでしょう。

さて、エドマンド・バークの名言に、次のようなものがあります。

「人はだれでも、他人の不幸や苦痛を見ると、小さからぬ喜びを感じるものである」

バークが自身を観察して、「他人の不幸や苦痛を見ると、小さからぬ喜びを感じ」たからこそ、他者も同じだろうと推量して、「人はだれでも・・・・」と書いたのでしょう。
他人の不幸は蜜の味、というバークの名言と同じ意味の言葉がありますが、自己観察を行えば、不本意ながらも、そのような心の動きがあるのを認めざるをえません。

ところが、それを認めないといったタイプの人たちがいます。
曰く、「他人の不幸を喜ぶのは不謹慎だし、自分はそんなことはしない」(「『他人の不幸は蜜の味』は科学的に証明済み」より)などと綺麗事を言う。
彼らは、自身の負の感情の存在を認めません。そのような人たちは、自らの内心を見る勇気を持たない人たちです。そして、そのために、彼らは、ある種の政治的な問題になると、途端に「正義派」になります。

3.反差別主義者

たとえば、差別が問題になると、彼らは直ちに反差別主義者に変貌します。

自己観察を行う人は、

私には差別意識がある。
私は人間である。
故に、人間には(他者にも)差別意識があるだろう。

あるいは、

私は時に差別的言動を行うことがある。
私は人間である。
故に、人間は(他者も)時に差別的言動を行うことがあるだろう。

と考えますが、自己観察を行わない人たちは違います。彼らの思考は、下記の通りです。

私には差別意識はない。
人間には差別意識がある人とない人がいる。
故に、後者は前者を矯めなければならない。

あるいは、

私は差別的言動を行わない。
人間には差別的言動を行う人と行わない人がいる。
故に、後者は前者を矯めなければならない。

「矯める」とは、差別的言動を行ったとされる人物を、メディアやSNS上で、反省を促し、反省の言葉を要求し、反省しなければ、するまで糾弾し、袋叩きにすることです。

反差別主義者は、差別をしない人たちなのでしょうか。勿論、違います。彼らだって差別はします。ただ、自己観察が足りなくて、自分の差別意識の存在に、自分の差別的言動に気づいていないだけです。要するに、自分が行っている差別に対して鈍感なだけです。その癖、他者の差別的言動には敏感に反応し、批判の叫び声を上げる。

2018年の『新潮45』8月号に掲載された杉田水脈議員の論文「『LGBT』支援の度が過ぎる」や、今年2月の東京五輪・パラリンピック大会組織委員会会長(当時)森喜朗氏による「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」とのいわゆる女性蔑視発言に対するバッシングは、それを良く表しています(もっとも、杉田氏や森氏の発言が、本当に「差別的言動」に当たるかは疑問ですが)。


自己観察が不十分で、自分は潔白だと信じているから、あんなに苛烈に他者を非難できるのです。自分も潔白ではないかもしれないと、多少なりとも疑いを持つなら、あんなに手酷く他者を非難できないでしょう。
反差別主義者は、常に自己を棚に上げて他者を批判する。

ラ・ロシュフコーは『箴言』に書いています。

「過ちを犯す人々をたしなめる場合、出しゃばるのは、親切よりはむしろ、高慢である。そしてわれわれが過ちを犯す人々を戒めるのは、彼らの過ちを矯めるためでもあるが、それよりは、われわれが過ちなど犯す人間ではないことを、彼らに信じさせるためだ」(『箴言と考察』、内藤濯訳、岩波文庫、24頁)

反差別主義者があんなにも激しく「被疑者」を非難するのは、自己の潔白証明のためなのでしょう。

しかし、いくら否定しようとも、反差別主義者だって差別意識はありますし、また差別的言動だって行います。だから、差別意識も、ひいては差別もなくなることはないでしょう。

中国の覇権国化は許さない

1.台湾の明記

4月17日、菅首相とバイデン大統領の会談がホワイトハウスで行われました。会談後、メディアのニュースで話題になったのは、「台湾の明記」です。
共同声明には、「日米両国は、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに、両岸問題の平和的解決を促す」(4月17日付朝日新聞)との文言があります。
日米の共同文書に「台湾」が明記されたのは、1969年の「佐藤栄作首相とニクソン大統領の共同声明以来、52年ぶりとなる」(同前)とのことです。

中共が核心的利益だと見做す台湾を、しかも半世紀以上日米は公的に言及できなかったのに明記したこと、それも親台湾的な共和党ではなく、親中共的な民主党の大統領によってなされたのは意外でした。

2.「中国」の明記

台湾の明記が話題になりましたが、共同声明を読んで気づくのは、もう一つの明記です。すなわち、「中国」のそれです。

・「自由で開かれたルールに基づく国際秩序への挑戦」
・「経済的なもの及びその方法による威圧の行使を含む、ルールに基づく国際秩序に合致しない中国の行動について懸念を共有した」
・「日米両国は、東シナ海におけるあらゆる一方的な現状変更の試みに反対する。日米両国は、南シナ海における、中国の不法な海洋権益に関する主張及び活動への反対を改めて表明する」
・「日米両国は、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに、両岸問題の平和的解決を促す。日米両国は、香港及び新疆ウイグル自治区における人権状況への深刻な懸念を共有する」

台湾よりも、むしろ中共の、しかもその負の側面に関する記述の方がずっと多い。

3.対中包囲

一方、共同声明には、次のような箇所もあります。

「日米両国は、皆が希求する、自由で、開かれ、アクセス可能で、多様で、繫栄するインド太平洋を構築するため、かつてなく強固な日米豪印(クアッド)を通じた豪州及びインドを含め、同盟国やパートナーと引き続き協働していく」

3月12日には初の日米豪印(テレビ)首脳会談が行われましたし、3月22日にはウイグル族に対する深刻な人権侵害が続いているとして、EU、米、英、加がそろって対中制裁を発動しました。

これらのことを考え合わせると、アメリカとファイブアイズ(米英加豪新)、EU、日韓(?)台、ASEAN、インドなどの、米国の「同盟国やパートナー」が、中共の覇権国化阻止という認識でおおよそ一致し、対中包囲網を形成しようとしているように見えます。
そのスローガンは、<中共の覇権国化は許さない>、ではないでしょうか。
私の希望的観測でしょうか。

4.朝日節

4月17日付朝日新聞の「素粒子」欄からの引用です。

「米中衝突は日本の悪夢だ。
集団的自衛権などに基づく対米支援を求められ、
中国の攻撃対象になる可能性がある。
      ◎
対話によって、緊張が危機に転じる前にその芽を摘む。それが日本の役割だ。単なる米国追従では国民は守れない」

相変わらずの、朝日節です。進歩しない進歩主義者の発想丸出しです。

「米中衝突」を避けるための、対米協調です。
中共の敵が多ければ多いほど、その力が強ければ強いほど、同国は事が起こせないわけですから。