誰が自由を抑圧しているか

1.自由なき社会では

近代より前の時代は、洋の東西を問わずあらゆる国で、近代になっても、自由や民主主義を実現した欧米諸国以外の国では、国民の言論や表現の自由を奪ったのは国家権力でした。

今日でも、共産主義国のような独裁主義国家や近代化が遅れた権威主義体制の国では、国民の自由を奪っているのは、もっぱら国家権力です。

2.自由社会では

では、現在の、日米欧などの、自由で民主的な体制の国では、いまや自由を抑圧する者は誰もいないでしょうか。残念ながら、います。
これらの国では、国民の言論や表現の自由を奪っているのは、国家権力というよりも、各種の社会権力です。

具体的には、新聞やテレビ、その他出版社などのマスメディアやSNS媒体です。
これらの媒体の主流派にして多数派を形成しているのはリベラルです。彼らが、国民に与えて良い情報と、与えるべきではない情報を選り分けています。そして、与えるべき報道や言論は湯水のように国民に提供し、与えるべきではないそれは、制限もしくは封殺しているのです。

このたびの米大統領選挙で、不正投票が行われたであろうことを隠そうとする米国の主流派メディアとそれに追随した=丸写しにした情報を垂れ流すわが国のメディアの報道、そして、不正投票に関する投稿を恣意的に削除する米国のSNS媒体の行為によって、それが明白になりました。

3.リベラル派による自由の抑圧

このようなリベラル・メディアによる情報の選別は、国家や社会を破壊したいという彼らの悪意に基づいているのでしょうか、それとも何らかの利益によって誘導されているのでしょうか。恐らく、綺麗事に傾く、かつ非現実的な彼らの思想に基づく正義感がそのような行動を採らせるのだと思います。

リベラル派による、自由の抑圧の典型的な例を挙げましょう。
2018年『新潮45』8月号に掲載された杉田水脈議員の論文「『LGBT』支援の度が過ぎる」に対して、左派から批判の声が上がりました。その際に、リベラル派は言いました。
「差別的発言に言論の自由はない」

これは恐るべき言説です。
ある発言が差別的であるかどうかの認識は、万人が共有しうるのでしょうか。ヘイト・スピーチに関する議論も同じです。ある発言が、ヘイト表現に当たるかどうか、万人の意見は一致しているのでしょうか。
もしそれが一致しているのなら、差別的発言やヘイト・スピーチに言論の自由はないとの主張も、一理あるかもしれません。しかし、人によって差別的であるか否か、ヘイト表現であるか否かの認識は異なっているのです。
そして、それらが異なっているから、言論や表現の自由が必要とされるのです。

「差別的発言に言論の自由はない」などという人たちは、次のことを前提としています。
私には差別的発言かどうかを判断する能力があり、私とは違った判断をする者には、その能力がない。故に、私とは異なった判断をする者の発言の権利を奪うことは正当である。

「差別的発言に言論の自由はない」という人たちは、自分が神のごとき判断力の持ち主=無謬であることを自明の理としています。自らの無謬を確信しているから、そんな発言ができるのです。

彼らに問いたいのは、次の二言です。
「あなたは、神(唯一神)なのですか?あなたは間違ったりしないのですか?」

4.自由社会の自由の敵

真の自由主義者は、自分が可謬であること(間違える可能性があること)を当然のことと考えます。自分が可謬であることを理解するから、他者に対しても寛容になれるのです。
ヴォルテールは、「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言いましたが、リベラルの言動はヴォルテールとは反対です。

「私はあなたの意見には反対だ。だからあなたがそれを主張する権利は認めない」

可謬な人間が、無謬を前提に、自己の正義を他者に強要しようとするから、粛清や虐殺や全体主義が生まれるのです。

今日、日米欧において、自由の最大の敵は、語義矛盾ですが、リベラル派です。
彼らが自らの無謬を反省し、それを改めない限り、自由社会での自由の抑圧は、なくなることはないでしょう。

【追記】
今月4日からブログ記事の検索順位を、全体的かつ一挙に落とされました。
ペナルティを科されるようなことはしていませんし、心当たりがありません。

先日パソコンの先生に見ていただきましたが・・・・現在様子見の状態です。

【追記2】
グーグルが12月4日にコアアルゴリズムのアップデートをしたそうで、当サイトは「被弾」したようです。
かすり傷と致命傷の間ですが、後者の方により近いです。トホホ。
(2021・1・4)