国家の成立以前、まだ人類が少人数の集団に分かれて暮らしていた時代、狩りや漁場の取り合いなどの理由で、隣の集団との間で軋轢が、場合によっては、殺し合いもあったでしょう。その時分、自分の集団は味方であり、相手の集団は敵であったでしょう。
国家の成立後も、領土や国益を巡って、近隣国同士の間で対立が、あるいは戦争もありました。その時は、自国(民)は味方であり、隣の国(民)は敵でした。
ところが、近代になって、進歩思想が生まれました。
マルクス主義によれば、資本主義社会では、人々は資本家(ブルジョア)階級と労働者(プロレタリア)階級に分かれます。そして、何れ資本主義社会は倒れ、労働者階級が主導する、というよりも、皆が労働者階級になった階級なき社会が生まれるはずでした。
資本家階級の利益代弁機関としてのブルジョア政府あるいは国家を打倒するのがプロレタリアの目標になりました。そして、自国であれ他国であれ、労働者階級同士は味方であり、一方、ブルジョア階級は敵でした。ブルジョア国家を打ち倒すために、労働者階級は国境を越えて手を結ぶべきものとされました。
「万国のプロレタリア団結せよ!」
左翼にとって、主敵は国内の敵(ブルジョア)であり、国外の敵は二次的でした。
ブルジョア政府を革命によって覆した社会主義国は、次は他の資本主義国を撃破するために、あるいは同国の虐げられたプロレタリアを解放するために、あるいは資本主義国から自国を守るために、革命の輸出を行いました。
資本主義国に社会主義イデオロギーを浸透させ、時にスパイを放ち、時に同国の協力者をピックアップし、彼らに援助を与えたりしました。
一方、資本主義国の左翼は、自国のブルジョア政府を倒すのを容易にするために、あるいは、あわよくば社会主義国家から自国を解放して貰うために、国内で戦争や武力の放棄を訴えました。
労働者階級は国境を越えて手を結びあうはずでした。けれども、第一次世界大戦では、資本家も労働者も自国のために協力して、他国と戦いました。労働者の国境を越えた団結は、実現しませんでした。
政治学者の矢部貞治氏は階級と民族について書いています。民族を国家に替えても、当てはまるでしょう。
「歴史の現段階では、何といっても民族が基本的で、階級は民族の基盤の上での分化にすぎないことを、否定することはできない。(中略)階級は民族から完全に抜け出ることはできない。労働者が資本家になったり、資本家が労働者がになったりすることはできるが、日本人がスラブ人やゲルマン人になることはできない。(中略)事実において階級意識よりも民族意識の方が圧倒的に強大なことは、過去の大戦争などで如実に示されている。民族存亡の危機に直面すれば、階級意識は容易に後退する」(『政治学入門』、講談社学術文庫、76-77頁)
冷戦が終了し、社会主義思想の影響力も随分衰えました。左翼も主流派が、社会・共産主義者からリベラルへ移り変わりました。
しかし、現在の日本のリベラルは、社会主義者からリベラルへの転向の過渡期にあるためか、あるいは社会・共産主義思想を払拭できていないせいか、いまだに国際主義的です。
リベラル派が異常に敵意を燃やすのは、国内のイデオロギー敵、自民党や同党所属の首相とか、安倍前首相や杉田水脈議員や石原慎太郎氏などの右派タカ派の人物とかで、国外の敵、たとえば公船を尖閣海域に送り込む中共とか、日本人拉致や核兵器の開発やミサイル発射を行ったりの北朝鮮に対してではありません。両国に対しては、実に寛容です。
国内の敵には厳しく、国外の敵には優しい。左翼の、変わらない特徴です。