(下記は、よもぎねこさんのブログ記事、「女性はいくらでも嘘をつけますから 性暴力」への、一回目と二回目のコメントです。)
【一回目】(9月30日)
普通の民主的で、人権の保障された社会では、疑わしきは被告人に有利に、あるいは無罪推定が原則なのですが、左翼は自分たちが敵だと見做す人物、嫌悪する事柄、イデオロギー的に相反する立場に対しては、たとえば安倍前首相のモリ・カケ・サクラ、戦前日本の南京事件や慰安婦問題、弱者(女性)救済イデオロギーに都合の良い伊藤詩織事件などに対しては、途端に有罪推定を適用するんですね。
左派(の主張)には無罪推定。
右派には有罪推定。
が、彼らのモットーでしょうか。
【二回目】(10月4日)
「あること」と「あるべきこと」、事実と価値、存在と当為を区別するのは、今日常識でしょう。
ところが、マルクス主義者はその区別を、ブルジョア的分裂思考と言って否定してきました。
マルクス主義者にとって、真理とは共産主義社会の実現に資する事実のみが真実であって、それに反する事実は真理ではありません。
左翼の目標は社会・共産主義社会の実現から、いわゆる弱者(女性、在日、黒人、LGBT他)に対する差別なき社会の実現に移行したようです。
けれども、目標は変わっても、左翼の真理観は変わっていません。弱者救済に役立つ事実のみが真実であり、そうでない事実は彼らにとって真実ではありません。
左翼にとって真理は、政治の手段であり、下僕にすぎません。
真理だけではありません。よもさんが言うところの、疑わしきは被告人の有利にや証拠主義などの法の原則も、自分たちのイデオロギーに資するものだけか、それに役立つ場合に限り尊重して、そうでない場合は尊重しません。
真理や法の原則に関するそのような思考や行動は異様なのだ、ということを少しも疑問に思わないし、それを指摘しても聞く耳を持ちません。
目の両側を遮蔽され、正面に人参をぶら下げられた馬のように、左翼はイデオロギーという人参しか見えなくなっているのかもしれません。