歴史認識に関する左翼の紋切型に、次のようなものがあります。
かつて西洋先進国はアジア・アフリカその他を侵略し、植民地支配を行ったけれども、それを謝らない。だからと言って、戦前日本がアジア、とりわけ韓国に対して行った植民地支配を謝らなくて良いということにはならない。たとえ西洋諸国が謝罪しなくても、日本はちゃんと謝罪すべきである
というのです。
一見もっともな主張ですが、ではそう言うご当人は、自己の過失について、相手に対してちゃんと謝っているのでしょうか?
冷戦時代、資本主義は何れ社会主義に取って代わられると多くの人たちが信じていました。その時代、社会・共産主義者は、未来は自分たちに味方していると、意気揚々でした。
彼らは、社会主義の旗を振り、いまだその旗の下に集まらない者、それを支持しない者に対し、社会主義体制の優位や必然性を説き、あるいは組織に誘い、組織を抜けたいと言えば、脅しまたは爪はじきにしました。
一方、社会・共産主義の反対者に対しては、右翼、反動、資本主義の走狗(手先)のレッテルを貼り、彼らの言論を左傾化した主流派メディアから閉め出しました。
しかし、その後社会主義の盟主ソ連は解体し、中共や北朝鮮の政治的・経済的行き詰まりも明らかになり、そして、冷戦は終了しました。
今日、冷戦の終結から三十年経ちましたが、冷戦時代社会・共産主義者だった人で、冷戦後その過ちを表明した人が何人いるでしょうか。社会主義に同調しないが故に他者を批判、心理的に傷つけ、あるいはたとえば、学生運動などで、機動隊員に石を投げ、彼らを身体的に傷つけた人たちのうち、誰がそれを謝罪したでしょうか。
西洋諸国がアジア・アフリカを侵略したことを謝らないからといって、日本がアジアに対する侵略を謝らなくても良いことにはならないという左翼の主張が正しいのなら、他の社会・共産主義者だった人たちが、冷戦後反省を表明しないからと言って、あなたが!謝らなくても良いということにはならないということになりませんか?
歴史問題で、政府や右派が反省や謝罪をしないと非難するよりも、自らがまず冷戦時代におかした過ちを反省し、謝罪の手本を示したら良いと思います。
ところが、左翼は殆んど誰も、反省も謝罪もしません。なぜでしょうか。
<他人の過失を責めるは易し、自分の過失を認めるは難し>だからです。
戦前日本の「侵略」は、左翼=反日派にとって他人事です。だから、容易に謝罪の要求ができるし、その態度が居丈高になるのです。一方、自分の過失は、自身のことだから反省も謝罪もできないのです。
ある左翼が個人的な問題で過失をおかしたとしましょう。彼は素直に、反省の姿勢を示すでしょうか。示さないでしょう。
なぜちゃんと反省や謝罪をしないのかと詰ったら、彼は何と言うでしょうか。
たぶん、次のように言うでしょう。
「お前(皆)だって、同じようなことをやっているじゃないか」
植民地支配は当時の主な先進国がやっていたことです。それはいわば、当時のグローバル・スタンダードでした。そのような行為を、私たちが現在の価値観で道徳的に断罪するのは無意味です。
そんな無意味なことをする暇があるのなら、現在進行形で行われていて、しかも今日の価値観から見ても不当な侵略を非難すべきです。
中共が行っているチベットやウイグルに対する植民地支配、東シナ海や南シナ海での侵略、台湾に対する威嚇、それらに対し、抗議をすべきです。
ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、1985年の演説で述べました。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」
しかし、現実は逆です。現在の不正に気がつく者だって、過去の不正に気がつくとは限りません。が、現在の不正に気がつかない者が、過去の不正にだけは気がつくということなどありえません。
だから、むしろこう言うべきでしょう。
「現在に目を閉ざす者は、過去を語る(批判する)資格がない」
左翼は、戦前の先人たちの行為を云々するよりも、まず自分自身の過失を問題にすべきです。第一、冷戦時代に自分がおかした罪と、第二、現在の中共の侵略等を見て見ぬふりをしている罪とです。
戦前日本の過失を論うのはそれからにすべきです。
私自身は、戦前のわが国の行為を反省や謝罪するのは無意味だと思いますが、一歩譲って、西洋諸国が謝罪しなくても、日本は謝罪する必要があるとしましょう。
それなら、今後左翼が手本を見せてくれるであろう、二つの過失に対する見事な謝罪っぷりを見せて貰ってから、それを参考に戦前の行為の反省や謝罪を考えたら良いと思います。
もし、左翼が反省も謝罪もしなかったなら?
戦前の日本の行為に対して、反省も謝罪もする必要がないことを、彼らが身をもって示してくれたと解釈すれば良いのだと思います(笑)。
【追記】
左翼とは、20世紀の左翼=社会・共産主義者と21世紀の左翼=リベラルのことです。