また、「差別意識はなくならない」から引用します。
「差別という観点から考えると、左派にとって人間は二種類に分けられます。差別する人としない人です。
差別する人としない人の二種類の人間がいると考える左派は、右派や大衆=差別をする人、自分たち=差別をしない人だと考えます。そして、前者が意識を変えれば、社会から差別がなくなると信じています。(中略)
左派の人たちは、自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます」
左翼は、「自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます」。だから、社会で差別が問題になった時の、それを批判する時の物言いが物凄くエラソーなのです。以前存在した「レイシストをしばき隊」などその典型でしょう。差別やヘイト(スピーチ)を糾弾する時の、彼らの表情を見てください。自分だけが正義を体現していると思っている!
最近のブラックライブズマターに関する一部の人たちの(たとえば、西崎文子同志社大学教授や荒このみ東京外大名誉教授の)発言を見ていると、やはり同様の印象を受けます。彼らはBLMの暴力的行動を見て見ぬふりをしているか、その暴力的行動をも造反有理として許容しているように見えます。
差別などしないし、差別意識もない人はいるでしょうか。
そんな人間などはいません。
だから、次のように書きました。
「差別という観点から考えると、右派の私も、人間は二種類に分けられると思います。自分に差別意識があるのを自覚している人と、その自覚のない人です」
左翼は、差別をしない人、ではなく、差別意識があるのを自覚しない人です。要するに、自分のやっている差別に鈍感なだけです。彼らだって、差別意識はありますし、時に差別を行います。だから、彼らを観察していると、いつかしっぽを出します。
左翼は、自分の行う差別には鈍感ですが、他人の行う差別には敏感なので、そのうち仲間の中に差別主義者を発見します。そして、お互いに非難合戦を始めます。もっぱら、急進左派が、穏健左派の言動を槍玉に挙げるようになります。
共産主義的左翼が、お互いの中に反革命的言動を見つけては、相手を告発、そして粛清をしたのと同じです。
左翼の追及の激しさとその風潮に圧されて、一般社会では、人々は他人の罪の告発と自らの潔白証明で、精神を消耗して行くでしょう。
そして、左翼のそのような差別摘発運動によって、息が詰まる社会が生まれます。
左翼は根本的に考え違いをしているのです。
皆誰にでも差別意識はありますし、それは左翼だって例外ではありません。彼らはそれを認めるべきなのです。そうすれば、他人の行為のうちに差別を発見した時も、自分のこととして考え、あるいは相手に対してもう少しやんわりと窘めるような言い方をするようになるでしょう。
福田恒存氏は書いています。
「近頃は、正義の主張者がことごとく原告を氣取るので困る。やはり自分の奉じてゐる眞理だけは迷信ではないと考へてゐるからだ。それなら、もつとよく考へる訓練をすれば、正義の主張もうしろめたいことだと感じるやうになり、被告席からそれをするやうになるだらう」(注)
皆無実ではないのだから、差別を批判する、あるいはその改善を求める主張は、福田氏が言うように、原告席からではなく、被告席からなすべきです。
そうすれば、他人を吊し上げる必要のない、息の詰まらない社会が実現できるはずです。
(注)福田恒存著、『福田恒存全集 第五巻』、文藝春秋、444頁