「裏の桜」さんの、3月15日公開のブログ記事「・・・の通りと実感します」に、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)(紀元前100-紀元前44)の言葉が引用されています。
【人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない】
カエサルもそんなことを言ったんですね。初めて知りました。
ところで、「見たいと欲する現実しか見ていない」のは、とりわけ近現代の左翼、社会・共産主義者とリベラルとばかり思っていました。それか、せいぜい中世の、宗教戦争時代の当事者、カトリックとプロテスタントの狂信的な人たちぐらいにしか考えていませんでした。が、カエサルは古代の人です。
古代の人たちでさえ、「見たいと欲する現実しかみていない」ようなことがあったのかと、妙に感心させられました。
このカエサルの言葉から分かるのは、
第一、人間は昔も今も変わらないということです。
「歴史教科書の偏向を正す最も簡単な方法」に書きましたが、<歴史は勝者によって書かれる>という言葉はナポレオンも、チャーチルも、ジョージ・オーウェルも述べています。偉い人は、同じ認識に達するのだということが分かります。
竹山道雄氏は「人は幻のように世界を見る」に、
「『このように見よ』という教条のようなものがあって、人間はそれに合わせて世界を見る」(1)
と、また『昭和の精神史』にも、
「人間はなまの現実の中に生きているのではなくて、彼が思い浮かべた現実像の中に生きている。もし彼がはげしい要求をもっていると、彼はこの現実像をただ要求にしたがって構成して、それをなまの現実とつき合わせて検討することを忘れてしまう。かくて、いわば『第二現実』とでもいったようなものが成立する」(2)
と書いています。山本夏彦氏も「理解は能力ではなく願望である」他の発言があります。
両者とも、カエサルの「人は見たいと欲する現実しか・・・・」と同じようなことを述べています。
カエサルは、軍人、政治家であるとともに、『ガリア戦記』を書いた文筆家でもあります。彼が竹山氏や山本氏と同じようなことを言っているのを知って、時代的には逆ですが、初めてカエサルの偉大さが実感できました。
カエサルの言葉から分かるもう一つのことは、
第二、賢者は同じことを語ってきたということです。
(1)竹山道雄著、『歴史的意識について』、講談社学術文庫、57頁
(2)竹山道雄著、『昭和の精神史』、講談社学術文庫、60頁