核兵器の問題を解くのは誰か

核兵器に関する問題あるいは専門分野は様々あるでしょうが、各々の専門家は誰なのでしょうか。

核兵器の開発の専門家は物理学者です。
自国が核兵器を保有すべきかどうかを決めるのは、政治家の仕事です。非民主国では、独裁者もしくは独裁政党が民意を無視してその決定を下します。一方、民主国では政治家は、国民にそれをはかってから(実際は事後承認ですが)決定します。

先の大戦の終戦間際、アメリカは広島市と長崎市に原爆を投下しました。それにより、数十万人もの死傷者が出ました。そのため、戦後のわが国では核兵器廃絶運動が盛んになり、今でもその活動は続けられています。
では、核兵器廃絶の是非、あるいは可能不可能の問題の専門家は誰なのでしょうか。

相対性理論を提唱したアインシュタインも、中間子の存在を予言した湯川秀樹も共にノーベル物理学賞を受賞しました。そして彼らは、核兵器廃絶運動にも積極的にかかわりました。しかし、彼らの理想は今もって実現していません。すなわち、核兵器廃絶の問題を解くのに、彼らは成功しませんでした=失敗しました。

なぜでしょうか。
世間は思い違いをしています。核兵器開発の専門家である物理学者こそが、核兵器廃絶問題の専門家に違いないと。少なくとも、彼らは後者の問題に関して一家言あるに違いないと。
しかし、開発の専門家は、廃絶問題の専門家ではありません。後者は、人間観あるいは政治における人間性の問題です。だから、それを解くべきは、自然科学者ではなく、人文科学者または社会科学者なのです。

ところが、戦後のわが国の人文科学者にしろ、社会科学者にしろ、その多数は戦後七十五年も経つのにいまだに、いわゆる戦後平和主義の枠内から出られずにいます。
だから、彼らから核兵器廃絶に関する適切な回答が得られるはずもありません。戦後平和主義から抜け出せずにいる人文科学者や社会科学者は、核兵器の存廃に関して、人々に幻想を与えることしかできません。

見たいと欲する現実しか見ていない

「裏の桜」さんの、3月15日公開のブログ記事「・・・の通りと実感します」に、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)(紀元前100-紀元前44)の言葉が引用されています。

【人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない】

カエサルもそんなことを言ったんですね。初めて知りました。

ところで、「見たいと欲する現実しか見ていない」のは、とりわけ近現代の左翼、社会・共産主義者とリベラルとばかり思っていました。それか、せいぜい中世の、宗教戦争時代の当事者、カトリックとプロテスタントの狂信的な人たちぐらいにしか考えていませんでした。が、カエサルは古代の人です。
古代の人たちでさえ、「見たいと欲する現実しかみていない」ようなことがあったのかと、妙に感心させられました。

このカエサルの言葉から分かるのは、

第一、人間は昔も今も変わらないということです。

「歴史教科書の偏向を正す最も簡単な方法」に書きましたが、<歴史は勝者によって書かれる>という言葉はナポレオンも、チャーチルも、ジョージ・オーウェルも述べています。偉い人は、同じ認識に達するのだということが分かります。

竹山道雄氏は「人は幻のように世界を見る」に、

「『このように見よ』という教条のようなものがあって、人間はそれに合わせて世界を見る」(1)

と、また『昭和の精神史』にも、

「人間はなまの現実の中に生きているのではなくて、彼が思い浮かべた現実像の中に生きている。もし彼がはげしい要求をもっていると、彼はこの現実像をただ要求にしたがって構成して、それをなまの現実とつき合わせて検討することを忘れてしまう。かくて、いわば『第二現実』とでもいったようなものが成立する」(2)

と書いています。山本夏彦氏も「理解は能力ではなく願望である」他の発言があります。
両者とも、カエサルの「人は見たいと欲する現実しか・・・・」と同じようなことを述べています。

カエサルは、軍人、政治家であるとともに、『ガリア戦記』を書いた文筆家でもあります。彼が竹山氏や山本氏と同じようなことを言っているのを知って、時代的には逆ですが、初めてカエサルの偉大さが実感できました。

カエサルの言葉から分かるもう一つのことは、

第二、賢者は同じことを語ってきたということです。

(1)竹山道雄著、『歴史的意識について』、講談社学術文庫、57頁
(2)竹山道雄著、『昭和の精神史』、講談社学術文庫、60頁

二つの戦争

(これは3月13日公開の、よもぎねこさんのブログ記事「ヨーロッパは医療崩壊を阻止できるか? 習近平ウィルス」へのコメントです)

通常の戦争と対ウィルス戦争と。

新型コロナウィルスの、各国の感染者数と死亡者数を見ると、前者に強い国は後者にも強く、前者に弱い国は後者にも弱いような印象を受けます。

イタリアが戦争に弱いのは定評がありますし、スペイン、フランスのようなラテン系諸国もそうです。

イラン・イラク戦争は長期間続きましたが、両者とも強かったからではなく、弱かったからかもしれません。

李朝は東学党の乱の際は、清国に出兵を要請しました。
近代朝鮮は支那ロシア日本の間を、あっちについたり、こっちについたりしましたし、朝鮮戦争では米支に運命を委ねました。
いつも他力本願です。
この度の対ウィルス戦は、韓国は自力で戦いましたが、その「成果」が数字となって表れているのかもしれません。

第一次、第二次大戦を勝利に導いたアメリカは、感染者数、死亡者数とも比較的に多いですが、いつも遅れて参戦する同国は、まだルシタニア号事件や真珠湾を迎えていない=本気になっていないのかもしれません。

「かもしれません」、ばかりのコメントになってしまいました。

新型コロナウィルス感染症とデマ

オーストリアの哲学者ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)は、「論理哲学論考」の最後に書いています。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(1)

昨年末支那の湖北省武漢市で発生した新型コロナウィルスについて、第四の権力(マスメディア)や第五の権力(SNS)では、洪水のように様々語られています。

しかし、その中のどの情報が真であり、どれが偽なのか明確ではありません。人々はどれを信じてよいのか戸惑っています。
マスメディアにしろ、SNSにしろ、その分野の専門家や、知識あるいは見識ある人の言説を発信すれば良いのですが、問題なのは不確かな情報をタレ流しにしていることです。そのため、聞くべき人たちの発言が、かき消されています。

新型コロナウィルスのような特殊な分野の問題は、素人は安易に発言すべきではないでしょう。彼らは、専門家(中にはいい加減な人もいるようですが)の発言の邪魔をしているだけです。
そのような発言は、社会で不安を煽ることになるし、だから、商店の棚からトイレットペーパーやティッシュペーパーなどが姿を消すことになるのです。

知識や見識のない人が発言を止めれば、本当に聞くべき人の声が聞かれるようになるでしょう。
ウィトゲンシュタインの言葉ではありませんが、

「語りえぬ者は、沈黙しなければならない」

です。

そう言うと、知識も見識もないお前など、真っ先にブログを止めるべきだ、と言われそうですが(苦笑)。

【折々の見識】
当ブログにリンクをつけているよもぎねこさんは、「なぜ今中国からの渡航を拒否するのか? 習近平ウィルス」のコメント欄に書いています。

「習近平ウィルスの問題は、国際社会では完全な情報戦と政治利用の問題になっています。
 でも当のウィルスは政治も情報戦も全く関係なく、科学の法則に従って拡散するのです。

 だからそれを無視して情報戦や政治利用に走ると、結局痛い目に遭うのです」

【折々の名言】
「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ」(太字、原文は〇傍点)(2)

(注)
(1)L・ウィトゲンシュタイン、藤本隆志・坂井秀寿訳、『論理哲学論考』、法政大学出版局、200頁
(2)同上、198頁

歴史教科書の偏向を正す最も簡単な方法

1945年大東亜戦争に敗れ、わが国は連合国から占領憲法と共に、戦勝国史観を押し付けられました。
また戦後、共産圏の拡大及び自由諸国における共産主義イデオロギーの流行もあって、左翼史観がはびこりました。
今日、戦勝国史観と左翼史観がないまぜになった反日史観が幅を利かせ、それに基ずく歴史教科書によって、義務教育が行われています。

1997年西尾幹二氏を会長とする「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、教科書の正常化が試みられました。しかし、作られた教科書の採択率が低かったり、つくる会の内紛もあったりして、教科書の偏向は正されていません。

偏向教科書を、いくらかでも是正する方策はないのでしょうか。
あります。

まず、歴史教科書の内の、ほんの1ページか2ページを、歴史に関する名言に割きます。たとえば、以下のようなものが、列記されます。

名言集および格言集」から引用するなら、

「まったく歴史とは、そのほとんどが人類の犯罪・愚行・不運の登記簿にほかならない」(ギボン「ローマ帝国衰亡史」)

「歴史はくり返す」(ツキュディデス「歴史」)

「歴史は自由な国においてのみ真実に書かれうる」(ヴォルテール「フリードリヒ大王への書簡ー1739/4/27」)

歴史の名言ー名言のウェブ石碑」からも引用しましょう。

「過去の破壊はおそらく最大の犯罪である」(シモーヌ・ヴェイユ)

「われわれが歴史から学ぶのは、われわれが歴史から学んでいないことである」(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル)

その他にも教科書に相応しい名言はあるでしょうし、以上はいずれも教科書に採用されても良いし、されなくても良いでしょう。
しかし、次の文句は外せません。

歴史は勝者によって書かれる

これは普遍的な真実を言い当てています。また、少数派救済イデオロギーを掲げる勢力(リベラル派のこと)が力を増せば、彼らの思想に沿った内容に変更されますし、そのような思想に基ずいて書かれる歴史についても、これは当てはまるでしょう。

この名言一つの掲載で、歴史教科書の九割以上の偏向が正されたことになります。
学生たちはこれを知ることによって、教科書に記述されていることを絶対視しなくなりますし、歴史を自ら考えるきっかけになるでしょう。
もっとも、それは型通りの思考(戦勝国史観や左翼史観)しかできない先生方にとっては、面白くないことかもしれませんが。

「歴史は勝者によって書かれる」、は「名言集および格言集」によれば、ウインストン・チャーチルの言葉とされていますし、ジョージ・オーウェルも同じ意味のことを書いています。また、「歴史の名言ー名言のウェブ石碑」によれば、ナポレオン・ボナパルトの言だという。真理だから、これまでも歴史上の人物が語ってきたし、これからも語るでしょう。
ただ、アメリカのルーズベルトやソ連のスターリンと並んで、第二次世界大戦における連合国側の巨頭であったチャーチルの言葉とした方が、説得力もインパクト(強い影響)もあるでしょう。

歴史教科書を一年間で教えるのは無理で、近現代史までたどり着けないとの教師の嘆きが聞かれますが、微々たる歴史的事実よりも、この名言を教える方が、よほど学生の思考を鍛えることができるし、教育効果も高いと思います。

もう一つ、次のような名言?を採用するのも良いかもしれません。

「敗者(敗戦国)の歴史は、勝者(戦勝国)に追従する敗者の中の裏切り者によって書かれる」