1.誰が表現の自由を「保障する」のか
現在の日本では、表現の自由は一応保障されています。それは、日本国憲法に規定されています。
第二一条 [集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密] 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
「これを保障する」とありますが、だれが保障するのでしょうか。
それらに対する侵害行為は、個々の国民が防げるはずもありませんから、公権力(国及び公共団体)でしょう。
2.誰が表現の自由を侵すのか
では、逆の場合を考えてみましょう。
国民の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(以下、表現の自由等)を侵す(可能性がある)のは誰でしょうか。
公権力または私権力です。
第一は、公権力です。
過去国家権力は、人民の表現の自由等を侵してきました。その反省から、憲法にそれらの権利が明記されるようになりました。今後も、表現の自由等を保障するはずの公権力が、逆に国民の自由を侵す可能性があります。
第二は、私権力もしくは民間人です。
ある特定の政治的立場にたつ個人または集団・団体が、信条の異なる人たちの自由を侵す場合です。
たとえば、少々極端な例を挙げるなら、左派の政治集会に右翼の街宣車が突っ込んだり、右派の雑誌社に極左が火炎瓶を投げ込んだりしたようなケースです。
第一の、公権力による表現の自由等の侵害も、二つの種類に分けられるでしょう。積極的侵害と消極的侵害です。
(1)積極的侵害
積極的侵害とは、古より行われた公権力による人民に対する、表現の自由等の圧殺あるいは制限です。
典型的には、共産主義やファシズムのような全体主義体制では、その圧殺が恒常的に行われましたし、それらよりも緩やかですが、権威主義体制の下でもその制限が行われました。
(2)消極的侵害
消極的侵害とは、積極的侵害とは違って、ある特定の政治的立場にたつ個人もしくは集団・団体の表現の自由等を公権力が優遇すること、あるいは冷遇することです。
ある特定の政治的な個人または団体を優遇することは、その他の思想的立場の人たちの権利を冷遇することと同じですし、ある特定の政治的な個人または団体を冷遇することは、その他の人たちを優遇することと同じです。
公権力による積極的侵害ばかりでなく、消極的侵害も忘れてはならないでしょう。そして、積極的侵害と消極的侵害は、公権力による表現の自由等に対する権利侵害の、二つの形態です。
日本国憲法第二〇条 [信教の自由、国の宗教活動の禁止]の一項には次のような記述があります。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け(中略)てはならない」とあります。これは「宗教団体」のみならず、宗教的個人にも当てはまることでしょう。
また、これは公権力による(この場合は、信教の)自由の消極的侵害を禁止していると解すべきでしょう。そして、公権力による自由の消極的侵害の禁止は、第二一条にも適用すべき原則のはずです。
すなわち、<公権力は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現」において、ある特定の政治的立場にたつ個人または団体に対して、特権または便宜を与えてはならない>のです。
3.表現の不自由展・その後
2019年8月1日に開幕し、10月14日に閉幕した「あいちトリエンナーレ2019」で、物議を醸した特別企画「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展」)は、前節の観点から、<公権力による表現の自由の消極的侵害>に当たると私は考えます。
昨年の12月24日付朝日新聞に、「表現の自由のいま」と題する、大村秀章愛知県知事に対するインタビュー記事が掲載されました。そこで大村知事は語っています。
「僕は法律上、公権力者の立場にあります。行政権限を持ち、公的な美術館の責任者でもある。その僕が『この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ』と言うのは、表現の自由を保障した憲法21条に照らして、決してやってはいけないことなのです。検閲そのものにもなりかねません」
一見もっともな主張のように聞こえますが、それは公権力がある特定の政治的立場にたった表現を、優遇もしくは冷遇していない場合に限り当てはまります。
では、不自由展は、特定の政治的立場の表現を優遇していないでしょうか。明らかにしています。
8月1日の開幕後、不自由展には市民による抗議の電話やメールが殺到し、同月3日早くも中止を余儀なくされましたし、一部の有志がそれに対抗して、10月27日同じ名古屋市で「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」を開催しました。それにより、公権力による不自由展の優遇が可視化されました。
その結果、トリエンナーレは公的な美術館で認められるのに、トリカエナハーレは認められない二重基準に対する批判の声が、ネットで溢れました。後者に対して、大村知事はヘイトだと言っていますが、その判定も恣意的だと言わざるをえませんし、それは「この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ」と言っているのに等しい。
文化庁はあいちトリエンナーレに対する補助金の不交付を決めましたが、それに対して大村知事は同記事で述べています。
「求められた手続きに従って補助を申請し、文化庁の審査委員会で審査されたうえで採決が決定していました。文化庁は我々の手続きに不備があったと言っていますが、いわれのないことです。行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があり、裁量権の逸脱だと考えています」
不自由展の展示品こそ、「行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があり」、そのような政治的に偏向した作品群に対し、クレームをつけない大村氏の不作為こそ、「裁量権の逸脱だと」断ずべきでしょう。
大村知事は、こうも発言しています。
「公的な芸術祭であるからこそ逆に、憲法21条がしっかり守られなければならないのです」
その通りです。
公的な(=公金が投入された)芸術祭であるからこそ、憲法21条がしっかり守られなければならない、つまり、公権力による表現の自由の、積極的侵害のみならず、消極的侵害もあってはならないし、行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があってはならないのです。
大村知事はさらに言っています。
「日本だけではなく世界各地で、分断をあおる政治が台頭しています。こうした分断社会は日本が目指すべき社会ではありません」
第一、「表現の不自由展・その後」は、「公権力による表現の自由の消極的侵害」に該当すること。
第二、その「公権力による表現の自由の消極的侵害」について、大村氏はまったく考えが及んでいないこと。
第三、そのような展示を氏が無理強いしたことが、市民の間で分断を引き起こしていること。
第四、大村氏自身が分断を「あお」った張本人であること。
どうしてそれに気がつかないのでしょうか。
4.蛇足
蛇足ながら、憲法八九条にも疑義を呈したいと思います。
第八九条 [公の財産の支出利用の制限] 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
最低限、次のように改めるべきではないでしょうか。
「宗教上及び特定の政治上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、(中略)これを支出し、又はその利用に供してはならない」