1.トリカエナハーレ展の意義
10月27日、名古屋市で「芸術祭 あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」が開催されました。
そこで展示されたのはライダイハン像や、「ルンルン楽しい日韓断交」「犯罪者はいつも韓国人」と書かれたかるたなどだそうです。
これは言うまでもなく、「平和の少女像」という名の朝鮮人慰安婦美化像や昭和天皇の肖像を燃やす展示があったあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」に対抗して開かれたものです。
トリエンナーレの方が左派偏向の展示(左派が喜ぶ内容)だったとすれば、トリカエナハーレの方は右派偏向の展示(右派が喜ぶ内容)だったと言えるでしょう。
右派偏好の内容であったとはいえ、左派に「表現の不自由展・その後」の政治的偏りを気づかせ、あるいは政治的無関心層に、左派の二重基準を認識させることになった点は評価したいと思います。
トリカエナハーレ展の展示内容を聞いて、左派は一時的に豆鉄砲を食らったハトのような表情になったに違いありません。
2.頑迷な左翼
大村愛知県知事は、トリカエナハーレ展の「展示内容がヘイトスピーチ(差別煽動表現)に『明確に当たる』と指摘した。施設側(県施設「ウィルあいち」)が当日に催しを中止させなかった対応を『不適切だった』と述べた」(10月30日付朝日新聞)とのことです。
しかし、ネットを見ると、トリエンナーレに表現の自由が認められるのなら、トリカエナハーレにそれが認められないのはおかしいとの意見が多数でした。前者は可で、後者は不可というのは明らかにダブル・スタンダードです。
大村知事は、トリカエナハーレの展示はヘイトに「明確に当たる」と述べていますが、ヘイトスピーチの、現行の定義はともかく、公序良俗(「国家社会の秩序と善良の風俗と」『広辞苑』第二版)に反するという点で、トリエンナーレもトリカエナハーレも同類です。だから、<トリエンナーレは可、トリカエナハーレは不可>に対して、異議ありの声が挙がるのです。
大村知事をも含めて左派(注)は、<ある作品が表現の自由に反するかどうかは私たちが決める。そして、私たちの判断は絶対に正しい。私たちがアウトだと見なす作品には表現の自由は認めない>と言っているのと同じです。
表現の自由に関するセーフとアウトの線引きが恣意的かつ自己都合的過ぎるのです。
要するに、彼らは自由主義者ではなく、全体主義者なのです。
(注)
大村知事が以前自民党の代議士だったこともあって、氏は左派ではないという人もあるかもしれません。が、自民党は保守とリベラルの混成政党です。そして、自民党のリベラル政治家が、歴史教科書問題では近隣諸国条項を許し、あるいは慰安婦問題では河野談話を発したのです。
自民党の代議士であったことは、保守派であることの証明にはなりません。
3.両者とも可か、両者とも不可か
ネットではトリエンナーレが可なら、トリカエナハーレも可であって当然だとの意見が多数表明されましたが、では、公的な、税金が投入された芸術祭や美術館(以下、芸術祭等)において、今後両者とも平等に展示が認められるべきでしょうか。
トリエンナーレの展示も、トリカエナハーレの展示も、何れも芸術に名を借りた政治です。それらは、政治イデオロギーの表出以外の何物でもありません。
自民党主催による政治的作品展が、あるいは共産党主導による作品展が、公的な芸術祭等で行われるのが許可されてはならないのと同様に、トリエンナーレの表現の不自由展も、トリカエナハーレの表現の自由展も、認められてはなりません。
余りにも政治的に偏った「作品」は、公的な芸術祭等から排除すべきです。
もっとも、政治的作品といっても、かつての社会主義リアリズムやファシズム・軍国主義リアリズム(?)に基づいた作品を、愚行の歴史的作品(中には良品もあったでしょうが)として展示するのは、あり、でしょう。
数十年後、「表現の不自由展・その後」が、私たちの時代の愚行として、芸術監督の顔写真付で展示されるのは、それはそれとして意味があることかもしれません。
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