左派の言論・表現は、もっと自由である

1.公的部門における

8月1日に開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は同月3日中止になりました。展示物に対する抗議の電話やメールが押し寄せ、安全に続けられない恐れが出たためらしい。
この展示について、左派は表現の自由を守れと訴えています。

しかし、芸術監督津田大介氏が「物議を醸す企画を公立の部門でやることに意味があると考えた」(8月4日付朝日新聞)と述べているのでも分かりますが、この度の事例は、「公立の部門で」なされたから問題なのであって、私立の部門ないし民間でなされたのなら問題はありません。すなわち、表現の自由云々の問題ではなく、税金が投入されている芸術祭に、それらの展示物は相応しいかという問題です。

もし右派が、左派が激怒するような展示品を集めて「表現の不自由展」を「公立の部門でや」ったのだとしたら、先の人たちはその場合も、表現の自由を守れと叫んだでしょうか?

今回の表現の不自由展が、左翼主導のものだったから、曲がりなりにも開催にこぎ着けられたのであって、もし右派によるものだったなら、計画の段階で発覚し、マスメディアで叩かれて、事前に潰されていたでしょう。

「表現の不自由展」は、「左翼的表現の自由展」に改めた方がいいと思います。

2.私的部門(民間)における

「表現の不自由展・その後」は、東京であれ、大阪であれ、名古屋であれ有志が画廊などを借りて開催することはできます。すなわち、現在の日本では、表現の自由は保障されています。
もしそれが、たとえば右翼によって妨害されたのなら一大事で、その時こそ、表現の自由を守れと訴えるべきでしょう。

ところで、問題なのは、左派は私的部門(民間)においてなされる言論に対してでさえ、平然と妨害行動を起こすことです。
昨年杉田水脈議員の論文が掲載された『新潮45』を廃刊に追い込みましたし、今月「韓国なんて要らない」という特集を組んだ『週刊ポスト』に対して、言論封殺的な言動を行いました。
『新潮45』にしろ『週刊ポスト』にしろ、私企業による私的活動であり、税金は注がれていません。民間部門に対する妨害こそ、言論や表現の自由の危機です。

3.言論で勝てなければ、裁判があるさ

左派の特徴の一つは、言論で勝てない場合は、裁判に持ち込むことです。

元朝日新聞記者植村隆氏は、名誉を傷つけられたとして、西岡力氏と文藝春秋を訴えていますし、朝日新聞は小川榮太郎氏と飛鳥新社を訴えています。
植村氏は6月の地裁の判決後の記者会見で、「ひるむことなく言論人として闘いを続けていきたい」と述べていますし、朝日新聞は天下の大言論機関のはずです。
どうして両者とも言論で戦おうとしないのでしょうか。
恐らく、言論では勝ち目がないから、裁判に持ち込むのでしょう。そして、裁判沙汰にして、相手が根を上げるのを期待しているのでしょう。

4.左派のダブル・スタンダード

左派であれ右派であれ、たとえ自分の気に入らないものであっても、言論や表現の自由を認めるべきです。

ところが左派は、自分たちの思想に適う言論や表現は、公的な部門であっても社会に強制して当然と考え、ゴリ押しし、それが批判されるや言論や表現の自由を盾に擁護する一方、自分たちの思想に反する、右派的な言論や表現に対しては、私的な部門であっても、差別やヘイトのレッテルを貼って葬り去ろうとします。
左派の二重基準は甚だしい。

5.『動物農場』的

ジョージ・オーウェルの『動物農場』を読めば、左翼(全体主義者)は変わらないなあと納得させられます。

荘園農場から人間ジョーンズ氏を追い出した動物たちは、彼らだけの農場を作りました。
そこで決められた七戒のうちの七番目は、次のようなものでした。

「すべての動物は平等である」

ところが、その後動物の中の豚が特権階級化し、ある日七戒が一つになっていました。

「すべての動物は平等である。
しかし、ある動物は、ほかのものよりも
もっと平等である」

「ある動物」とは勿論豚のことです。豚の特権階級化を正当化するものに変わっていたのです。
私たちの時代に、左派がモットーとしていて、しかも実践しているのは、次のような「戒律」です。

「すべての言論・表現は自由である。
しかし、左派のそれは、右派のものよりも
もっと自由である」

これを例証する事件はこれまでも起こったし、これからも起こるでしょう。このような言論状況は、当分の間続きます。

【折々の迷言】
「加害者は脅迫者だ。なのに被害者である芸術祭に補助金を出さず、表現の自由を窒息させる。敵を誤った文化庁」(9・27朝日新聞「素粒子」)

加害者は芸術祭で左翼的表現をゴリ押しする愛知県知事と主催者。被害者は納税者。表現の自由の濫用に一矢を報いた文化庁。

藤原帰一氏の「待ったなしの核軍縮」

国際政治学者藤原帰一氏は朝日新聞に「時事小言」というコラムを連載しています。
9月18日付の「待ったなしの核軍縮」に書いています。

「いま世界の核兵器をどのように考えるべきだろうか。一方には、核兵器は廃絶すべきだという議論があり、他方には安全保障のためには抑止力としての核が必要だという主張がある。核兵器に関する議論の多くは、この正反対の立場の間で行われてきた」

どちらかと言えば、私は後者の側ですが、正確に言うなら、そもそも核兵器は廃絶できないという第三の立場です(それでも核兵器は廃絶できない)。

「だが、差し迫った危険として核兵器を見ていない点において、この二つの主張には共通点がある」

「抑止力」派はともかく、「廃絶」派は「差し迫った危険として核兵器を見て」いると、一応考えて良いのではないでしょうか。
それはさておき、「差し迫った危険」があろうがなかろうが、核兵器の廃絶は無理だと私は考えます。

「核戦争は決して遠い将来の危険ではない。日本政府は、緊急の政策課題として核軍縮を実現しなければ現在の平和が失われるという緊張感のなかで核兵器の削減に努めなければならない」

藤原氏自身、「緊急の政策課題として核軍縮を実現しなければ現在の平和が失われるという緊張感のなか」にあるのでしょうか。
それはともかく、「日本政府は、(中略)核兵器の削減に努めなければならない」。
ん?
日本が核兵器を所有しているのであれば、政府の考えで自国の「核兵器の削減に努め」ることができるでしょう。しかし、わが国は核を保有していません。
それに、日本政府が核兵器の削減を呼びかけたところで、朝米露支印パがそれを実行するとはとても思えません。

思えませんが、米露が核軍縮を行ったと仮定しましょう。
両国が大幅な核軍縮を行えば、支那が保有する核兵器の相対的な存在感が増します。そうなった場合、核戦争が起こる可能性は減るのでしょうか。あるいは、とりわけ、私たちの東アジアはより平和になるのでしょうか。

藤原氏は、本気で「核軍縮」は、「待ったなし」だと考えているのでしょうか?

蛇足ながら、指摘します。

「核廃絶を求める者は廃絶が難しいことを自覚し、核抑止を求める者も現実の戦争で核兵器が使われる懸念には目を向けない」

これは、「核廃絶を求める者は廃絶が難しいことを自覚しないし、」とすべきではないでしょうか。

左翼と日米安保条約

1.左翼は日米安保条約に反対だった

冷戦時代、日本社会党にしろ共産党にしろ、左翼は日米安保条約に反対でした。彼らにとって、社会主義は平和勢力であり、資本主義は戦争勢力でした。そして、日本もアメリカも資本主義国でした。だから、彼らは日米安保に反対でした。
もっとも、その間「社会主義は平和勢力」との認識を裏切る事態も、少なからず発生しました。

1989年のベルリンの壁崩壊、1991年のソ連邦解体により、体制選択における社会・共産主義の敗北が明らかになりました。
1994年7月、日本社会党委員長村山富一氏は、従来の党の主張をひっくり返し、日米安保条約の堅持、自衛隊合憲を表明しました。
その後、多くの社会主義者たちはリベラルへ転向して行きます(社会党のほぼ消滅)。その結果、今日左翼の多数派にして主流派はリベラルです。社会・共産主義者は左翼の少数派に転落しました。

2.リベラルは日米安保に賛成だけれど・・・・

社会・共産主義者とは違って、リベラルは一応日米安保条約には賛成の立場です。その点では一歩前進なのですが、その内実はどうでしょうか。
リベラルの安全保障観をもっとも的確に表しているのが、8月4日付朝日新聞の社説「日米安保を考える 9条との両立に価値がある」です。
題名を見て分かるように、リベラルは日米安保と憲法九条の両立を求めています。一方、保守は日米安保と同九条改正の両立を切望しています。要するに、リベラルは日米同盟現状維持の立場ですが、保守はその強化ないし深化の立場です。

3.片務的か双務的か

日米安保条約に関する左翼と保守の総論は以上の通りですが、各論はどうでしょうか。
同社説には、「『片務的』という誤解」という小見出しがあります。

「日本が攻撃されたら、我々は第3次世界大戦を戦う。しかし、我々が攻撃されても日本は我々を助ける必要はない。彼らができるのは攻撃をソニーのテレビで見ることだ」

とのトランプ大統領の発言に対して、

「氏の見方は一面的であり、受け入れがたい。日米安保は両国の利益だけでなく、地域と国際社会の安定に大きく寄与している。(中略)日米安保条約は、第5条で米国に日本防衛の義務を課し、第6条で日本に米軍への基地提供を義務づけた。(中略)米国だけが義務を負う片務的な条約という考え方は、まったくの誤解にほかならない」

トランプ大統領の主張は、「まったくの誤解」ではありません。
また、私だって「米国だけが義務を負う」から今批判しているわけではありません。日米の負う義務に懸隔があるから、片務的だと言っているのです。
もし日本有事の際に、米国が「日本防衛の義務を」はたす一方、自衛隊の犠牲が米軍よりはるかに少なかった場合、どうでしょうか。あるいは、アメリカ有事の際に、日本が米国を助けなかったら?
日米同盟は終わります。

日英同盟の破綻の原因は、第一次世界大戦における同盟国日本の貢献・犠牲の少なさにあります(「同盟国の義務、あるいは両大戦の教訓について」)。
日米同盟をより長期的に維持するためには、より双務的なものに改めて行く必要があります。

4.専守防衛に賛成か反対か

また、次のようにも書いています。

「日本が9条の下で専守防衛を堅持し、非対称であっても、米国と適切な役割分担を図っていくことには、大きな意味がある」

米国の大統領が「適切な役割分担」ではないと言っているのに・・・・
それはともかく、専守防衛というのは、安全保障政策として国際的に通用するものなのでしょうか。

「専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいいます」(1)

ウィキペディアには、次のような記述があります。

「防衛上の必要があっても相手国に先制攻撃を行わず、侵攻してきた敵を自国の領域において軍事力(防衛力)を以って撃退する方針のこと。(中略)相手国の根拠地への攻撃(戦略攻勢)を行わないこと」(2)

敵がミサイルをわが国に向けて発射しても、その基地を叩けないということです。

「このため、有事において日本を防衛できない危険が指摘されている」(3)

当然でしょう。
要するに、専守防衛とは、「日本の政治状況から生み出された独特の防衛構想であり、軍事的な合理性よりも、憲法など内政上の要請をより強く反映いたものである」(4)。
ガラパゴスな国防戦略ということでしょう。

5.有志連合に不参加か参加か

同社説は言っています。

「トランプ政権はいま、中東で船舶の航行の安全を確保するための『有志連合』への参加を日本に求めている。(中略)
日本政府が、従来のような発想で米国を引き留めることを優先させ、誤った政策判断をくださないよう強く求める」

長期的には、日本は自国で自国を守る体制を作るべきでしょう。有志連合への参加はそのための練習になります。練習をし、自国で自国を守る体制を作らなければ、いつまで経っても「従来のような発想で米国を引き留めることを優先させ」ることになります。

5.支那問題

最後に支那について触れましょう。
社説は次のように言います。

「日米安保がいま直面するのは、急速な軍事力拡大と強引な海洋進出を続ける中国である。
そこで重要なのは、中国をことさら敵視し、緊張を高めることではない。軍事に偏重せず、日米安保と9条との両立を図りながら、地道な近隣外交のうえに地域の安定を築くことが日本の利益となるはずだ」

「地道な近隣外交のうえに地域の安定を築く」とは具体的にどのような策をとることなのでしょうか。あるいは、それを実施すれば、「急速な軍事力拡大と強引な海洋進出を続ける中国」を抑制することができるのでしょうか。
肝心なところになると、途端に曖昧になるのは朝日新聞社説の特徴です。論説委員氏の無策振りを良く表しています。
策もないのに、「日本の利益となるはずだ」は無責任でしょう。

7.何をなすべきか

日本は何をなすべきでしょうか。
朝日新聞の主張とは反対の政策を実施すれば大方間違いないと揶揄されますが(笑)、片務的である日米安保を双務的なものに改め、専守防衛というナンセンスを放棄し、中東での有志連合に参加等をなすべきでしょう。
要するに、日本は、憲法を改正して、戦争のできる(戦える)国になるべきです。戦争のできる国になることが、ひいては戦争自体や某国による侵略を抑止することにつながります。
それが、わが国の進むべき道だと思います。

【注】
(1)防衛省・自衛隊:防衛政策の基本
(2)ウィキペディア 専守防衛
(3)同上
(4)コトバンク 専守防衛

週刊ポスト言論弾圧事件と朝日新聞

9月4日付朝日新聞の「素粒子」曰く、

「さて、小学館はどうする。
週刊誌の嫌韓特集が差別的と
批判され、執筆拒否も続出。」

さて、朝日新聞はどうする。
全体主義の側で論陣を張るのか、自由主義の側で論陣を張るのか。
皆前者だと思ってるけどね(笑)。

第四の権力と第五の権力

1.第四の権力とは

『広辞苑』(第二版)によれば、三権分立とは「権力の濫用を防ぎ、人民の政治的自由を保障するため、国家権力を立法、司法、行政の相互に独立する三機関に委ねようとする原理」とあります。

立法、司法、行政の三権と並んで、人民に対して権力を行使しているとされるマスメディアは、第四の権力と言われます。
以前私たちは、政治、経済、社会に関する情報の殆んどを、テレビ、新聞、ラジオなどのマスメディアを通じて得ていました。政治家の不適切な発言をメディアが報じたり、論評したりすることで、大臣の首が飛んだり、時の内閣が揺らいだりしました。

2.第五の権力とは

1990年代からのインターネットの登場によって、マスメディア以外からも情報を得られるようになりました。そして。それは今世紀爆発的に普及しました。もしマスメディアが第四の権力なら、ネットは第五の権力だと言えるでしょう。

私は昨年三月にブログを始めましたが、そして、それまではパソコンは殆んど見ていなかったのですが、ネットを覗くようになってから分かったのは、その情報は早く、しかも深いということです。もっとも、ネットで得られる情報は、見る人の興味や検索能力に応じて懸隔がありますが。
たとえば、新聞は色々な分野の情報を網羅していますが、個別の、自分が関心を寄せるテーマに限れば、情報量は少ないし、質的にも低いのが分かりました。

3.第四の権力の役割

第四の権力の役割は、正確な報道、的確な解説、適切な言論にあります。その他に、立法、司法、行政の三権の、とりわけ政府の監視もあるでしょう。

独裁主義国では、マスメディアは国家権力の一部門です。一方、自由主義国では、マスメディアは国家から独立しています。後者のメディアは、客観的には自由で民主的な体制だから存立できていますし、自由に活動できているのですが、主観的にはまるで独裁主義国の政府を監視し、なおかつそれと闘っているような、自らは英雄的活動を行っているような錯覚に陥っている会社や個人もあります(朝日新聞や望月某記者はその典型)。

ところで、自由で民主的な国の政府は、国民の投票によって択ばれた政府です。すなわち、政府の主張≒国民の考えです。ですから、マスメディアの政府に対する批判的監視が行き過ぎると、国民意識と乖離します。
アメリカの主流派メディアは、トランプ氏の大統領当選を予想できませんでしたし、韓国に対する輸出管理優遇措置の廃止について、わが国の主流派メディアは優遇措置の維持を声高に訴えましたが、国民の圧倒的多数は政府による廃止を支持しました。
自由で民主的な国のマスメディアは、自国の政府に対しては厳しいけれども、非自由で、非民主的な、あるいは自国と敵対的な国の政府は監視の対象外ですから、甘く対する。
その結果、自国を普通に愛する国民の意識とのズレが生じるのです。

わが国のメディアは、戦前政府・軍と足並みをそろえて、国民を戦争に駆り立て、国民に塗炭の苦しみを舐めさせた経験から、戦後は過ちを二度と繰り返さないよう政府を監視しているつもりなのかもしれません。
しかし、冷戦時代の政府は反社会主義だったのに対し、マスメディアは親社会主義でした。メディアの言う通りにしていれば、日本は共産化しているところでした。

戦前と戦後、政府(軍も含む)は一度しか間違えていないのに、マスメディアは二度共間違えました。
どうして私たちは、マスメディアを信じられるでしょうか。

4.第五の権力の役割

もし第四の権力が正確な報道を心がけ、国民に寄り添うような言論を行ってきたのなら、マスメディアに対する批判がネット上でこんなにも氾濫するようなことはなかったでしょう。
マスメディアは角度をつけた報道や言論を行ってきましたし、自社の社論にとって都合の悪い情報には、報道しない自由を行使してきました。

第五の権力の隆盛は、とりわけ第四の権力に対する不信、反発にあります。たとえば、ネトウヨを育てたのは、マスメディアの不誠実な報道や言論でしょう。
第五の権力の監視の対象は、三権もありますが、とりわけ第四の権力です。

5.第四の権力の今後

第五の権力の情報や主張がいつも正しいわけではありません。この点、第四の権力と同じです。両権力はお互いにチェック・アンド・バランスを通じて、よりよき社会を作って行けば良いのだと思います。

さて、第四の権力の今後ですが、どうなるでしょうか。
第五の権力の監視を受けて、反省し、よりまともな報道・言論機関になるでしょうか。それとも、唯我独尊、相変わらず不誠実な活動で購読者や視聴者から見放され、ジリ貧になるのでしょうか。