以前書きましたが、私は二十代前半(1980年代前半)より、もつぱら保守派の評論家の文章を讀んできました。
しかし、天皇制には懷疑的でした。天皇制に關しては、殆んどの保守派の意見とは違つてゐました。
私がスローガンにしてゐたのは、「廢君愛國」です。私は自分を保守派であるよりも愛國派だと考へてゐました。
私は保守派の正統ではなく、異端だつたのでせう(今でもさうですが)。
今頃そんなことを理解したのかと呆れられさうですが、比較的最近になつて漸く、次のやうに考へるやうになりました。
政治的經濟的社會的な制度は、不效用が明確になつてゐるのでない限り、現行を維持すべし、といふことです。不效用が明確な場合のみ、制度を變へて宜しい。それは、保守派の準則でせう。
一方、進歩派の準則は、效用が明確になつてゐるのでない限り、現行は改變して良し、です。不效用が明確な場合のみならず、效用不效用がはつきりしない場合も現行を改變して良し、といふことです。しかし、社會的な諸制度の效用不效用の判定は、往々にして人知を超えてゐます。進歩派の言ふ通りにしてゐれば、實際には效用があるのに、人間がそれを認識できないために、制度を改めてトンデモナイ社會が實現するといふことになります。社會諸制度は、不效用が明らかでないなら、安易に變更すべきではありません。
そして、天皇制は政治的不效用が明らかになつてゐる譯ではありません。
共和制の國では、政治上の權威と權力が一致するため、獨裁者が生まれやすい。
スターリンも毛澤東もヒトラーもポル・ポトも金日成も共和制の國が生み出しました。
一方、日本は天皇と幕府のやうに、歴史的に權威と權力が分離してゐて、獨裁者が生まれません。
もつとも、だから、たとへば大東亞戰爭に際しては、責任の所在が誰にあるのか分からない「無責任の體系」が生まれたとの批判もあるでせうが。
キリスト敎では、人間はただ神の前においてのみ平等である、といふ觀念が生まれました。
わが國だつて、國民は天皇の下において平等(國民は天皇の赤子)との無意識的な理解があるから、諸外國と比較して平等なのだらうと思ひます。逆説的ですが、超越する存在を假構することによつて、その超越する存在の下の平等といふ思想が生まれうる。
「天皇制は身分制度であり差別である」と主張する人もゐますが、その道理を理解しない(理解したくない)からでせう。
日本で天皇制を廢止したところで、さらに平等な社會になるとは思へません。
政治制度として、天皇制はプラスであつても、マイナスではないでせう。
とすれば、天皇制は維持すべし、との結論にならざるをえません。
今から考へれば、私が若い頃から抱き續けてきた廢君愛國は、單なる感情論に過ぎません。
理性に從ふなら、忠君愛國が正しいと思ひます。