護憲派は聖人か

現行日本国憲法は、第二次世界大戦で連合国との戦争に負けた後、日本国及び国民に主権がない時に、占領軍から押し付けられたものです。
外国から国家の基本法たる憲法を押し付けられることは、屈辱です。それは、いわば他人から顔に唾をかけられたようなものです。普通の人間なら怒って当然です。
ところが、護憲派の人たちは、それを屈辱とは考えません。たとえ押し付けられたものだとしても、良いものは良いと言う。彼らは聖人なのでしょうか。

聖人かもしれないと誤解して、実際彼らの顔に唾を吐きかけたらどうなるでしょうか。激怒します。なぜでしょうか。
自分の顔は「自分のもの」だと考えるから、彼らは腹を立てます。が、憲法については腹を立てません。なぜならば、それを「自分のもの」だとは考えていないからです。隣人が第三者から顔に唾をかけられても、護憲派は怒りません。自分の顔ではないからです。それと同じです。要するに、彼らにとって、自国の憲法は他人事なのです。
だから、押し付けられたことに対して屈辱だと思わないし、立腹もしないのです。

護憲派は、現在の憲法が本当に良いものだと信じるから、その護持を主張しているのでしょうか。
将来天下を取ったら、自分たちの考え通りの憲法を作るけれども、今は「反動」側が政権を握っていてそれが叶わないから、仕方なく護憲を主張しているだけです。
その証拠として指摘されるのが、天皇制に冷淡な、できれば廃止したい護憲派が、第一章に天皇条項がある憲法を堅持すると言っている矛盾です。
再び連合国に歯向かう国にならないことを意図して、占領軍が戦争の放棄の条項を挿入させた憲法、それが、いわゆる反動政権が推進する国防力の強化を阻むのに好都合だから、彼らは護憲を主張しているに過ぎません。すなわち、「自国の憲法は他人事」なのは、本気でそれを信じていないからです。

憲法学者なら、本来なら自分の理想とする憲法案の作成を追求するのが自然です。
ところが、憲法学者の多数派を占める護憲派が実際にやっているのは、現政府の足を引っ張るために、本心から信じてもいない憲法の護持を主張しているのです。
そんな人生は空しくないのでしょうか。
それとも、パンを得るためと割り切って、<反政府のための護憲運動>に精を出しているのでしょうか。