保守主義者は存在(事実)から出発しますが、進歩主義者(左翼)は当為から出発します。
前者は「あること」から出発するのに対して、後者は「あるべきこと」から出発します。
たとえば、後者の場合は、次のような具合です。
・戦争はあってはならない、戦争は放棄しなければならない。
・武力はなくさなければならない、陸海空軍その他の戦力は、これを保持すべきではない。
・核兵器は廃絶しなければならない。
・人民は経済的に平等でなければならない。
・差別はなくさなければならない。
・外国人・移民と共生できる社会を作らなければならない、など。
「でなければならない」、からスタートするのが左翼の発想法です。
でなければならない、と言うためには、そもそもそれが可能でなければなりません。それが不可能なら、でなければならないと言うのは無意味です。
では、以上の事柄は、実現可能なのでしょうか。
・戦争はあってはならない、と言いますが、戦争をなくすことはできるのでしょうか。他国の侵略から自国・自国民を守るための戦争も、「あってはならない」(してはならない)のでしょうか。
・武力はなくさなければならない、と言いますが、国家は武力をなくすことができるのでしょうか。
現在の東アジアにおいて、日本が一方的に軍隊も武器も捨て去ることができるのでしょうか。そうすれば、日本も周辺各国も平和になるのでしょうか。
・核兵器は廃絶しなければならない、と言いますが、それをなくすことは可能なのでしょうか。
・人民は経済的に平等でなければならない、と言いますが、当の人民は平等な社会を望んでいるのでしょうか。
能力のある人、身を粉にして働く人は、能力のない人、ろくに働かない人と経済的に平等であることに満足できるのでしょうか。
・差別はなくさなければならない、と言いますが、差別をなくすことはできるのでしょうか。
制度としての差別はなくすことができるかもしれませんが、差別意識をなくすことはできるのでしょうか。
・外国人・移民と共生できる社会を作らなければならない、と言いますが、それは可能なのでしょうか。
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、同じ国民なのに民族・宗教・言語の違いによって対立し、さらに殺し合い、国家が空中分解してしまいました。
欧米で移民(二世も含む)による犯罪、テロ、暴動が発生していますが、それは外国人・移民との、あるいは多文化共生というものがいかに困難であるかの証拠でしょう。
左翼は当為から出発します。が、そもそもそれは実現可能であるか否かということを問おうとはしません。その問いを素通りしています。それが可能なのを自明のこととしています。
彼らの主張の体系は、一階のない二階建ての構造物のようなものです。
そして、事実として、それが実現可能なのかを問わないから、現実に裏切られるのです。一階部分が安普請だから、理想の宮殿が倒壊するのです。
結果、彼らの予想とは違った世界が現出します。
「あること」を直視することができないのが、左翼の大きな欠点です。
左派は、右派は非合理だと一言で片付けますが、そして、レベルの低い右派は確かにそうかもしれませんが、「あること」をすっ飛ばして、「あるべきこと」を直接目指す左派も、相当に非合理的な思考の人たちだと思います。
左翼中の左翼、共産主義者たちは、かつて実現しようと試みました。
経済的に平等な社会、階級なき社会、人間疎外なき社会、資本家による搾取なき社会、公害なき社会・・・・
しかし、現実に生まれたのは、経済的に平等ということになっている社会(毛沢東にしろ、金正恩氏にしろ一般民衆のレベルとは隔絶した生活を送っています)、階級がないということになっている社会、人間疎外がないということになっている社会、資本家による搾取はないけれども赤い貴族による搾取はある、搾取がないということになっている社会、公害がないということになっている社会・・・・でした。
左翼の熱狂によって生まれたのは、「一である社会」ではなく、「一であるということになっている社会」でした。
今日の左翼たるリベラルが目的としているのは、差別なき社会、外国人・移民と共生できる社会等です。
しかし、彼らは進歩主義者であり、一階部分に対するおもんぱかりがありませんから、彼らの意図とは違った社会が生まれるのは必定です。
リベラルの熱狂によって出現するのは、差別がないということになっている社会、外国人と共生できているということになっている社会でしょう。
言っても無駄ですが、なぜ彼らはそれに気がつかないのでしょうか。
では、左翼はどのような方法によって、「一ということになっている社会」を作り上げるのでしょうか。
共産主義国では恐怖政治と思想・言論・報道の自由の封殺によってでしたが、リベラルはもっぱら後者の制限によってです。
リベラル派は、「差別的発言に、言論の自由はない」と平然と口にします。そして、差別的であるかどうかは、彼らが判定します。その言動を見れば分かりますが、彼らは自由主義者というより、進歩主義者なのです。
思想的敵に対してレッテルを貼り、左翼が牛耳るマスメディアで袋叩きにし、社会的に抹殺しようとします。LGBTに関する発言の際の、杉田水脈議員に対する迫害を見れば良く分かります。
そのようにして、社会にタブーや物言えぬ風潮を作り出し、思想敵を駆逐して行きます。
かくして、実際には差別はあるのに、皆吊し上げられるのを恐れてそれを口外することができない、差別がないということになっている社会が出き上がります。