米軍普天間飛行場の移設のため、昨年12月14日、名護市辺野古の埋め立て区域への土砂投入が始まりました。
翌日15日の朝日新聞によれば、玉城デニー沖縄県知事は、「地方の声を無視し、国策を強行するやり方は民主主義国家としてあるまじき行為だ」、あるいは「民意をないがしろにし、県の頭越しに工事を進めることは、法治国家そして民主主義国家において決してあってはならない」と述べたとのことです。
政府が行っている辺野古埋め立ては、民主主義に悖(もと)る行動なのでしょうか。
文民であり、なおかつ国会議員である自民党総裁安部晋三氏は、国政選挙で勝利し、衆参両院で多数を占める与党から推され、国会の選挙で指名されて、内閣総理大臣を務めています。すなわち、安部氏は合法的かつ民主的に選ばれた首相です。
辺野古埋め立ても、その政治運営の一つでしょう。
どうしてそれが「民主主義国家としてあるまじき行為」なのでしょうか。
昨年12月14日付朝日新聞夕刊一面には「政府強行 沖縄は反発」、同15日朝刊一面には「辺野古 土砂投入を強行」、同日付社会面にも「投入強行『何を言っても』」など、「強行」の文言が見えます。
が、新聞を読んでも、政府の行為は明らかに違法である、とは書かれていません。
埋め立ては合法的だけれども、「強行」なのでしょう。法律に則って行われているけれども、感情的に許せないということなのでしょう。
辺野古の問題は、民主主義に反しているかいないかの問題ではなく、全体の民主主義と部分の民主主義は往々にして衝突しがちであるという民主主義のディレンマの問題であり、今回それが浮き彫りになったということでしょう。
単純化して言うなら、米軍の普天間基地を辺野古へ移すことに、日本国民全体は賛成の立場であるけれども、沖縄県民は反対の立場であり、両者のどちらを優先すべきか、あるいは両者をどのように調整すべきかが問題になっているのでしょう。
玉城知事は沖縄の「民意をないがしろにし」と批判しますが、では、国民全体の民意よりも、沖縄県民の民意を優先すべきというのでしょうか。それは、日本国民の「民意をないがしろに」することにならないのでしょうか。
沖縄は、部分の民主主義優先を貫徹できるのでしょうか。
沖縄では県内の某市の問題で、県と市の主張が対立することはないのでしょうか。
あるでしょう。
では、その場合県は、市の民意を優先しているのでしょうか。市の「頭越しに」県政を推し進めることはないのでしょうか。たぶん、あるでしょう。
それなら、どうして県と市の意見が対立した場合は県の意思優先で、一方、国と県の主張が対立した場合も県の意思が優先なのでしょうか。
沖縄は、県と市の意見が衝突した場合、どちらを優先すべきか、もしくはどう調整すべきか、その最善の方法を考えてみてはどうでしょうか。そして、その方法を、辺野古の問題に適用したら良いのだと思います。
沖縄県知事になろうとするほどの人なら、国と県の、県と市の意見が相違した場合の調整法の妙案ぐらい持って立候補すべきではないでしょうか。何の案もなしに立候補するのは、あるいは、国の譲歩に期待し、国と県の対立を煽るのは、ポピュリストだと言われても仕方がないのではないでしょうか。
実際問題として、部分の民主主義を全体の民主主義に優先することはできません。少数の人たちの利益のために、多数の人たちが不利益を被(こうむ)ることになりますから。そのようなことをしていると、民主主義そのものが破壊されます。
まず全体の民主主義と部分の民主主義の適切な調整法を見出すことを考え、それが見つからなければ、次善の策として、全体の民主主義を優先、を選択せざるをえないと思います。
【追記】
『岩波 社会思想事典』の「民主主義」の項目の一部を引用します。
「これまでは1国単位の民主主義が前提とされてきたが、それが実情に合わなくなってきた。国よりも大きな単位や、国よりも小さな自治体などについて、それぞれ民主主義を考える必要が生じ、民主主義の”重層化”とも言うべき状態が現れるなかで、さまざまな民主的決定をいかに調整するかが問題となっているのである。」
現実の政治は、眼前の”重層化”の何れかを決断・選択しなければなりません。
「問題になっているのである」などと言って済ましている人は、政治学者にはなれても、政治家には不向きでしょう。