二十代前半より保守派の評論家の文章に親しんできました。
1980年代前半に「発見」したのが、竹山道雄氏、清水幾太郎氏、福田恒存氏、山本夏彦氏、渡部昇一氏などです。彼らを斑(まだら)理解しかしていませんが、この歳まで各氏の著書等を読んできて、いまだに彼らのファンです。彼らの文章は余り古びていません。
私は右派ですが、私と同年輩の、青年時代から左派だった人で、ずっと読んできて今でも面白いと思えるような言論人なり評論家なりを持っている人はいるのでしょうか。たぶん殆んどいないのではないでしょうか。
なぜでしょうか。
左派は進歩主義者であり、今流行っているか、近いうちに流行るであろう思想・立場を追い求めます。その方が、世間から先見の明があるとか、良心的だと思われるからでしょう。また、そういうスタンスをとる方が実入りが良いからでしょう。
しかし、流行りものは廃りものです。現実は、彼らの予想とは違った方向に進みます。左派の評論家に先見の明があるわけではありません。彼らに時代の先を見通す能力などありません。たとえば冷戦時代、進歩主義者は片足もしくは両足をマルクス主義の足場の上に置いていました。が、冷戦後足場そのものが崩落してしまいました。すなわち、彼らは進歩主義者なのに、進歩に裏切られます。結果、彼らが愛する思想が破綻し、パラダイムが変わります。すると、彼らの書いたものが一挙に古びてしまう。戦前の言論が、戦後ひどく間抜けて見えたように(注)。
朝日新聞の論壇時評欄などは、その手の論や文の宝庫でしょう。そこで推奨されている論文を、数年後誰が読むでしょうか。
という訳で、左派には長期的に読むに耐えうる著者は少ないのだと思います。
もう一つ、左派の評論家の言論の息が短い理由は、彼らは可変的な制度ばかりを見て、不変的な人間性を見ないからでしょう。というよりも、彼らは人間性をも可変的だと誤解する。だから、現実に裏切られるのです。
右派の言論人・評論家は、文学者が多い。彼らは不変的な人間的自然を思考の基礎に据えている。だから、右派の評論家の文章の方が、息が長いのだと思います。
(注)
戦前、戦意高揚記事を書いたのは右派だと思われがちですが、書いた中の少なからぬ知識人たちが、あるいはその旗を振ったメディアが、戦後左派に転じたのでも分かるように、進歩主義者=勝ち馬主義者といったタイプの人たちは、以外に多いのです。つまり、「今流行っているか、近いうちに流行るであろう」立場に、ダボハゼのように飛びついて行くのが彼らの習性です。