同盟国の義務、あるいは両大戦の教訓について

1.七千倍も戦死者が多かった

ウィキペディアによれば、わが国の第一次世界大戦における戦死者数は415人です。それに対して、第二次世界大戦での戦没者は約3000000人です。前者よりも後者の方が七千倍も多い。これはどうしたことでしょうか。

第一次大戦は、参戦国及び戦場の中心が欧州であり、日本は主要な当事国ではなかったのに対し、第二次大戦では主要な当事国であったというのが最大の理由でしょう。

ではなぜ、後者では主な当事国になってしまったのでしょうか。
わが国が外交戦略あるいは政治選択を誤ったからで、もし第一次大戦(1914-1918)の後、日英同盟が解消されていなければ、その後対米英戦争は避けられたのではないか。つまり、主たる当事国にならずに済んだのではないか、との有力な説があります。

2.なぜ日英同盟は解消されたのか

なぜ日英同盟は解消されたのでしょうか。
第一。1917年11月にロシアで社会主義革命が発生し、また第一次大戦でドイツが敗北したため、実質的に対露対独同盟であった日英同盟の必要性が失われたこと。
第二。大陸権益の対立があり、また、日本を脅威だと感じていたから、米国が日英の同盟関係を断ち切りたいと考えていたこと、などが指摘されます。

しかし、一番大きな理由は、イギリスが存亡の危機に立たされた時、つまり、苦しい戦いを強いられた第一次大戦において、日本の貢献度が低かったからだろうと思います。言い換えるなら、わが国が軍事協力の出し惜しみをしたからでしょう。

イギリスは、あるいは他の連合国も、日本に対して何度も欧州戦線への派兵の要請をしました。が、わが国は陸軍の派兵を断り、結局派遣したのは小規模な海軍だけでした(もっとも、派遣された海軍艦艇が良く働いたのは、賞賛されてしかるべきでしょう)。

大戦の開始が1914年7月、日本が参戦したのは同年8月です。海軍の特務艦隊を欧州へ派遣したのは1917年2月(地中海到着は4月)です。
湾岸戦争(1991年1月17日~同2月18日)における日本の貢献は”Too little,too late”と蔑まれましたが、当時の英国から見ても、日本の支援はそのようなものだったでしょう。

「大戦中の四年間を駐日大使として過ごしたウイリアム・C・グリーン大使は友人に、『戦争が勃発しわれわれが手一杯の時に、わが同盟国(日本のこと)にいかに失望したかを語る必要はないであろう』、(中略)との手紙を書いていた」(括弧内いけまこ)(1)

当時日英は同盟関係にありました。一方、米英は同盟関係にありませんでした。しかし、1917年4月、遅れて参戦したアメリカの軍事的経済的援助によって、戦争の帰趨が決しました。
ちなみに、米国の戦死者数は116708人です。それに対し、先述したように、日本はわずか415人!です。
この二つの数字を見れば、日米の貢献の差は一目瞭然です。
その後、イギリスが日本よりアメリカを選んだのは当然です。

もし日米の戦死者数が逆だったなら?
たとえ米国より日本の戦死者が少ないにしても、一桁ぐらいの差だったなら?
戦後イギリスは日本との同盟関係を絶ちえなかったでしょう。
岡崎久彦氏は書いています。

「英国政府内の大勢は(日英)同盟継続であった。カーゾン外相、チャーチル植民地相、国際連盟担当のバルフォア枢密院議長、国璽尚書のチェンバレン、陸海軍大臣、参謀本部という対外政策に責任のある部署はことごとく同盟支持であったという」(括弧内いけまこ)(2)

3.そもそも軍事同盟とは

そもそも軍事同盟とは、自国が困った時、たとえば第三国から侵略されるなり、第三国と戦争になった場合に、同盟国に援けて貰うかわりに、同盟国が困った時には、同国を援けるというのが原則でしょう。勿論それ以前に、侵略や戦争を抑止するという目的があるのは言うまでもありません。
困った時に援けにならない国との軍事同盟など、意味がありません。

軍事同盟は保険と同じでしょう。
私たちが民間の医療保険に加入しているのは、いざ重大な病気に罹った時に、自己負担では医療費を全額支払うのは困難ですから、保険に加入し、他者に分担して貰う。その代わり、自らが病気でない時にも掛け金を納め、他者の医療費の支払いに供するというものでしょう。
当たり前ですが、保険に加入し、掛け金を払い込んでいなければ、入院・治療に際して保険金は得られません。掛け金を払っている保険の種類と金額に応じた分だけ、給付は受けられます。

軍事同盟も、自国が行った貢献に応じた分しか、同盟国による援けは期待できません。流した汗と血の分だけ、同盟国の協力が得られます。

4.義務の手抜きによる平和

ネットを見ていると、たとえば次のような意見がありました。

「日米軍事同盟を結んでいながら日本が自衛隊を派兵せずにすんだのは、憲法九条があったからです。第九条がなければ派兵要請を拒否することはできなかったでしょう。その後も、例えばカンボジア和平でも湾岸戦争時も再三にわたり自衛隊の派兵要請はありましたが、憲法があるため派兵せずにすみました。第九条がなく日米同盟だけなら、ベトナム戦争でも湾岸戦争でも、自衛隊の派兵は米国の要請により行われていたでしょう」

戦後日本が平和だったのは、憲法九条を盾にアメリカによる軍事支援の要請を断り続けたからだという。だから、憲法を改正すべきではないとの主張です。
これは、保険の掛け金を一部支払っていないため、手持ちの金が増えているのを自慢しているようなものでしょう。
一部の掛け金を滞納している分、いざという時に給付が受けられるかどうかは分かりません。「自国が行った貢献に応じた分しか、同盟国による援けは期待できません」から(注)。
引用部の筆者が推奨する意見は、第一次大戦の轍を再び踏む道でしょう。

勿論、同盟国のために闇雲に汗と血を流せというのではありません。ただ、目先の平和だけに固執していると、いつかツケを払わされることになるでしょう。
同盟国による軍事協力の要請を断り続けていると、何れ十倍百倍千倍の犠牲者が出るような事態に逢着することになる、というのが第一次大戦と第二次大戦の教訓ではないでしょうか。

(注)
同盟国が独裁主義国なら、一部の指導者・層の一存で同盟関係の存廃が決まるでしょうが、民主主義国の場合は、国民の流動的な総意によってそれは決まりますから、同盟国民への軍事貢献のアピールは、継続して行う必要があるでしょう。

5.情けは人のためならず

情けは人のためならず、という諺があります。
言うまでもなく、「なさけを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る」(『広辞苑』)という意味です。
良き軍事同盟というものも、これに当てはまるでしょう。同盟国に対する情けは、同国のためならず、です。「めぐりめぐって」自国に悪い報いが来るのを避けることができます。そのための軍事同盟です。

第一次大戦当時と同様、第二次大戦後も自衛隊は日本国民及びその領土と領海を守るために存在するのであって、たとえ同盟国の支援のためであろうと、遠方へ派遣するのは以ての外との意見が自衛隊のOBからもなされたりもしますが、それは「情けは人のためならず」という道理を理解していないからではないでしょうか。

6.いつの日にか

いつの日か、アメリカが軍事的な困難に直面し、中共やロシアが、あるいはわが国に敵対的な某国が、日本以上に米国に貢献した時、それがわが国の真の危機です。
日本はそれらの諸国よりも、最低でも同程度、できればそれ以上に米国を援助すべきです。

欧州への派兵は日英同盟の適用外だったと言ったところで、アメリカはイギリスと同盟関係になかったのに、大陸へ派兵、大戦の勝利に貢献したわけですから、条約条文の絶対視は危険でしょう。
同盟国の危機の程度に応じて、柔軟に支援の度合いを決定すべきだと思います。

(1)平間洋一著、『日英同盟』、角川ソフィア文庫、150-151頁
(2)岡崎久彦著、『幣原喜重郎とその時代』、PHP文庫、255頁

【読書から】
「歴史を学ぶ時に留意すべきことは、『一つの尺度(正義)で歴史は書き得るものではない』ということと、『現在の価値観で当時の歴史を見てはならない』ということである。著者の史観を申し上げれば、『みんなが悪かった』という史観である。戦争も喧嘩と同じで片方だけが悪者で、片方が聖者などということはない。『先の戦争』に至ったのは日本もアメリカも、そして中国も悪かった。総てに、それぞれ責任があるという『複数の正義の歴史観』である」(平間洋一著、同前、259-260頁)

地方衰退の第一の原因

近代よりも前、時代区分でいえば江戸時代以前、産業の中心は農業でした。
農業で人を養うには、ある一定の広さの土地が必要です。だから、人々は各地に散らばって暮らしていました。
今でも田舎へ行くと、こんな山間部にも、こんな山奥や高地にも人間が住んでいるのか(住んでいたのか)と驚かされることがありますが、それは人が奥地へ奥地へと田畑を開墾して行った結果でしょう。

ところが、近代が始まり、産業構造が変化しました。第一次産業から、第二次・第三次産業へその主流が移行しました。それに伴い、人口も地方の農村部から都市部へ、さらに地方から大都市圏へと流出し続け、現在でも尚それは止まず、地方の各地では過疎化が進行しています。

人口が減少すれば、産業も消費も沈滞するのは当然です。
産業構造の変化、それが今日いわれるところの、地方衰退の第一の原因でしょう。

田舎に住んでいても、夫婦で生活ができ、子供に高等教育を施すことができるような、多くの人にそのような選択を可能にするような何らかの産業革命でも起こらない限り、それを原因とする、地方の衰退を押し止めることは、困難だろうと思います。

【追記】
この記事より一年前に、同じような認識を記している方がいました。
なぜ地方は衰退するのかーうみうまカルトラーレ

【関連記事です】
地方衰退の第二の原因

なぜ周囲を女性で固めるのか

たとえば、スパイ映画の007などを観ると、悪役側のボスは周囲に多くの若い女性を侍らせています。なぜでしょうか。
英雄色を好むといいますが、ボスが好色なためでしょうか。特に、意識してそのことを考えていない時は、漠然とそう思っていました。

しかし、ある時気づきました。女性は裏切らないからです。女性は好意を寄せる男性を裏切りません(あくまでも、一般的に言ってですが)。
男性の側近なら、隙があればボスに取って代わろうとします。しかし、女性はボスの座を奪おうとはしません。
政治家、とりわけ独裁者や企業の経営者がNO.2を作らないのは、意識的にか無意識的にか、自分の地位が簒奪されるのを恐れるからだろうと思います。

結婚の際に、男性は「この女性を一生守ろう」と心の中で誓ったり、中には「僕は一生君を守るよ」と口に出して言ったりする者もあるでしょう。
しかし、世の中そうそう勁い男性ばかりではありません。その証拠に、多くの男性は自身のため、妻子のため、自社の不祥事に目を瞑ります。それに、常に男性が女性を一方的に守るべきなのでしょうか。
私は職場で、女性の同僚を持つことで気がつきました。女性も男性を守ってくれます。しかも、女性は逆境に強い。

悪の側のボスは若い女性で身の回りを固めています。しかし、金も力もない私たち凡夫にはそんなことは不可能です。
私たちにできるのは、妻、娘、母、姉、妹、あるいは会社の女性同僚など手持ちの女性を味方につけて、身の安全を図ることです。
身近な女性を大切にしませう、できる範囲で構はないから♪

気心の知れた女性で四方を固めるのが賢明だと思います。

清水幾太郎氏の核武装論?

国会議員、とりわけ政府の要職にある人物や与党の幹部たちにとって、公の場での核の論議は、今なおタブーです。一方、保守言論の世界では、核武装論は珍しくなくなりました。
ところが、四十年ほど前の、1980年頃は、その世界でも、核武装論は皆無だったのではないかと思います(注)。
そういう時代に発表されたのが、清水幾太郎氏の雑誌論文「核の選択」であり(『諸君!』1980年7月号掲載)、その後、その論文に「軍事科学研究所」による第二部が追加されて、単行本となって出版されたのが『日本よ 国家たれ  核の選択』(文藝春秋、1980年刊)です。

(注)
もっとも、核武装論よりも、さらにラディカル(根本的)な核兵器廃絶不可能論を、たとえば福田恒存氏はそれよりもさらに四半世紀以上前に語っていました(「戦争と平和と」『平和の理念』所収、新潮社)。

1960年の日米安保条約の改定において、安保反対の闘士で「平和主義者」だった清水氏が、二十年後「核の選択」で核武装に触れ、世間の話題になりました。
それ以降、氏は核武装を主張した人物とされています。
しかし、はたして清水氏は本当にそれを主張したのでしょうか。

確かに清水氏は書いています。

「核兵器が重要であり、また、私たちが最初の被爆国としての特権を有するのであれば、日本こそ真先に核兵器を製造し所有する特権を有しているのではないか。むしろ、それが常識というものではないか」(『日本よ 国家たれ』、93頁)

これは、清水氏特有のアジテーション的物言いであり、このような表現が核武装を主張したとされるゆえんでしょう。
しかし、氏は同著の「『節操』と経験 一『あとがき』に代えて一」で述べています。

「第一の焦点は、核の問題であって、読者の中には、日本は直ちに核武装すべし、と私が主張しているかのように解した人もいた」(同前、254頁)

これを素直に読めば、「日本は直ちに核武装をすべし、と私が主張し」た訳ではないと言っているのは明らかです。
こういうと、ある人たちは反論するかもしれません。そこでは「直ちに」と述べているけれども、氏なら何れ核武装すべしと力説したに違いないと。
けれども、清水氏は現実にそう主張したわけではありませんし、氏の事です、三たび転向して、その後核兵器は廃絶すべしと公言したかもしれません(笑)。
氏が実際に唱えていないことを、流布すべきではないでしょう。
知的誠実に則するなら、氏は核武装は主張していないとすべきだろうと思います。

別に、清水氏が核武装を主張したから、反対にそれを主張していないから、評価に値するとか、値しないとか言いたいわけではありません。
言いたいのは、事実はどうなのかということです。
少なくとも、清水氏は「核の選択」あるいは『日本よ 国家たれ』で、核武装は主張していない、というのを定説とすべきだと思います。