1.チャップリンの『キッド』
チャップリンの映画『キッド』は、母親に捨てられた子供を主人公(チャップリン)が育てるという内容です。
その中に、次のような印象的なシーンがあります。
その子が通りの窓ガラスを割って歩き、偶然通りかかったように見せかけたガラス屋チャップリンが、壊れた窓を修繕して、日銭を稼いでいる、けれども、ある日警察官にそれが見つかって、男児ともども追いかけられるというものです。
勿論、男の子とチャップリンはグルです。
2.移民推進派と極右
欧米における移民の大量受け入れと、それに反発する極右を見ていると、『キッド』の投石をする男の子とチャップリンの関係に似ています。
移民推進派=「人権」派と極右は敵対しているように見えますが、そして主観的には彼らはお互いを敵同士と見做していますが、客観的には両者はグルであるとしか思えません。
前者が移民の受け入れを積極的に行うから、後者の勢力は伸張しているのだからです。
3.犯罪者と刑務所
犯罪がこの世からなくなれば、刑務所も刑務官も必要なくなります。犯罪者がいるから、それらをなくすことができません。犯罪や犯罪者の数が増えれば増えるほど、刑務所や刑務官の数も増えます。
刑務所や刑務官の数を増やしているのは犯罪者です。
同様に、移民排斥を掲げる極右の数を増やしているのは、移民推進派です。
4.因果関係
暴力的に見えるということで、一見極右がガラスを割るキッドや犯罪者に相当し、移民推進派が窓を修繕するチャップリンや刑務官に相当するように感じられますが、時系列で考えるなら、明らかに逆です。
移民推進派が原因を作っている、つまり、社会の秩序に投石をしている、それが、移民受け入れ反対派の抵抗、とりわけ極右の台頭という結果となって現れているのでしょう。
5.受け入れの限度
移民反対派の出現は、自らの国家、社会、文化を破壊されることに対する民衆の、抵抗の叫び声、あるいは悲鳴のように聞こえます。
一国、一社会、一文化が軋轢を生まずに吸収しうる移民の数には限度があると思います。
その限度を超えると、社会は一種の消化不良を起こす。欧米における、近年の移民によるテロ(二世のそれも含む)、犯罪、暴動の発生は、そのような消化不良の表れではないでしょうか。
移民との共生は容易であるとの進歩派の幻想と、そしてそれに引き摺られている、あるいはそれと戦わない保守派の弱さが、移民によるテロや犯罪等、及び極右による暴力事件を生んでいるのだと思います。
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