誰がグローバリズムを主導しているか

岡崎久彦氏は書いています。

「アメリカの政策を論じる場合、『アメリカはこう考えていた』という記述はほとんど必ず間違いである。
アメリカ民主主義の下では、『アメリカ一』なるものはない。大統領も政府も議会も世論も、それぞれ異なった意見を持ち、それがチェック・アンド・バランスの過程を通じてだんだんと政策を形成するのがアメリカである。統参議長の言動一つを証拠として、『アメリカはこう考えていた』などというのは、アメリカを知らない者の誤りである」(『幣原喜重郎とその時代』、PHP文庫、56-57頁)

たぶん岡崎氏の言う通りだろうと思います。

さて、今日グローバリズムとか、グローバリゼーションとかの言葉がメディアやネットの世界で氾濫しています。そこで述べられているのは、グローバリズムはアメリカが主導しているということです。

岡崎氏の文章を参考にするなら、アメリカの大統領、政府、議会、世論の、誰がグローバリズムを主導しているのでしょうか。あるいは、それらとは別に、同国内に拠点を置く多国籍企業、ウオール・ストリート、それともユダヤ人が推進しているのでしょうか。
様々な人たちがグローバリズムを論じていますが、アメリカの誰がそれを主導しているのかを明確に記述している例を知りません。
なぜでしょうか。
各論者がグローバリズムという言葉に、各々勝手に意味を込めて、語っているだけなのではないでしょうか。

かつて流行した人間疎外論について、清水幾太郎氏は書いています。

「実際、どちらを向いても、疎外の話ばかりで、旧前衛も、構造改革派も、市民主義者諸君も、誰も彼も、思い思いの方向で疎外を論じ、疎外を嘆きながら、仲よく共通の微温湯に浸っている。流行が超党派的であるだけに、疎外というレッテルを貼られる事柄も千差万別で、何によらず気に入らないものは、それ自らの説明や解説を必要とするような、しかも、当の論者自身これを行い得ないような疎外という哲学的用語の暗闇に投げ込まれている。愛国心が無頼漢の最後の避難所であるように、疎外は、進歩派の最後の避難所なのであろう」(『この歳月』、中央公論社、283-284頁)

最近のグローバリズム論は、左右両翼の避難所になっているようです。

敢えて放言しますが、疎外論と同様、グローバリズムという言葉ないし概念も、認識の客観性がないのではないかと私は疑っています。