LGBTのカップルには生産性がない、との杉田水脈議員の発言に対しては、いくつかの立場がありうるでしょう。
第一。私は彼女の意見には反対だ。だから、彼女がそれを主張する権利は認めるべきではない。
第二。私は彼女の意見には反対だ。だが彼女がそれを主張する権利は認めるべきだ。
第三。私は彼女の意見には賛成だ。だから、彼女がそれを主張する権利は認めるべきだ。しかし、彼女とは反対の意見を主張する権利は認めるべきではない。
第四。私は彼女の意見には賛成だ。だから(あるいは、私は彼女の意見には賛成の箇所もあれば反対の箇所もある。けれども)、彼女がそれを主張する権利は認めるべきだ。しかし、彼女とは反対の意見を主張する権利も認めるべきだ。
第五。私は彼女の意見には賛成だ。しかし、彼女がそれを主張する権利は認めるべきではない。
実際には、第五の立場を主張する者などありえませんから、世人のとりうる立場は、第一、二、三、四の何れかでしょう。
ヴォルテールの名言、「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」に上記を照らし合わせてみれば良く分かります。
第一と第三の立場は、自由否定の、全体主義者の立場です。第一が一方の全体主義の立場なら、第三が他方の全体主義の立場です。
第二と第四の立場が、自由主義者の立場です。
『新潮45』8月号に掲載された杉田議員の論文が問題になってから、メディア、政治家、文化人、マスコミ人その他様々な人たちが発言しています。数の上で圧倒しているのは第一の立場の人たちでしょう。第三の立場の人たちは見たことがありません。第二、第四の立場の人たちは少数派でした。
「ラ・ブリュイエールが『世の中でいちばん珍しいものは、識別する心の次にダイヤモンドと真珠だ』と言っているのは、いみじき言であると同時に、残念ながら真実な言葉なのである」と、ドイツの哲学者ショーペンハウアーは書いています(秋山英夫訳、『随感録』、白水社 10頁)。
杉田論文を巡るこの度の騒動で明らかになったのは、真の自由主義者というものが如何に「珍しいもの」かということではないでしょうか。
追記
『新潮45』は10月号で、「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題する特集を組んだそうです。それに対して、余りにも反発が大きかったせいか、新潮社の社長は声明を発しました。一部を引用します。
「今回の『新潮45』の特別企画『そんなにおかしいか【杉田水脈】論文』のある部分に関しては、それら(言論の自由、表現の自由、意見の多様性、編集権の独立の重要性)に鑑みても、あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足とに満ちた表現が見受けられました」
「ある部分」とは、どの部分を指すのでしょうか。
杉田氏本人の論文に対する8月の自民党の「LGBTに関するわが党の政策について」にもこうありました。
「今回の杉田水脈議員の寄稿文に関しては、個人的な意見とは言え、問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現があることも事実であり」云々。
「問題への理解不足と関係者への配慮を欠いた表現」とはどの部分のことなのでしょうか。
新潮社の社長にしろ、自民党にしろ、「ある部分」を明確にしないまま、幕引きをはかろうとしています。
このような姿勢は、大人の対応と言うべきでしょうか、それとも、卑怯者の遁走と呼ぶべきでしょうか。
何れにせよ、両者とも台風一過を待つつもりなのでしょう。しかし、それはそう簡単には通り過ぎてはくれません。
いよいよ日本も、リベラル(リベラリズム)という名の台風の暴風圏内に入ったようです。