誰が表現の自由を侵すのか

1.誰が表現の自由を「保障する」のか

現在の日本では、表現の自由は一応保障されています。それは、日本国憲法に規定されています。

第二一条 [集会・結社・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密] 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
②検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

「これを保障する」とありますが、だれが保障するのでしょうか。
それらに対する侵害行為は、個々の国民が防げるはずもありませんから、公権力(国及び公共団体)でしょう。

2.誰が表現の自由を侵すのか

では、逆の場合を考えてみましょう。
国民の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(以下、表現の自由等)を侵す(可能性がある)のは誰でしょうか。
公権力または私権力です。

第一は、公権力です。
過去国家権力は、人民の表現の自由等を侵してきました。その反省から、憲法にそれらの権利が明記されるようになりました。今後も、表現の自由等を保障するはずの公権力が、逆に国民の自由を侵す可能性があります。

第二は、私権力もしくは民間人です。
ある特定の政治的立場にたつ個人または集団・団体が、信条の異なる人たちの自由を侵す場合です。
たとえば、少々極端な例を挙げるなら、左派の政治集会に右翼の街宣車が突っ込んだり、右派の雑誌社に極左が火炎瓶を投げ込んだりしたようなケースです。

第一の、公権力による表現の自由等の侵害も、二つの種類に分けられるでしょう。積極的侵害と消極的侵害です。

(1)積極的侵害
積極的侵害とは、古より行われた公権力による人民に対する、表現の自由等の圧殺あるいは制限です。

典型的には、共産主義やファシズムのような全体主義体制では、その圧殺が恒常的に行われましたし、それらよりも緩やかですが、権威主義体制の下でもその制限が行われました。

(2)消極的侵害
消極的侵害とは、積極的侵害とは違って、ある特定の政治的立場にたつ個人もしくは集団・団体の表現の自由等を公権力が優遇すること、あるいは冷遇することです。
ある特定の政治的な個人または団体を優遇することは、その他の思想的立場の人たちの権利を冷遇することと同じですし、ある特定の政治的な個人または団体を冷遇することは、その他の人たちを優遇することと同じです。

公権力による積極的侵害ばかりでなく、消極的侵害も忘れてはならないでしょう。そして、積極的侵害と消極的侵害は、公権力による表現の自由等に対する権利侵害の、二つの形態です。

日本国憲法第二〇条 [信教の自由、国の宗教活動の禁止]の一項には次のような記述があります。

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」

「いかなる宗教団体も、国から特権を受け(中略)てはならない」とあります。これは「宗教団体」のみならず、宗教的個人にも当てはまることでしょう。
また、これは公権力による(この場合は、信教の)自由の消極的侵害を禁止していると解すべきでしょう。そして、公権力による自由の消極的侵害の禁止は、第二一条にも適用すべき原則のはずです。

すなわち、<公権力は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現」において、ある特定の政治的立場にたつ個人または団体に対して、特権または便宜を与えてはならない>のです。

3.表現の不自由展・その後

2019年8月1日に開幕し、10月14日に閉幕した「あいちトリエンナーレ2019」で、物議を醸した特別企画「表現の不自由展・その後」(以下、「不自由展」)は、前節の観点から、<公権力による表現の自由の消極的侵害>に当たると私は考えます。

昨年の12月24日付朝日新聞に、「表現の自由のいま」と題する、大村秀章愛知県知事に対するインタビュー記事が掲載されました。そこで大村知事は語っています。

「僕は法律上、公権力者の立場にあります。行政権限を持ち、公的な美術館の責任者でもある。その僕が『この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ』と言うのは、表現の自由を保障した憲法21条に照らして、決してやってはいけないことなのです。検閲そのものにもなりかねません」

一見もっともな主張のように聞こえますが、それは公権力がある特定の政治的立場にたった表現を、優遇もしくは冷遇していない場合に限り当てはまります。
では、不自由展は、特定の政治的立場の表現を優遇していないでしょうか。明らかにしています。

8月1日の開幕後、不自由展には市民による抗議の電話やメールが殺到し、同月3日早くも中止を余儀なくされましたし、一部の有志がそれに対抗して、10月27日同じ名古屋市で「あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」を開催しました。それにより、公権力による不自由展の優遇が可視化されました。
その結果、トリエンナーレは公的な美術館で認められるのに、トリカエナハーレは認められない二重基準に対する批判の声が、ネットで溢れました。後者に対して、大村知事はヘイトだと言っていますが、その判定も恣意的だと言わざるをえませんし、それは「この芸術作品のこの内容はダメだからやめろ」と言っているのに等しい。

文化庁はあいちトリエンナーレに対する補助金の不交付を決めましたが、それに対して大村知事は同記事で述べています。

「求められた手続きに従って補助を申請し、文化庁の審査委員会で審査されたうえで採決が決定していました。文化庁は我々の手続きに不備があったと言っていますが、いわれのないことです。行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があり、裁量権の逸脱だと考えています」

不自由展の展示品こそ、「行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があり」、そのような政治的に偏向した作品群に対し、クレームをつけない大村氏の不作為こそ、「裁量権の逸脱だと」断ずべきでしょう。

大村知事は、こうも発言しています。

「公的な芸術祭であるからこそ逆に、憲法21条がしっかり守られなければならないのです」

その通りです。
公的な(=公金が投入された)芸術祭であるからこそ、憲法21条がしっかり守られなければならない、つまり、公権力による表現の自由の、積極的侵害のみならず、消極的侵害もあってはならないし、行政が守るべき公平性、公正性の面で大きな問題があってはならないのです。

大村知事はさらに言っています。

「日本だけではなく世界各地で、分断をあおる政治が台頭しています。こうした分断社会は日本が目指すべき社会ではありません」

第一、「表現の不自由展・その後」は、「公権力による表現の自由の消極的侵害」に該当すること。
第二、その「公権力による表現の自由の消極的侵害」について、大村氏はまったく考えが及んでいないこと。
第三、そのような展示を氏が無理強いしたことが、市民の間で分断を引き起こしていること。
第四、大村氏自身が分断を「あお」った張本人であること。

どうしてそれに気がつかないのでしょうか。

4.蛇足

蛇足ながら、憲法八九条にも疑義を呈したいと思います。

第八九条 [公の財産の支出利用の制限] 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

最低限、次のように改めるべきではないでしょうか。

「宗教上及び特定の政治上の組織若しくは団体の使用、便宜若しくは維持のため、(中略)これを支出し、又はその利用に供してはならない」

左派は必然的にポピュリストである

1.先攻と後攻

たとえ非合理であり、不平等であろうとも、一国あるいは社会の成員全員が、その政治的経済的社会的法的諸制度に、そして文化や生活様式の現状に満足しているのなら、進歩派(左派)と保守派(右派)の対立も、社会の分断も起こりません。
ところが、それらに対して、異議申し立てを行う人が、あるいはそれらに代わる制度を求める人たちが現れてから、左派と右派の対立が、そして社会の分断が発生します。

社会の分断の原因」に書きました。

「夫婦同姓が当たり前だった時代、この問題に関する限り、社会に分断はありませんでした。
ところが、同姓に不都合なり、疑問に感じたある人物が、別姓を唱え、それに同調する人たちの数がある程度に達し、彼らがその権利を公然と主張するようになってから、分断が始まりました。

外国人参政権、外国人労働者・移民の受け入れ、同性婚、男女平等原理主義その他もそうです。
国籍を有する者が参政権を有するのが当たり前だと考えられていた時代・・・・
移民の受け入れがわずかだった時代・・・・
異性婚が当たり前だった時代・・・・
男女に性差があるのは当たり前だと考えられていた時代(女性差別もあったでしょうが)・・・・
同じパターンです。

進歩派が新しい思想を提起することによって、社会の分断が発生します」

初めに戦いの狼煙を上げるのは進歩派です。彼らからの攻撃を受けてようやく防戦に取りかかるのが保守派です。
いつも先攻は進歩派で、後攻は保守派です。
言い換えるなら、進歩派は先制攻撃派で、保守派は専守防衛派だと言えるでしょう(笑)。

2.ポピュリズムの発生

新しい思想的立場を提起する進歩派は、自分たちの主張の正しさを世に訴え、あるいはより多くの人たちの賛同を得る必要があります。そこで、彼らは口当たりの良い、人気取りの言葉を発します。
経済的に平等な社会、搾取なき社会、階級のない社会、差別なき社会、少数派が尊重される社会、外国人・移民との共生社会・・・・を実現しようではありませんか、それはきっとできるはずです、Yes,we can。

ポピュリズム(注)は、進歩派の登場とともに始まります。ポピュリズムを必要とする進歩派は、必然的にポピュリストです。

現状が非合理であることを、そして目指すべき社会が合理的であり、幸福に充ちていることををアピールしなければならないが故に、進歩派はポピュリズムを必要とします。一方、大筋は現状維持ですし、改革するにしても漸進主義ですし、一っ飛びの、ばら色の未来を語る必要はないので、保守派は原則的にポピュリズムを必要としません。
要するに、本来的に進歩派はポピュリズムを必要とするのに対し、保守派は必ずしもそれを必要としません。

(注)
ウィキペディアによれば、ポピュリズムとは、「一般大衆の利益や権利を守り、大衆の支持のもとに、既存のエリート主義である体制側や知識人などに批判的な政治思想、または政治姿勢のことである」そうですが、本稿では「複雑な政治的争点を単純化して、いたずらに民衆の人気取りに終始」する大衆迎合主義の意味で使用しています。

3.なぜ右派のポピュリズムだけが注目されるのか

そのように言えば、左派の人たちから異論がでそうです。
一歩譲って、左右の両派ともポピュリズムと無縁ではないことを認めましょう。しかし、左派がポピュリズムをあおるから、右派もそれをもって対抗するのです。ポピュリズムの活用も先攻は進歩派で、保守派は後攻なのです。

それなのに、マスメディアを見ていると、ポピュリズムのゆえに批判されているのは、もっぱら右派の政治家や党派なのです。
たとえば、トランプ大統領、イギリスのEU離脱、フランスのマリーヌ・ル・ペン氏、ドイツのための選択肢(AfD)その他の欧州の右派政党などです。

「コトバンク」の「ポピュリズム」の項の、知恵蔵の解説も下記の通りです。
「なお、日本では石原慎太郎や橋下徹(はしもととおる)(1969-)、小池百合子(こいけゆりこ)(1952-)など、大都市の知事を務める改革志向の政治家がポピュリストとされることが多い」

なぜなのでしょうか。
マスメディアを掌握しているのが左派だからです。
先に移民の受け入れを推進したのは左派なのに、それに反発する右派のみが批判される。進歩派が美しいイメージで語ったから(=ポピュリズム)、文化摩擦や犯罪やテロや暴動が発生しているのにです。

左派の論理は、次のようなものでしょう。
良いポピュリズムはいわゆるポピュリズムではない、悪いポピュリズムがポピュリズムである。だから、我々はポピュリズムを批判するのだ。あるいは、

すべてのポピュリズムは悪い。
しかし、右派のそれは、左派のものよりももっと悪質である、
が左派のモットーでしょう。
ここでも左派の得意技、ダブル・スタンダード(二重基準)が発揮されます。

右派のポピュリズムばかりを非難しているメディアがあるとすれば、そのメディアは左派である証拠です。

対米同盟強化のすすめ

下記は、よもぎねこさんのブログ記事「子供部屋オジサンの『自主独立』 護憲派」への、私のコメントです。
今年最後のブログ記事を、他者のブログへのコメント文で代用するのは心苦しいのですが。
〔〕内は、いけまこの補足です。

〔一つ目〕
>今こそアメリカともめずに、憲法を改正し、独立国として相応しい軍事力を持つ大チャンスなのです。〔よもぎねこさん〕

その通りですね。
ところが、左翼は、そして反米保守という人たちも、それを理解しないんですね。

後者の人たちは(たとえば、西部邁氏)、アメリカとの軍事同盟の強化は、対米従属にあたる。それよりも自主防衛を目指すべきだ、と言うんですが、ママ(アメリカ)と一緒におつかい(軍事行動)にいけない子が、一人で始めて〔初めて〕のおつかいに行けるわけがありません。

アメリカと軍事行動を共にし、練習をして、「戦える国」になることが、ひいては戦争や他国による侵略を抑止することになり、結果平和がもたらされる、が王道だと思うのですが。

〔二つ目〕
>日本が勝手に武装を増強できる、と勘違いされると困りますので、念のため書いておきます。〔中略〕
>つまり、アメリカに雁字搦めにされているといったほうが早い。〔書き人知らず〕

アメリカは、最初はインドの核武装に対して否定的でした。が、その後追認に変わりました。
同様に、米国の対日軍事意識も変動しえます。

>シナ自体が、野望を隠さなくなり、太平洋をハワイを基点としてアメリカ・シナで分割統治を持ちかけてしまった。〔書き人知らず〕
そのように、いまや中共は、アメリカに追いつき、そして追い落としを狙っているのは明らかです。
しかし、米国の力は相対的に落ちている。
そこで、アメリカはどこかの国に頼らざるをえません。だから
>今こそアメリカともめずに、憲法を改正し、独立国として相応しい軍事力を持つ大チャンスなのです。〔よもぎねこさん〕

過去、アメリカが軍事力増強を要求してきた時に、日本の側が拒否してきたことが問題だと思います。
少しでも、自国にとって都合の良い増強を考えれば良かった。

アメリカの対日軍事意識を、固定的に考えるべきではないと思います。

ミス・コンテストの政治主義

1.有名ミスコン 黒人が独占

12月17日付朝日新聞(夕刊)に次のような記事が掲載されました。見出しと本文は下記の通りです。

「有名ミスコン 黒人が独占  美の評価基準に変化か」

「世界的に有名な五つのミスコンテストで昨年から今年にかけ、いずれも黒人の女性がトップに輝いた。米メディアによると、全員が黒人女性となるのは史上初めて。女性の魅力を評価する基準が変わりつつあると指摘する声もある。
8月に米アトランタで開催された『ミス・ユニバース』に南アフリカ代表が選出されたのに続き、14日にロンドンで開かれた『ミス・ワールド』にジャマイカ代表が選ばれた。昨年9月の『ミス・アメリカ』、4月の『ミス・ティーンUSA』、5月の『ミス・USA』でも黒人女性が選出された。
CNNによると、こうしたミスコンは1920年代に開始。黒人女性は当初、参加することすら許されていなかった。
米紙ニューヨーク・タイムズではミスコンを『数十年にわたり、人種差別や人種的隔離、ジェンダー的ステレオタイプに悩まされてきた』と指摘。立て続けに黒人女性が選ばれた今年を『分水嶺』と評した。
コーネル大のノリウェ・ルックス教授(アフリカ研究)は朝日新聞の取材に『黒人であることが美しさの基準から外れていた業界に、広く影響を与えるかもしれない』と語った。
ミス・ワールドに輝いたトニーアン・シンさん(23)はインスタグラムに『世界中の少女たちへ。あなたには夢を成し遂げるだけの価値も能力もあると知って欲しい』と投稿した」

2.リベラル・イデオロギーのミスコンへの波及

テレビを見ない主義者ですし、最近はDVDとかで映画も見ないので疎いのですが、黒人の美人女優さんというのを、私は知りません。男優は、デンゼル・ワシントン氏のようなハンサムな人もいるので、美人の女優さんがいても不思議ではありません。
しかし、「世界的に有名な五つのミスコンテストで昨年から今年にかけ、いずれも黒人の女性がトップに輝いた」というのは、尋常ではありません。どうしたことでしょうか。新聞が言うように、「美の評価基準」が「変化」してしまったのでしょうか。

この記事が示すのは、ミスコンの世界に少数派尊重の、というよりも優先の、リベラル・イデオロギーが蔓延しているということ(黒人に偏見を持たない=黒人の美を認めることができるのが、進歩的人士の証である)、あるいは審査員たちに同調圧力がかかり、彼らがそれに抗しえなくなっているということでしょう。

3.美的評価の政治主義

真善美の内の、美の世界に政治主義が持ち込まれているのです。この点、今年8月1日に開幕し、9月14日に閉幕したあいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」と同じです。
私は、黒人がミスコンのトップを独占したこともですが、と同時に報道が黄色人種について、何らの言及がないのも気になります。政治主義者たちは、一つのことに囚われるとその他のことが目に入らなくなりますが、彼らは白人と黒人の他に黄色人種がいることさえ忘れてしまっているようです。あるいは、黄色人種は少数派だけれども、弱者ではないから無視しても良いということなのでしょうか。
それとも、純粋に美的評価をすると、白人や黄色人種よりも、黒人の方が美しいということなのでしょうか?

典型的な政治主義とは、次のようなものです。
スターリンとヒトラーの全盛時代、A氏がスターリンの、B氏がヒトラーの肖像画を描いたとしましょう。同じ美術展にその両方が出品されました。
二つの絵画としての、純粋な美的評価とは違って、左派の政治主義者はスターリンの肖像画を、右派はヒトラーの肖像画を絶賛します。

4.言論と表現の政治主義

現在の私たちの時代にも、そのような政治主義が公然と行われています。
あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」とあいちトリカエナハーレ2019「表現の自由展」、「在日コリアンは半島へ帰れ」と「ヤンキーゴーホーム」、マルクスとエンゲルスの青年時代をテーマにした映画と、ヒトラーとヘスの親密な時代を扱った映画(そのような映画は一般劇場での公開はおろか、製作すらされるはずがありませんが)・・・・
一方は認められて良いけれども、他方は認められてはならないとするのが、政治主義です。

欧米日を問わず、現実政治の場は保守派が握っているにしても、言論や表現の空間は左派が牛耳っていて、彼らがそこをリード(ミスリードですが)しています。そして、

すべての言論・表現は自由である。
しかし、左派のそれは、右派のものよりももっと自由である、が左派のモットーです。

なので、左派的言論や表現は社会で認められているのに、右派的なそれは封じられるといったアンバランスが現出しています。

5.リベラルの美の評価基準

事情は、ミスコンにおいても同じです。

すべての女性は美しい。
しかし、少数派(欧米での)であり、なおかつ弱者の女性は、その他の女性よりももっと美しい、がリベラル派の「美の評価基準」です。

それは、リベラル的ステレオタイプであり、私たちは今それに悩まされているところです。

マスメディアは二度間違えた

1.戦前と戦後

戦前、政府・軍は判断を誤りました。
ドイツ、イタリアと軍事同盟を結び、アメリカを中心とする連合国との戦争を決断しました。その結果、多くの兵士たちは、各地で戦死することになりましたし、銃後の国民は空襲で逃げ惑い、あるいは焼夷弾や原爆で焼かれることになりました。大東亜戦争における戦没者は、三百万人余りに上ります。
新聞は政府と協調し、戦意高揚を煽り、国民を戦争に駆り立てました。戦前、政府のみならず、マスメディアも間違えました。

政府と歩調を合わせて失敗したマスメディアは、それに懲りて、戦後は反権力とか権力監視を標榜するようになりました。当時自由・資本主義体制は何れ社会・共産主義体制に取って代わられるという予想が通用していました。
そういう中で、政府は自由主義体制を選択したのに対し、マスメディアは社会主義体制寄りの報道や言論を行いました。

しかし、マスメディアや知識人たちの予想に反して、その後資本主義国は経済的に発展する一方、社会主義国は政治的経済的に停滞し、あるいは行き詰まりました。結局、ベルリンの壁崩壊とソ連邦の解体により、体制選択における社会主義の敗北が明確になりました。

細かいことを言えば、何れも間違いは沢山おかしていますが、大局的に見れば、戦前戦後を通じて、政府・軍は一度しか間違えていないのに、マスメディアは二度間違えました。
前者は一勝一敗ですが、後者は0勝二敗です。

2.マスメディアは三度目の間違いをおかしている

そして今、マスメディアは三度目の間違いをおかそうと、いいえ、現におかしています。
冷戦時代、社会・共産主義寄りの言説を行っていた多くのマスメディアや知識人たちは、冷戦後徐々にリベラルへ転向して行きました。そして、現在彼らはリベラル派に宗旨替えし、その旗を振っています。
リベラル・イデオロギーは現在流行の進歩主義思想であり、冷戦時代のマルクス主義同様、その矛盾が徐々に膨れ上がり、何れ破綻するでしょう。もっとも、それが何十年後になるかは分かりませんが。
彼らは、三度目の間違いを驀進中です。

3.マスメディアと大衆

マスメディアと大衆が各々、支持するか支持しないかという観点から分類した場合、政府は四つに分けられるでしょう。
マスメディアも大衆も共に支持する政府、マスメディアは支持するけれども、大衆は支持しない政府、マスメディアは支持しないけれども、大衆は支持する政府、マスメディアも大衆も共に支持しない政府です。
何れの政府が国民にとって望ましく、何れの政府が望ましくないでしょうか。

第一。マスメディアも大衆も共に支持する政府は、とりわけ両者が熱狂する政府は危険です。ドイツのヒトラー政権や先の大戦開戦前のわが国はそのようなものだったでしょう。
宗教団体の信者はその新聞を、共産主義党派の支持者はその機関紙・誌に書かれてあることを信じて疑いませんが、マスメディアも大衆も支持する政府とは、それら宗教や政治団体と信者や支持者が丸ごと国家を形成しているようなものでしょう。

第二。マスメディアは支持するけれども、大衆は支持しない政府も余り好ましくありません。
「悪夢のような」民主党政権成立前とその政権初期はそのようなものでした。
マスメディアは、民主党を贔屓にするような、一方、自民党を政権から追い落とすような報道や言論を行いました。
大衆の支持がなければ、民主党政権はありえなかったと反論する人もあるかもしれません。しかし、多数派メディアが過度に民主党寄りの報道をしたから、有権者も惑わされて、同党に投票したと考えるべきでしょう。

ところで、共産主義国のメディアは国営ですが、そこでのメディアと大衆と政府の関係をどう考えるべきでしょうか。共産国の政府は、マスメディアも大衆も共に支持する政府なのでしょうか、それともマスメディアは支持するけれども、大衆は支持しない政府なのでしょうか。
共産国では、大衆はメディアの報道や論評の正しさを信じていたのでしょうか、それともそれに異議を申し立てれば、強制収容所送りになる等の恐怖のために、報道や論評を信じている振りをしていたのでしょうか。
革命初期には前者だったのが、次第に幻想から覚めて、後者になっていったのではないでしょうか。

第三。マスメディアは支持しないけれども、大衆は支持する政府です。
現在私たちが目にしているのは、そのような政府です。日本の安倍晋三首相もアメリカのトランプ大統領も、多数派の進歩的メディアから毛嫌いされています。しかし、大衆の支持は意外に根強い。国民にとって、マスメディアは支持しないけれども、大衆は支持するという政府の下での生活が、一番幸福なのではないでしょうか。

第四。マスメディアも大衆も共に支持しない政府です。
そのような政府は民主主義国では長続きしません。なので、そのような政府のことは余り心配する必要はないでしょう。
もっとも、そのような政府は第一の政府よりも国民にとっては良い政府であり、ひょっとすると、第二の政府よりも増しかもしれません。

結論を述べるなら、マスメディアからでも知識人からでもなく、大衆から支持される政府が、最も良い政府です。

「死の商人」という言葉があります。
『広辞苑』(第二版)によれば、「軍需品を製造・販売して巨利を得る大資本をさしていう語」とあります。
もう一つの死の商人=マスメディアは、間違った報道や言論を「製造・販売して」、国民を酷い目に遭わせる「大資本さしていう語」、と定義できるでしょう。

二度あることは三度あります。
戦前、冷戦時代、冷戦後、マスメディアは、間違えてばかりです。いまや、0勝三敗です。
大衆は自らの判断を信じ、マスメディアや知識人の言うことは、話四!半分に聞いていた方がいい。
彼らの指し示す方向へ突っ走ったら、ろくな事にはなりません。

カノン

1980年頃、東京・池袋の下宿にいた時、隣のアパートからある音楽がたびたび聴こえてきました。当時はまだCDもありませんでしたし、レコード盤をかけていたのでしょう。何度も同じ曲がかかっていました。聴いているうちに、最初は音だったのが、次第に旋律に変わって行きました。
後に分かったのは、それがヨハン・パッヘルベルのカノンという楽曲だということです。

ヨハン・パッヘルベル(1653-1706)は、「トッカータとフーガ ニ短調」、「G線上のアリア」、「主よ、人の望みの喜びよ」などで有名な、音楽の父と称されるヨハン・クリスチャン・バッハ(1685-1750)よりも少し前の時代の作曲家です。

神保璟一郎氏の『クラッシック音楽鑑賞事典』(講談社学術文庫)には、J・S・バッハ以前の作曲家としては、ブクステフーデ、コレリ(コレッリ)、パーセル、クープラン、ヴィヴァルディ、テレマン、ラモー、スカルラッティ、タルティーニの項目はありますが、パッヘルベルのはありません。

音楽の専門家はいわゆる玄人好みの曲を、たとえば演奏家は弾くのが難しい曲を評価するのかもしれません。が、私たち素人にとって重要なのは、聴いて心地よいかどうかです。

11月4日公開の投稿で引用しましたが、新聞でインタビュアーの「『良い曲』とは?」との問いに、ミュージシャンの小田和正氏は「『シンプルで飽きない』っていう一言かもしれない」と答えています。
童謡「ぞうさん」を作曲したのは団伊玖磨氏ですが、そのような単純な名曲を作れるのは才能がある証拠でしょう。

音楽史は、パッヘルベルのカノンを超えようとして、ついに超えられない歴史ではないでしょうか。

【いけまこ・かたえくぼ】
朝日新聞には、悪名高き社説や読者投稿「声」欄がありますが、それらと同じ「オピニオン&フォーラム」の頁に「かたえくぼ」というコーナーがあります。12月3日付は次のようなものでした。

かたえくぼ

『面接』

黒を白と言えますか?
一国家公務員採用試験

(練馬・邦ちゃん)

それに応じて、私も一つ

『面接』

白を黒と言えますか?
一左派メディア採用試験

(いけまこ)

(同じことを、誰かが言っているかもしれませんけど)

一流の野党・二流の野党・三流の野党

1.野党三種

与党は、複数政党制の民主主義国において、政権を担当している(政権に与っている、あるいは政府の側に与している)政党のことです。一方、野党とは政権を担当していない(野にある)政党のことです。
さて、野党は三種類に分けることができるでしょう。一流の野党と二流の野党と三流の野党です。

第一。一流の野党とは、時々与党に取って代わって政権を担うことができる責任政党のことです。イギリスではそのような野党が野にある時にも、政権を担った場合を想定して「影の内閣」が設けられているそうです。
与党とは別の理念によって結成された野党は、自らの理念に基づいた政策を立案し、有権者にそれを提示及び説得し、選挙に勝つことによって、政権を獲得、自らの政策を実施して行きます。

第二。二流の野党とは、与党とは別の政策を提示するものの、それが非現実的だったり、不人気だったりして、なかなか政権に就くことができず、万年野党化した政党です。
但し、政権は担えないものの、比較的図体が大きいために、与党がへまをすれば取って代わるかもしれないとか、図体は小さくても独自の理念を有するため、一定の固定支持層があり、政府に対して厳しい追及ができるとかで、与党に緊張感をあたえることができる野党のことです。

第三。三流の野党とは、政権を担う意思も能力も可能性もない、創立から数年で消滅してしまうような泡沫野党のことです。

2.現在の野党

現在のわが国の野党は、以上の何れに相当するでしょうか。

時事通信社の11月の政党支持率によると、与党の自民党30.1%、公明党3.7%に対し、野党は立憲民主党3.1%、共産党2.0%、日本維新の会1.3%、社民党とれいわ新選組が各々0.6%、国民民主党とNHKから国民を守る会が各々0.2%、そして、支持政党なしが55.5%です。

どの野党も、万年野党と半ば嘲られた旧日本社会党には及びませんし、自民党のコバンザメ公明党よりも支持率が低い。
いつの時代でも、大小に拘らず政治が解決すべき問題は山積しています。国民はそれらが解決されることを切望しています。
ところが、現在の野党がやっているのは、政府の政策批判でも、自らの政策提示でもありません。総理大臣や国務大臣の失言や不祥事を攻撃することばかりです。いわゆるモリ・カケから桜を見る会の問題まで。

確かに野党ですから、総理大臣他の失言や不祥事を問題にすることがあって当然です。けれども、国会においては政策に関する議論が主で、不祥事等は従であるべきです。
ところが、現在の野党の政治家たちには、主従が逆転しているという自覚さえないように見えます。それなのに、自分たちは政府・与党と英雄的に戦っていると自己陶酔しているのではないでしょうか。

主従逆転では困ります。野党に投票した有権者たちは、刺身定食を注文したのに、刺身のないツマだけの定食が出されたように感じていることでしょう。
もう国民は、うんざりしています。だから、野党の支持率が低いのです。
現在の野党は、二流半と三流ばかりです。

3.一流の野党を作るには

1990年代のいわゆる政治改革によって、政治家たちは政権交代可能な、自民党とは別のもう一つの有力な政党を作ろうと考えました。が、それはいまだに実現していません。

理念の同じ政党による二大政党制などありえません。それが可能だと考えて失敗したのが、希望の党です。
もし政権交代可能な、自民党とは別の政党を作ろうと思うのなら、自民党よりももっと右寄りな政党か、それとも左寄りの政党を作るしかありません。そして、現在のわが国の国民意識から考えるなら、後者の政党を作るのが現実的です。

2017年に希望の党と民進党が、一部の政治家を排除して丸ごと合流しようとしましたが、その騒動が明らかにしたのは、野党の政治家たちは、国会議員になるのが人生の目的で、理念や政策は後からついてくると考えているということです。

野党の政治家たちは選択すべきです。
国民のためを思うのなら、社会・共産主義やいわゆる戦後平和主義という古着を脱ぎ捨て、私情を抑え、大同団結して、自民党よりも少し左寄りの、愛国的な<陛下の反対党>を結成すべきです。
自分自身の栄達のためにしか関心がないのなら、今直ぐにでも辞職した方が良い。その方がお国のためです。

『国民の歴史』の韓国観

1.韓国という国

1996年に発足した「新しい歴史教科書をつくる会」の初代会長西尾幹二氏は、1999年大部の『国民の歴史』(産經新聞社)を上梓しました。
西尾氏は書いています。

・「日韓問題を考えると、愉快になったことは一度もない」(705頁)

・「中国皇帝を中心に円周上に広がっている華夷秩序の内部に近いところがより文明的であり、外縁にいくにつれて野蛮だというひと昔もふた昔も前の序列意識が、他の国に例のないほど韓国には固定化している」(709頁)

・戦前、「中国と韓国は無力であったにもかかわらず、日本に理由なき優越感を示し、扱いにくい、面倒で、手に負えない存在であったことである。両国はともに古色蒼然たる東夷思想・中華思想に閉ざされていたために、『小癪な東夷・日本』という侮日感情を最初から抱いていた。彼らとの今日に及ぶ感情的もつれの原点である」(509頁)

・戦後の日本では、「もともと優越感を抱いていたのは日本人のほうだとされていないか」(510頁)

・「韓国人にいくら言っても伝わらないもどかしさ」(706頁)

・「私たちは類例のない悲劇の国に、うかつにも手をつっこんでしまったのである」(713頁)

・「昔も今も、私たち日本人はあまりにも変わっていないな、ずっと同じ勘違いをしつづけているんじゃないか、という思いである」(同前)。「善意をもって隣人のように接すればよいという、なにか自分の側に最初に思い込みと錯覚があって、それの延長線上に相手を考え、相手に異なる意識があるということに気がつかないある種の独善によって動いていた」(717頁)

『国民の歴史』は二十年前に出版されましたが、今日の日韓の軋轢の原因を的確に表現していると思います。

2.韓国併合について

西尾氏は、韓国併合についても記しています。

・「私は、悪いことをしたと日本人がまず考えるべきではないし、朝鮮の人と対話をするときにも、頭から当時の国際情勢を理解することを求め、国際社会の条理にかかわる歴史理解に道徳は介入できないことを説得すべきであろう。悪いことをした、しかし部分的に日本はいいこともしたというような姑息な言い方をやめよう。われわれはなにも悪いことはしていない」(720頁)

・「世界史の必然に対しわれわれは何も謝罪する必要はない」(721頁)

・「われわれは歴史の必然として起こった遠い過去の出来事に対して、罪の意識を抱く必要はまったくない。謝罪の必要もない」(722頁)

西尾氏は、次のようにも書いています。

・「不幸にして起こった一部の悪を、ありえない誇大なものに言い立てる韓国人の癖はよく知っているが、日本人は自分の名誉と政治的利害のために、起こってもいないことをも起こったこととする大きな嘘とはきちんと闘わなければならない」(723頁)

3.極東の国と極西の国

1980年代から90年代初めにかけて、経済的に世界を席捲している頃でしょうか、日本は極東ではなく極西の国であるというようなことが言われましたが、事実を事実として認め、国際条約を守るのが西方の国の特徴であるとし、事実を事実として認めない、もしくは自分にとって都合の良い事柄のみが事実だと考える、そして国際条約を守らないのが東方の国の特徴だとするなら、日韓は地理的には隣同士ながら、韓国は極東の国、日本は極西の国だと言えるでしょう。
極東と極西の境界線は、対馬海峡を通っています。

済州島での国際観艦式における参加艦艇への軍艦旗の掲揚自粛要請(実質的に、海自艦に対する旭日旗掲揚拒否)、日韓請求権協定に反する、韓国大法院によるいわゆる徴用工問題の不当判決、「和解・癒やし財団」の解散による、日韓慰安婦合意の一方的破棄、韓国海軍の駆逐艦による、海上自衛隊の哨戒機P-1に対する射撃用管制レーダーを照射した事件、キャッチオール規制の厳格化(優遇措置対象からの韓国の除外)に反発しての、日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄決定等を見て、私もそうですが、さすがに普通の日本人は韓国の異様さ、と言って悪ければ、同国の異質さを認識するようになりました。それ自体は大変喜ばしいことです。

ただわが国の左翼だけは、いまだに「善意をもって隣人のように接すればよいという、なにか自分の側に最初に思い込みと錯覚があって、それの延長線上に相手を考え、相手に異なる意識があるということに気がつかないある種の独善」の中に棲んでいるようです。

【追記】
11月23日午前零時に失効するはずだったGSOMIAが、韓国の翻意によって、22日一転、継続することになりました。アメリカの圧力のためであるらしい。
読まれないブログを書くのが私の特技ですが、大国に翻弄され、右往左往するのが韓国の特技のようです。

E・ルトワック氏の「韓国が反日の理由」

1.韓国・オランダ・スウェーデン

月刊『Hanada』12月号に、米戦略国際問題研究所上級顧問エドワード・ルトワック氏の「韓国よ、歴史の真実を学べ」という記事が掲載されています。
そこで、ルトワック氏は述べています。

「若いオランダ人たちは、自分の父親たちが臆病者であったからこそ、戦後に反ドイツ的な感情を持ち続けたのである」(37頁)
戦時中、「オランダは、まるでドイツの使用人のように振る舞っていた。だからこそ戦後、ドイツ人を長期にわたって憎しみ続けることになった」(38頁)

「戦後、たとえば一九五三年頃になると、ヨーロッパの多くの国ではドイツをすでに許していたが、スウェーデンはオランダと同じように、超がつくほどの反ドイツ感情を保持していた。
戦時中、彼らはオランダ人と同じように臆病者で、ナチスに協力していた」(40頁)
「戦時中にドイツに協力的だった国こそ、本当に反ドイツ的な態度をとるようになる」(40頁)

「一九四五年までの朝鮮半島で、実は抵抗運動(レジスタンス)と呼べるようなものはほとんど発生していない。朝鮮人たちは概して服従的だったのだ。
むしろ多くの人々は、服従以上の態度で自発的に日本に協力し、日本軍に積極的に志願したのである」(37頁)
故に、「韓国人はいまだに、自分たちの父親や祖父たちが臆病者で卑屈だったという心理的トラウマに悩まされている」(38頁)

一方、戦後「ユーゴの人々はドイツからの旅行者を大歓迎していた。
その理由は、ドイツ人がユーゴ人を殺し、ユーゴ側もドイツ人を大勢殺したからだ。彼らは決して臆病者ではなく、立ち上がり、戦ったのである。誰も自分たちの父を恥じることもなく、誇りを持てた。だからこそ戦後、ドイツ人に対して友好的になれたのである」(37頁)

ルトワック氏の主張を敷衍するなら、戦時中アメリカ人は日本人を殺し、日本側もアメリカ人を大勢殺したから、戦後日本人はアメリカに対して友好的になれたということでしょう。
米軍と良く戦った愛国的日本人が戦後親米になり(戦勝国史観には批判的でしたが)、反戦や社会主義思想のゆえに投獄され、そこで温温と過ごした「臆病者」が戦後反米反日的な左翼になったのでしょう。なるほど、平仄が合います。

ついでに述べるなら、戦後の保守派は親米になりましたが、「反米保守」などという人たちは、冷戦中左翼やノンポリだったりして、(意識の上であれ)左翼とちゃんと戦わなかったから、その後ろめたさのゆえに、左翼とたたかった親米保守派に烈しい対抗意識を持つのでしょう。
冷戦時代に左翼でもノンポリであった訳もなく、左翼と言論でたたかった人で、冷戦後親米保守を批判した人を、私は一人も知りません。
結局のところ、反米保守派はニッポン・ネオコン(転向保守)なのです。彼らは、社会・共産主義者、リベラルとは別の、左翼の一分派なのです。

2.北朝鮮と韓国

ルトワック氏は、現在の北朝鮮と韓国についても語っています。

「われわれが認めなければならないのは、北朝鮮の核兵器は、中国からの自立と存続を保証しているということだ。(中略)北朝鮮の核が中国からの自立と存続を保証している以上、北朝鮮がこれを手放す可能性は非常に低い」(34頁)

戦前の日本が日清、日露戦争をたたかわざるをえなかったのは、そして韓国を併合せざるをえなかったのは、安全保障の点から朝鮮半島を支那やロシアに渡すわけにはいかなかったからでしょう。

ところで、現在北朝鮮はどこの国の脅威のゆえに核兵器の開発と保有を進めているのでしょうか。
ルトワック氏が言うように、第一は支那でしょう。以下は私見ですが、第二は同じく陸続きのロシア、第三がアメリカで、第四、五が韓日ではないでしょうか。北朝鮮は核兵器を保有することによって、わが国の防波堤になってくれている面もあるのです。

一方、「韓国はもはや米国や日本と過去に結んでいた関係に戻らないことが明白になった。彼らに中国に抵抗する意思はなく、一方的に従属しつつある」(41頁)

北朝鮮の金正恩委員長は梯子をかけて、トランプ大統領の耳元で囁いたのかもしれません。「わが国の核は貴国に向けたものではなく、支那に向けたものである」とかなんとか。

「中国に抵抗する意思」がある北朝鮮と、ない韓国と。
トランプ氏が文在寅大統領よりも、金正恩氏をより信頼しているように見えるのは、そのせいもあるように思います。

なぜ共産主義者は東側へ亡命しなかったのか

<以下はよもぎねさんのブログ記事「ベルリンの壁崩壊30周年記念に寄せて」への私のコメントです>

なぜ西(南)側の共産主義者たちは、東(北)側へ亡命しなかったのでしょうか。

1.ロシアも中国も人民自らが社会主義革命を成し遂げた。
2.我々も自らの手で、人民を解放しなければならない。
3.東からの亡命者は資本主義の文化・生活に憧れた反革命(裏切り者)である。
4.それでも、資本主義社会よりも、現存の社会主義社会の方が増しである。
5.西側で革命が起きれば、反革命分子は逃げ場を失う。
6.マルクス主義によれば、社会主義革命は先進国で起きるはずだった。しかし、実際は後進国で発生した。そのため、社会主義建設も難産だった(失敗も多かった)。
7.我々が行う革命は、ロシアや中国よりももっとより良き社会を作り上げることができるに違いない。

西側の共産主義者にとって、資本主義社会はそれほど居心地が悪くなかったのでしょう。そして、自分たちが天下を取ったら、さらにそれ以上の良き社会が実現できると信じていた、のではないかと。