二つの戦争

(これは3月13日公開の、よもぎねこさんのブログ記事「ヨーロッパは医療崩壊を阻止できるか? 習近平ウィルス」へのコメントです)

通常の戦争と対ウィルス戦争と。

新型コロナウィルスの、各国の感染者数と死亡者数を見ると、前者に強い国は後者にも強く、前者に弱い国は後者にも弱いような印象を受けます。

イタリアが戦争に弱いのは定評がありますし、スペイン、フランスのようなラテン系諸国もそうです。

イラン・イラク戦争は長期間続きましたが、両者とも強かったからではなく、弱かったからかもしれません。

李朝は東学党の乱の際は、清国に出兵を要請しました。
近代朝鮮は支那ロシア日本の間を、あっちについたり、こっちについたりしましたし、朝鮮戦争では米支に運命を委ねました。
いつも他力本願です。
この度の対ウィルス戦は、韓国は自力で戦いましたが、その「成果」が数字となって表れているのかもしれません。

第一次、第二次大戦を勝利に導いたアメリカは、感染者数、死亡者数とも比較的に多いですが、いつも遅れて参戦する同国は、まだルシタニア号事件や真珠湾を迎えていない=本気になっていないのかもしれません。

「かもしれません」、ばかりのコメントになってしまいました。

新型コロナウィルス感染症とデマ

オーストリアの哲学者ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)は、「論理哲学論考」の最後に書いています。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(1)

昨年末支那の湖北省武漢市で発生した新型コロナウィルスについて、第四の権力(マスメディア)や第五の権力(SNS)では、洪水のように様々語られています。

しかし、その中のどの情報が真であり、どれが偽なのか明確ではありません。人々はどれを信じてよいのか戸惑っています。
マスメディアにしろ、SNSにしろ、その分野の専門家や、知識あるいは見識ある人の言説を発信すれば良いのですが、問題なのは不確かな情報をタレ流しにしていることです。そのため、聞くべき人たちの発言が、かき消されています。

新型コロナウィルスのような特殊な分野の問題は、素人は安易に発言すべきではないでしょう。彼らは、専門家(中にはいい加減な人もいるようですが)の発言の邪魔をしているだけです。
そのような発言は、社会で不安を煽ることになるし、だから、商店の棚からトイレットペーパーやティッシュペーパーなどが姿を消すことになるのです。

知識や見識のない人が発言を止めれば、本当に聞くべき人の声が聞かれるようになるでしょう。
ウィトゲンシュタインの言葉ではありませんが、

「語りえぬ者は、沈黙しなければならない」

です。

そう言うと、知識も見識もないお前など、真っ先にブログを止めるべきだ、と言われそうですが(苦笑)。

【折々の見識】
当ブログにリンクをつけているよもぎねこさんは、「なぜ今中国からの渡航を拒否するのか? 習近平ウィルス」のコメント欄に書いています。

「習近平ウィルスの問題は、国際社会では完全な情報戦と政治利用の問題になっています。
 でも当のウィルスは政治も情報戦も全く関係なく、科学の法則に従って拡散するのです。

 だからそれを無視して情報戦や政治利用に走ると、結局痛い目に遭うのです」

【折々の名言】
「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ」(太字、原文は〇傍点)(2)

(注)
(1)L・ウィトゲンシュタイン、藤本隆志・坂井秀寿訳、『論理哲学論考』、法政大学出版局、200頁
(2)同上、198頁

なぜ共産主義者は東側へ亡命しなかったのか

<以下はよもぎねさんのブログ記事「ベルリンの壁崩壊30周年記念に寄せて」への私のコメントです>

なぜ西(南)側の共産主義者たちは、東(北)側へ亡命しなかったのでしょうか。

1.ロシアも中国も人民自らが社会主義革命を成し遂げた。
2.我々も自らの手で、人民を解放しなければならない。
3.東からの亡命者は資本主義の文化・生活に憧れた反革命(裏切り者)である。
4.それでも、資本主義社会よりも、現存の社会主義社会の方が増しである。
5.西側で革命が起きれば、反革命分子は逃げ場を失う。
6.マルクス主義によれば、社会主義革命は先進国で起きるはずだった。しかし、実際は後進国で発生した。そのため、社会主義建設も難産だった(失敗も多かった)。
7.我々が行う革命は、ロシアや中国よりももっとより良き社会を作り上げることができるに違いない。

西側の共産主義者にとって、資本主義社会はそれほど居心地が悪くなかったのでしょう。そして、自分たちが天下を取ったら、さらにそれ以上の良き社会が実現できると信じていた、のではないかと。

左翼的表現の自由展・今後

1.総括

あいちトリエンナーレ2019は8月1日開幕し、10月14日閉幕しました。
とりわけ話題になったのは企画展の「表現の不自由展・その後」です。朝鮮人慰安婦美化像や昭和天皇の肖像を焼いた「作品」などが展示されました。
そのため、8月1日にスタートするや、たちまち抗議の電話やメールが殺到し、同月3日早くも中止になりました。その後、スッタモンダの挙句、入場者数を大幅に制限することによって、10月8日再開され、14日の閉幕に無事こぎ着けました。

このたびの「表現の不自由展・その後」を総括するなら、最初は左翼的表現の自由展で始まり、途中の大部分は左翼的表現の不自由展を余儀なくされ、最後は入場の不自由展で締め括ったと言えるでしょう。

左翼偏向全開の「表現の不自由展・その後」は、本来なら開催されるべきではありませんでした。しかし一方、開催されたら開催されたで、数多くの人たちがそれを見ることによって、その政治的偏向と異様さに気づくのも、日本にとって有意義なことだったでしょう。

ところが、再開後入場者の制限が行われたため、市井の人がその異常さに気づくことができないまま終了してしまいました。残念でした。
多くの抗議の電話やメールにも拘らず、曲がりなりにも閉幕までこぎ着けたことは、左翼の成功体験の一つになったに違いありません。

2.表現の自由の問題ではない

表現の不自由展は、東京でも大阪でもその他どこの都市でも、しかるべき場所を借りて、有志が自己資金で開催することはできます。また、それを国家権力なり右翼なりが中止させたわけでもありません。
なので、このたびの問題は、表現の自由の侵害にも、検閲にも当たりません。

むしろ、表現の不自由展の出し物の政治的偏りから判断するなら、主催者は右派の表現の自由を阻み、あるいは右派的作品を「検閲」によってパージしたと考えるのが自然でしょう。

3.公立の部門に、左翼的表現の自由を

今回の表現の不自由展の性格を最も的確に示しているのは、芸術監督津田大介氏の次の発言です。曰く、

「物議を醸す企画を公立の部門でやることに意味があると考えた」(8月4日付朝日新聞)

右派が「物議を醸す企画を公立の部門でやること」は許されてはならないが、左派の場合は許されるべきだ、ということでしょう。要するに、「公立の部門」において、左翼的表現の自由を特権的に認めよ!と要求しているのです。

4.今後

今回の表現の不自由展を契機として、芸術祭や美術館の左翼偏向的展示に対する、良識ある市民のチェック機能が働くようになるでしょうか。それとも、再び入場制限という措置をとることによって、左翼はごり押しを続けるのでしょうか。

不十分とはいえ、検定制度があるので、さすがに歴史教科書の口絵に、たとえば、朝鮮人慰安婦美化像の写真が採用されることはないでしょう。が、今後何らかの検定基準なり、検定制度なりを作り、左右にかかわらず政治的に偏向した作品を公的な芸術祭や美術館から排除するようにすべきではないでしょうか。

【津田大介氏はかく語りき】
トリエンナーレ閉幕後の記者会見で、津田大介氏は語ったそうです。

「大きくマイナスになっていたものをプラスマイナスゼロに戻すことを目指していた」(注)

左翼偏向の芸術祭を批判し、正道に戻そうと考えた右派こそ、「大きくマイナスになっていたものをプラスマイナスゼロに戻すことを目指してい」ましたが、残念ながらそれは叶いませんでした。
泣く子と左翼のズルさにはなかなか勝てません。

(注)
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20727

なぜ米民主党候補者は多いのか

1.史上最多の候補者

2020年のアメリカ大統領選挙における、民主党候補者指名のためのテレビ討論会が6月26,27日に行われたという。同党の候補者は史上最多の24人です。討論会に参加をしたのは、その内の20名です。

どうして民主党候補の数は多いのでしょうか。

2.救済の対象の多様性

米民主党はリベラル派の政党です。
「左翼は誰のために戦っているか」で書きましたが、リベラルが救済の対象にしているのは、労働者・勤労者層ではなく、社会的少数派・弱者です。彼らの権利拡大のためにリベラルは戦っています。
そして、社会的少数派・弱者は多様です。女性、少数民族、移民、黒人、LGBT・・・・。各々の少数派の利益代弁のために候補者が立てば、その数が増えるのは当然です。

実際に候補者の顔ぶれを見れば、本来の民主党の支持層である労働者やミドルクラスの利益代弁を掲げている人もいますが、その他女性が6名、ヒスパニック系、アフリカ系、移民二世三世、気候変動系、ゲイの候補者もいます。

3.意見の対立はないか

そのような各少数派が手を携えて、同じ方向へ進んで行けるのなら、大統領本選挙で共和党候補と互角に戦えるかもしれません。しかし、少数派同士うまく協調できるのでしょうか。

少数派間の、意見の対立はないのでしょうか。
ある少数派は、他の少数派の権利を、自分たち少数派の権利と同等に尊重しうるのでしょうか。
ある少数派が重視されたり、ある少数派が軽視されたり、少数派間の優先順位が生じたりしないでしょうか。
ある少数派の中に、別の少数派に対し嫌悪感を抱く者はいないでしょうか(当然いるでしょう)。

そのようなことを考えると、「全国のマイノリティ団結せよ!」は、かなり難しいだろうと思います。

4.民主党受難の時代

共和党は一応一方の多数派=右派層の支持を受けているのに対して、民主党は各少数派の集団の、バラバラな意見しか代弁していない点で、大統領選挙で勝利するには不利だろうと思います。

リベラル・イデオロギーという強(凶?)風が吹いている間は、思想的にはリベラルの攻勢が続きますが、選挙のように意見・票の集約が必要な場合は、守勢に立たされざるを得ないでしょう。

共和党候補になかなか勝てない、勝っても二期は務められない、今後そのような民主党受難の(自業自得ではありますが)時代が続くのではないでしょうか。

 

「安倍改憲に勝つ」に賛同

5月3日の憲法記念日、朝日新聞に丸々1ページをさいた意見広告が掲載されました。
題して、「安倍改憲に勝つ」。
「市民意見広告運動/市民の意見30の会・東京」の呼びかけで、賛同者の氏名もずらりと掲載されています。
その意見は、以下のようなものです。
所々引用して、それに対してコメントをします。

・「私たちの憲法はアジア太平洋戦争の反省に基づき、主権者が政府に課したものです」

「アジア太平洋戦争」なるものはありません。先の大戦の名称は大東亜戦争、太平洋戦争もしくは第二次世界大戦です。名称の変更は歴史修正主義の始まりです。

日本国憲法は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領中に、つまり、わが国(民)に主権がない時に、主権者=実質的にアメリカが日本に課したものです。

・「安倍政権は、(中略)憲法9条への自衛隊の存在明記に強い意欲を見せています」

ウィキペディアの「立憲主義」の項目によれば、「近代憲法は国家権力を制限し憲法の枠にはめ込むことによって権力の濫用を防ぎ国民の権利(とくに自由権)を保証することを目的としている」とあります。
とするなら、憲法に国家権力の暴力装置たる「自衛隊の存在を明記する」のは当然でしょう。「憲法の枠にはめ込」まなければ、「権力の濫用を防」ぐことができないのですから。

・「武力では平和も生活も守れません」

これは前大戦における敗戦国にのみ通用する教訓であって、戦勝国は別の教訓を得ています。それは、最終的には武力でしか平和は守れない、というものです。そして、それは正しい。
第二次大戦において、世界の大多数の国が戦勝国側です。だから、世界の大勢は、戦勝国の教訓に学び、従っています。

・「人びとや国ぐにを対立に追い込む武力ではなく、理解と信頼を構築する対話こそ最も確実、かつお金のかからない安全保障だからです」

「理解と信頼を構築する対話」とは具体的にどのようなものなのか不明ですが、それが「最も確実、かつお金のかからない安全保障」との主張に、歴史的裏付けはあるのでしょうか。
それで安全保障が実現できるのなら、どこの国(たとえば米朝)も苦労しないでしょう。

・「沖縄の人びとは、(中略)意思を本年2月の『辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票』の結果で示しました。実に、投票した7割超の人びとが『新基地建設ノー』の意思を明らかにしたのです」

2月24日に投開票された県民投票の結果を見てみましょう。
投票資格総数は115万3591人であり、そのうち「反対」は43万4273人(37.65%)です。棄権は54万8206人(47.52%)で、一番多い。
投票資格総数100%一反対37.65%=反対じゃない(賛成)+必ずしも反対じゃない(どちらでもない、棄権)62%強、だと解釈できないこともありません。とすると、反対派の方が少数派です(選挙で自民党が勝った場合、得票率の少なさを強調する左派的解釈の真似です)。
「反対」に投票せよとの同調圧力があったことを考えるなら、沖縄県民は「普天間ノー」の強い意思と、「辺野古ノー」の弱い意思を示したのだろうと思います。

・「日本政府はそれ(この上の新たな基地の押しつけはごめんだという意思)を平然と無視し、工事強行を続けています。沖縄には民主主義がなくてもよい、というのでしょうか」

安倍氏は合法的かつ民主的に選ばれた首相です。そして、辺野古埋め立てはその政治運営の一つです。一方、県民投票は正式な民主的手続きではありません。
それをあたかも民主的手続きであるかのように扇動した政治家やメディアは、何が正当な手続きなのかということを県民や国民に分からなくさせ、県民に過大な期待を抱かせ、かえって失望させました(県民の不満の増大が、反権力メディアの狙い?)。

県民投票は、民主的に選ばれた政府の決定の代わりにはなりません。「反対」37.65%の意思が通るのなら、それこそ民主主義の否定です。日本には「民主主義がなくてもよい、というのでしょうか」

・「アベノミクスは大失敗」

アベノミクスは大成功だとは思いませんが、「大失敗」だというのは言い過ぎでしょう。他にどのような策があるのでしょうか。
安倍氏ではなく、この人が首相になっていた方が経済はずっと上向いていたはずだという、そのような政治家はいるのでしょうか。

・「12年前の2007年、主権者たちは年金問題や相次ぐ閣僚の不祥事が続いた第一次安倍政権に対して参院選挙でノーの意思を示しました。その結果が首相の退陣、その後の政権交代につながりました」

「その後の政権交代」の結果、悪夢のような民主党政権に「つながりました」。
安倍政権よりも民主党政権の方が良かったのでしょうか。

この会の人たちは、民衆は東から西へ、北から南へ逃げているのに、東や北の体制の方が優れていると言い張った人たちの思想的末裔なのかもしれません。

私は、「安倍改憲に勝つ」に賛同、はできません。

元外交官の「見識」ある発言

朝日新聞の社会面に「『沖縄』を考える 土砂投入」と題する企画が連載されています。その2月4日付で「元中国大使 宮本雄二さん」は語っています。

「冷戦時代、『脅威』をめぐる国会論戦がありました。政府の定義は『脅威とは意図と能力だ』と。ソ連の攻撃力は今の中国と比べてずっと強大でしたが、それを日本に対して使う意図はない。だから脅威ではない。同じ理屈からすれば中国も脅威ではありません。」

確かにソ連は北方領土を占拠していました(います)が、わが国のその他の地域に対して領土的野心を示していた訳ではありません。
私たちが恐れていたのは、同国による侵攻よりも、「ソ連の攻撃力」による米ソの全面(核)戦争でした。

一方、中共は、尖閣諸島近辺における行動を見れば、「能力」のみならず「意図」もあるのは明白です。
能力はあったけれども意図はなかったソ連と、能力も意図もある中共を同列に論じることはできません。

「同じ理屈からすれば中国も脅威ではありません」というのは、屁理屈でしょう。
宮本元大使の発言は、駐日支那大使のそれとしても違和感がありません。

戦後日本の対支対韓外交が失敗続きなのは、「宮本雄二さん」のような外交官の存在と無関係ではないでしょう。

沖縄・基地・運命

支那は尖閣諸島のみならず、沖縄をも自国の領土だと考えているらしい。

さて、将来沖縄が支那領になったとしたらどうでしょうか。中国人民解放軍(実際は、支那周辺人民侵略軍ですが)は、沖縄に駐留しないでしょうか。
当然するでしょう。
対米、対日、対台のために、米軍や自衛隊の基地をそのまま利用するでしょう。いいえ、基地をさらに拡張すると考えた方が良いでしょう。沖縄が支那領になれば、軍事基地は増えることはあっても、減ることはないでしょう。

戦後沖縄駐留米軍による犯罪は少なくなかったでしょうが、では、はたして支那軍は米軍よりも紳士的でしょうか?

沖縄が支那領になれば、有数なリゾート地として大陸で注目され、支那人が押し寄せて来るでしょう。そして、そう遠くないうちに人口侵略によって、「土人」は駆逐されることになるでしょう。
全国にある米軍基地の70%が集中していると沖縄の人たちは怒りますが、沖縄の土地の70%以上は支那人の手に渡ると考えた方がいいのではないでしょうか。

沖縄はいったい、返還前の米国の施政に戻りたいのでしょうか、日本国に留まりたいのでしょうか、それとも、支那領になりたいのでしょうか。あるいは、独立したいのでしょうか。

独立するとして、米支日台に挟まれた、しかも広大な海域を有する沖縄が、独立を保つことは可能でしょうか。広域の制空権を維持する空軍、強力な海軍力や沿岸警備隊、数多くの島嶼を守る陸軍もしくは海兵隊が必要でしょう。核武装をして、日台支の緩衝地帯になってくれるのなら大歓迎ですが。
経済的に、国民(県民)意識的に、その重圧に耐えうるのでしょうか。
一旦独立したとしても、支那が狙っている以上、何れ吸収されてしまうかもしれません。

北東アジアの状況を考えるなら、どちらに転んでも、沖縄の基地を劇的に減らすのは不可能だろうと思います。沖縄にとって可能な選択肢は、自衛隊を含めた外部の軍隊を駐留させるかさせないかではなく、どこの国の軍隊を駐留させるかだけではないでしょうか。
日米軍か、支那軍か。
沖縄はその何れかを、本気で選択しなければなりません。そして、選択したのなら、それなりの忍苦は必要でしょう。

辺野古埋め立ての是非を問う県民投票が、今月24日実施されるそうですが、敢えて言いますが、ダダをこねているようにしか見えないのです。あるいは、それは知恵者による県民のガス抜き作戦なのでしょうか。

不本意でしょうが、軍事基地の存在は、沖縄の運命だろうと思います。

 

【追記】
『八重山日報』編集長 仲新城誠氏は書いています。

”呉屋等市議は「辺野古移設に『賛成』と言えば『宜野湾市だけがそれでいいのか』と言われ、『反対』と言えば、普天間飛行場の固定化につながる。葛藤の中で市民は苦悩している」と述べ、県民投票でこれ以上、宜野湾市民に「踏み絵」を踏ませるべきではないとする。(中略)玉城県政には辺野古移設を阻止したあと、どのように普天間飛行場の撤去・返還を実現するのかという青写真が全くない。”(『WiLL』2019年3月号、266頁)

学問はまず興味・関心から

1月14日付朝日新聞によれば、「独自の理論で日本古代史に大胆な仮説を展開した哲学者で、国際日本文化研究センター(日文研、京都市西京区)の初代所長を務めた文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが12日、死去した」とのことです。

同日付同紙に、「評伝」が掲載されました。
梅原氏は述べたとのことです。

「デカルトの『方法序説』によって私は学問の方法を学んだ。学問にはまず『疑い』がある。その疑いは、それまでの通説に対する深い疑いである。そのような長い疑いの末、直観的に一つの仮説を思いつく」

私は学問とは無縁な人間ですが、おおよそ次のような具合ではないかと思います。
学問はまず興味、関心からスタートします。
何らかの分野に関して、興味なり関心なりを持ち、それを勉強なり研究して行く中で、ある時「疑い」が生まれるのでしょう。
物理に興味のない人からは、物理学上の有意義な疑いは生まれないでしょうし、政治に関心のない人からは政治学上の重要な疑いは生まれることはないでしょう。
疑いよりも、興味が先です。

興味を抱いた分野を研究している内に、ある問題に関して疑問が浮かび、その疑問を考えているうちに、ある日「一つの仮説を思いつく」。その仮説が真であることを証明するのが学問だろうと思います。

 

また氏は、「自らを哲学者と呼び、『すべてを疑い、権威に対して戦うことが哲学者の任務』と公言した」そうです。

戦後日本で哲学者とか思想家とか呼ばれる人たちは、難解な、普通の人たちが理解できないようなことを書いている分にはそれらしく見えますが、現実的な、社会的政治的な発言をする段になると途端に幼稚なことを言い出す人が少なくありません。
なぜでしょうか。

戦後風靡した(している)平和憲法、マルクス主義信仰、非武装中立論、東京裁判史観、核兵器廃絶論、現在流行のリベラリズムなど、そのような「権威」を疑ってこそ、真の哲学的精神だと思うのですが。
しかし、大方の哲学者、思想家たちは、それらに対して恭順の姿勢を示します。

梅原氏は2004年「九条の会」呼びかけ人になったとのことですが、それが「すべてを疑」った結果だとするなら、寂しい限りです。

【読書から】
「助教授ぐらいまでは、世紀の底のバラスト搔きをやっても差し支えないが、哲学教授ぐらいになったら、専門的知識や文献学的知識の煙幕をはることなく、自分の考えでどれぐらいの発言を、眼前の時事問題に対してなしうるかを示してくれてもよい。それはいわゆる『論文』よりも数等に哲学的思索を要し、危険で知的勇気のいる仕事であることがわかるであろう」(太字、原文は傍点 いけまこ)(渡部昇一著、「哲学と哲学者」『読中独語』、文藝春秋、23頁)

 

なぜ周囲を女性で固めるのか

たとえば、スパイ映画の007などを観ると、悪役側のボスは周囲に多くの若い女性を侍らせています。なぜでしょうか。
英雄色を好むといいますが、ボスが好色なためでしょうか。特に、意識してそのことを考えていない時は、漠然とそう思っていました。

しかし、ある時気づきました。女性は裏切らないからです。女性は好意を寄せる男性を裏切りません(あくまでも、一般的に言ってですが)。
男性の側近なら、隙があればボスに取って代わろうとします。しかし、女性はボスの座を奪おうとはしません。
政治家、とりわけ独裁者や企業の経営者がNO.2を作らないのは、意識的にか無意識的にか、自分の地位が簒奪されるのを恐れるからだろうと思います。

結婚の際に、男性は「この女性を一生守ろう」と心の中で誓ったり、中には「僕は一生君を守るよ」と口に出して言ったりする者もあるでしょう。
しかし、世の中そうそう勁い男性ばかりではありません。その証拠に、多くの男性は自身のため、妻子のため、自社の不祥事に目を瞑ります。それに、常に男性が女性を一方的に守るべきなのでしょうか。
私は職場で、女性の同僚を持つことで気がつきました。女性も男性を守ってくれます。しかも、女性は逆境に強い。

悪の側のボスは若い女性で身の回りを固めています。しかし、金も力もない私たち凡夫にはそんなことは不可能です。
私たちにできるのは、妻、娘、母、姉、妹、あるいは会社の女性同僚など手持ちの女性を味方につけて、身の安全を図ることです。
身近な女性を大切にしませう、できる範囲で構はないから♪

気心の知れた女性で四方を固めるのが賢明だと思います。