セクハラと差別意識

差別意識はなくならない」に書きました。

「差別という観点から考えると、左派にとって人間は二種類に分けられます。差別する人としない人です。
差別する人としない人の二種類の人間がいると考える左派は、右派や大衆=差別をする人、自分たち=差別をしない人だと考えます。そして、前者が意識を変えれば、社会から差別がなくなると信じています。(中略)
左派の人たちは、自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでいます」

その典型が、同志社大学教授西崎文子氏でしょう。
彼女は2020年7月18日付朝日新聞「ひもとく」欄に書きました。

「そして今日。白人警官によるジョージ・フロイド氏殺害をきっかけに再燃した『黒人の命は大切だ(ブラックライブズマター)』という叫びを前に、対立する人々は『すべての命は大切だ』(太字、原文は傍点)と嘯く。しかし、これが差別の実態を隠蔽する偽りの言葉であることは一目瞭然だ。(中略)そう、『黒人の命は大切だ』は、黒人だけでなく、身体と人間性を収奪された難民や移民を含むすべての人々のために響き渡っているのである」

どうして「すべての命は大切だ」が、「差別の実態を隠蔽する偽りの言葉であることは一目瞭然」なのでしょうか。ブラックライブズマター派が、暴力的な行動をとっているのを見れば、そう言いたくなるのは当然でしょう。
それにしても、「自分は差別などしないし、差別意識もないと思い込んでい」るから、こんな大口が叩けるのです。

「差別意識はなくならない」に、次のようにも書きました。

「セクハラ行為は、右派ばかりではなく左派だっておかします。だから、人類が左派ばかりになったとしても、セクハラがなくならないのと同様、人類が左派ばかりになっても、差別はなくなりません」

「差別意識はー」を書く少し前に、人権派?ジャーナリスト広河隆一氏のセクハラ問題が報じられていました。しかし、それについては、言及しませんでした。
ところが先月、韓国の朴元淳ソウル市長のセクハラ自殺問題が発生しましたし、今年4月には呉巨敦釜山市長のセクハラ辞任問題もありました。
自称フェミニストの左派ばかりになったとしても、セクハラはなくなりはしないでしょう。

左派によるセクハラ事件を見て、世が自分には差別意識はないと「嘯く」左派ばかりになったとしても、差別意識はなくならないし、ひいては差別もなくならないこと確信しました(笑)。

【追記】
2011年10月18日に東京で、日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)の結成55周年の「つどいと祝賀会」が開かれたそうです。その記念講演で、西崎文子成蹊大学教授(当時)は次のように述べたとのことです。

「私には、研究者・教育者として裏切ってはいけないと意識してきた3つのグループがあります。第1は研究者仲間。第2は親や家族。そして第3が最も重要な被爆者の皆さん。核兵器や原爆の問題だけでなく、政治や歴史について発言するときに必ず考えるのが、被団協を通じて知り合った被爆者や協力者のこと。私がどこかへ流れるのを係留する錨の役割を果たしてくださっている。その意味で被団協が私の『原点』だと断言できます」(注)

「裏切ってはいけないと意識してきた」「グループ」のリストに、あるいは「政治や歴史について発言するときに必ず考える」対象に、自国日本を入れるのが愛国派であり、入れないのが反日派です。

これまでのいくつかの記事に書きましたが、反日派とは、親や家族、そして自分の会社や組織は「裏切ってはいけない」と考えるくせに、こと自分の国=日本に関してはそう考えない人たちなのです。

(注)https://www.ne.jp/asahi/hidankyo/nihon/about/about5-201111.html



なぜ私は宗教を信じないか

私は自称異端の保守です。

なぜ異端かと言えば、正統保守の人たちと違って、宗教を全く信じないからです。

私は、神も仏もGodも信じません。

宗教を信じる人は、土壇場で真理(真)を、そして善美も裏切りそうに思えてなりません。

先攻の左派・後攻の右派

1.先に攻撃を開始するのは左派である

政治的関心のない人ならともかく、政治意識の高いはずの左派の人たちの殆んども、次のような政治の基本原理を理解していないようです。
福田恒存氏は書いています。

「普通、最初に保守主義といふものがあつて、それに對抗するものとして改革主義が生じたやうに思はれがちだが、それは間違つてゐる。(中略)最初の自己意識は、言ひかへれば自分を遮る障碍物の發見は、まづ現状不滿派に生じたのである。革新派の方が最初に仕来りや掟のうちに、そしてそれを守る人たちのうちに、自分の『敵』を發見した。
先に自己を意識し『敵』を發見した方が、自分と對象との關係を、世界や歴史の中で自分の果たす役割を、先んじて規定し説明しなければならない。社會から閉め出された自分を辯解し、眞理は自分の側にあることを證明して見せなければならない。かうして革新派の方が先にイデオロギーを必要とし、改革主義の發生を見るのである。保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て始めて自分が保守派であることに氣づく。『敵』に攻擊されて始めて自分を敵視する『敵』の存在を確認する。武器の仕入れにかかるのはそれからである。したがつて、保守主義はイデオロギーとして最初から遲れをとつてゐる。改革主義にたいしてつねに後手を引くやうに宿命づけられてゐる」(福田恒存著、「私の保守主義観觀」『福田恒存全集 第五巻』、文藝春秋、437頁)

先に攻撃を開始するのは、いつも左派です。左派の攻撃に対して防戦するのが右派なのです。
だから、以前「左派は先制攻撃派で、右派は専守防衛派だと言えるでしょう」と書きました。

2.誰が社会の秩序に石を投げているか

夫婦同姓、異性婚、国籍がある者だけに参政権がある、殆んどネイティブだけの移民がいない、性差がある・・・・のが当然の社会には少なからず不合理もあったでしょうが、それはそれなりに静かな社会でした。

ところが、そのような秩序ある社会に石を投げる人間が出現します。左派(進歩派)です。彼らは、社会に夫婦別姓、同性婚、外国人参政権、移民の受け入れ(アメリカなら、非合法移民の受け入れ)、性差の否定・・・・といった石を投げ入れます。
それによって、それまでは静かだった社会に波紋が生じます。

3.憲法は右派が先攻?

現在、憲法は右派が改憲を、左派が護憲を主張しています。だから、憲法に関しては、逆に右派が先に攻撃をしかけているように見えます。しかし、それは正しくありません。

もし大東亜戦争がなく、時代の変遷とともに帝国憲法が徐々に改正されていれば、今頃は右派が護憲を、左派が改憲を主張していることでしょう。

しかし、大戦とその結果としての敗戦があり、占領軍によって、しかもその中の進歩的な勢力主導による憲法(天皇=元首の否定や第九条=日本の生存権否定)が制定されました。

占領憲法の制定は、一種左派による先制攻撃です。そのゆえに、右派は後攻として憲法の改正を主張しているのです。

4.左派の解釈

もし社会の秩序に石を投げ、混乱を引き起こしているのが右派なら、左派が右派を嫌うのは当然だと言えるでしょう。しかし、石を投げているのは左派なのです。
彼らは、自分たちが、社会に混乱を引き起こしているという自覚がありません。
「先に攻撃を開始するのは左派である」という政治の基本原理を理解していないからです。

先に石を投げているのは左派なのに、なぜ左派は右派を毛嫌いするのでしょうか。
左派が指し示す方向に、右派が反対するからです。

左派によれば、旧い、間違った制度を否定することは、社会の秩序に対する攻撃ではない。進んだ、「正しい」制度に反対することこそが攻撃なのだということなのでしょう。
自分たちが正しいと訴える主張に、右派が反対するから社会が混乱するのだと考えている。本末が転倒しています。

5.左派は巨大な石を投げ込んだ

左派が目指さんとする社会は、本当に理想的な社会なのでしょうか。
左派は、前世紀、社会に巨大な石を投げ込みました。マルクス主義です。
彼らはそれによって、より良い社会ができると信じた。しかし、できたのは、政治敵の処刑、反革命分子の密告や粛清、思想や言論の統制、強制収容所や飢餓などが頻発する社会でした。

右派は、左派の言うより良き社会が信じられないのです。だから、どのようにすれば理想社会が実現するのか事前にかつ具体的に説明してくれたら良いのですが、左派にとってそんなことは自明らしく、説明もなく突然社会に石を投げ入れる。

自分たちの考えを疑わないのが、左派の最大の欠点です。

全体として愛することのほうが容易である

今年1月19日付朝日新聞の「日曜に想(おも)う」という記事の中で、編集委員の福島申二氏は書いています。

「港湾労働をしながら思索を深めた米国の哲人エリック・ホッファーが言っている。『人類を全体として愛することのほうが、隣人を愛するよりも容易である』
『人類』という抽象に対して、一人ひとりの人間は具体的な現実である。人類は美しいが人間は往々にして厄介だ」

その通りでしょう。

このホッファーの文句を言い換えるなら、人類を全体として愛することよりも、隣人を愛するほうが困難である、となるでしょう。

今では田舎でも外国人を見かけるようになりましたが、それでも私たちの隣人は、外国人よりも日本人の方が圧倒的に多い。
だから、日本人(国民)を全体として愛することよりも、個々の隣の日本人を愛するほうが困難である、と解釈すれば、ホッファーの言の正しさが分かります。

この原理を、さらに敷衍するとどうなるでしょうか。次のようになります。
移民を全体として愛することよりも、隣の移民を愛することのほうが困難である。
また、〇〇人(△△教徒)を全体として愛することよりも、隣の〇〇人(△△教徒)を愛するほうが困難である、という具合になります。

以上の感情は、人間にとって不都合ではありますが、また真実でもあります。
普通の、常識のある人たちはそれを理解しますが、一部に、それを認めない人たちがいます。リベラル派です。彼らは、〇〇人一般と同じように、隣の〇〇人をも愛せると信じています。
彼らの規範は、〇〇人を全体として愛することと同じように、隣の〇〇人を愛することはできるし、愛さなければならない、というものです。

彼らは、彼らでその規範を拡大します。次のように。
〇〇人を全体として愛することと同じように、隣の〇〇人を愛することはできるはずである。だから、同じように愛さない者たち、あるいは愛せないと言う者たちの言論は封殺して良いし、そのような主張を行う者は、吊し上げてでも考えを改めさせなければならない。

左翼=リベラルの批判の強さに圧されて、人間性の不都合な真実を認める人たちも口を噤んで行きます。そのうち、〇〇人を全体として愛することのほうが、隣の〇〇人を愛するよりも容易である、という発言さえできなくなるかもしれません。

将来、左翼の理想とする社会はでき上がるでしょうか。できるわけありません。人間の不都合な真実=人間性は変わらないからです。
〇〇人を全体として愛することと同じように、隣の〇〇人を愛することはできるし、愛さなければならない、という彼らのイデオロギーが間違っているのです。

【追記】
2020年7月18日付の朝日新聞「ひもとく」欄に、同志社大学教授西崎文子氏は書いています。

「そして今日。白人警官によるジョージ・フロイド氏殺害をきっかけに再燃した『黒人の命は大切だ(ブラックライブズマター)』という叫びを前に、対立する人々は『すべての命は大切だ』(太字、原文は傍点)と嘯く。しかし、これが差別の実態を隠蔽する偽りの言葉であることは一目瞭然だ。(中略)そう、『黒人の命は大切だ』は、黒人だけでなく、身体と人間性を収奪された難民や移民を含むすべての人々のために響き渡っているのである。」

この人は、自分にも差別意識があることを理解しない(内心を見ない)人なのでしょう。
だから、こんな大言壮語ができるのです。

右翼のモットー・保守のモットー

ペンは剣よりも強し、という格言があります。

その格言の真偽はともかく、剣で戦う右翼のモットーは、一に肉体言語、二に肉体言語、三四がなくて、五に言論または街宣(街頭宣伝)でしょうか。 
危機の時代の右翼は政治敵を殺害してでも目的を達成しようとし、平和な時代の右翼は、世に主張を訴えるべく自裁する(三島由紀夫、野村秋介)。
政治敵を殺害ないし殺害しようとした後、自害した右翼もありますが(山口二矢、来島恒喜)。

私は(異端の)保守派を自認していますが、ペンで戦う保守のモットーは何でしょうか。
一に文章、二に文章、三四がなくて、五に思想、だろうと思います。保守は文なりです。
こう言えば、保守であるはずのお前の文章はなんだと批判されそうですが、ごもっとも。
私も、眼高?手低なのです。

ところで、文体、人相共に左翼丸出しの男を、間違っても「希代の保守思想家」などと呼ばないで欲しいと思います。

右翼・保守の反米について

右翼であれ、保守であれ、反米を掲げる者は、左翼に吹き寄せられます。
アメリカは左翼国家だと非を鳴らしていた保守の大家が、左傾したのでも分かります。

アメリカに完璧を求めても仕方がありません。
夫が妻に、妻が夫に完璧を求めても仕方がないのと同じです。

お互いに完璧でないのを承知の上で、世の夫と妻は、夫婦の関係を続けています。

アメリカに欠点のあるのを承知した上で、同盟関係を続けるのが、賢者の選択でしょう。

反米右翼にしろ、反米保守にしろ、彼らはアメリカに期待しすぎて、裏切られたがゆえの反米なのでしょうか、それとも元々左翼気質のため反米なのでしょうか。

断言できるのは、反米の右派は、左翼と隣り合わせだということです。

肝腎な数字を見ない人たち

1.武漢ウィルス

対ウィルス戦争の下、記者が、「危機的な状況下でリーダーはどうあるべきなのか」を、東京工業大学教授中島岳志氏に問うている記事が、5月20日付朝日新聞に掲載されました。そこで、中島氏は答えています。

「今回目立ったリーダーに共通するのは『弱さ』。ドイツのメルケル首相と米ニューヨーク州のクオモ知事です。メルケル氏がなぜあんなに共感を得たかというと、『私も心配。私も弱い』という視点から連帯を訴えたからです。演説でも、感染者や死者の数字について『これは数字じゃない。具体的なお父さんであり、お母さんであり、おじいちゃんの話である』と語る。クオモ氏も同様です。自分たちの痛みと同じところに立っていると思える、弱さが見えるリーダーが共感されているのです」

言うまでもありませんが、「共感されている」ことと、ウィルス対策が成功していることとは別です。
私たちは、「共感されている」リーダーよりも、成功しているリーダーこそを賞賛すべきです。そして、成功しているリーダーとは、人口比で死者数をより少なく抑えている政治家のことです。
中島氏はメルケル首相とクオモ知事を挙げていますが、彼らは賞賛に値するでしょうか。

6月20日の時点での数字ですが、ドイツの総人口8300万人に対して、同国の死者数は8960人で、百万人当たりの死者数は107人です。そして、ニューヨーク州は人口1950万人に対して、死者数は24661人で、百万人当たりの死者数は1264人です。
一方、日本は人口1億2650万人に対して、死者数は935人で、百万人当たりの死者数は7人です(1)(2)。
ドイツやニューヨーク州と比べて、わが国の死者数はずっと少ない。
とするなら、私たちが賞賛すべきは、クオモ氏やメルケル氏ではなく、安倍首相でしょう。

「具体的なお父さんであり、お母さんであり、おじいちゃんの話である」とメルケル氏は演説したそうですが、そうであるからこそ、国家レベルでの、死者の数字が肝要なのです。
そして、死者数の多い国・地方は、少ない国・地方のやり方を見習う、もしくは参考にすべきなのです。その逆ではありません。

クオモ氏やメルケル氏を賞賛するのであれば、安倍氏がニューヨーク州の知事やドイツの首相だったら、もっと死者が多かっただろうことを、あるいはクオモ氏やメルケル氏が日本の首相だったらもっと死者が少なかっただろうことを論証すべきです。しかし、中島氏はそれをしていません。主張の証明となる根拠が全く示されていません。

中島氏は判断を誤っていると思います。そして、氏を初め、ある種の人たちはなぜ判断を誤るのでしょうか。死者数という肝腎な数字を無視して、問題を論じているからでしょう。
では、なぜ肝腎な数字を見ないのでしょうか。
このように見なければならないとの教条のようなものがあって、それを通してしか眺めることができないからだと思います。
左派学者の「世間」には反安倍イデオロギーという教条が蔓延していて、氏もその影響下にあるからではないでしょうか。

2.冷戦時代

冷戦時代には、日本の主流派メディアにしろ、知識人世界にしろ、社会・共産主義=善、自由・資本主義=悪が当然のこととされていました。
今月五日横田めぐみさんの父親滋さんは亡くなられましたが、北朝鮮が拉致などするはずがないと言っていた人たちも、社会・共産主義=善という信仰の中にあった人たちです。

ドイツのベルリンでは、人々は東から西へ亡命しているのに、隣の朝鮮半島やベトナムでは人々は北から南へ逃げているのに、左派メディアや知識人は社会・共産主義体制は、自由・資本主義体制よりも優れていると信じていましたし、そのような報道や言論を行っていました。
彼らは、人々は東から西へ、北から南へ逃れているという肝腎な数字を見ませんでした。

3.大東亜戦争

私は、大東亜戦争は連合国=善、日本=悪という見方には与しません。連合国にしろ日本にしろ、自国の権益のために戦って、前者が強かったから勝ち、後者は弱かったから負けたにすぎないと考えます。

しかし一方、当時のわが国の指導者に対しては不思議に思わざるをえません。
どうして彼らは、日米の軍事力や経済力の差にも拘らず、戦争を開始したのでしょうか。彼らも、肝腎な数字を見ない人たちだったのでしょうか。

そうかもしれませんし、あるいは国内において、ある種の問題あるいはゴタゴタがあって、それが彼らの目を塞いで、肝腎な数字どころではなかったのかもしれません。

(1)https://www.worldometers.info/coronavirus/
(2)https://news.yahoo.co.jp/byline/abekasumi/20200620-00184177/

生き物に対する差別

人間は生き物に対して、実に差別的です。

その外観や仕草のゆえに好まれるものもあれば、嫌われるものもあります。
前者の例が、リス、ウサギ、ホタルなどで、後者の例は、ヘビ、クモ、カラスなどです。

個体によって好かれたり嫌われたりではなく、種の全てが好かれたり嫌われたりです。
人間に好かれないカラスは、心の中で叫んでいるかもしれません。
Black creatures’ lives matter.

ある種の生き物を嫌うのは、悪いことでしょうか。
私たちは、嫌いな生き物に対する差別意識を変えたり、なくしたりできるのでしょうか。

【関連記事です】
差別意識はなくならない

韓国の反日 原因は日本の善政

韓国併合における大日本帝国の統治は、韓国自身の政府によるそれよりも良かった。

その間産業も発展しましたし、人口も増えましたし、教育も普及しました。

そのような不都合な真実を、韓国民は薄々感じているのではないでしょうか。

そして、感じているけれども、表立って認めることができない。

格下の日本が、格上の韓国に善政を施したはずがない。

そのような心理的屈折が、韓国の反日=逆ギレとなって表れているのだと思います。

【追記1】
一方、台湾は自分たちの方が、日本よりも格上だとは考えていなかった。
旧植民地は旧宗主国に対して親しみの感情を持つ傾向がある、というのは不思議ではありますが、台湾の日本に対する意識も、そのようなものだろうと思われます。

【追記2】
<韓国の反日 もう一つの原因>については、「E・ルトワック氏の『韓国が反日の理由』」に書きました。

日韓どちらが加害者でどちらが被害者か

1.玉川徹氏の発言

日本と韓国の間には、歴史問題を巡って、認識の相違とそれを原因とする軋轢があるのは周知の事実です。
昨年9月11日に放送されたテレビ朝日系の番組で、コメンテーターの玉川徹氏は発言したそうです。

「加害と被害の関係があった場合には、被害者が納得するまで謝るしかないと思います。そういう態度をドイツは取っています」(1)

「被害者が納得するまで」と言いますが、どういう要件を満たせば、被害者たる韓国が「納得」したことになるのでしょうか。
韓国民の過半数が承認すれば良いのでしょうか、あるいは殆ど全ての同国人が承認しなければならないのでしょうか、それとも別の要件があるのでしょうか。

日本の謝罪に対して、韓国人のほほ全てが納得するようなことはあるでしょうか。そんなことはありえないでしょう。そして、そのような中で、同国人の殆どが納得するまで謝るしかないのだとしたら、日本は永久に韓国に謝罪する必要があるということになります。
永久に謝罪を要求する韓国と、謝罪を求められる日本と。そのような関係の二国が和解することは、永遠に不可能でしょう。

ではなぜ玉川氏は、「加害と被害の関係があった場合には、被害者が納得するまで謝るしかない」などと言うのでしょうか。
両国の和解を望んでいないから、と解釈するのが自然でしょう。
氏は、日韓の和解を妨害しているのです。

2.日韓のどちらが被害者か

国際関係で「加害と被害の関係があった場合には」、各々の国民の賛否の多寡に拘わらず、政府が承認すれば「納得」したことになります。

「国際法では戦争や支配など不幸な過去は条約や協定で清算し、その後は内政不干渉で歴史認識は外交に持ち出さないのが原則だ」(2)

日本と韓国の間で1965年日韓基本条約と日韓請求権協定が結ばれ、後者には日韓双方の請求権の問題は「完全かつ最終的に解決されたことを確認する」との文言があります。
ということは、被害者たる韓国は納得したということです。

1965年は、終戦から二十年後のことで、当時日本が韓国を併合していた訳ではありませんし、後者は独立国でした。そして、日韓基本条約はアメリカが公然と調停工作を行ったとのことですし、ということは米国の監視もあったということです。

むしろ基本条約や請求権協定が結ばれた後で、しかも何十年も経ってから問題が蒸し返された場合、蒸し返した側が加害者であり、蒸し返された側は被害者なのです。
いわゆる徴用工、そして慰安婦の問題は、韓国が加害者で、日本は被害者なのです。

玉川氏の論理に従うなら、被害者たる日本が納得するまで韓国は謝るしかない、ということになります。

(1)https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/1545180/
(2)西岡力、『Hanada』、2019年3月号、46-7頁