清水幾太郎氏と功利主義

清水幾太郎氏は書いています。

「元来、私にとって、経済学など、どうでもよいことであった。大切なのは、幸福であった。幸福は、人間が遠い昔から求め続けて来たものであり、それゆえに、古代以来、倫理学の中心には、いつも幸福の観念が据えられていた。この伝統が二十世紀の倫理学に生きていたら、私が経済学に関心を寄せるチャンスはなかったであろう。(中略)
以上に述べたことは、次のように言い換えることが出来る。功利主義のどこが悪いのか、どうしても、私には納得することが出来ないのである。多くの人々が、功利主義というのは、昔の滑稽な失敗であるかのように、もう片付いてしまった愚行であるかのように振舞っている理由が判らないのである。(中略)正直のところ、多くの研究者が功利主義に向かって侮蔑の表情を示せば示すほど、私には、功利主義の魅力が抗し難く増して行った」(清水幾太郎著、『倫理学ノート』、岩波書店、105-107頁)

道徳的善から、幸福の観念が離れれば離れるほど、倫理が机上の、非実践的なものになります。

これまで多くの人たちが功利主義を批判してきましたが、その息の根を止めることはできませんでした。というよりも、それらの批判は、当を得ていたのでしょうか。
逆転の発想で、一度功利主義が正しいと仮定して、その証明に打ち込んでみてはどうでしょうか。正解はミル(J・S)の思想の延長線上にはなく、ベンサムのそれの延長線上にしかないでしょう。

私は、大枠において、功利主義は正しいと考えます。

中道とは何か

中道と呼ばれる、あるいはそれを自称する政党なり政治勢力があります。

わが国では、冷戦時代に公明党や民社党が中道政党と呼ばれていましたし(前者は現在でもそれを標榜していますが)、今でも欧州では中道左派とか中道右派に区分される政治勢力があります。
一体中道とは何なのでしょうか。

ネットで「中道政党」を検索すれば、「政策路線を一次元の分布で位置づける場合に,右派または左派にかたよらず,穏健で中間的な政党」(1)とありますし、「中道政治」では、「左右あるいは保守・革新のどちらにも偏らないことを旨とする政治」(2)と説明されています。

その方向性が正しいか間違っているかはともかく、左派も右派もそれなりに自派の信じる方向を目指しています。しかし、中道政党は独自の理念なり、政策なりを持っているのでしょうか。

かつての民社党は、一応民主社会主義という政治理念を持っていましたが、公明党は実質的には創価学会という宗教団体の政治部門です。同党は今は自民党と組んで与党を形成していますが、自民党とは別の、独自のビジョンを持っているのでしょうか。
悪夢のような政治を行った旧民主党とは違って、まともなリベラル政党が誕生して、あるいは、ある時政界にゴタゴタが生じたら、公明党は自民党を捨てて、その政党と組む可能性もなきにしもあらずでしょう。

もし中道が、左派右派とは別の、第三の道へ向けて邁進しているのなら、社会全体が左に傾こうが、右に傾こうが、その立場はブレないはずです。ところが、中道政党、中間派という勢力は、全体が左へ振れれば左へ、右に振れれば右へ、左派または右派と共振しているだけなのではないでしょうか。
すなわち、彼らは常に左右の真ん中派です。

左派と右派の対立があり、何らかの理由で右派が消滅した場合、中間派の人たちは自ら右派になり左派と対峙するでしょうか。たぶん、いつの間にか急進左派と穏健左派の中間におさまっているのではないでしょうか。

左右両派の位置を確認してから、そこからの距離で自らのポジションを決める、そのような人たちが中道なのではないでしょうか。

中道政党や中間派は、風見鶏とか日和見主義とかそのような評に相応しい勢力だといえば、言い過ぎでしょうか。

(1)https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E9%81%93%E6%94%BF%E5%85%9A-1367231
(2)https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%AD%E9%81%93%E6%94%BF%E6%B2%BB

 

公立の部門に、左翼的表現の自由を!

1.「表現の不自由展・その後」

今月1日に開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」は、3日に企画展「表現の不自由展・その後」を中止したそうです。
慰安婦少女像などに対して、抗議の電話やメールが殺到して、平和裏に展示会を続けられなくなったためらしい。

2.表現の自由に反する?

それに対して、左派は、表現の自由を守れとの訴えています。
8月6日付朝日新聞は、社説「あいち企画展 中止招いた社会の病理」に書いています。

「人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく、その営みを根底で支える『表現の自由』が大きく傷つけられた。深刻な事態である」

3.表現の自由の問題か

東京の銀座であれ、大阪の御堂筋であれ、その他の都市の人通りの多い商業地であれ、しかるべき場所を借りて、「表現の不自由展」を開催する自由はあります。
もしそれが妨げられたのなら一大事で、表現の自由が危殆に瀕している、あるいは「深刻な事態」であると言えるでしょう。しかし、今回の事例は違います。

4.津田大介氏の意図

芸術監督津田大介氏は記者会見で、次のように述べたとのことです。

「物議を醸す企画を公立の部門でやることに意味があると考えた」(1)

津田氏だって分かっているのです。この度の騒動は表現の自由の問題ではないこと。「表現の不自由展・その後」は一種のゴリ押しであることを。

朝日新聞の編集委員大西若人氏は書いています。

「作品選択の基準は『過去の展示不許可』であって、トリエンナーレが『いい作品』と推したわけではない」(2)

この文言でも分かるように、「表現の不自由展」は、政治(イデオロギー)を芸術に持ち込んだ典型例です。

5.右派による「表現の不自由展」を認めるか

この度の表現の不自由展の出し物は、左派が喜びそうな展示品でした。
ではもし、左派が激怒するような作品を目玉に、右派が「表現の不自由展」を「公立の部門でや」ったのだとしたらどうだったでしょうか。
左派は、それでも表現の自由を守れと叫んだでしょうか。
左派の「前科」を見れば、反対したであろうことは疑いえません。

6.左翼的表現の自由を!

結局のところ、左派が求めているのは、<公立の部門における、左翼的表現の自由を特権的に認めよ!>ということです。

そして彼らは、実質的には左翼的表現の自由を求めていながら、一般的な表現の自由の問題にすり替えて論じているのです。
これは、左翼の常套戦術です。
「ああ、またこの手か」
この度の騒動を見ての感想です。

7.左翼的表現の自由の後退

「表現の不自由展」を3日で断念せざるをえなくなって、津田氏は次のように語ったとのことです。

「表現の自由が後退する悪しき事例を作ってしまったことに対する責任は重く受け止めている」(3)

これは次のように読み替えるべきででしょう。
「左翼的表現の自由が後退する悪しき事例を作ってしまったことに対する責任は重く受け止めています。(左翼)同志の皆様、ゴメンナサイ」

(1)朝日新聞2019年8月4日
(2)同上2019年8月6日 
(3)https://www2.ctv.co.jp/news/2019/08/04/60290/

「北朝鮮の非核化」は何のため?

そもそも核兵器の廃絶は不可能ですし(「それでも核兵器は廃絶できない」)、北朝鮮は独立と体制維持のため、核兵器を手放すとは思えません。

ジョージ・W・ブッシュ政権で国務副長官を務めたリチャード・アーミテージ氏は、「核(兵器)廃絶の可能性はゼロ%」との意見の持ち主ですし(『日米同盟vs.中国・北朝鮮』文春新書、217-218頁)、現在のボルトン国家安全保障問題担当大統領補佐官も同じ認識だろうと思います。

それなのに、トランプ大統領、ポンペオ国務長官、ボルトン氏は北朝鮮に対して、非核化を求めています。
4月11日の米韓首脳会談で、「トランプ氏は『我々(米国)は【ビッグディール】(大きな取引)を協議している。核兵器を廃棄させなければいけない』と述べ、北朝鮮がすべての核関連施設を完全に廃棄するまで、制裁解除などの『見返り』を与えない一括合意を追求していると述べた」とのことです(朝日新聞、4月12日夕刊)。
これはどういうことでしょうか。

トランプ氏も、ポンペオ氏も、ボルトン氏も、北朝鮮が核(開発)を放棄すると本気で考えているのでしょうか。
それとも、経済制裁によって核(開発)を抑制するため、方便として「非核化」の要求を突きつけているだけなのでしょうか。

【追記】
9月10日、トランプ大統領はボルトン補佐官を更迭しました。
ボルトン氏は核兵器の廃絶も、北朝鮮がすんなり核(開発)を放棄するとも、考えていなかっただろうと思います。
一方、トランプ大統領やポンペオ国務長官はどうでしょうか。もし彼らがそれら二つの幻想を信じているのだとしたら、日本の安全保障は不利になるでしょう。(2019・9・14)